(一宮市大字光明寺に伝わる)
今から430年余り前のことじゃ。信長は桶狭間の合戦で今川を破り、松平 元康と攻守同盟を結ぶことにした。調印式は清洲城で開かれたそうな。正月 というのに暖かい日でな、祝いの酒盛りが長々と続き、信長は上機嫌じゃ。 「元康殿、酔いざましに馬を走らせる。ついて来られい。」 二頭の馬は、今の光明寺本郷にあった城までいっきに駆けて、二人は天守 閣で腕組みをした。目の前には木曽川が流れ、そのすぐ向こうの山の上に、 稲葉山城が輝いておった。 「美濃を制する者が天下を制すか…。」 二人はこの言葉をしめし合わせたようにつぶやいたそうな。 元康20歳、 信長28歳、若い二人の天下統一の一歩は、この光明寺城から始まった。 信長は城の下にある安照院光明寺を示した。 「あの寺には、青井意足(いそく)といって八幡太郎義家の軍法を今に伝え る坊主がおる。頑固者でな、主君のわしにさえ平家なるゆえ伝授せぬと言っ ておる。貴殿はたしか、源氏の正統であられましたな。同盟の贈り物じゃ。」 元康は光明寺にしばらく滞在して、意足から軍法を伝授されたそうな。 八幡太郎義家の軍法を継ぐ者は、義か、家の字を継がねばならないことに なっておった。元康も今川義元からもらった元の字を替えたいと思っておった んで、渡りに舟じゃわな。元の字を家に替えて、「家康」かと、そりゃあ気に 入っておったそうな。 その後も戦乱の世を生きのび、天下統一を果たすことができたのも、この 名に一人の武将を大成に導く魔力があったかも知れんなあ。 |