高野長英とバクチの木

(一宮市北方町に伝わる)


 弘化3年(1846)年の秋のことじゃった。
 長英は北方町大日の蘭医・小澤錦水の家へこっそりとやって来た。
 幕府が鎖国を理由に、アメリカの商船モリソン号を砲撃したんで、批判し
たんやわ。そんで追われとったと。
 茶室にかくまわれて、ある日。長英はいつも食事を運んでくる娘が、ふと
気にかかって聞いてみた。
 「はい、渡辺さなえと申します。田原から医術を習うため、ここへ参りました。」
 さなえはうつむいて、コンコンと咳をしとる。田原と聞いて長英はハッとしたわ。友人の田原藩家老・渡辺華山から、逃亡の費用にと数枚の絵をもらった。
その中に彼女の肖像画が確かにあった。
 冬に入ったら、さなえの咳がひどくなったそうな。
 「追われる身でなければ、薬をさがしてくるのだが。」
 「私のことなど心配無用です。追手が尾張へ入ったといううわさ、早くお逃げ
ください。」
 長英は大阪へ逃げ延びたが、さなえのことが忘れられんかった。次の年、
追われながらバクチの苗木を持って錦水の家に現れたんじゃ。
 「この葉液を絞って飲めば、きっと咳は止まるはず。」
 3年後、長英はさなえの咳が、すっかり治ったことも知らず、捕えられて自殺
してしまった。 亜熱帯にしか根づかんというバクチの木、長英の一念で
しっかり育って、今も北方公民館の前で、青々と葉を茂らせとる。いっぺん見に
行ったてちょう。 
  <一宮市北方出張所に移植されています。

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