第2章.岐阜県の鎌倉街道について
下の略地図は岐阜県及び愛知県西部の鎌倉街道推定線を示したものである。 江戸時代に整備された中山道や美濃路と比較すると蛇行したり
上(山側)に寄っている特徴がわかる。 現地を歩いても、走行不便な山裾であり、水害等を避けた結果としか言いようがなかった。 他人に
うまく説明できない、もどかしさを感じていた。
今回、鎌倉街道を全面的に見直し、手持ちの資料を精読したところ、次の記述が最適と思われるのでご紹介したい。
西濃歴史街道地図(2001.4大垣市発行)に「東山道と等高線」といタイトルで次の内容が記述されている。 西濃地区は大小河川が流れており、
古代、整備できない時代には比較的水量の少ない北寄りの地帯を選ぶ必要があった。 これを等高線と比較してみると、湧水地帯の多い海抜10
m付近を中山道、海抜15m付近を東山道(大垣以西は鎌倉街道)が整備されたと思われる。 雨の多い時、ここより標高の低い地域は水が吸収
されずに泥地や水流に変化し、東山道はその道筋を避けたと思われる。 
この推察は、丘陵地帯を通る愛知県内三河地区の鎌倉街道においても当てはまると思われる 
 
 岐阜県関ケ原町の鎌倉街道
 
紀行文の関ヶ原町 
岐阜県の西端に位置する関ケ原町は、中世鎌倉時代の書かれた紀行文の十六夜日記では、都から徒歩で2日の場所にある。  町区域は、
西に伊吹山を控えた丘陵地で、中央の狭い平野が都と東国を結ぶ交通要路となっている。

東関紀行
では、音をたてて流れる藤古川と松が時雨の降るような音を出す中、日差しが見えないような森の中の道を心細く歩いている心情が
書き留められている。

十六夜日記
は不破関から時雨以上に降る雨の中、道がぬかるみ歩行に苦労した様子が書かれている
 十六夜日記の記述
 
十八日 美濃の国、関の藤川渡るほどに、まず思い続けける
    我ことも 君につかえんためならで 渡らましやは関の藤川
 不破の関やの板寂しさは、今もかはらざりけり
    ひまおほき 不破の関屋は この程の 時雨も月もいかにもる覧
     
近江・美濃国境寝物語<滋賀県・岐阜県>
中央の小さな溝が国境である。
この地に伝わる寝物語の由来は美濃と近江の国境を挟んで建つ
旅籠屋があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝
物語の話が生まれたという。
道の反対側にある石碑の由来書によると、平治の乱(1159)に敗
れ追走の義朝を追ってきた常盤御前が夜ふけに 隣の宿の話声
から家来の江田行義と気づき寄寓を喜んだ所とか、義経が兄頼朝と
不和になり、奥州藤原秀衡を頼って東に下るが、追ってきた静御前
が義経の家来源蔵と巡り合った所とも伝わるとしている。

  車返しの坂<関ヶ原町山中>
南北朝のころ、不破の関屋が荒れ果てて板庇から漏れる月の光が
面白いと聞き、公家の九条良基央がわざわざ都からやってきた。
ところが、この坂道まで来たところ、関屋守の者どもは屋根が荒れ
果てた様をお見せするのはお恐れ多いと葺き替えた由を聞き、破屋
からみるのも一興なのに葺き替えてしまっては興無しと、歌を詠み
京に引き返したことから地名になったと伝えている

  
ふきかえて月こそもらぬ板ひさし
    とくすみあらせ不破の関守

       <美濃国雑事記・木曾路名所図会>
  
   
常盤御前の墓<関ヶ原町山中>
墓前に設置の案内版によると
都一の美女と言われ、16歳で義朝の愛妾となり、今若丸、乙
若丸、牛若丸の三兄弟を母となる。 義朝が平治の乱で敗れ、
知多野間で憤死すると三児を救うため、清盛の愛妾となるも捨
てられる。 東国に下った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を
追ってきた常盤は、山中で盗賊に襲われ、ここで生涯を終えた。
哀れに思った山中の里人が、ここに塚を作り葬ったと伝える。
常盤の墓は左奥という
 
  鶯の滝<関ヶ原町山中>
中世鎌倉室町時代の山中村は旅人も泊まる宿駅であった。
(近世江戸時代は中山道の関ヶ原宿と今須宿の間の村として
人足が駕籠や馬を停めて休憩した立場や酒屋・古着屋が軒を
連ねて栄えていた)
この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好
の場所であった。
滝の高さは約5m、水量豊かで冷気立ちこめ年中鶯の鳴く平坦
地の滝として街道の名所になっていた
     
自害峯の三本杉<関ヶ原町松尾>
壬申の乱で大海人皇子に追い詰められた大友皇子は、大津で
自害しました。 大友皇子の御首は、首実検の後に地元の人々が
貰い受け、この丘に葬られた。
その場所の目印として、この地に三本杉を植え、「自害峯」と称した

 

  黒血川<関ヶ原町松尾>
この川を挟んで、川の東側に大海人軍、西側に大友軍が陣取り、
激戦を繰り広げ、大海人皇子軍が勝利した。 川幅は中小河川
の規模であるが、約10mの深い渓流で要の地である。 特に
濃尾平野及び東国を連絡する道の関ヶ原(不破)が重要拠点で
あった。 元の名前は、山中川と呼ばれていたが、壬申の乱で
両軍の兵士の流血川底を黒く染めたので、「黒血川」の名がついた
     
箭先地蔵堂及び矢尻の池(井)<関ヶ原町松尾>
壬申の乱のおり、大友皇子の兵士が水を求めて矢尻で掘った
と伝えられる窪みがある。
隣の地蔵堂にはこの地で出土した地蔵と自害峯の地蔵が合祀
されている。
東山道及び中山道が右手山中から直進し、この地蔵堂を右の
曲がり、名所関の藤川、不破の関跡に向かう







  関の藤川(藤古川<関ヶ原町松尾>
不破の関跡の段丘西側に流れる藤古川。 ここでも壬申の乱の
戦が展開された。 春は桜、夏は川辺を飛び交う蛍の名所である

<十六夜日記>
 十八日 美濃の国、関の藤川渡るほどに、まず思い続ける
  わが子ども君に仕(つか)えんためならで  渡らましやは
  関の藤川                 阿仏尼
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
私の子供達が(歌道をもって)帝に仕えるためでなかったら、こう
して関の藤川を渡って東国に向かうことがあろうか。
 (注)
 阿仏尼の子・藤原為相(ためすけ)は和歌の家・御子左 
(みこひだり)家・冷泉家の創設者となる。
 
     
元関の藤川名所か? <関ヶ原町松尾>
新幹線と名神高速道路の間の藤古川である。 手前に橋があり、
蛍自生地の案内版がある。 前方の山は伊吹山である。 この
地域は昭和57年に土地改良事業が行われており、河川護岸も
コンクリート作りであるが、左の道は阿仏尼等中世の旅人が歩いた
鎌倉街道と推定しており、本来の藤川名所は、ここであると思
う。
(平成26年1月15日撮影)





  不破関跡<関ヶ原町松尾>
不破の道を塞ぎ、壬申の乱に勝利した天武天皇は不破道の重
要性から、この地に関所を設けた。 不破関は、鈴鹿関(伊勢国)
愛発(あらち・越前国)関と並んで古代三関(さんげん・さんかん)
の一つであった。 規模は、北限土塁が460m、東限土塁が432m、
南限土塁が112mの中に東山道が通り、築地塀で囲まれた約1町
(108m)の内郭があった。
関には、美濃国府(垂井町府中)の役人が分番守護し、多くの兵士
が配置されて国家の非常事態の備え、また一般の通行を取り締
まった。 延暦8年(789)7月14日、三関は突如として停廃された。
  ・・・出典:関ヶ原町立不破関資料館パンフ

律令制の関が停廃された後、鎌倉時代に東山道を通る人貨から
関銭を徴収する不破関が史料上に見られる。 画像は関銭を徴
収した関守の屋敷跡である。 (平成30年2月9日撮影)
<十六夜日記>
  不破の関屋の板庇は、今も変らざりけりひま多き
  不破の関屋はこの程の時雨も月もいかにもるらん

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)

 鎌倉初期にすでに「人住まね・・・荒れにして後は ただ秋の風」
(新古今・雑中・藤原良経)と詠まれていた
 
     
兜掛石と沓脱石<関ヶ原町松尾>
壬申の乱のおり大海人皇子が兜を脱いで掛けたといわれる
「兜掛石」、その左手には、沓を脱いだ時に足を掛けられたと
伝えられる「沓脱石」が今も残る。
場所は、関跡に設置された町立不破関資料館から東へ徒歩
数分の民家と畑が混在する中にある。分かりにくいが、小さな
案内版があるので注意深く探すとよい



  十九女(つづら)池<関ヶ原町関ヶ原十九女池>
鎌倉古道は自害峯から黒血川に沿って関ヶ原インター付近に
東南に進み、インターから東北に転進、十九女池南及び桃配
山に到る行程を推定している。 池周辺が公園として整備されて
おり、案内版には昔宿東町地内を夜になると笛を吹いて歩く美
女が、お椀を借りに民家を訪ねてきた。 返しにきた椀は必ず魚
の匂いがしたので「あの女は十九女池の大蛇だ」との噂に古老が
椀の底に糸をつけた針を刺し、その後をつけさせると池の畔で見
失い、以後再び椀を借りに来なくなり、池から立ち去ったという
     
桃配(ももくばり)<関ヶ原町野上>
関ヶ原の町中から国道21号線を東に約1キロ進んだドライブ
インやガソリンスタンドが集まる一角にある。
小山には、関ヶ原合戦の徳川家康最初陣地として葵紋の幟が
並んでいる。 小山の登坂口案内版に壬申の乱の時、大海人
皇子が献上の山桃を縁起が良いと喜び、兵士に命を守る魔よけ
の桃として配り、連戦連勝、ついに大勝を果たした。 徳川家康も、
この快勝の話にあやかって、桃配山に陣をしき、一日で天下を
とったという
  鶏籠山(けいろうざん)真念寺と野上長者屋敷跡
<関ヶ原町野上>
国道21号線野上交差点の南側に位置する室町時代寛正年間
(1460~1446)開山の浄土真宗の寺院。参道正面に斑女の観音
堂が見える

国道の反対側、中山道との間に、野上長者屋敷跡がある

     
斑女(はんじょ)の観音堂<関ヶ原町野上>
野上の宿の女花子が、旅の途中で立ち寄った吉田少将契るが
少将の去った後、忘れられず、形見に取り交わした扇をもって
尋ね歩いた末、その扇が縁で再会するという話を主題にしたのが、
謡曲「斑女(はんじょ)」である。
曲名の斑女は、漢の武帝の寵姫だったが、その愛を失ったのを
“秋の扇"にたとえたことに由来する。
花子は病死した我が子梅若丸の供養のため野上の観音山に
観音像を祀ったといわれ、その像は鶏籠山真念寺に安置されて
いる
  野上行宮(あんぐう)<関ヶ原町野上>
真念寺北野上交差点の直ぐ東の舗装道路を南進すると新幹線
高架下、その先に墓地があり、その奥に野上行宮跡の案内版が
ある。
壬申の乱において、大海人皇子は野上の長者屋敷の小高い小
平地に行宮を興して本宮とした。 高燥にて眺望が良い場所が
理由という
 
関ヶ原合戦と敵中突破<島津の退き口(のきぐち)> 
慶長五年(1600)九月十五日、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が関ヶ原盆地で激突した。  午前八時、東軍の先鋒福島正則隊を出し
抜いて井伊直政隊が発砲し、決戦の火蓋が切られた。 地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の陣形をとった西軍が有利な戦いであったが
一進一退の攻防が続いたが、午後に入り大きく動いた。 西軍の有力な大名、小早川秀秋が裏切って味方の西軍を攻撃した。 これに続き、西軍を
裏切る武将が続出し、西軍は総崩れとなった。 石田三成始め多くの武将が戦場から逃げ出した。 
その結果、300人余りに減っていた島津隊だけが、数万の的のまっただ中に取り残されてしまった。
島津義弘は、家康本陣に突入して討ち死にしようとしたが、豊久等に諫められて帰国を決意、陣中脱出を開始した。
家康本陣前を通過する際、義弘は家康のもとに使者を遣わし、これから薩摩へ帰国すること、、帰国してから謝罪することを告げたという。
陣中を突破して戦場を離脱した島津隊だったが、井伊直政、松平忠吉隊の追撃が激しく、先陣の豊久が取って返して殿(しんがり)を務めた。
この戦いで東軍の厳しい追撃を食い止める、島津隊の豊久や長寿院盛淳らは、苛烈な「捨て奸(すてがまり)」*で応戦した。 
9月29日、日向(宮崎県)細島に戻ることができたが、当初の島津隊 1500名が、わずか60名ほどであったと言われる。
   *「捨て奸」・・・退却する途中で小部隊を留め置き、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めし、本隊を逃がす壮絶な戦法。 座禅陣ともいう。
出典:島津の退き口<平成31年2月 大垣市発行>、関ヶ原合戦と島津の退き口<大垣観光協会発行パンフレット>
     
関ヶ原合戦布陣図<関ヶ原町大字関ヶ原>
出典:関ヶ原七武将ウォーキングガイドマップ(岐阜県観光企画課)
  島津の退き口戦況図 出典:<大垣観光協会発行パンフレット>
島津隊は、図中③の記号の下にいる徳川家康本陣横をかすめ、伊勢
街道を南下した。
     
島津義弘陣跡 <関ヶ原町大字関ヶ原>
上の布陣図左上の北国街道を挟んで島津義弘隊と島津豊久
隊が布陣した。 伊勢街道西の神明社隣に義弘陣跡が整備
されている。
  石田三成陣跡(笹尾山) <関ヶ原町大字関ヶ原>
布陣図左上の笹尾山の三成陣跡。 山裾に馬防柵が整備されて
いるが、山頂への階段程度しか見当たらない
     
決戦地 <関ヶ原町大字関ヶ原>
東西陣地の中間に整備された決戦地碑と両陣営の幟
雰囲気は戦国ムードであるが、周囲は一面の田である。
近くに農業用水施設の説明版があり、水が不足していた場所
という。 合戦時は、山裾の原野状態であったと思われる。
  徳川家康最期陣地<関ヶ原町大字関ヶ原>
合戦当日は最初陣地の桃配山に布陣していたが、戦況が把握
できないため、午前11時頃、石田三成本陣から数百メートルの
この地に本陣を移し、全軍の指揮にあたった。
大勝後、徳川家康は正面の松の奥で床几に腰掛け、味方が討ち
取ってきた敵将を自ら首実検した。 床几場(しょうぎば)と呼ば
れた。 首実検した遺骸は、首塚を作り葬られた。 関ヶ原駅周辺に
東・西二つの首塚が残されている。
     
鳥頭坂(うとうさか) <大垣市上石津町牧田>
東軍の本陣を突破た島津隊であるが、井伊直政、松平忠吉隊
の追撃が激しく、先陣の豊久が取って返して殿(しんがり)を務め
た。 激しい戦いの結果、当地で豊久が討ち死にした説もあるが、
詳細は不明である。
  薩摩ベンチ
岐阜県と鹿児島県は、薩摩藩による木曽三川の宝暦治水が縁で
昭和46年に全国初となる姉妹県盟約を結び、様々な交流を行って
いる。 鹿児島県では、官民が連携して鹿児島城(鶴丸城)の御
楼門復元の取組みが進められている中、岐阜県において「鹿児島
県との友好の証プロジェクト実行委員会」を設立し、御楼門の大扉
用の岐阜県産ケヤキを贈呈した。 平成29年10月にケヤキの贈呈
式を行い、古田岐阜県知事と三田薗鹿児島県知事が、左の豊久公
の碑を参られた。 そのおり、地域の方が碑を大切にされていること
を受けて、鹿児島県産クスノキのベンチを制作、寄贈された。
     
島津塚(島津豊久の墓)<大垣市上石津町上多良>
上多良公民館近くにある「島津豊久公の墓」入口。 鳥頭坂等
で負傷した豊久は、当地の白拍子谷で自刃し、埋葬されたと
伝わる。 直ぐ奥に、豊久の五輪塔が祀られている。
  瑠璃光(るりこう)寺<大垣市上石津町上多良>
上多良公民館・島津塚近くにある瑠璃光寺。奥の山門横の石碑に
「島津豊久公菩提所」と刻まれ、豊久公の位牌や経緯を刻まれて
梵鐘がある。


 岐阜県垂井町の鎌倉古道(街道)推定図 
 
垂井(たるい)町は、関ヶ原町の東隣にあるが、相川が流れ、大垣市の西北部となる青野が原と続く人が住みやすい環境の土地である。 この
ことから東山道(鎌倉街道)で不破を通り垂井に入ると、美濃国府跡、美濃国分尼寺跡、美濃国分寺跡(大垣市青野町)が立地しており、西濃
地区の歴史的役割が高かったことになる。
垂井町の南に金山彦命(かなやまひこみこと)を祀る南宮大社が、日本で唯一の鉱山、金属業の神様として深い崇敬を集めている。 そして、
伊吹山(息吹山)、日守(火守)の地名からも、西濃地区の製鉄の歴史を伺うことができる。 先の国府等国規模の建造物の集中、隣の大垣市
青墓町を中心とした大型古墳の存在、壬申の乱の美濃勢を味方にした大海人皇子の勝利等興味をそそる地区である

十六夜日記及び東関紀行とも垂井町における記述は特にない
     
垂井の泉<不破郡垂井町>
岐阜県の名水百選に選ばれた由緒ある泉で、幹まわり8メートルの
大ケヤキの根元から湧き出る湧水は名物であった。 古くから和歌
に詠まれ、「垂井」
の地名はここから生まれたといわれる。
残念なことに、数年前にケヤキは倒木し、現在は見ることができ
ない。 なお、後方の建物は、専積寺で境内に垂井城趾碑がある。 
その先は21号線に面している高台の地である。 「古代の道」等の
専門家の意見は、律令制の「不破駅屋」(乗り継ぎ馬の交代拠点)
の可能性が高いとしている。
  垂井曳山まつり<子ども歌舞伎>
660年以上の歴史がある八重垣神社の例大祭・「垂井曳山まつり」
が毎年5月上旬行われる。 町内3地区の「ヤマ」(車偏に右に山)
三両が中山道垂井宿を巡行し、地元小学生による「子ども歌舞伎」
が熱演される。 写真は演目「鎌倉三代記」を熱演の役者さん。
   
南宮大社<垂井町宮代>
南宮大社のホームページにある由緒は
社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄を輔(たす)けて大いに
霊験を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られた。  後に十代
崇神(すじん)天皇の御代に、現在地に奉還され、古くは仲山金山
彦神社として申し上げたが、国府から南方に位する故に南宮大社と
云われる様になったと伝えます。
金山彦命(かなやまひこのみこと)を主祭神に、美濃一宮として、
また全国の鉱山、金属業の総本宮として崇敬を集めている。
現在の建物は、関ヶ原合戦の兵火によって焼失したものを、美濃
出身の春日の局の願いにより三代将軍徳川家光が再建した。
朱塗りの本殿、拝殿、楼門などが国の重要文化財に指定されて
いる





  金山(かなやま)祭<垂井町宮代>
南宮大社のホームページによると
 通称「鞴(ふいご)祭り」と呼ばれ、地元の野鍛冶(農具などの鍛冶
屋さん)の奉仕で、古式ゆかしい鍛錬式が行われる。
<平成25年11月8日見学>
 この祭りは、祭神が府中の地から現在の南宮山の麓の地へ移った
日に由来する鎮座祭。 その日は、社伝によれば、11月9日にあたる。
八日に行う金山祭は前夜祭あるいは神迎えの神事と考えられる

 
鍛錬式は高舞殿傍で行われる。午前10時半、神職のほか烏帽子に
直垂姿の野鍛冶(奉行という)、楽人などがそろい、清めのお祓いの
あと宮司が火打石で点火する所作をする。 炉は前もって鞴で火が
おこしてあるが、奉行が木製の鞴を操り火加減を操作し、慎重に熱し
具合を確認し、炉からオレンジ色に焼けた鋼を取り出して鉄床に
のせる。 その鋼を奉行三人が「トンテンカン、トンテンカン」と槌音も
高く鍛錬する。 数回の焼き入れを経て、約三十分後、多数の参拝
者が見守るなかで小刀ができあがり、神職が受け取った後、三宝に
載せて神前に奉奠される
     
伊富岐(いぶき)神社<垂井町伊吹>
境内の由緒案内によると、古代、当伊富岐山麓の豪族の伊福氏
の祖先神を祀り美濃二の宮とされる。 左手に岐阜県指定天然記
念物の杉がある。 根本の太さ 9.6m、高さ約30mの巨木である。
参考としている「平安鎌倉古道」では、伊吹山の「イフキ」「イフク」
は息を吹くの意味で、「ふいご」つまり、送風のことであり、かかる
職業的部民を司る神が「伊富岐神社=伊吹神社」であるとしている。
したがって、「伊富岐神社」は古代の製鉄、製錬の神で日守地名も
同系で「火守」としている
  日守(ひもり)屋敷跡及び尾張宿彌屋敷跡 <垂井町宮代>
国道21号新日守交差点南にある不破の関病院の奥、新幹線沿いに
壬申の乱で大海人皇子に味方した尾張宿彌大隈の屋敷跡、及び日守
西交差点から南進した地域に鍛冶遺跡及び新幹線南に日守屋敷跡
(写真)があったといわれるが、走破不可能であった


 
     
不帰(かえらず)の里<垂井町岩手>
我が国における製鉄技術は、6世紀頃に朝鮮半島からの渡来工
人の技術によってもたらされた説があり、私見ですが、渡来工人が
二度と帰らない覚悟を地名にしたのではと推測する

鎌倉街道は、不破の関病院西から東北に進んでいるが、東海道
本線に阻まれ進行不可能である。 行き止まり場所が関ヶ原町と
垂井町の境である。 日守西交差点少し東にある跨線橋を渡り、
東海道本線沿いに西に戻ると、一面の茶畑で「不帰茶」の看板が
見える。  茶畑の中の道は下り坂になっており、やがて水田地帯
に到る。 左に水田に水を補給する戸海池がある
  戸海池から漆原までの街道<垂井町岩手>
戸海池を北進し、相川を渡り、徳法寺、漆原と進むことになるが、
相川の下流に新戸海橋があるので、相川沿いに右折し、橋を渡る。
左折後、徳法寺、漆原交差点を過ぎると写真の道標に出会う。 道標
を右折し、直進すると、多度神社、直ぐに大石川を渡ると、右前方に
北中学校が見える
   
南宮御旅神社<垂井町府中>
古来、南宮大社が当地にあったと伝わる。
この伝承から毎年5月5日に南宮大社の大祭が行われ、祭神が
神輿に載って御旅神社にお帰りになる神輿渡御式が行われる






  国史跡美濃国府跡<垂井町府中>
大化の改新(645)が始まり、律令政治が進められた。 そして奈良
平安時代に国ごとに国府がつくられ、美濃では8世紀前葉に垂井町
府中地区に造営され、約2百年続いた。
平成3年から発掘調査が行われ、その結果、東西約67m、南北
約73mの長方形で、上の復元図のように中央に正殿、両脇に南北
に長い脇殿があった概要が判明した。 正殿の位置は、御旅神社の
本殿にあたり、古代、南宮大社が安置されていた場所ということに
なる。 ・・・町設置案内版より引用
 
     
願證(がんしょう)<垂井町平尾>
蓮如の六男蓮淳が建立の寺院。
信長に焼かれ、江戸時代に再建された。以来、「平尾御坊」として
西濃の中心道場として栄えた。


  美濃国分尼寺跡<垂井町平尾>
願證寺境内の南通用門の傍に美濃国分尼寺跡推定地の碑がある。
天塀3年(741)、聖武天皇は全国に国分寺をつくらせた。
美濃では、国分寺を大垣市青墓町に、国分尼寺は平尾に建てたと
推定される
。 東西250m、南北200mの規模といわれる 
     
平尾神社<垂井町平尾>
願證寺の北、写真の左に道路が見える県道岐阜関ヶ原線の直ぐ
北側に平尾神社がある。 少し小高い位置に本殿があり、手前
には大垣市の青野町の水田地帯が広がる

  平尾神社・風越峠・円興寺前
<垂井町平尾から大垣市青野町、青墓町>

二の鳥居前から北進する街道の遺構が見えるが、確認した結果、
途中で行きどまりとなっており通行不可能であった。
薪採取等山の手入れが行われなくなり、道が荒れて危険なため
通行止めにしたようである
 
     
竹中半兵衛陣屋跡<垂井町岩手>
冨岐神社の北に豊臣秀吉の軍師として仕えた竹中半兵衛重治
の陣屋跡がある。 場所は、県道岐阜・関ヶ原線の長畑交差点
から約1キロの位置にある。
なお、秀吉に共に仕えた黒田官兵衛は摂津攻めの際、降服の
説得にあたり幽閉され、謀反と疑われ信長に殺害を命じれた。
竹中半兵衛は官兵衛を信じ、息子松寿丸(後の黒田長政)を里
(五明)に匿い、官兵衛救出後、許され去る時に植えたとされる
大銀杏が長畑交差点近くの五明稲荷神社にある

「垂井町街角案内の会」は、無料で町内の観光案内を行っている。
事前に相談することをお勧めしたい。
  電話 0584-22-1151 (垂井町役場産業課内)
また垂井駅前の垂井町観光案内所は、パンフレット等観光情報の
発信、レンタルサイクルの貸出等を行っている。
  電話 0584-23-2020(垂井町観光案内所)
  五明稲荷神社の大銀杏<垂井町岩手>
織田信長の中国平定戦の最中、有岡城(伊丹市)の城主:荒木
村重が謀反をおこしたとの報に黒田官兵衛が説得に赴くが、逆に
捕えられ石牢に幽閉された。
信長は戻ってこない官兵衛を謀反に一味に加わったものと早合点し、
人質の松寿丸の首をはねるように秀吉に命じた。 秀吉が半兵衛
に相談すると「決して裏切るような人物ではない。 きっと何かの
間違い」と松寿丸を預かり、家老の不破矢足に命じ、密かに不破の
屋敷に匿った。
一年後、有岡城が陥落し救出された官兵衛は半兵衛に深く深く感謝
したという。
この大銀杏の木は、松寿丸が岩手を離れるに際し、植えたと伝わる

数年前、枯れたため根元の新芽を残し、伐採された。