平塚市・茅ヶ崎市の鎌倉街道
 
はじめに
平塚市から茅ヶ崎市及び藤沢市は、湘南という言葉のイメージのとおり、海岸に近いイメージを感じるが、東海道本線や国道一号線の主要動線を
観察しても通行人が多く、他の大都市と同じに見え、十六夜日記にある「浜路をはるばると行く」という街道遺構の探索に苦労することになった。
更級日記でも、唐土が原という所も砂浜がとても白く美しく、そこを2、3日(里の間違い説もあり))かけて通ったと浜辺の道の印象を強く受ける。
上の地図にある湘南砂丘は、平塚市から藤沢市までの海岸が砂丘で構成されていることを示している。 
静岡県富士市の海岸には、高さ10m位の砂丘地帯があるが、当地区でも下記絵図のように数千前から砂丘が形成され、2千年前の海と岸線は埋蔵
物から東海道本線周辺と推定される。 千年前は下記絵図の中間線付近と推定されている。<平塚学入門P26>
「中世の東海道をゆく」に「約50町(約5キロ)ほどを、「年魚市潟」(名古屋史南区・緑区)を干潮時に徒歩で渡った事例を紹介している。 道がよく、
馬も速く歩くので、大した時間を要することなく鳴海宿に到着したとある」(同書P6) 干潟でなくても、通常の砂地の海岸で少し湿った場所は、砂が
しまり歩き易いことは、誰もが経験したことがあるはずである。 残念なことに、浜辺の道は自然の地形であるため、初めから街道遺構がなく、その
存在を確認できない。 ここでは、紀行文の中の道を浜辺の道と推定し紹介していきたい。 平塚市史9 通史編(平成2年3月発行)P86で、更級日記の
記述から海岸沿いに通路が開かれていたとする。 砂丘列の中でなく、浜辺でなくては、スムーズな歩行は不可能と思う。
東海道は、古来から「海つ道」とも言われてきた。 「年魚市潟」(名古屋史南区)、「岫が崎」(くきがさき:静岡市清水区で掲載)、湘南砂丘と海と街道の
関係を示しているように思える。
***鎌倉街道の推定遺構について***
 鎌倉幕府政庁に近いことから、連絡する「鎌倉道」が多数知られている。 ここでは主要幹線である鎌倉街道(京鎌倉往還)と並行し、街道の風景が
わかる紀行文の行程を探索していきたい。 平塚市内の鎌倉街道は、東海道本線と旧国道(東海道53次)の中間の道<輿道
(こしみち)>であることは
誰もが知っていることであり、寺院等が集中している。
平塚市 
     
湘南の地形図<平塚市・茅ヶ崎市>
二千年前は、海岸線が東海道本線付近であった。 中央の藍色の
線は相模川水系の乱流と白い部分は氾濫原の懐島(微高地)を示す。
<平塚学入門(2019年度夏期特別展・平塚博物館)> 
懐島は川の氾濫原と潮の干満の影響を受けた島であった。
  黒部(くろべ)<平塚市黒部>
観光協会設置の説明版には、
源頼朝が勧請したと伝わる。 黒部宮を中心として門前集落が発生して
おり、見付山とも呼ばれた。 この地点から花水川の徒渉地点「越場」を
通り、大磯へ続く古道があったという。
この付近一帯を「ものこし河原」といい、「更級日記」に書かれた景勝の
地であった。 社標の上部に「春日神社元宮」とある。
建久元年(1190)8月、高潮被害のため社寺、民家は流失し、春日神社
(旧国道一号線)一帯から要法寺あたりに集落が移転とある。 
     
春日(かすが)神社<平塚市平塚>
春日神社縁起一巻によれば、「春日神社はもと平塚山黒部宮と称し、
右大将頼朝が、相模川橋供養の御祈願所とし勧請した。 
 また、
建久三年 八月九日、将軍家御台所御産気のため神馬を奉り、安
産を祈祷したとある。・・・神奈川県神社庁HP
元は「黒部宮」といい、海岸近くにあったが、津波の被害を受け、
柳町の現在地に移ったといわれている。

  松雲山要法寺(しょううんざん・ようほうじ)<平塚市平塚> 
鎌倉時代、幕府の執権・北条泰時の次男・泰知の邸であったが、弘安
5年、日蓮上人宿泊のおり、法華経神力品「四句要法」の一説を御説法
あり、邸内の老松に紫雲たなびく瑞相が現れた。
 これを見た一同は信者になるとともに、特に
泰知は深く感動し館を
献上。 日蓮上人により一夜説法「四句要法」にちなみ、松雲山・要法寺
の山号と寺号をいただいた。 <要法寺縁起>
     
医王寺薬師院<平塚市平塚>
高野山真言宗の清水山医王寺薬師院。 弘法大師がこの地で
喉が渇き、村人から恵んでもらった水のお礼に、地面を突いた
ところ清水が湧き出たといわれている。 その地に建立された
ことから薬師院は「清水の寺」とも呼ばれている。
  永海山妙音院・教善寺<平塚市平塚>
 時宗の開祖一遍上人が諸国を巡回された時にお堂を建て住庵と
されたのが始まりと伝わる。 海中から出現した聖観世音菩薩を
本尊として「眼病平癒の観音様」として有名。
     
福生山・宝善院<平塚市平塚>
建久三年、鎌倉八幡宮寺に下向した京都・東寺の学門僧によって
開山。 <宝善院HPから引用>
  真宗大谷派・真福寺<平塚市馬入本町>
相模川に架かる馬入橋近くの寺院。 輿道(こしみち)の最東部に
ある寺院。 創建年次の歴史を感じる雰囲気であるが、詳細は不明。
     
平塚八幡宮<平塚市浅間町>
 古くは鶴峯山八幡宮(つるみねさんはちまんぐう)と呼ばれていた。
毎年5月5日に大磯町の神揃山(かみそろいやま)で行われる
国府祭(こうのまち)に参加する相模5社の1社であるが、式内社
にあらず、一国一社の八幡宮、鎮地大神と称えられている。
  平塚八景・湘南潮来<平塚市千石河岸>
相模川の河口。 相模川の渡河地点を探して現地に赴いたが収穫は
なかった。 が説明文には、河口は海抜以下で、海水が逆流し、満々
と水を湛えていると説明されている。  干潮時には、かなり水位が
下がり歩行渡りが容易になることが想像できる。


茅ヶ崎市 
   
浄土宗・浄林寺<茅ヶ崎市中島>
相模川と小出川の間にある中州に日枝神社と並んで立地。
  日枝神社<平塚市中島>
詳細は不明であるが、静岡県神社庁のHPによると
御祭神は、大山咋神(おほやまくひのかみ)で、御利益として、山、
水の神、地主神、殖産新興、開拓の神、安産の神、酒造の神と列挙
されている。  毎年、7月の海の日に、茅ヶ崎市西浜海岸の祭りで
ある浜降祭(はまおりさい)が挙行される。 甚句とともに、どっこい
担ぎで渡御、巡行される。 
     
旧相模川橋脚<茅ヶ崎市下町屋>
 大正12年(1923)に起きた関東大震災によって、水田の地中
より出現したもので、鎌倉時代に相模川に架けられた橋である
ことが考証されている。 また、この橋には源頼朝が渡り初めを
した後に落馬した話が伝わる。 その時に、馬が川に落ちたこと
から、相模川の別名「馬入川」と呼ばれるようになった。
  梅雲寺<茅ヶ崎市>
古慶長4年(1599)、寺名の由来となった広誉梅雲が開いたと伝わる。
     
 鶴嶺八幡宮<茅ヶ崎市浜之郷>
伝説では、平安時代後期に源頼義が平忠常の乱を平定のおり、
小丘に源氏の守り神・石清水を勧請したに始まるとされる。 
その後、前九年の役で父頼義を応援に奥州に向かう途中の義家
(八幡太郎)が戦勝を祈願して、現在地に遷座、その時に植えた
銀杏が社前にそびえている。 <神奈川県天然記念物指定樹>
(令和2年12月23日撮影) ・・・境内設置案内より引用
  神明大神宮<茅ヶ崎市円蔵>
 大庭御厨の領主・大庭景義(景能)が館の鬼門に伊勢神宮を勧請
して建立した社。
 懐島郷に館を構えたことから「懐島太郎」と称した。
     
懐嶋館跡<茅ヶ崎市円蔵>
神明大神宮本殿の奥に城趾碑がある。 頼朝の頃、大場景義が
当地に移り性を懐嶋
平権ノ守景義(能)と名乗った。
当地は、相模川や小出川が乱流する氾濫原の中、海が入り込ん
だ中、懐のように島となった微高地が地名のおこりという。
  懐嶋(ふところしま)郷の復元地形図
 藤沢市博物館建設準備調査報告書4「大庭御厨の景観」の懐嶋の
模式図。海道記の中にある懐嶋が、湿地帯の中を微高地をたどった
鎌倉街道が通る必然性と迂回道であったことが分かりやすいので利用。
中央やや上段、周囲を氾濫原、蛇行する川で囲まれていることがわかる。
*この資料名をメモした紙を不覚にも無くし、途方にくれた。 茅ヶ崎市役所
 に相談し、親切に調べて教えていただきました。 ありがとうございました。 
 <海道記>大磯・小磯から江の嶋を経て鎌倉へ(2)
 相模川をわたりぬれば、懐嶋(ふところじま)に入りて、砥上
 (とがみ)
が原に出づ。 南の浦を見やれば、波の綾(あや)、織り
 はへて、白き色を濯
(あら)ふ。 北の原を望めば、草の緑、
 染めなして、浅黄
(あさぎ)をさらせり。
 中に、八松
(やつまつ)と云ふ所あり、八千歳(はっせんさい)
 陰に立ち寄りて、十八公
(じふはちこう)公の栄(えい)を感ず。
 
   <八松の千世ふる陰に思ひなれて
         とがみが原に色もかはらず>
   
 <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 相模川を渡って、懐嶋を通り、砥上が原に出た。 南方の海辺を
 遙かにみれば、波は織物をすすぐように白く見えている。 北方の
 野原を眺めると、草の緑が浅黄の布を染めたように見える。
 ハ松という所があり、そこの八千年の寿命があるという松の木の
 下に 立ち寄って、松の生命の盛んなことに心を打たれた。
 <この八松の千年も変わらぬことに慣れたか、砥上が原の
  松は緑色も永く変わらないでいるよ>
  曹洞宗・海前寺(かいぜんじ)<茅ヶ崎市本村>
天正19年(1591)創建。 茅ヶ崎村領主で旗本、丸毛家の菩提寺
であった。
     
熊野神社<茅ヶ崎市小和田>
創立不詳なるも元禄元年再建の古棟札あり、相洲大庭荘小和田
村鎮守と記されている。
 御祭神 ( 熊野久須毘大神、熊野夫須美
大神、速玉男大神、家津御子大神) に熊野大神である。 熊野大神
の御神徳は、海上守護、魚漁等多くの御利益がある。
<神奈川県神社庁HP>
  浄土真宗本願寺派上正寺<茅ヶ崎市小和田>
境内太子堂縁起 によるに、
圓融院 第四皇子 尊勝法親王が市内小出町に一宇を建て、海圓院と
号し、顕密兼学の道場とす。 文治年中(1185~1189)当村に移れり。
嘉禄年中(1225)住僧了智坊道圓(佐々木四郎高綱公)が親鸞聖人
に国府津にて謁し、其の宗法に帰依し今の宗派に改む。  因りて
了智坊 を宗の開祖とす。<上正寺HPより引用>


 鎌倉殿の13人筆頭・梶原景時邸跡と相模一の宮・寒川神社
     
相模國一之宮・寒川神社<高座郡寒川町宮山>
創始年代は不明であるが、関八州鎮護の神として崇敬を集める。
  寒川神社<高座郡寒川町宮山>
寒川比古命(さむかわのひこみこと)と寒川比女命(さむかわひめの
みこと)の二神を祀り、寒川阿大明神と奉納されている。 古来唯一の
八方除の守護神と知られる。<寒川神社HPから引用>
     
梶原景時(かじわらかげとき)館跡<高座郡寒川町一之宮>
梶原景時は治承四年(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合
戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救った。 翌年正月、頼朝の信認
厚い家臣となり鎌倉幕府の土台を築くのに貢献した。 一宮を所領
としており、この地に館を構えたとされる。
  梶原景時
      <東京・馬込 萬福寺蔵 町設置案内版から引用>
景時は和歌もたしなみ、文武両道に秀でた武将であった。
頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)
11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き上げた。
翌正治二年正月20日、再起を期し上洛するため 、午前二時頃
ひそかに館を出発したが、清見が関で北条方(地元御家人)の
攻撃を受け、景時以下討ち死にという悲劇的な最期を遂げた。
 <最期の戦闘地の様子は静岡市の鎌倉街道をご参照ください>