静岡市(旧市内及び旧清水市)の鎌倉街道 
はじめに
安部川を渡った街道は、賤機山、国府を経由し、現在の北(きた)街道を東進したとされる。 この北街道は、江戸時代東海道の北をほぼ並行
しているので、駿河の人々にはこの名称で、中世の東海道、時には鎌倉街道で伝わるという。
北街道は、ほぼ中世の街道筋とされるが、明治時代に整備されている。 瀬名川宿の「矢射たん橋」を探し時に、幸い順調に発見することができた。
北街道と呼ばれる街道は、県道67号線であるが、国道1号線(静清バイパス)、東名高速道路と並行しており、時には立体交差する等、見通しが
悪い場所もあるので、通行には十分な注意が必要である。
***鎌倉街道の推定遺構について***
「静岡県歴史の道・東海道」
は、北街道を鎌倉街道として紹介している。静岡市史も同じ説明であり、概略として、採用したい。ただし、「北街道
と巴川」では瀬名川宿推定地に源頼朝の有力御家人であった梶原景時滅亡の舞台となった「矢射たん橋」跡を旧街道としており、賛同し、この
ページでも紹介させていただいた。 この先の東方に、梶原一族を供養する梶原堂、供養塚がある高源寺と2022年放映予定のNHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人に登場すべき場所であったことが確認でき、忘れられない場所となっている。
参考資料
○「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会   〇静岡市史・昭和56年12月発行<静岡市>
○北海道と巴川・松永茂雄著・昭和60年10月発行
 
 
     
薩摩土手<静岡市葵区藤兵衛新田>
安部川の洪水から駿府を守るため、徳川家康は駿府城の拡張工事に
伴い、天下普請として全国の諸大名を動員した。  明記した史料は
ないが、全長約4100メートルの堤防は、薩摩藩によって築かれたと
伝わる。 安部川の流れが整理され、しかも本流が西寄り、現在の
形に変更された。 この碑は、市立井宮小学校東にある堤防の東端、
安倍街道近くにある。
  臨済寺(りんざいじ)<静岡市葵区大岩町>
今川家の菩提寺で本堂は国の重要文化財。人質時代の家康は
「手習いの間」で今川義元の軍師・大原雪齋から多くのことを学んだ。
修行寺のため通常は見学できないが、春と秋に特別公開されている。   
     
静岡浅間神社<静岡市葵区宮ヶ崎町>
駿河国の総社として歴代幕府の崇敬を受けた。社殿は、文化元年
(1804)から60年の歳月をかけて再建された。総漆塗り極彩色の
豪壮華麗な建築群である。社殿26棟の全てが国の重要文化財で
ある。
  万葉歌碑<静岡市葵区・深草公園内>
   焼津辺(やきつべ)にわが行きしかば
   駿河なる阿部の市道
(いちじ)に逢いし児(こ)らはも 
   
                春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)
 <意味>静岡市史P640
    焼津の辺りを旅していたとき、安部市に通ずる道であった
    児らのことを思い出されることだ。
 *1 設置場所・・・「市史では青葉通りと呉服町通りとの交差点に
    立てられている」とあるが、現在は浅間神社東に移動している。
 *2 花沢の里(焼津市)にも同文の歌碑が立てられている。
 *3 安部市・・・市史では県史の本通りと人宿町あたり説を紹介して
    いるが、確たる根拠があるわけではないとしている。
       
駿河国府跡・国分寺跡<静岡市葵区長谷町>
駿府城公園西の市道深草交差点の北にある長谷通との三叉路正面に
ひっそりと立つ跡碑。 諸説あるが、「静岡県歴史の道・東海道」で紹介
されていたが、なんとも場所が分からなく、市教育委員会文化財課に
お聞きし探索できた。 国府があった場所であれば、中世時代の街道
経路地と推定する一つの根拠にもなり得る。
  
  駿河国分寺<静岡市葵区長谷町>
左の石柱がある長谷通の一本西(浅間神社側)少し入ると国分寺が
ある。 場所についても諸説あるが、通説がないので詳細は略としたい。  
     
北街道・横内川跡<静岡市葵区横内町>
北街道は、県道67号静岡清水線の別称であるが、道路標示にも掲載
されている。 起点は、葵区大手門(江川町交差点)、終点は清水区
天神2丁目(江尻大和交差点)であるが、水落町交差点が実質的起点と
される。 石碑の左面に、上記の昭和初期の写真が刻印されている。
乱反射して良く見えない。 近くの郵便局長からNPO法人静岡市観光
ボランティアガイド団体の原田さんをご紹介いただき、お手元の資料から
写しをいただいた。(原盤は、近くの「名入れの川村」さん) 説明が併設
されており、駿府城築城に由来し、水落町のお堀から北街道沿いに約3
キロ先の巴川までを流れるが、今は道路地下に埋設され見えない。
今回は残念ながら紙面の都合で割愛させていただきます。 感謝
  旧瀬名川宿と旧鎌倉街道<静岡市葵区瀬名川>
北街道を東進し、巴川を少し通り過ぎた瀬名川西交差点を東に200
㍍ほど入った浄界寺付近から東の風景。 上段地図の中の「瀬名川
宿」拡大図参照。  「北街道と巴川」(昭和60年1月、松永茂雄著)の
P34に掲載された地図を転載したものである。 後方に矢射タム橋跡
碑がある。 
現在の北街道・県道67号静岡清水線に並行し、しかも鎌倉時代の事件
に関連する「矢射タム橋」 がある。 旧北街道即ち鎌倉街道であったと
いう説明に同意したい。 東西を歩いたが北街道から離れていくようで、
狭い道であり、不案内な方は避けた方が賢明と思う。
     
矢射(やい)タム橋跡<静岡市葵区瀬名川>
石碑の上に市観光課設置の説明文がある。 概要は
正治元年(1199)、源頼朝が急逝し、頼家が二代将軍となった。 幕府
では、武将らの勢力争いが激しくなり、鎌倉幕府創立の立て役者・梶原
景時はその争いにやぶれ、鎌倉を追われた。 身の危険を感じ、正治
二年一月十九日、領地の相模一の宮(神奈川県寒川町)を脱出し、京
に向かう。 翌二十日夜、清見ケ関で戦いが始まり、高橋、大内方面に
戦場が移った。 梶原一族もよく奮戦したが、長時間の戦いの疲れと、
地形に慣れていないため、各地で討ち取られた。 特に豪勇無双と言
われた三郎景茂(かげもち)が入江一族の吉川(きっかわ)小次郎に討た
れたことで、景時も覚悟を決め、この瀬名の地で自刃した。 景時と共に
源太景季(かげすえ)、平次景高(かげたか)の親子三人が自刃したと伝えら
れている。 「矢射タム橋」の由来は、このあたりで地元の侍らと矢を
射あったとの言い伝えによるものである。  
*景時親子は梶原山で自刃したとする説もある。
  梶原堂<静岡市清水区大内>
画面奥に、「高部まちづくりの会」が作成した「梶原景時の遺跡」という
タイトルで、事件から160年経過した延文年間(1360)に一族が山腹に
龍泉院を建立し供養したが、文政五年(622年後)火災にあい全焼した。
その後、再建がなされたが、明治4年、廃寺となった。  以来、牛ケ谷区、
矢崎地区の信徒により供養祭を行っている旨の説明である。
北街道矢崎交差点近くの民家が点在する一角にある。
 
    <東関紀行>駿河路 ー 宇吉川にて景時と西行を偲ぶ
なほうち過ぐるほどに、ある木陰(こかげ)に石を高く積みあげて、
目に立つさまなる塚あり。 人に尋ぬれば、「梶原
(かぢはら)が墓」と
なん答ふ。 道のかたはらの土となりにけりと見ゆるにも、顕基
中納言
(あきもとのちゅうなごん)の口ずさみ給へりけん、「年々(としどし)
に春の草の生(お)ひたり」といへる詩、思い出でられて、これも又
(また)古き塚となりなば名だにも残らじと哀れなり。 (一部略) 
心ある旅人はここにも涙をや落とすらん。 かの梶原は、将軍二代
の恩にほこり、武勇三略
(ぶようさんりゃく)の名を得たり、かたはらに
人なくぞ
見えける。 いかなることかありけん、かたへの憤(いきどほり)
り深くして、忽(たちま)ちに身を滅ぼすべきになりにければ、ひとまども
延びんとや思ひけん、都の方
(かた)へ馳せ上(のぼ)りけるほどに、
駿河国吉川
(きかは)といふ所にて討たれにけりと聞きしが、さはここ
にてありけりと哀れに思ひ合せらる。 (一部略)
 
  <あはれにも空にうかれし玉鉾(たまぼこ)
    道の辺
(べ)にしも名をとどめけり>
梶原景時終焉の地碑<静岡市葵区長尾>
梶原景時とその一族は、清見関から鳥坂付近で在地の豪族と戦い、
最期は梶原山に追い詰められ、自刃した。 梶原山頂上(279メートル)
には、終焉の地碑、その後に供養塔が建てられている。
  <東関紀行><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 さらに通り過ぎていくうちに、ある木陰に石を高く積み上げて人目を
ひくような塚がある。 人に尋ねると「梶原景時の墓である」と答える。
あの梶原も
道の傍らの土となってしまったと思われるにつけて、中納言
顕基が吟じられていたという「墓には毎年春の草が生えることだよ」と
いう漢詩が思い出されてきて、この墓もまた古い塚となったならば、墓の
主の名前さえも残らないだろうと、はかなく感じる。 (一部略) 同情心
のある旅人はここで涙を流すことであろうか。(下に続く)
    あの梶原は 将軍二代に仕えてその恩恵を浴びて栄え、武勇にすぐ
れて、兵法に通じているとの名声を博して並ぶものがない有様であった。
それがどんなことがあったのだろうか、仲間の深い憤りがあって、突然に
身を滅ぼすことになったものだから、ひとまず落ち延びようと思ったの
だろうか、都の方へ逃げ上がったが、駿河国吉川という所で殺されて
しまったと聞いたが、ここでのことであったのかと、かわいそうなことだと
思う。
 <こんな所で命を落として、魂は中空にさまよっていて、
  道の傍らにむなしく名前だけが留(とど)まってることだなあ>
     
廣徳山高源寺<静岡市清水区高橋>
左に「高橋」バス停が見える。
臨済宗妙心寺派の寺院で十一面観世音菩薩をご本尊とする。
上段の画像は、高源寺の本堂である。
説明板には、当初は久能寺という寺院の建物であった。 推古天皇の
時代より続いた由緒ある密教系の寺院であり、戦国時代以前は現在の
久能山東照宮辺りにあったとされている。 
しかし、駿河に侵攻した武田信玄によって、現在の鉄舟寺付近に移さ
れたという。 しかし明治初期の廃仏毀釈の影響で廃寺となった。
明治5年、移築された久能寺塔頭の一つ「院主坊」が、高源寺の本堂で
ある。  
  梶原景時一族の供養塔<高源寺境内>
梶原景時とその一族は、清見関から鳥坂付近で在地の豪族と戦い、
利なく一族郎党は壮絶な最期を遂げた。
この碑は一族郎党三十三人がさらし首にされた街道沿いに立てられ、
後にこの高源寺に移された。
中央碑には
臨済禅第一の書「碧眼録」の標題に掲けられている詩偈(しげ)より引用
された「不盡乾坤燈外燈龍没」とあり、最後に「龍没」と加えられている。
  「悠久無限の天地にあって太陽と月の光は消えることがない。
   その光を浴び、龍のごとき英雄がここに眠る」 と解釈できる。
  ・・・境内の説明版から引用
     
矢倉神社<静岡市清水区矢倉町5>
境内掲示の由緒沿革によると、景行天皇、日本武尊、神武天皇を祭神
とする。 日本武尊が  東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ、兵站部
や武庫をおかれた遺跡と伝えられる。
  矢倉から横砂西町に向かう<静岡市清水区矢倉6>
鎌倉街道である北街道は、秋葉山と矢倉神社の間にある五叉路交差
点(秋葉町交差点)から進入禁止(一方通行)の道を通り、国道一号線
と平行して直進する。 約1.5キロで庵原川に至り、右折すると庵原川
橋の東海道に合流する。 
     
興津座漁荘(おきつざぎょうそう)
<静岡市清水区興津清見寺町>

明治の元老・西園寺公望 (さいおんじきんもち)は、大正8年、風光明媚な
清見潟に望む興津清見寺町に老後の静養の家として立てられた別荘
である。「のんびりと魚釣りでもして過ごすつもり」という意味である。
しかし、実際の座漁荘は「興津詣で」と称されたとおり訪れる政府
要人が後を絶たなかった。  
  昭和20年代の清見潟
興津座漁荘のパンフレット裏面の写真である。 
興津は古来から海が見える名所として記録されている。   
     (三大紀行文全てが、歌を残している。
      しかし今は海が見えない景色となっている)
 <清見寺しおりの抜粋>「故人の詠歌」
  清見がた波ものどかにはるゝ日は関より近き三保の松原  兼好法師
     
清見寺(せいけんじ)<静岡市清水区興津清見寺町
臨済宗妙心寺派の寺院で釈迦如来をご本尊とする。
清見関(きよみがせき)の傍らに関所の鎮護として仏堂が建立
せられたのが、始めとされる。(清見寺由緒から引用)
  清見ヵ関(きよみがせき)清見寺前
白鳳年間(680年頃)に往来の監視、治安維持の関所が設置された。
 <海道記>四月十三日、久能寺・清見が関から蒲原へ(2)
 清見が関を見れば、西南は、天と海と高低一つに眼を迷はし、
北東は、山と磯と𡸴難
(けんなん)同じく足をつまづく。 磐(いは)
下には浪の花、風に開き春の定めなり、岸のうへには松の色、碧
を含みて秋をおそれず。 浮天
(ふてん)の浪は雲を汀(みぎは)にて、
月のみ舟、夜出でて漕ぎ、沈陸
(ちんりく)の磯は磐を路にて、風の
便客
(びんきゃく)、朝(あした)に過ぐ。 名を得たる所、必ずしも興
(きょう)をえず、耳に耽る(ふける)所、必ずしも目に耽らず。耳目
(じもく)
の感(かん)二つながら従(ゆる)したるはこの浦にあり。
 (一部略)
   <語らば今日(けふ)みるばかり清見潟
            おぼえし袖にかかる涙は>

 かくて、興津の浦を過ぐれば、塩竈
(しおがま)の煙幽かに立ちて、
海人
(あま)の袖うちしをれ、辺宅(へんたく)には小魚(せうぎょ)
さらして、屋上
(をくしゃう)に鱗(いろくづ)を葺(ふ)けり。 松の村立
(むらだち)、浪のよる色、心なき心にも心ある人にみせまほしくて、
    <ただぬらせ行くての袖にかかる浪
             ひるまが程は浦風もふく>
  <十六夜日記>駿河路 ー大井川より田子の浦まで(3)
廿六日、藁科川(わらしながは)とかや渡りて、興津(おきつ)の浜に打ち
出づ。  「なくなく出でしあとの月影」など、先
(ま)ず思ひ出でらる。 
昼、立ち入りたる所に、あやしき黄楊
(つげ)の小枕(をまくら)あり。 
いと苦しければ打ち臥したるに、硯
(すずり)も見ゆれば、枕の障子
(そうじ)に、臥しながら書きつけつ。
    <なほざりに見る夢ばかり仮枕(かりまくら)
            結びおきつと人に語るな>

暮れかかる程
(ほど)、清見(きょみ)が関を過ぐ。 岩越す波の、白き
(きぬ)を打ち着するやうに見ゆるもをかし。
   <清見潟年経(としふる)岩にこととはん
          波のぬれぎぬ幾重
(いくかさ)ね着つ>

 程なく暮れて、そのわたりの海近き里にとどまりぬ。 浦人
(うあびと)
のしわざにや、隣よりくゆりかかる煙(けぶり)
いとむつかしき匂ひ
なれば、「夜の宿腥
(なまぐさ)し」と言ひける人の言葉も思ひ出でらる。
夜もすがら風いと荒れて、波ただ枕に立ちさわぐ。
   <ならはずよよそに聞きこし清見潟
           荒磯波のかかる寝覚は>

<海道記><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
清見が関に
来てみると、西南は、どこが空でどこが海なのか見分ける
ことが難しく、北東は、山と海岸が同じように険しくて歩くと足がつまず
いてしまう。 海辺の岩の下には、今が春だとばかりに波の花を咲かせ、
岸辺の上には、秋が来ても平気だといういうように松が緑色を保って
いる。 空は海のように雲が波打際に寄せる様子に似て、舟のような
月が夜になると出て、陸の海辺は岩が道のように連なり、飛脚のような
風が朝に吹く抜けていく。 有名な所が必ず感動を呼ぶわけでもなく、
その名を何度も耳にする所が必ずしも眺めにふける景観ではない。
ただ、評判と見たときの感動が一致していたのが、この海辺である。
    (一部略)
  <後日もこのまま語りたいものだ。 今日初めて見た清見潟に
             思わず袖を濡らしてしまった感動のさまを>
こうして興津の海辺を通って行くと、塩竈の煙が細く立ち登り、漁夫
たちの袖は労働のため、じっとりと濡れていて、田舎の家には、まるで
(うろこ)で屋根を葺いたように小魚が干してある。 松が群がっている
さまや波の打ち寄せるさまがすばらしくて、無風流な私の心にも興が
わいて、風流を解する人にこの景色を見せてやりたくて、
  <海岸を歩いて行く先々で、波が私の袖を濡らしてもかまわない。
               昼間は海辺の風がすぐに干してくれるから>
   <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
二十六日、藁科川(わらしながは)とかいう川を渡って、興津(おきつ)の浜に
出た。 「なくなく出でしあとの月影」などという歌が、まず思い出される。 
昼立ち寄った所に、粗末な黄楊(つげ)の枕がある。 大変苦しのでそこで
一休みすると、硯(すずり)もあったので、枕元の障子に、寄り臥(ふ)した
ままで書きつけた。
 <ちょつと仮寝して夢を見る間だけ借りるが、枕よ、夢にも
  誰かと契りを結んだなどと人に言ってくれるなよ>
暮れかかる頃に、清見が関を通る。 岩を越す波が、白い着物を岩に
着せかけるように見えるのも面白い。
  <清見潟の年経た岩に聞いてみよう。 恋の濡衣(ぬれぎぬ)ならぬ
   波の濡れ衣を今まで何回着たことかと>
間もなく日が暮れて、その辺りの海に近い里に泊った。 漁師の仕事
なのか、隣からくすぶってくる煙がひどくいやな匂(にお)いなので、「夜の
宿腥(なまぐさ)し」とうたった人の詩句も重い出される。 夜通し風が吹き
荒れて、波の音が枕元に直接打ち寄せるように聞こえる。
 <経験したことがないよ。 遠い場所と思っていた清見潟に来て、
  荒磯波が床までかかるような、こんな宿での寝覚めは>
 <東関紀行>駿河路 ー清見が関で清原滋藤の朗詠を思う
清見が関も過ぎうくてしばし休らへば、沖の石、むらむら潮干
(しおひ)にあらはれて波にむせぶ、磯の塩屋、所々に風にさそ
はれて煙
(けぶり)なびきにけり。 東路の思ひ出ともなりぬべき
(わたり)なり。
   (一部略)
   <清見潟(きよみがた)関とは知らで行く人も
             心ばかりはとどめおくらん>

  *解説は右欄参照 
   <東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
清見が関も去りがたい所なので、しばらくただずんで眺めていると沖の
石があちこちらに
潮干(しおひ)につれて現れてきて、寄せる波に音を響
かせ、海辺の塩焼く家が所々に吹く風につれて煙をなびかせていた。
東路の旅の深い思い出となりそうな海岸だ。
     (一部略)
 <この清見潟が昔は人をとめる関所であったとは知らない旅人でも
  この景色には今も心だけは留めてしまうことだろう>
 
     
古代東海道遺構<静岡市駿河区東静岡>
平成6年、東静岡県前に静岡県コンベンションセンター「グランシップ」
建設時に8世紀初頭に整備された古代東海道跡が幅9メートル、長さ
350メートルにわたって発見された。 この遺跡は、空間として残され、 
広い幅員、発見場所等解説展示されている。
  草薙(くさなぎ)神社<静岡市清水区区草薙>
蝦夷平定のため東国に向かう日本武尊が、この地で逆賊がおこり
尊を殺そうと原野に火を放った。 尊は天叢雲剣(あめのむらくもの
つるぎ)
を抜いて草をなぎ払い、難を切り抜けたという伝説がある。
焼き殺そうとした場所を「草薙」と呼ぶようになり、天叢雲剣はのちに
「草薙剣」と名を改め、熱田神宮のご神体として祀られている。



 静岡市(旧市内及び旧清水市)の鎌倉街道 
 
     
興津(おきつ)宿跡<静岡市清水区興津本町 
清見寺と興津駅の中間に位置する興津宿跡と興津駅方面を望む。
江戸時代の雰囲気は少し残るが、中世時代の遺構や雰囲気は全く
ない。 中世紀行文では、絶景の景色を愛でる文言で言い尽くされて
いる。
  宗像(むなかた)神社<静岡市清水区興津中町 
創建年代は不詳である。 海上航海の守護神である筑紫の宗像神を
勧請したもので、平安中期の創建と推定されている。 興津川の西に
あり、女体の森といって舟人たちの灯台代わりとされてきた。
<東関紀行>駿河路 ー 興津の浦に泊る
  この関から遠からぬほどに、興津という浦あり。 海にむかひたる
家に宿りてとまりたれば、磯辺によする波の音も身のうえにかかる
やうに覚えて、夜もすがら寝
(い)ねられず。

    <清見潟磯辺にちかき旅枕(たびまくら)
         かけぬ波にも袖はぬれつつ>

   
<東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
この関からあまり遠くないところに、興津という海辺がある。 海に面した
家に宿をとったものだから、磯に寄せる波の音が体の上に打ちかかる
ような気がして、一晩中
眠ることができない。
  <清見潟の磯辺に近い旅寝では、波が袖にかかるわけでは
   ないが、眠れぬままに旅の憂さを思いやられて、涙で袖が濡れて
   しまうのである>
  身延道<静岡市清水区興津中町 
もともとは、駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、鎌倉期
には、そのルートが開かれていたといわれている。 戦国期には武田
信玄によって整備され、江戸時代初期には身延山参拝の道としても整
備された。 東海道からの分岐点で、左に巨大な題目碑がたっている。
     
観音山海岸寺<静岡市清水区興津東町 
元禄九年の開山であるが、建立は不詳とある。 かっては、海岸庵の
名称であったが、火災により焼失した。 昭和17年、名称を海岸寺と
した。 大正5年の台風に打ち寄せる大波に村は全滅したが、人的
犠牲者が一人も出なかったことは波除け如来、百態観世音の御利益
ではないかと言い伝えられている。<境内説明版から引用>
  白鬚神社<静岡市清水区興津東町 
延宝3年(1675)創立とされ、猿田彦命(地主神)が祀られる。 大正6年
津島神社(疫病厄除け神)を合祀。 
     
東海道の親不知「岫が崎」<静岡市清水区興津中町 
海岸線が見えない急勾配の山。 中世までは、海岸の絶壁に沿って
狭い砂浜があるだけで、海浜が街道であった。 「岫(くき)が崎」と呼
ばれ、干潮時、波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜けた。 
  さった峠からの展望 
左から東海道本線、国道一号線、名神高速道路という大動脈が
ひしめき合っている。(2018.1.27撮影)  安政(1854)の東海地震により
直下の海岸が隆起し、海岸線が通行可能となった。
<海道記>四月十三日、久能寺・清見が関から蒲原へ(3)
 「岫
(くき)が崎」と云ふ処は、風飄々(へうへう)と翻(ひるがえ)りて
(いさご)を返し、波浪々(らうらう)と乱れて人をしきる。 行客(かくかく)
ここにたへ、暫(しばらく)くよせひく波のひまをうかがひて急ぎ通る。 
左は嶮
(さが)しき岳(をか)の下、岩の迫(はざま)を凌(しの)ぎ行く、
右は幽
(かす)かなる波の上、望めば眼(まなこ)うげぬべし。 遙々
(はるばる)と行く程(ほど)に、大和田(おおわだ)の浦に来たりて、小舟
の沖中
(おきなか)に溺(ただよ)へるをみる。 (一部略)
   
<忘れじな波の面影(おもかげ)立ちそひて
           過ぐるなごりの大和田の浦>

湯居(ゆい)の宿を過ぎて遙かに行けば、・・ (一部省略)
蒲原の宿に泊りて管薦
(すがこも)の上にふせり。
<東関紀行>駿河路 ー 岫が崎にて旅の空を眺める
今宵
(こよひ)は更にまどろむ間(ま)だになかりつる草の枕のまろぶし
なれば、寝覚
(ねざめ)もなき暁(あかつき)の空に出でぬ。 岫が崎
(くきがさき)といふなる荒磯(あらいそ)の岩のはざまを行き過ぐるほどに、
沖つ風はげしきに、打ち寄せる波もひまなければ、いそぐ潮干
(しおひ)の伝(つた)ひ道(みち)かひなき心地して、干(ほ)すまもなき
袖のしづくまでは、かけても思はざりし旅の空ぞかしなど、うち眺め
られつつ、いと心細し。
  <沖つ風けさ荒磯の岩づたひ
         波分け衣
(ころも)ぬれぬれぞゆく>
<海道記><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 岫が崎という所は、風が強く吹いて砂を飛ばし、波が高く打ち寄せて
人の通行を妨げる。 
旅人はしばらく我慢して、寄せては引いてく波の
合間をねらって急いで通る。 道の左側は急な小山の下で、岩の隙間を
分けるようにして進み、右側は遙かに遠く波が続き、眺めていると目が
落ち窪んでしまうよ。 さらに進んでいくうちに大和田の浦に来て、小舟が
沖に漂っているのを見た。   <一部・略>
  <いつまでも身に立ち添っていて忘れることはあるまい。 
    今、通り過ぎる名残の多い大和田の海の景色のことは>
湯居(ゆい)の宿場を通過して遠くに進むと、・・・  (一部・略)
蒲原(かんばら)の宿に泊って管(すが)の筵(むしろ)に寝た。
*参考
 岫が崎・・・さった峠の断崖が海に突き出していて難所であった。 
 大和田・・・さった峠の東から由比の宿辺りの一里ばかりと解説される。
   <東関紀行><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 この夜は、うとうとと眠ることもできなかった旅のごろ寝であったから、
目が覚めたという思いもないまま、明け方に出発した。 
岫が崎といわ
れている荒磯の岩と岩の間を通り過ぎていく時には、沖から吹く風が激
しいので、打ち寄せる波の絶え間がなく、潮の引く
時に急いでわたらねば
ならない道も、急いだ甲斐もなく、波のしぶきに濡れて、干すひまもない
ほど常に旅の衣の袖が雫(しずく)に濡れそぼるものだとは予想もしなかった
旅の空であったなあと、つくづくと眺めていると、悲しい気持ちになる。
 <沖からの風が今朝は大変にあらいので、荒磯の岩を伝って
   波の間を分けながら、衣の袖をずっしりと濡らしながら行くよ>
     
蒲原宿西木戸跡<静岡市清水区蒲原3> 
県道396号から左折(北)した西木戸モニュメント。 右に中世に
繋がる入口が見える。
蒲原宿古屋敷跡<静岡市清水区蒲原3> 
西木戸跡から見える中世の入口。中央の建物が左の写真奥に
見える。左の赤い消火用具箱の横に説明がある。
     
古屋敷通り<静岡市清水区 
蝦説明内容は、右上の写真の道が元禄年代以前の東海道であった。
元禄十二年の大地震・大津波で大きな被害を受け、東海道が山際に
移転した。
古屋敷にある道は、吹上の六本松に向かっている。
江戸時代の絵図であるが、右下の「木屋江戸日記」の絵図に古跡が
描かれている。  
  浄瑠璃姫の碑及び吹上の六本松<静岡市清水区蒲原 
正面の説明板に、碑は明治31年初代町長が建立したものである。 その
内容は、義経を追ってきた三河矢作宿の浄瑠璃姫が、疲れ果て吹上浜
で亡くなった。 その塚に目印として松が植えられたのが、六本松で大
きく成長し、東海道の旅人の目印となった。 「東海道名所図絵」にも示
されていると書かれている。 また、最期に「語り継ぎ、言い継ぎつつ、
今になお、いくりの人の袖を濡らすらん」(作者不詳)の歌で閉められて
いる。 時空を越えた想いに感謝
     
蒲原宿古地図<静岡市清水区 
蒲原宿で材木等を商っていた渡辺家が、保存資料の一部を冊子にした
「木屋江戸日記」に記載の古地図である。 中央の細い赤線は江戸
時代の東海道であり、中央に蒲原宿がある。 左部分クランクは西木戸
跡で、下が江戸時代以前の古屋敷である。 赤字は、元の文字を
読みやすくするため加工したが、町の前面に長堤。 六本松は富士川
を渡る西の目印とされる貴重な絵地図である。
渡辺家前に十年ほど前まで残されていた長堤跡の写真が展示されて
いた。 (2017年10月9日現在)
  源義経硯水<静岡市清水区蒲原1 
敷地内に 地元に伝わる伝承として
源義経が奥州行きの途次、暴風雨のため吹上の浜に上陸し、
蒲原氏館に留まる。 旅立ちの時、蒲原神社奉納の祈願文を書くため
湧き水を硯水に用いた。 その時、浄瑠璃姫にも便りを書いた。
便りを見た浄瑠璃姫は蒲原に駆けつけたが時遅く、会えなかった。 疲れ
と失望で姫は倒れたが、館主に救われ、幸せに暮らしたが、治承三年
(1179)、重き病により没す。 蒲原木乃内家 の内容である。 
<東関紀行>駿河路 ー 蒲原にて、旅人の歌に心寄せる
蒲原(かんばら)といふ宿のまへを通るほどに、おくれたる者待ち
つけんとて、ある家に立ち入りたる。 障子(さうじ)に物を書き
たるを見れば、「旅衣(たびころも)すそ野の庵(いほ)のさむしろに
積るもしるき富士の白雪」といふ歌なり。 心ありける旅人のしわざに
やあるらん
   (一部略)
  
<さゆる夜(さ)は誰(たれ)ここにしも臥(ふ)しわびて
          高嶺(たかね)の雪を思ひやりけん>

   <十六夜日記>駿河路 ー大井川より田子の浦まで(4)
富士の山を見れば、煙立たず。 昔、父の朝臣(あそん)に誘はれて、
「いかに鳴海
(なるみ)の浦なれば」 など詠みし頃、遠江国(とほつあふみ
のくに)
まで見しかば、富士の煙の末(すえ)も、朝夕たしかに見えし
ものを「いつの年よりか絶えし」 と問へば、さだかに答ふる人だになし。
   <誰(た)が方(かた)になびき果ててか富士のねの
         煙の末の見えずなるらむ>

古今の序の言葉とて、思ひ出でられて、
   <いつの世の麓(ふもと)の塵(ちり)か富士のねの
          雪さへ高き山となしけむ>

今夜は波の上と□□*の宿りて、荒れたる音左右
(さう)に、目も合はず。   注:□□は漢字二文字で読みがたい。
<東関紀行><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
蒲原という宿場を通る時に、遅れている連れの人を待とうと思い、ある家
に立ち寄った
。 そこの襖(ふすま)に何か書いてあるのを見ると
「富士山の裾野の小家の粗末な敷物に寝ていると、寒さがきびしくて、
富士山には白雪が積っていることがはっきりとわかる」 という歌だ。
風流心のある旅人のしたことだろうか。 (一部略)
 <寒さの冴(さ)える夜に、誰がここで眠れぬままに富士山の峰の雪を
   思いやっていたのであろうか。 風雅な人であっることよ>
   十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 富士山を見ると、煙が立っていない。 昔、父に同行して「いかに鳴海
の浦なれば」などという歌を詠んだ頃、遠江国まで来たことがあったから、
富士の煙の昇って行くのも朝夕ちゃんと見えていたのに、「いつ頃から
絶えてしまったの」 と聞いても、はっきり答える人もいない。
  <誰のいる方角になびききってしまったからといって、
     富士山の煙の行く末は見えなくなったのだろう>
「古今集」序の言葉というのが思い出されて、
  <いつの時代からの麓の塵が積り積って、富士山を
     雪さえ積る高い山としたのだろう>
今夜は波の上の宿と言ってよいほどの小屋に泊って、荒れた波音が
左右に聞え、目を閉じて眠るに寝れない思いだ。