街道概要
木曽川と濃尾平野形成について |
濃尾平野について 往古から濃尾平野は、大部分が海であったと伝えられる。 下の左図は、猿投神社に伝わる尾張古図とされる。 真贋について議論があるが、 濃尾平野の元の地形が分かり易い。 右のイラストは、古図を簡略化しており地名も現代表記で更に分かりやすいので掲載します。 |
猿投神社に伝わる養老元年(717)の尾張古図 (下の二枚の写真はmusublgさんの御協力を得ています) |
1998年2月4日岐阜新聞、「ぎふ海紀行」より | |
古代から中世の尾張平野について ○木曽川は犬山市周辺から放射状に流れ、濃尾平野の形成はゆっくりしたスピードであった。初期の段階では、あちこちにできた寄洲が互いに 結び付いて川中島を形成し、やがて草木が自生して不動の地盤となった。 当時は川の流路 は一定せず、あたかも網の目かクモの巣のように 乱流蛇行していた。 住民は、自然にできた堤防洲・小高い丘に水を避けて住みつき、肥沃な帯のような狭いところを求めて耕田とし、稲作を 始めたと思われる。(川島町史) ○8世紀頃から古代国家が成立し、中央が求める貢納物の生産のために尾張東部から東濃にかけて陶磁器生産のため膨大な薪材の消費に よって山林が荒廃し、洪水氾濫に伴い下流部の尾張平野における自然堤防(濃尾平野)の形成を活発化する一因になった。 自然堤防上は、 絹の生産のための桑畑や集落として利用された。 そして、生活圏を移動する道から地方を連絡する街道が成立した。 東海地方の中世鎌倉街道も自然堤防を利用した形態が多い。 ○堤防洲・小高い丘が安定し、犬山から網状に流れていた木曽川が、七~八本の支流になった。 木曽川八流は、洪水の度に変化していた。 木曽川の本流(広野川)は、西進し美濃と尾張の国境として境川と呼ばれた。 現在の揖斐川合流 後の川は、墨俣川とか尾張川と呼ばれた。 ○流域の環境悪化による洪水が全国的に多発するようになり、延暦3年(784)12月、初めて桓武天皇によって「森林保護に関する詔」(続日本記・ 巻38)が発せられた。 ○神護景雲元年(767)、貞観7年(865)、洪水により木曾川(広野川)の河道が埋まり、尾張側に全ての水が流れるようになり大雨による被害が発生 し、朝廷の命により河口の開削が行われた。(広野川の紛争) (新編稲沢市史 本文編上) |
○中世(平安・鎌倉時代)、奈良から鈴鹿越えの海道が、上の図のように墨俣・黒田経由に変わった。 墨俣には官営の渡し船が設置されたが、境川等木曽川関係には記録がなく、(分流のため)浅瀬を徒歩で渡ったと思われる。 |
○天正14年(1586)6月、未曾有の大洪水により、本流が草井付近より直進する現在の流路(青色の線)となり、豊臣秀吉は、この新河道を濃尾の 国境と定め、尾張国葉栗、中島、海西3郡の一部が美濃国に編入した。 また、秀吉は文禄3年(1595)洪水に荒れた尾張を再生し、木曽材の 流通路を安定すべく新しくできた木曽川の堤防を(農民に飯米一日一人5合支給し動員)修復した。 なお「木曽川という名称が、この頃から使わ れるようになり、この川の成立の意味を暗示している。(尾西市史通史編) ○慶長13年(1608)、徳川家康は尾張を洪水から守るとともに西国の防衛線となる木曽川左岸の犬山から弥富に至る 48キロの「御囲堤」と称される 大堤防を築いた。 また、木曽材の筏を流すため、一の枝から三の枝を締め切った。 この ため尾張部の稲作の水不足となり、代替え施設として 宮田用水などが整備された。(木曽川町史) ○木曽川の流れがまとめられて、美濃方面に流れることにより、木曽川、長良川、揖斐川が合流し、更に各河川の川床がそれぞれ8尺(約2.4m) 西に低くなっていることから美濃に洪水が多く発生した。(羽島市HP) ○濃尾平野は東部が隆起し、西部は養老山地手前で沈下していく:濃尾傾動運動)ことから、三川河口が集まり、美濃は洪水が多発した。 (中世の東海道をゆく榎原雅治著) |