鎌 倉 街 道 <参 考>
 街道の歴史と鎌倉街道<中世東山道>
(1)最初の道
縄文時代中期以前は、生活の基調は、狩猟・漁労・採取など自然物の採取であり、行動範囲はあまり広くなく、したがって生活圏内の移動に
すぎず、交通というほどのことではなかったとされる。  生活圏内で移動するため固定した道(*注1)もなく、自然の地理的条件に応じて水上
・水辺・山麓・山頂を利用した。  水上は海上及び河川であるが舟の停泊に便利な風波の静かなところが選ばれ、水辺では丘陵を避け、徒
歩の容易な渡河地点が選ばれた。  山地では、狩猟などの際に通る山麓、分水嶺となっている山頂が自然の通路を提供した。  山麓では
渓谷に沿って谷間を通り、低い峠を越すようにし、山頂は鞍部の峠で連接し易いところが選ばれた。
我が国は山地が多く、ことに丘陵が海岸まで迫っているため、陸上よりも沿岸交通のほうが便利であったと考えられる。  街道が「海道」とも
別称される理由である。 縄文時代後期以後、原始的農業が営まれるようになったが、生活圏域は、未だ限定された範囲であった。
・・・<豊橋市史及び刈谷市史から引用>

(2)最初の街道
大化の改新により律令制に基づく中央集権国家が成立すると、中央と地方との緊密な連絡が必要となり、大化二年(646)の大化の改新の
詔勅が出され<詳細は下欄参
照>官制の交通路の設置を指令したものであるが、記録がなく詳細は不明である。 街道の拠点となる駅(馬
の乗継所)名等詳細は927年(延長5年)の延喜式に記録されているが、地図がなく駅位置及び想定ルートが不明であったが、「古代日本の
交通路T〜W」<藤岡謙二郎編1978・1979>で地図が提示され、活用されている。 しかし、駅跡及び想定ルートの発掘調査が一部しか
実施されてなく、現段階では推定の範囲で説明されている。 官道であった古代東山道は、研究者は国府等をほぼ直線で連絡し、そして条里
制の影響を受けていると指摘している。


(3)中世鎌倉時代の東山道(鎌倉街道
古代東山道は、都を中心にした統治の手段であったが、中世に入り鎌倉幕府の成立により、それまでの奈良・京都を中心とする一元的な政
権所在地へ至る一交通路としての役割から二大政権所在地を結ぶ主要交通路としての重要な役割が加わり、政治・軍事だけでなく経済・
文化面においても最も重要な幹線となり、鎌倉幕府は街道の整備を進め、京・鎌倉間の日程が急便の場合、四日に短縮された。 一般の
日程は「海道記」(1223)は鈴鹿越えで14日間、「東関紀行」(1242)及び十六夜日記(1277又は12791)は、杭瀬川(大垣市)経由で十日間余と
されている。 当時、この道は正式には「京・鎌倉往還」と称された。 「京・鎌倉往還」は後世になって、近世の東海道と区別するために、鎌倉
への道という意味で「鎌倉街道」と呼称されている。 この街道遺構は、ほぼ近世の中山道に重なるとされる。
 注1「道」の語源について
    み」は美称として、「ち」は「地」であって「あっち」「こっち」と同じく、あちらからこちらに移るために人間が踏み固めたところが道である。
    その原形とも言うべきものが「けもの道」である。   出典:瑞穂区制20周年記念誌P48
 注2「大宝令」では、高麗尺が採用されており、三十里は約16Km弱とされる。

(4)このホームページで紹介する鎌倉街道
古代東山道の遺構が確認されてなく、中世時代の東山道(鎌倉街道)遺構も同様に明確にされたものはない。 また各地の図書館
で参考にした滋賀県下の中世東山道(鎌倉街道)の資料が探したが見つけることができなかった。 したがって、東山道の街道筋を
辿っているといわれる近世中山道をベースとし、町史等に記載されている
箕作みつくり山を迂回した小脇おわき宿<東近江市小脇
町>、戦国時代の有力大名・佐々木氏の観音寺城下を経由した石寺<近江八幡市安土町石寺>経由清水鼻への道、、同様に清滝の京極
氏の拠点(米原市柏原町清滝)を経由した迂回道
を説明している。
また米原市番場という地域限定であるが郷土史家の北川麓三さんが史実や旧地籍図を根拠に水害を避けた微高地の街道を(中世)東山
道と説明されている。 岐阜県西濃地区(垂井町、大垣市青墓町)でも同様の経路がみられ、今回、ご協力をいただきましたので、引用させて
いただいきます。

参考資料
  ・
東山道の実証的研究 平成4年黒坂周平著
  ・
古代の道 平成16年武部健一著
  ・
平安鎌倉古道 平成9年尾藤卓男著
  ・
条理と地理 2011年山川恵弘著

  ・番場の推定東山道 平成8年北川麓三著


 参考1:古代東山道の歴史について
645年
   大化の改新<全国に国府を設置>
646年
  改新の詔勅・・・官制の交通路の設置を指令
   初めて京師(みさと)を修め、畿内国司(うちつくにのみこともち)・郡司(こおりのみやつこ)・関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はゆま)
   伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし)を造り、山河を定めよ。

  *付則

   駅馬・伝符を賜うは、皆鈴・伝符の剋(きざみ)の数によれ。諸国及び関には、鈴・契を給う。
                    ・・・南宮大社に鈴契(1017年製)が保管・・・

  ・・・養老令で駅及び駅馬並びに、七道(地方)の名と関連地名が示されているが、詳細は不明とされる。
    備 考
     駅馬・・・駅家
(うまや)に常備され、駅鈴を支給された「急速の大事」に関する地方から中央への通信者である飛駅使(ひやくし)
          第一とし、急速の大事でない諸種の公文書をリレーする通常の駅使
(えきし)の他、駅馬には乗るが、駅使の名にふさわ
          しくない公務出張者がある。 <平成4年五箇荘町史>
     
伝馬・・・各郡衙に置かれた馬で、伝符とう乗用許可証を与えられた官人が用いた。この伝馬は、各国内で、国衙と各郡を結ん
          で往来する国司や新任の国司が任国に赴く際などに利用された。<平成7年蒲生町史第一巻>

 835年
  太政官符を下し、浮橋、渡船を増設させる。(美濃の墨俣、尾張の萱津)

 927年(延長5年)
  律令法の施行規則の「諸国駅伝馬」に各国別の名称、駅名、配置駅馬数及び配置伝馬数が 記載される。
              ・・・<延喜式(えんぎしき)五畿七道(ごきしちどう)>と称される。・・
 1185年
  源頼朝、「駅路之法」を制定し、伊豆・駿河以西から近江まで伝馬を整備


     

参考2:<延喜式>五畿七道(ごきしちどう) 
  
 参考3:東山道駅路及び経路の推定ヒント・・・「完全走破 古代の道」武部健一著から引用
@駅家(うまや)の間隔は、およそ三十里(約16キロ)とされる。
A駅家の位置は、駅路の屈曲点、他の道との交点、渡河点など交通上の接点である場合が多い。
B駅路の経路は基本的に直線である。平野部では、条理に沿った場合が少なくなく、その場合も駅路を基本に条理が 形成される場合が多く
 みられる。
C市町村などの行政境界が直線になっている部分は、駅路であった可能性が高い。 それは駅路を基準に境界が定められたことを意味する。
D駅路設定の基準として独立峰あるいは山脈・台地の突端など遠距離に望見される地形的特長を目標とする場合がある。
E渓谷などの曲折した水路、あるいは屈曲の多い海岸線に沿って駅路が通ることは、ほとんどない。 むしろ尾根沿いに 山を越えて直達す
 る場合が多い。 自然災害に対する安定性と軍事上の安全性の両面からの意味を持つ。
参考4.京都市及び滋賀県内の東山道経路及び駅位置<京から瀬田駅までは古東海道扱い> 
 

 

参考5.中世時代の鎌倉街道
京から杭瀬宿(大垣市赤坂町)まで東山道筋、杭瀬宿から熱田の宮までは江戸時代の美濃路の東、熱田の宮から藤沢は古代東海道、
藤沢から鎌倉までは上の道の経路が紀行文に書かれている。 中世東山道の記録が少ないが、八日市の歴史(昭和59年8月八日市
(現・東近江市)市史編纂委員会)に鎌倉時代の小脇宿の存在、山東町史(平成3年2月、現・米原市)
では、「中世には京極氏の柏原館
(清滝付近)が宿駅の中心であったろう」と説明している。

  
 このような中世時代の鎌倉街道と紀行文を紹介し、当時の風景を想像したい。
 
 「海道記」
貞応二年(1223)成立と考えられる紀行文。 貞応二年4月4日、白河の侘士なる者が京から鈴鹿越えの東海道で鎌倉
に下り、17日に鎌倉に着き、さらに帰京するまでを描いている。

「東関紀行」
仁冶三年(1242)成立と考えられる紀行文。作者は不詳。京都東山から鎌倉までの道中の体験や感想で構成されて
いる。 和漢混淆文
(わかんこうこうぶん)で、風景描写等が優れた紀行文といわれる。特に萱津の東宿の賑わいをリアルに
書きとめている。

「十六夜日記」
藤原為家の側室・阿仏尼が相続(後継者)問題を鎌倉幕府に訴えるため、弘安二年(1279)都から鎌倉までの旅で見聞
した事柄を簡潔な文書で残した紀行文日記で、当時の状況を思い浮かべることができる貴重な文学作品である。 成立
当初、阿仏尼はこの日記に名前をつけておらず、単に「阿仏日記」などど呼ばれていたが、日記が10月16日に始まって
いることを由来として、後世に「十六夜日記」と称された。