第2章.岐阜県の鎌倉街道について
下の略地図は岐阜県及び愛知県西部の鎌倉街道推定線を示したものである。 江戸時代に整備された中山道や美濃路と比較すると蛇行したり
上(山側)に寄っている特徴がわかる。 現地を歩いても、走行不便な山裾であり、水害等を避けた結果としか言いようがなかった。 他人に
うまく説明できない、もどかしさを感じていた。
今回、鎌倉街道を全面的に見直し、手持ちの資料を精読したところ、次の記述が最適と思われるのでご紹介したい。
西濃歴史街道地図(2001.4大垣市発行)に「東山道と等高線」といタイトルで次の内容が記述されている。 西濃地区は大小河川が流れており、
古代、整備できない時代には比較的水量の少ない北寄りの地帯を選ぶ必要があった。 これを等高線と比較してみると、湧水地帯の多い海抜10
m付近を中山道、海抜15m付近を東山道(大垣以西は鎌倉街道)が整備されたと思われる。 雨の多い時、ここより標高の低い地域は水が吸収
されずに泥地や水流に変化し、東山道はその道筋を避けたと思われる。 
この推察は、丘陵地帯を通る愛知県内三河地区の鎌倉街道においても当てはまると思われる 
 
 岐阜県関ケ原町の鎌倉街道
 
紀行文の関ヶ原町 
岐阜県の西端に位置する関ケ原町は、十六夜日記では、都から徒歩で2日の場所にある。  町区域は、西に伊吹山を控えた丘陵地で、中央の
狭い平野が都と東国を結ぶ交通要路となっている。

東関紀行
音をたてて流れる藤古川と松が時雨の降るような音を出す中、日差しが見えないような森の中の道を心細く歩いている心情が書き留められている。
十六夜日記

不破関から時雨以上に降る雨の中、道がぬかるみ歩行に苦労した様子が書かれている
     
車返しの坂<関ヶ原町山中>
南北朝のころ、不破の関屋が荒れ果てて板庇から漏れる月の光が
面白いと聞き、公家の九条良基央がわざわざ都からやってきた。
ところが、この坂道まで来たところ、関屋守の者どもは屋根が荒れ
果てた様をお見せするのはお恐れ多いと葺き替えた由を聞き、破屋
からみるのも一興なのに葺き替えてしまっては興無しと、歌を詠み
京に引き返したことから地名になったと伝えている

  
ふきかえて月こそもらぬ板ひさし
    とくすみあらせ不破の関守

       <美濃国雑事記・木曾路名所図会>
  
  常盤御前の墓<関ヶ原町山中>
墓前に設置の案内版によると
都一の美女と言われ、16歳で義朝の愛妾となり、今若丸、乙若丸、
牛若丸三兄弟の母となる。 義朝が平治の乱で敗れ、知多野間で
憤死すると三児を救うため、清盛の愛妾となるも捨てられる。 東国に
下った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追ってきた常盤は、山
中で盗賊に襲われ、ここで生涯を終えた。 哀れに思った山中の里人
が、ここに塚を作り葬ったと伝える。 常盤の墓は左奥という 
   
鶯の滝<関ヶ原町山中>
中世鎌倉室町時代の山中村は旅人も泊まる宿駅であった。
(近世江戸時代は中山道の関ヶ原宿と今須宿の間の村として
人足が駕籠や馬を停めて休憩した立場や酒屋・古着屋が軒を
連ねて栄えていた) この滝は、今須峠を上り下りする旅人の心を癒
してくれる格好の場所であった。 滝の高さは約5m、水量豊かで
冷気立ちこめ年中鶯の鳴く平坦地の滝として街道の名所になっていた
  自害峯の三本杉<関ヶ原町松尾>
壬申の乱で大海人皇子に追い詰められた大友皇子は、大津で自害
した。 大友皇子の御首は、首実検の後に地元の人々が貰い受け、
この丘に葬られた。
その場所の目印として、この地に三本杉を植え、「自害峯」と称した

 
     
黒血川<関ヶ原町松尾>
この川を挟んで、川の東側に大海人軍、西側に大友軍が陣取り、激戦
を繰り広げ、大海人皇子軍が勝利した。 中小河川であるが、約10m
の深い渓流で要の地である。 特に濃尾平野及び東国を連絡する道の
関ヶ原(不破)が重要拠点であった。 元の名前は、山中川と呼ばれて
いたが、壬申の乱で両軍の兵士の流血川底を黒く染めたので、「黒血
川」の名がついた


  箭先地蔵堂及び矢尻の池(井)<関ヶ原町松尾>
壬申の乱のおり、大友皇子の兵士が水を求めて矢尻で掘ったと伝え
られる窪みがある。 隣の地蔵堂にはこの地で出土した地蔵と自害峯
の地蔵が合祀されている。 東山道及び中山道が右手山中から直進し、
この地蔵堂を右の曲がり、名所関の藤川、不破の関跡に向かう
     
関の藤川(藤古川)<関ヶ原町松尾>
不破の関跡の段丘西側に流れる藤古川。 ここでも壬申の乱の
戦が展開された。 春は桜、夏は川辺を飛び交う蛍の名所である
  元関の藤川名所か? <関ヶ原町松尾>
新幹線と名神高速道路の間の藤古川である。 手前に橋があり、
蛍自生地の案内版がある。 前方の山は伊吹山である。 この
地域は昭和57年に土地改良事業が行われており、河川護岸も
コンクリート作りであるが、左の道は阿仏尼等中世の旅人が歩いた
鎌倉街道と推定しており、本来の藤川名所は、ここであると思
う。
(平成26年1月15日撮影)  
    <十六夜日記>美濃路ー藤川より洲俣川まで(1)
 
十八日、美濃国、関の藤川(ふじかわ)渡る程(ほど)に、まづ
 思ひ続けらる。
   <我が子ども君に仕へんためならば
         渡らましやは関の藤川>

 不破の関屋
(せきや)の板庇(いたひさし)は、今も変らざりけり。
 <ひま多き不破の関屋はこの程(ほど)の時雨れも
       月もいかにもるらん>
 
不破関跡<関ヶ原町松尾>
不破の道を塞ぎ、壬申の乱に勝利した天武天皇は不破道の重要性
から、この地に関所を設けた。 不破関は、鈴鹿関(伊勢国)愛発
(あらち・越前国)関と並んで古代三関(さんげん・さんかん)の一つで
あった。 規模は、北限土塁が460m、東限土塁が432m、南限土塁が
112mの中に東山道が通り、築地塀で囲まれた約1町(108m)の内郭が
あった。 関には、美濃国府(垂井町府中)の役人が分番守護し、多くの
兵士が配置されて国家の非常事態の備え、また一般の通行を取り締
まった。 延暦8年(789)7月14日、三関は突如として停廃された。
  ・・・出典:関ヶ原町立不破関資料館パンフ

律令制の関が停廃された後、鎌倉時代に東山道を通る人貨から関銭を
徴収する不破関が史料上に見られる。 画像は関銭を徴収した関守の
屋敷跡である。 (平成30年2月9日撮影)
  <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 十八日、美濃国の関の藤川を渉る折、まず心に浮かんだ歌。
 <子らの廷臣としての前途のためだけなら、関の藤川など渡りは
   しなかっただろうに。 夫の遺志をつぐため、御子左家
(みこひだりけ)
   
に縁深いこの地まで図らずも来たことだ>
 不破の関屋の板庇は「荒れにしのちは」という古歌の有様に今も変わら
 ないようだ。
  <庇の隙間の多い不破の関屋は、この頃の季節に、時雨も月も、
   どんなにか洩ることだろう>

(注) 阿仏尼の子・藤原為相(ためすけ)は和歌の家・御子左(みこひだり)
    ・冷泉家の創設者となる。
 
     
兜掛石と沓脱石<関ヶ原町松尾>
壬申の乱のおり大海人皇子が兜を脱いで掛けたといわれる「兜掛石」、
その左手には、沓を脱いだ時に足を掛けられたと伝えられる「沓脱
石」が今も残る。
場所は、関跡に設置された町立不破関資料館から東へ徒歩数分の
民家と畑が混在する中にある。分かりにくいが、小さな案内版がある
ので注意深く探すとよい
 
   
     
十九女(つづら)<関ヶ原町関ヶ原十九女池>
鎌倉古道は自害峯から黒血川に沿って関ヶ原インター付近に東南に
進み、インターから東北に転進、十九女池南及び桃配山に到る行程を
推定している。 池周辺が公園として整備されており、案内版には昔
宿東町地内を夜になると笛を吹いて歩く美女が、お椀を借りに民家を
訪ねてきた。 返しにきた椀は必ず魚の匂いがしたので「あの女は十九
女池の大蛇だ」との噂に古老が椀の底に糸をつけた針を刺し、その後
をつけさせると池の畔で見失い、以後再び椀を借りに来なくなり、池から
立ち去ったという
  桃配(ももくばり)<関ヶ原町野上>
関ヶ原の町中から国道21号線を東に約1キロ進んだドライブインや
ガソリンスタンドが集まる一角にある。 小山には、関ヶ原合戦の
徳川家康最初陣地として葵紋の幟が並んでいる。 小山の登坂口
案内版に壬申の乱の時、大海人皇子が献上の山桃を縁起が良いと
喜び、兵士に命を守る魔よけの桃として配り、連戦連勝、ついに大勝を
果たした。 徳川家康も、この快勝の話にあやかって、桃配山に陣を
しき、一日で天下をとったという
     
鶏籠山(けいろうざん)真念寺と野上長者屋敷跡
<関ヶ原町野上>
国道21号線野上交差点の南側に位置する室町時代寛正年間
(1460~1446)開山の浄土真宗の寺院。参道正面に斑女の観音堂が
見える

国道の反対側、中山道との間に、野上長者屋敷跡がある
  野上行宮(あんぐう)<関ヶ原町野上>
真念寺北野上交差点の直ぐ東の舗装道路を南進すると新幹線高架下、
その先に墓地があり、その奥に野上行宮跡の案内版がある。
壬申の乱において、大海人皇子は野上の長者屋敷の小高い小平地に
行宮を興して本宮とした。 高燥にて眺望が良い場所が理由という
 
     斑女(はんじょ)の観音堂<関ヶ原町野上>
野上の宿の女花子が、旅の途中で立ち寄った吉田少将契るが少将
の去った後、忘れられず、形見に取り交わした扇をもって尋ね歩いた
末、その扇が縁で再会するという話を主題にしたのが、謡曲「斑女
(はんじょ)」である。
曲名の斑女は、漢の武帝の寵姫だったが、その愛を失ったのを
“秋の扇"にたとえたことに由来する。 花子は病死した我が子梅若
丸の供養のため野上の観音山に観音像を祀ったといわれ、その像は
鶏籠山真念寺に安置されている
関ヶ原合戦と敵中突破<島津の退き口(のきぐち) 
慶長五年(1600)九月十五日、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が関ヶ原盆地で激突した。  午前八時、東軍の先鋒福島正則隊を出し
抜いて井伊直政隊が発砲し、決戦の火蓋が切られた。 地形を利用して東軍を誘い込み、包囲攻撃の陣形をとった西軍が有利な戦いであったが
一進一退の攻防が続いたが、午後に入り大きく動いた。 西軍の有力な大名、小早川秀秋が裏切って味方の西軍を攻撃した。 これに続き、西軍を
裏切る武将が続出し、西軍は総崩れとなった。 石田三成始め多くの武将が戦場から逃げ出した。 
その結果、3000人余りに減っていた島津隊だけが、数万の的のまっただ中に取り残されてしまった。
島津義弘は、家康本陣に突入して討ち死にしようとしたが、豊久等に諫められて帰国を決意、陣中脱出を開始した。
家康本陣前を通過する際、義弘は家康のもとに使者を遣わし、これから薩摩へ帰国すること、、帰国してから謝罪することを告げたという。
陣中を突破して戦場を離脱した島津隊だったが、井伊直政、松平忠吉隊の追撃が激しく、先陣の豊久が取って返して殿(しんがり)を務めた。
この戦いで東軍の厳しい追撃を食い止める、島津隊の豊久や長寿院盛淳らは、苛烈な「捨て奸(すてがまり)」*で応戦した。 
9月29日、日向(宮崎県)細島に戻ることができたが、当初の島津隊 1500名が、わずか60名ほどであったと言われる。
   *「捨て奸」・・・退却する途中で小部隊を留め置き、追ってくる敵と死ぬまで戦って足止めし、本隊を逃がす壮絶な戦法。 座禅陣ともいう。
出典:島津の退き口<平成31年2月 大垣市発行>、関ヶ原合戦と島津の退き口<大垣観光協会発行パンフレット>
     
関ヶ原合戦布陣図<関ヶ原町大字関ヶ原>
出典:関ヶ原七武将ウォーキングガイドマップ(岐阜県観光企画課)
  島津の退き口戦況図 出典:<大垣観光協会発行パンフレット>
島津隊は、図中③の記号の下にいる徳川家康本陣横をかすめ、伊勢
街道を南下した。
     
島津義弘陣跡 <関ヶ原町大字関ヶ原>
上の布陣図左上の北国街道を挟んで島津義弘隊と島津豊久隊が
布陣した。 伊勢街道西の神明社隣に義弘陣跡が整備されている。
  石田三成陣跡(笹尾山) <関ヶ原町大字関ヶ原>
布陣図左上の笹尾山の三成陣跡。 山裾に馬防柵が整備されているが、
山頂への階段程度しか見当たらない
     
決戦地 <関ヶ原町大字関ヶ原>
東西陣地の中間に整備された決戦地碑と両陣営の幟
雰囲気は戦国ムードであるが、周囲は一面の田である。
近くに農業用水施設の説明版があり、水が不足していた場所
という。 合戦時は、山裾の原野状態であったと思われる。
  徳川家康最期陣地<関ヶ原町大字関ヶ原>
合戦当日は最初陣地の桃配山に布陣していたが、戦況が把握でき
ないため、午前11時頃、石田三成本陣から数百メートルのこの地に
本陣を移し、全軍の指揮にあたった。
大勝後、徳川家康は正面の松の奥で床几に腰掛け、味方が討ち取って
きた敵将を自ら首実検した。 床几場(しょうぎば)と呼ばれた。 首実検
した遺骸は、首塚を作り葬られた。 関ヶ原駅周辺に東・西二つの首塚が
残されている。
     
島津塚(島津豊久の墓)<大垣市上石津町上多良>
上多良公民館近くにある「島津豊久公の墓」入口。 鳥頭坂等で
負傷した豊久は、当地の白拍子谷で自刃し、埋葬されたと伝わる。 
直ぐ奥に、豊久の五輪塔が祀られている。
  瑠璃光(るりこう)<大垣市上石津町上多良>
上多良公民館・島津塚近くにある瑠璃光寺。 奥の山門横の石碑に
「島津豊久公菩提所」と刻まれる。 豊久公の位牌や経緯を刻まれた
梵鐘がある。


 岐阜県垂井町の鎌倉古道(街道)推定図 
 
垂井(たるい)町は、関ヶ原町の東隣にあるが、相川が流れ、大垣市の西北部となる青野が原と続く人が住みやすい環境の土地である。 この
ことから東山道(鎌倉街道)で不破を通り垂井に入ると、美濃国府跡、美濃国分尼寺跡、美濃国分寺跡(大垣市青野町)が立地しており、西濃
地区の歴史的役割が高かったことになる。
垂井町の南に金山彦命(かなやまひこみこと)を祀る南宮大社が、日本で唯一の鉱山、金属業の神様として深い崇敬を集めている。 そして、
伊吹山(息吹山)、日守(火守)の地名からも、西濃地区の製鉄の歴史を伺うことができる。 先の国府等国規模の建造物の集中、隣の大垣市
青墓町を中心とした大型古墳の存在、壬申の乱の美濃勢を味方にした大海人皇子の勝利等興味をそそる地区である

十六夜日記及び東関紀行とも垂井町における記述は特にない
     
垂井の泉<不破郡垂井町>
岐阜県の名水百選に選ばれた由緒ある泉で、幹まわり8メートルの
大ケヤキの根元から湧き出る湧水は名物であった。 古くから和歌
に詠まれ、「垂井」
の地名はここから生まれたといわれる。
残念なことに、数年前にケヤキは倒木し、現在は見ることができない。
なお、後方の建物は、専積寺で境内に垂井城趾碑がある。 その先は
21号線に面している高台の地である。 「古代の道」等の専門家の
意見は、律令制の「不破駅屋」(乗り継ぎ馬の交代拠点)の可能性が
高いとしている。
  垂井曳山まつり<子ども歌舞伎>
660年以上の歴史がある八重垣神社の例大祭・「垂井曳山まつり」
が毎年5月上旬行われる。 町内3地区の「ヤマ」(車偏に右に山)
三両が中山道垂井宿を巡行し、地元小学生による「子ども歌舞伎」
が熱演される。 写真は演目「鎌倉三代記」を熱演の役者さん。
   
南宮大社<垂井町宮代>
南宮大社のホームページにある由緒は
社伝によれば、神武天皇東征の砌、金鵄を輔
(たす)けて大いに霊験
を顕わされた故を以って、当郡府中に祀られた。  後に十代崇神

(すじん)
天皇の御代に、現在地に奉還され、古くは仲山金山彦神社と
して申し上げたが、国府から南方に位する故に南宮大社と云われる
様になったと伝えます。
金山彦命
(かなやまひこのみこと)を主祭神に、美濃一宮として、また全国
の鉱山、金属業の総本宮として崇敬を集めている。 現在の建物は、
関ヶ原合戦の兵火によって焼失したものを、美濃出身の春日の局の
願いにより三代将軍徳川家光が再建した。 朱塗りの本殿、拝殿、
楼門などが国の重要文化財に指定されている




  金山(かなやま)<垂井町宮代>
南宮大社のホームページによると
 通称「鞴
(ふいご)祭り」と呼ばれ、地元の野鍛冶(農具などの鍛冶屋
さん)の奉仕で、古式ゆかしい鍛錬式が行われる。
<平成25年11月8日見学>
 この祭りは、祭神が府中の地から現在の南宮山の麓の地へ移った
日に由来する鎮座祭。 その日は、社伝によれば、11月9日にあたる。
八日に行う金山祭は前夜祭あるいは神迎えの神事と考えられる

 
鍛錬式は高舞殿傍で行われる。午前10時半、神職のほか烏帽子に
直垂姿の野鍛冶(奉行という)、楽人などがそろい、清めのお祓いの
あと宮司が火打石で点火する所作をする。 炉は前もって鞴で火が
おこしてあるが、奉行が木製の鞴を操り火加減を操作し、慎重に熱し
具合を確認し、炉からオレンジ色に焼けた鋼を取り出して鉄床にのせる。
その鋼を奉行三人が「トンテンカン、トンテンカン」と槌音も高く鍛錬する。
数回の焼き入れを経て、約三十分後、多数の参拝者が見守るなかで小
刀ができあがり、神職が受け取った後、三宝に載せて神前に奉奠される
     
伊富岐(いぶき)神社<垂井町伊吹>
境内の由緒案内によると、古代、当伊富岐山麓の豪族の伊福氏
の祖先神を祀り美濃二の宮とされる。 左手に岐阜県指定天然記
念物の杉がある。 根本の太さ 9.6m、高さ約30mの巨木である。
参考としている「平安鎌倉古道」では、伊吹山の「イフキ」「イフク」
は息を吹くの意味で、「ふいご」つまり、送風のことであり、かかる
職業的部民を司る神が「伊富岐神社=伊吹神社」であるとしている。
したがって、「伊富岐神社」は古代の製鉄、製錬の神で日守地名も
同系で「火守」としている
  日守(ひもり)屋敷跡及び尾張宿彌(おわりすくね)屋敷跡
 <垂井町宮代>
国道21号新日守交差点南にある不破の関病院の奥、新幹線沿いに
壬申の乱で大海人皇子に味方した尾張宿彌大隈の屋敷跡、及び日守
西交差点から南進した地域に鍛冶遺跡及び新幹線南に日守屋敷跡
(写真)があったといわれるが、走破不可能であった


 
     
不帰(かえらず)の里<垂井町岩手>
我が国における製鉄技術は、6世紀頃に朝鮮半島からの渡来工
人の技術によってもたらされた説があり、私見ですが、渡来工人が
二度と帰らない覚悟を地名にしたのではと推測する

鎌倉街道は、不破の関病院西から東北に進んでいるが、東海道
本線に阻まれ進行不可能である。 行き止まり場所が関ヶ原町と
垂井町の境である。 日守西交差点少し東にある跨線橋を渡り、
東海道本線沿いに西に戻ると、一面の茶畑で「不帰茶」の看板が
見える。  茶畑の中の道は下り坂になっており、やがて水田地帯
に到る。 左に水田に水を補給する戸海池がある
  戸海池から漆原までの街道<垂井町岩手>
戸海池を北進し、相川を渡り、徳法寺、漆原と進むことになるが、
相川の下流に新戸海橋があるので、相川沿いに右折し、橋を渡る。
左折後、徳法寺、漆原交差点を過ぎると写真の道標に出会う。 道標
を右折し、直進すると、多度神社、直ぐに大石川を渡ると、右前方に
北中学校が見える
   
南宮御旅神社<垂井町府中>
古来、南宮大社が当地にあったと伝わる。
この伝承から毎年5月5日に南宮大社の大祭が行われ、祭神が
神輿に載って御旅神社にお帰りになる神輿渡御式が行われる






  国史跡美濃国府跡<垂井町府中>
大化の改新(645)が始まり、律令政治が進められた。 そして奈良
平安時代に国ごとに国府がつくられ、美濃では8世紀前葉に垂井町
府中地区に造営され、約2百年続いた。
平成3年から発掘調査が行われ、その結果、東西約67m、南北
約73mの長方形で、上の復元図のように中央に正殿、両脇に南北
に長い脇殿があった概要が判明した。 正殿の位置は、御旅神社の
本殿にあたり、古代、南宮大社が安置されていた場所ということに
なる。 ・・・町設置案内版より引用
 
     
願證(がんしょう)<垂井町平尾>
蓮如の六男蓮淳が建立の寺院。
信長に焼かれ、江戸時代に再建された。以来、「平尾御坊」として
西濃の中心道場として栄えた。

  美濃国分尼寺跡<垂井町平尾>
願證寺境内の南通用門の傍に美濃国分尼寺跡推定地の碑がある。
天塀3年(741)、聖武天皇は全国に国分寺をつくらせた。 美濃では、
国分寺を大垣市青野町に、国分尼寺は垂井町平尾に建てたと推定
される
。 東西250m、南北200mの規模といわれる 
     
平尾神社<垂井町平尾>
願證寺の北、写真の左に道路が見える県道岐阜関ヶ原線の直ぐ
北側に平尾神社がある。 少し小高い位置に本殿があり、手前
には大垣市の青野町の水田地帯が広がる

  平尾神社・風越峠・円興寺前
<垂井町平尾から大垣市青野町、青墓町>

二の鳥居前から北進する街道の遺構が見えるが、確認した結果、途中
で行きどまりとなっており通行不可能であった。 薪採取等山の手入れ
が行われなくなり、道が荒れて危険なため通行止めにしたようである
 
     
竹中半兵衛陣屋跡<垂井町岩手>
冨岐神社の北に豊臣秀吉の軍師として仕えた竹中半兵衛重治の
陣屋跡がある。 場所は、県道岐阜・関ヶ原線の長畑交差点から約
1キロの位置にある。
垂井町内の観光には、無料で観光案内を行っている「垂井町街角
案内の会」
に事前に相談することをお勧めしたい。
  電話 0584-22-1151 (垂井町役場産業課内)
また垂井駅前の垂井町観光案内所は、パンフレット等観光情報の
発信、レンタルサイクルの貸出等を行っている。
  電話 0584-23-2020(垂井町観光案内所)
  五明稲荷神社の大銀杏<垂井町岩手>
織田信長の中国平定戦の最中、有岡城(伊丹市)の城主:荒木村重
が謀反をおこしたとの報に黒田官兵衛が説得に赴くが、逆に捕えられ
石牢に幽閉された。 信長は戻ってこない官兵衛を謀反に一味に加わ
ったものと早合点し、人質の松寿丸の首をはねるように秀吉に命じた。 
秀吉が半兵衛に相談すると「決して裏切るような人物ではない。 きっと
何かの間違い」と松寿丸を預かり、家老の不破矢足に命じ、密かに不
破の屋敷に匿った。 一年後、有岡城が陥落し救出された官兵衛は
半兵衛に深く深く感謝したという。
この大銀杏の木は、松寿丸が岩手を離れるに際し、植えたと伝わる

数年前、枯れたため根元の新芽を残し、伐採された。