藤沢市の鎌倉街道 
はじめに
藤沢市は南に海、そして平塚市から続く湘南砂丘地帯に面し、かっては、境川及び引地川が蛇行する中に、ラグーン・
 潟の湿地帯と原野であった。
鎌倉街道、江ノ島街道、大山街道の延長である光明真言道が縦横に走っていた。  河川の氾濫、変化する砂丘の影響で不安定な地形であり、変化
した街道遺構が完全に残されていない。 このため鎌倉街道の遺構について、複数説が提唱されており、混乱の中、鎌倉街道の話題が少ない。
複数説があるため、藤沢市史、紀行文及び軍記などの史料等を基本に街道遺構を決めた。
特に、ここでは、辻堂の郷土史家である大石静雄さんのご意見を参考に幾分の修正を加えて提案したい。
 <令和2年12月10日辻堂から鵠沼一帯をご案内いただきました>
紀行文(十六夜日記)については、参考資料で<酒匂宿から海沿いの浜路を進んで鎌倉をめざす>とあることから浜辺の道を採用したい。
地理不案内のため誤りがあるかと思われるが、鎌倉街道に関心を持ってもらい、今後も活発な探索が行われることを期待したい。
参考資料
○藤沢市史 第四巻 通史編   ○わが住む里 第23号(昭和46年12月発行)  同 第28号(昭和51年12月発行 発行:藤沢市中央図書館
○ふるさとマップ辻堂  編集・協力 大石静雄 発行:藤沢市(2013・2改訂)
○辻堂の地名の起源を尋ねて古道を歩く 平成21年3月14日 藤沢地名の会第164回例会(ウオーキング)資料
○物語の舞台を歩く・十六夜日記 田淵句美子著 (株)山川出版社発行
    <海道記>
 相模河をわたりぬれば、懐嶋(ふところじま)に入りて、
砥上
(とがみ)が原に出づ。
南の浦を見やれば、波の綾
(あや)織りはへて、白き色を
(あら)ふ。 北の原を望めば、草の緑、染めなして、浅黄を
さらせり。 中に、八松
(やつまつ)と云(い)ふ所あり、八千歳**
(はっせんさい)の陰に立ち寄りて、十八公(じゅうはちこう)***
(えい)を感ず。
  <八松の千世ふる陰に思ひなれて
   とがみが原に色もかはらず>

 <海道記><解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
相模河を渡って、懐嶋を通り、砥上が原に出た。 南方の海辺を
遙かに見れば、波は織物をすすぐように白く見えている。 北方の
野原を眺めると、草の緑が浅黄の布を染めたように見える。
八松という所があり、そこの八千年の寿命があるという松の木の
下に立ち寄って、松の生命の盛んなことに心を打たれた。
 <この八松の千年も変わらぬことに慣れたか、砥上が原の
  松は緑色も永く変わらないでいるよ>*

* 波の綾・・・単色の絹織物。 光沢の変化で、模様が浮き出る
         ような織り方から、波が白く
立っているさまを喩えた
         もの。
**八千歳・・・大椿の長寿であることをいうが、ここは、松をさす。
***
十八公・・「松」という文字を分解したもの。
辻堂・鵠沼地区の地形図<藤沢市>
江戸時代中頃の藤沢市南部の地形図。 最下段が江ノ島、その
最上段に藤沢駅がある。
中央の左が辻堂、やや左の引地川、江ノ島付近、片瀬に境川が
見える。  砂丘地帯を川が流れ、蛇行している。 街道は最短距
離を進み、ラグーン・潟と進んだ。 右の歌によれば片瀬川の河口で
干潮を待って通行していた。
資料名
藤沢低地の地形発達史図<江戸時代から明治時代>
 若尾山遺跡発掘調査調査報告書・1998年3月発行・藤沢市
 
  西行(熊の森権現・西行歌碑)
柴松のくずのしげみに妻こめてとがみが原に子鹿なくなり

伝鴨長明歌 
浦近き砥上が原に駒とめて片瀬の川の潮干をそ待(歌枕名寄)
 
伝冷泉為朝詠
打渡す今や汐干の固瀬川思しよりは浅き水哉(名所方角鈔
   
源頼朝公落馬地<藤沢市辻堂2>
辻堂市民図書館北西約百メートルの左側に伝承を記した案配版
がある。 文責の郷土史家・大石静雄さんが「保歴間記」に「相模川
の橋法要供養(渡り初め)に出で、還らせ給ひけるに、八的ヶ原
(辻堂の古称)にて怨霊が目に減じて、落馬した」との記述を探し、
関係者の同意を得て設置したものである。 
この道の前方はJR辻堂駅南、その先は茅ヶ崎市の上正寺であり、
鎌倉街道(京鎌倉往還)である。 
 
  熊の森権現・西行の歌碑<藤沢市辻堂2>
ふるさとマップ・辻堂によると
文治3年(1187)畠山重忠が源頼朝の怒りにふれ、その職を
解かれようとしたところを千葉胤正(たねまさ)のとりなしで許され
、その後、敬神の念が強くなり、そのあらわしとして、塔を奉納
奉納したと伝えられる。
右にある石碑は西行の歌碑で
、文治二年、東大寺再建のための
勧進行脚の折、ここにあった根上がりの松に腰掛けて上欄の
句を詠んだとされる。
     
三つ叉(みつまた)<藤沢市辻堂2>
古道(鎌倉街道とl光明真言道場道)がここから三本に別れていた
のが由来である。
  
  海龍山観音寺・宝泉寺(ほうせんじ)<藤沢市辻堂2>
十一面観音をご本尊とし、建久年間(1190~1199)頃、源頼朝の
勧請により創建されたと伝わる。 俗に「南の寺」と呼ばれ、大山
詣での行者はその帰り道に当寺を真言道場として参拝しないと
「縁起」が悪いとされ、夏の大山詣での時期は光明真言道から
参拝に来る白衣の行者で昼夜もわからないほどの賑やかさで
あったという。
 
     
諏訪神社<藤沢市辻堂2>
創建は平治年間(1159~1160)と伝わるが定かでない。
宝泉寺と隣接しており、関連はあると思われるが、過去、数度
の火災に合い、詳細は不明である。
 祭神は
 建御名方神(タケミナカタノカミ)と八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)
 である。
 
  八松稲荷神社(やつまついなりじんじゃ)<藤沢市辻堂2>
創建
は、「皇国地誌」には、「里伝によると文治年間(1185~
1190)の勧請」とある。 名前の由来は、古くは辻堂地域一帯が
八松原(やつまとがはら)と称されていたことが「源平盛衰記」や
「平家物語」で知られている。  宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)
を祀る。
右の案内版は、 辻堂郷土史研究会(大石代表)設置の案内版。
辻堂地内は入り組んだ小径が多く、ふるさとマップと案内版が
必要不可欠である。
     
社宮神(しゃぐうじん)(田畑神社)<藤沢市辻堂2>
創建は古く定かでないが、「田畑御縄打納めの時に「田畑明神社
付近に逆さ葦(あし)出ず」(相模風土記)と記されている。 土地の
人は田畑様(デンパクさま)と呼んでいる。 
鎌倉時代・源頼朝の家臣・佐々木高綱が義経に従って木曽義仲
追討の途次、辻堂を通りかかった時、村人に支度のみすぼらしさを
笑われたのを怒り、鞭の代わりにしていた葭を逆さに地面に突き
立てたところ、後日、その葭から根が生え、一面の葭原になった
という、「逆さ葭」の伝説が残っている。
  木又(きまた)地蔵<藤沢市辻堂東海岸>
辻堂は、ひと風吹けば田畑や集落も砂で埋まっていたので、砂
防林を造る必要があった。 落合又五郎さんは、明治初期から
末期まで苗を一生かけて植え続け、保護、育成に努めた。
当時は奇人扱いされたが、後世の人達が、功績に感謝して
「木又地蔵」を建て
た。 今も、松ぽっくり、新しい水が供えられ
大切にされています。
     
旅館「東屋」(あづま)<藤沢市鵠沼海岸2>
明治後期から昭和初期にかけて多くの文人が逗留し、想を練り
執筆した。 志賀直哉、武者小路実篤、芥川龍之介等25名の
作家名が紹介されている。
  一遍上人地蔵堂跡<藤沢市片瀬7>
片瀬市民センター前の鎌倉街道を北上し、最初の四つ角を
左折した住宅街の一角にある地蔵堂跡。 
遊行寺が所有する国宝の「一遍聖絵」に描かれた片瀬地蔵堂
比定地。
*左下の絵は、「国宝一遍聖絵」 平成27年遊行寺宝物館発行
     
<片瀬浜の地蔵堂にて踊り念仏>
弘安五年(1282)3月2日、鎌倉に入ることを許されない一遍は片瀬
で断食
した後、地蔵堂で数日を過ごされた。
一遍上人は、すべてを捨て、遊行によって、貧しき人々や様々な
苦しみに苦悩する人々の心に大きな希望をもたらした。 
そうした人々の心の底から湧きあがる喜びは、やがて彼らの
体を揺り動かした。
 それはやがて「踊り念仏」という形で表現され、
喜びに歓喜する人々の輪をどんどん大きなものへと成長させて
いった。・・・遊行寺HPから引用 
  西行戻り松<藤沢市片瀬>
本蓮寺前の西行法師戻り松。 鎌倉時代、源頼朝のもとに西行
が訪れていたという記述があり、 「京・鎌倉往還」であったこの
街道に逸話が残されている。 頼朝は西行に引き出物として銀製
の猫を渡したが、西行は館を出て直ぐに子供にくれたという。
この松には、「枝ぶりの見事なその姿が西の方に傾いていたため
都が恋しくなり、西行は その枝をさらに西の方に向けて立ち
去った」などの言い伝えもあります。 
     
密蔵寺(みつぞうじ)<藤沢市片瀬3>
鎌倉時代末期に有弁僧正によって開山された。 何度かの火災に
あったが、江戸時代に良忍上人によって再建された。 女優、小暮
実千代が植えた愛染かつらで知られる真言宗の寺。 
  寂光山龍口寺<藤沢市片瀬3>
文永8年(1271)日蓮聖人が斬首を免れた地に、後に創建され
た龍口寺。 延元2年(1337)日法上人が一堂を建てたのが寺の
はじまりと伝えられている。 
     
皇大神宮(こうたいじんぐう)<藤沢市鵠沼神明2>
神奈川県藤沢市鵠沼にある神社である。正式名称は「皇大神宮」で
ある。 「神明宮」、「烏森神社」とも称される。 相模国土甘郷(とがみ)
の総鎮守とされ、長治元年(1104)には、伊勢神宮大庭御厨の鎮守と
なった。
江ノ島と大山神社を連絡する道の途次にあり、大庭御厨の中心地
を根拠に鎌倉街道の経路地とみる考えもあるが、辻堂や鵠沼経由
のように紀行文や街道の伝承がない。 街道利用が皆無とは思わ
ないが、混乱を招くため経路地としての紹介は止めたい。

  
  江ノ島神社<藤沢市江ノ島2>
御祭神は、天照大神
(あまてらすおおみのかみ)が須佐之男命
すさのおのみこと)と誓約された時に生まれた神で、三姉妹の
女神様である。
 ・奥津宮の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
 ・中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
 ・辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)
この三女神を江島大神としている。 古くは江島明神
(えのしまみょうじん)と呼ばれていたが、仏教との習合によって
弁財天女とされ、江島弁財天として信仰される。 海の神、
水の神の他に幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ
神として、今日まで仰がれている。 福岡の宗像大社や、
広島の厳島神社と同神でもある。・・・江ノ島神社HPより引用
 <海道記>
 片瀬川を渡りて、江尻の海汀(かいてい)を過ぐれば、江の中に
一峰
(いちほう)の孤山(こさん)あり。 山に霊社あり。 江尻の大
明神と申す。 威厳
(いげん)ことにあらたにして、御前を過ぐる下
(くだり)船は、上分(じょうぶん)を奉る。
 (一部・略)
   
<江の嶋やさして潮路に跡たるる神は
           誓
(ちかひ)の深きなるべし>

  <海道記>
<解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 片瀬川を渡り、海の波打際を過ぎると、入江の中に一つの峰を
持つ孤山がある。 山には神社がある。 江尻大明神
(えじり
だいみょうじん)
と申し上げる。 霊験はあらたかであって、御前を過
ぎる下り船は奉納品を献上する。
  (一部・略)
 <江の島を目指して、この海に竜神になって垂迹した仏は、
  きっとその誓いが海のように深いからだろう>
 
         
遊行寺(ゆぎょうじ)<藤沢市西冨1>
「遊行寺」は通称で、正式には「藤澤山無量光院清浄光寺」という。
開祖・一遍上人は
すべてを捨て、遊行によって、貧しき人々や
様々な苦しみに苦悩する人々の心に大きな希望をもたらしました

  一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。
  信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし。

(すべての人は南無阿弥陀仏を唱えることで極楽往生が叶う。
ですから、それを信じない者であっても、どんなに穢れた者で
あってもお札を配るのです)  ・・・時宗当麻山無量光寺HP
開山は俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭であった俣野氏の
出身である遊行4代他阿呑海上人です。 その兄である俣野五郎
景平の寄進により正中2年(1325)に創建された。
一遍上人が配った「南無阿弥陀札」の現在板。
2013年11月、一ツ火法要に出席の際、今の御上人から
手渡しでいただいたお札です。  一遍上人が配われた
札と同タイプと思う。
巾 2㎝、長さ8㎝、和紙です。
長生院(ちょうしょういん)<藤沢市西冨1>
遊行寺境内・国道一号線側に支院・長生院がある。
寺伝によれば正長元年(1428)頃に照手姫は太空(たいくう)上人
の弟子となり、剃髪受戒(ていはつじゅかい)をうけて長生尼と号
した。 永享元年(1429)に閻魔堂(えんまどう)のかたわらに
草庵を結んでこの処に住まわれたことにより閻魔堂を長生院
(ちょうしょういん)と改称して遊行寺の支院となった。 
・・・遊行寺HPから引用
一角に「小栗堂」があるが、その裏に
小栗判官、照手姫、家臣及び愛馬・鬼鹿毛(おにかげ)の墓が
整備されている。
    参考
<小栗判官物語のあらすじ>・・・(説話のため各説あり)
およそ600年の昔、戦に敗れた小栗判官は、相模に逃れ、大富
豪・横山家の長女・照手姫と出会い、恋におちる。  しかし二人
の関係に立腹した横山は小栗判官に毒を飲ませ殺してしまう。
地獄に落ちた小栗判官は閻魔大王の同情をかい、蘇生への
道として餓鬼阿弥の姿に変えられ、現世に送り返された。 
哀れな姿で倒れていた小栗判官は通りかかった藤沢の上人に
助けられ、土車に乗せられて熊野の湯の峰を目指す。 
小栗の首には上人により「一引き引いたは千僧供養、二引き
引いたは万僧供養」と書かれた札が下げられた。
 一方、照手姫は恋人を失った上、兄弟の策略により流浪の身と
なっておった。  ある時、首から札を下げた餓鬼阿弥を見て、
亡き小栗判官の供養になればと湯の峰へ参拝の旅にでた。 
長い旅路の果て、ついに湯の峰に辿り着いた照手は餓鬼阿弥を
四十九日の間、壺湯に浸けて湯治させたところ、なんと元の小栗
判官の姿に戻ったというお話です。
・・・・熊野本宮観光協会HPから引用