第4章 米原市内の鎌倉街道(中世東山道) 

<滋賀県米原市番場町>

 都を出て平野部を進んできた街道は鳥居宿(彦根市)を出て磨針峠の険しい坂道を登り山間部を進む。ここでは
昭和年代に建設された名神高速道路に並行しており、しかも一部は高速道路の敷地となっており中世の街道遺構を
確認することは、非常に困難と思われた。さらに参考資料の「平安鎌倉古道」に掲載されている地図が不鮮明で途
方にくれるところであった。

 幸い、米原市柏原地区の街づくり活動団体の「はびろネット」の伊藤事務局長さんから柏原地区の街道情報を教
えていだくとともに、ご厚意で、平成26年3月発行した「鎌倉街道」を境目の歴史文化連続講座の会場で販売し
ていただけることになった。
この会場で本を購入していただいた米原市内在住で条里制の研究をされている山川恵弘さんとの交流が始まり、8
月2日の現地案内、さらに番場町在住の郷土史研究家の山川麗三さんの自宅までご案内いただいた。北川さんから
貴重な番場地区の街道資料「番場の推定東山道」をいただくことができた。

 遠い滋賀県で中世の街道遺構を検証・確認する難題に先の皆さんの力をお借りできたことにより、かなり具体的
に成果として書くことができた。約八百年前、自然の地形を利用した中世の東山道(鎌倉街道)を完全に確認する
ことは不可能と思われる。このため今まで、街道の議論がされてきたが、具体的に示されたものはなかった。
ここに一つの検証案を示すことができる意義は大きいと思う。

 


番場地区の東山道(中世鎌倉街道)
 
 
 上段の地図は、北川麓三さんが研究成果として平成8年に作成された「番場の推定東山道」の付属図3に
私が着色した資料である。最下部の茶色の線が近世の中山道である。北川さんが推定東山道と示された
のが
黒い線である。最上段の橙色は名神高速道路である。

 右が西で東山道と中山道が分岐している場所は西方である。名神高速道路の上に元天満宮跡や元八幡宮跡
がある。寺院などもあり、中世以前は東山道が通っていたと推定されている。

 さらに中山道の上(東)に水色の線があるが、菜種川という中規模の川である。中山道整備のため、自然
に流れていた川を直線整備され、逆に大雨時に流れが加速され洪水・氾濫の要因になっているという。
古来から当地では、小河川が集まる場所とされ、街道は高台・ここでは名神高速道路周辺を通っていたと推
定される。下町屋あたりから
蓮華寺参道の黒門前を経由し通称・小三郎道その先で中山道筋となる。
下段の地図は、北川さんの地図を基にホームページ用に作成した簡略図である。

     
番場宿<滋賀県米原市西番場>
番場宿西入口の案内 
  元番場入口<滋賀県米原市西番場>
番場宿西入口(西方)左が中山道、東山道跡は右に
進んでいる。
     
東山道遺構<滋賀県米原市西番場>
右に菜種川があり少し先で川を渡るが民有地で進行
不可能である。中世東山道は少し先の字寺前で川を
渡っている。
  名神高速道路と中世東山道遺構
<滋賀県米原市番場>
字寺前から山裾に向かう遺構を東から望む。北川さんが
子供頃、土塁が遊び場であったという
 
     
元下番場の街道遺構<滋賀県米原市西番場>
山裾を迂回した東山道は、字下町付近から丘を下り
平野を進む。前方右(電柱付近)に伊吹山が見え、目
印になったと思われる。(平成27年2月3日撮影)
  蓮華寺黒門跡と東山道<滋賀県米原市番場>
正面が蓮華寺で、この場所に蓮華寺の黒門があり、
古地図にも左右に走る街道筋が見ることができると
いう。
 
     
近江名所図会・番場駅<滋賀県米原市番場>
左の建物が蓮華寺、右下が中山道。中山道の上の細
い線が東山道、中心に黒門が書かれている。


  蓮華寺(れんげいじ)<滋賀県米原市番場>
寺伝によれば、聖徳太子の建立で法隆寺と称されて
いた。鎌倉時代一向上人が再興し、時宗一向派の本
山となり幾多の変遷を経て現在は浄土宗となっている。
     
蓮華寺本堂<滋賀県米原市番場>
この本堂前庭にて北条仲時主従430余名自刃する。






  北条仲時主従の墓<蓮華寺内>
蓮華寺奥に元弘三年、京都合戦に敗れた六波羅探
題北条仲時は北朝の光厳天皇、後伏見華園二上皇
を奉じて中山道(東山道)を下って番場に着いた時、
南朝軍の重囲に陥り、蓮華寺にて戦うも敗れ、本堂前
庭にて北条仲時主従430余名自刃する。時の住職三
代同阿上人が手厚く葬り、一巻の過去帳を作り、各墓
を建立し冥福を祈った
 
     
小三郎道と中山道<滋賀県米原市番場東番場>
蓮華寺を過ぎて、やがて江戸時代中山道番場宿の町
並みが途切れる頃、名神高速道路が見える当地とな
る。右が中山道で左の農地の中に地元で小三郎道と
呼ばれるのが東山道遺構とされる。
 




  市立河南(かなん)中学横の街道遺構<滋賀県
米原市河南>
小三郎道北西の九礼地区は江戸時代中山道の番場宿
であるが、北に北進すると市立河南中学があり、その東
に古道らしき道がある。この先は名神高速道路に並列し
た形の東海自然歩道があり、醒ケ井宿まで伸びている。
中山道も西北に進み、国道8号線を越えて、再び戻り、
醒井宿に入っているが、迂回して
いる形態である


醒井地区の東山道(中世鎌倉街道) 
 

 近世の中山道・醒井宿は、問屋場跡が資料館として整備公開されており、よく知られているが、中世でも阿仏
尼の十六夜日記にも登場しており、中世から宿場として機能していたようである。

 十六夜日記で名水・醒ケ井の清水を紹介している。 そして、古くは「日本書記」や「古事記」で伊吹山の荒
ぶる神に敗れた日本武尊が「居醒清水」(いざめのしみず)で生気を取り戻した伝説があり、醒井の地名はここ
に由来するという。

 宿の最東部にある賀茂神社境内に「居醒清水」があり、これを水源として宿の中を流れる地蔵川は、キンポウ
ゲ科の沈水植物「梅花藻」(ばいかも)が6〜8月に花を咲かせ、見物人でにぎわっている。

     
醒井宿<滋賀県米原市醒井>
古代、中世には東山道の宿駅として、近世には中山道
の61番目の宿場として栄えた。

<十六夜日記>
 こゝも夜深き霧の迷いにたどり出
(い)でつ。醒が
井といふ水、夏ならば打過ぎましやと思ふに、徒歩
人は猶立寄りて汲むめり。
 結ぶ手に濁る心をすゝぎなば憂き世の夢や醒が
井の水  とぞ覚ゆる。
<解説>
・・・十六夜日記(田淵句美子著・山川出版社)

 
翌18日早朝、小野宿を出て東向し、醒ケ井の清水を
すぎた。夏であればこのまま通り過ぎはしないのだが、
と思ってみていると、徒歩の者はやはり立ち寄って水を
くんでいる様子が描写されている。「徒歩人は・・」と断っ
ているから、阿仏尼はもちろん徒歩ではないのである。
この醒ケ井は古来から名水の地として有名で、旅人た
ちはここで水をくみ、夏には涼をとるのが常であった。
  中山道醒井宿の町並み<滋賀県米原市醒井>
<東関紀行>
 音に聞し醒が井を見れば、陰暗
(かげくら)き木の
下岩ねより流れ出
(いづ)る清水、あまり涼しきまで
すみわたりて、誠に身にしむばかりなり。余熱いま
だつきざる程なれば、往来の旅人おほく立寄
(たち
より)
てすゞみあへり。班?、(はんせふよ)が団雪(た
んせつ)
の扇、岸風に代えてしばらく忘れぬれば、
末遠き道なれども、立されむ事は物うくて、さらに
いそがれず。西行が「道の辺の清水ながるゝ柳陰
しばしとてこそ立とまりつれ」とよめるも、かやうの
所にや。
 道のべの木かげの清水むすぶとてしばしすゞま
ぬ旅人ぞなき
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  道のほとりの木陰で清水を手に掬って飲もうとして
  、しばし涼まない旅人はいないよ。
   注 班?、=漢の成帝の愛妾季
     
西行水<滋賀県米原市醒井>
西行法師が飲み残した茶の泡を飲んだ茶屋の娘が懐
妊。それを知った西行が、もし自分の子供なら泡に戻れ
と言うと、その子はたちまち泡になったという。
 ・・・醒井湧くわく街道図から引用
  十王水<滋賀県米原市醒井>
平安時代中期に天台宗の僧・浄蔵貴所によって開かれ
、初めは浄蔵水と呼ばれていたが、この近くに十王堂
があったことから「十王水」と呼ばれるようになった。
 ・・・醒井湧くわく街道図から引用
     
了徳寺のお葉付イチョウ<滋賀県米原市醒井>
毎年8月から11月に多くの実をならせるが、その一部
は真葉面上につく。銀杏の発育が不完全なものが多く
小さくて長楕円や細長く普通の銀杏と著しく形が異なっ
ている。
葉面上に生じる銀杏の数は概ね1〜2個で葉脈が次第
に太くなり、先端のとこころが形作られていく。化石から
出土した銀杏と似ており、花が枝や葉の一部という学説
を裏付けている。
  ・・・説明版から引用<国指定天然記念物>
  地蔵川<滋賀県米原市醒井>
旧中山道に並んで流れる地蔵川







     
地蔵堂の尻冷やし地蔵
<滋賀県米原市醒井醒井>
地蔵川が流れ出す地点の脇には、「延命地蔵堂」があ
る。本堂の中に安置されている鎌倉時代作の地蔵菩薩
坐(非公開。」地蔵盆に公開される)
像は、かつて川の中に置かれていたため、「尻冷し地蔵
」と呼ばれていた。総高270cm、像高234cmの花崗岩
を丸彫りにした半跏像(はんかぞう)で、これだけの大き
さの丸彫り地蔵尊は全国的にも希少といわれ、滋賀県
下では唯一のものという。
・・・滋賀県(滋賀文化のススメ)HPから引用
  梅花藻(ばいかも)
地蔵川の梅花藻。15℃前後の澄んだ湧水を好み、川
底に群生し、流れに沿って這うように育つ鮮やかな緑色
した多年草水草である。手のひら状の葉が特徴で長さ
約50センチの藻である。
初夏から晩夏にかけて水面上に梅花様の白い花が咲く。
 ・・・説明版から引用




     
加茂神社<滋賀県米原市醒井>
創祀年代不詳。当社は向山の東麓に鎮座されたのを、
中古今の所に遷したと言う。旧社の所在地が天の川
加茂が淵に添う地に建立されていたので、加茂神社と
称すると言われる。
・・・滋賀県神社庁HPから引用
  居醒(いざめ)の清水<滋賀県米原市醒井>
雲仙山に降り注いだ雨が長い年月をかけて地下を流れ
、麓から流れ出ている居醒の清水は、地蔵川の源泉。
その昔、伊吹山の神との戦いの際、毒気にあたった日
本武尊を癒した水と伝えられる。



 柏原地区の東山道(中世鎌倉街道)
 

東山道は、近世中山道とほぼ同様の遺構であるといわれているが、旧山東町史では柏原地区は一部分、街道遺構が
異なるとされる。 また一里塚跡の西方にある案内版には、古道東山道の道筋として横河(よかわ)駅があった梓を
中山道と同じ道で東に進み、長沢(ながそ)を過ぎ、北畠具行卿墓参道道のある谷間で中山道と別れ、山越えする。

徳源院のある清滝へ降り、右に折れ、常菩提院裏山の北側を東進する。JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合
流し県境長久寺に向かう とある。

参考にしている「平安鎌倉古道」は山東町史を根拠に解説シテいるが、図示では常菩提院の前を示している。平成2
6年春、柏原町の将来のあり方を検討する「はびろネット」事務局長の伊藤さんにお会いし、当地の古道情報をお聞
きした時にも旧山東町史の内容を教えていただいた。私が書いた「鎌倉街道」を購入いただいた縁で条里制を研究さ
れている山川さんに知己を得て、著書を参考に常菩提院の裏山を現地確認すると見事な条里農地が展開しており有力
者の存在が推測され、先の案内板の説明を採用し図示したい。なお、案内板では梓から中山道と同様の道筋としてい
るが、中山道柏原宿散策マップにおいて梓から小関(こせき)まで中山道の地盤から一段高い場所を平行していたこ
とを確認できたので、この道筋とした。
 


     
中山道<滋賀県米原市梓河内>
中山道と東山道が重なる国道21号線梓河内交差点
近くの石碑



  東山道の分岐点<滋賀県米原市柏原梓河内>
梓交差点東の中山道。右に青い建物があるが、そこか
ら左に十メートル程入り、中山道と並行する東山道遺構
がある。その高低差は5〜10メートルあり、水害を避け
たことが要因と思われる
 
     
東山道横川駅推定地<滋賀県米原市梓河内>
山裾の途中にある「館跡 小黒谷遺跡」。梓地区は山
間部の狭い範囲であり、有力者の存在がないと駅(宿)
の運営が不可能である
  集落跡<番の面遺跡跡><滋賀県米原市梓河内>
上の写真にある東山道入口近くの中山道沿いに遺跡の
案内。駅の拠点には人力を必要とし、集落の存在は傍
証となる
     
中山道と東山道<滋賀県米原市梓河内>
小川の関跡を挟む二つの街道。左が中山道、右の家
前が東山道遺構。長沢
(ながそ)地区と称する場所で、水
害が多かった場所という。
東山道側が高台を選択した要因ともされる。
  小川(こかわ)の関跡<滋賀県米原市梓河内>
坂田郡誌に稚渟毛両岐王(わけぬけのふたまたおう)の守りし
関屋
(せきしょ)と書かれている。柏原小字小黒谷、梓河内
小字小川のあたりに比定。小川、古川、粉川又は横川
の転訛せし地名としている
…併設の説明版より引用 
     
北畠具行卿の墓と東山道<滋賀県米原市柏原>
小川関跡から中山道と合流している東山道は、柏原宿
手前で再度、山に入る。この道筋は山東町史に記載さ
れている。この先に北畠具行卿の墓所がある

  北畠具行卿の墓周辺の街道遺構
<滋賀県米原市柏原>
現在はあまり活用されていない様子でるが、階段の設置
箇所もあり整備された時代もあったことが推測できた
 
     
     
北畠具行卿の墓<滋賀県米原市柏原>
「元弘の変」中心人物・北畠具行卿は捕えられ鎌倉に
送られる。その途中、この地に留まり、護送する京極
高氏(道誉)によって再三幕府へ助命嘆願されるがか
なわず、この地で処刑された。国史跡に指定された墓。





  清瀧寺徳源院<滋賀県米原市清滝>
中世に近江北部を支配した佐々木京極氏の菩提寺で
ある。佐々木京極氏は5世高氏(道誉)が足利尊氏の下
で活躍したことにより栄え、室町幕府では四職家に数え
られるほ重要な地位を占めるようになった。東山道が山
を越え、清滝経由になった要因と推測される。

<五個荘清水鼻や小脇宿の事例も同様である>
戦国期に家臣であった浅井氏に実権を奪われたが、浅
井氏滅亡後、十九世高次が織田信長、秀吉、家康に間
を巧みに渡り歩くことで再興し近世大名となった
 
     
京極家歴代に墓<徳源院>
江戸時代初期、京極家22代高豊公(丸亀藩第二代
藩主)は、歴代京極家の墓石を集め、本堂をその前に
建立した。
  清滝の大松明<滋賀県米原市清滝>
京極家歴代の菩提を弔う火祭りが起源と言われ、8月
15日にとり行われる。松明は径約1メートル、長さ約
10メートルである。(20158.15撮影)。
 
     
成菩提院裏山<滋賀県米原市柏原>
条里制の農地があり清滝から進んできた東山道が裏
山との間を東進する風景である。


  成菩提寺<滋賀県米原市柏原>
伝教大師が東北に向かう時に小さなお堂を建てたのが
始まりとされる。戦国期には織田信長、秀吉が宿泊して
いる。家康から寺領160石余を受けて栄えた。家康の
参謀と言われた天海僧正が住職を務めた時期もある
 
     
照手姫笠掛地蔵と蘇生寺<滋賀県米原市柏原>
お堂の右側に地元柏原一丁目町内会が設置した案内
版があり、これによると右側の小さい石地蔵が「照手姫
笠掛地蔵」という。元は、旧東山道沿いにあった蘇生寺
の御本尊であり、「蘇生寺笠掛地蔵」ともいう。
中世の仏教説話である「小栗判官・照手姫」にまつわる
地蔵という。毒を盛られ地獄に落ちた小栗は閻魔大王
の裁きを受けることになった。
小栗想いの家来達に免じて、もう一度娑婆へ戻すこと
にした。餓鬼阿弥の姿で墓から這い出た小栗は藤沢の
遊行上人の計らいで土車に乗せられ熊野本宮湯の峰
温泉に向けて村から村へと曳かれていった。
青墓宿の水汲み女として売られていた照手は、五日の
暇をもらい、餓鬼阿弥姿の小栗を乗せた土車を引っ張
り、当地野瀬に来て、野ざらしの石地蔵を見つけ、笠を
掛けて熱心に祈りを捧げたところ、地蔵は <立ちかえ
り 見てだにゆかば 法(のり)の舟にのせ野が原の契
り朽(く)ちせじ >と告げたという。
湯の峰温泉壺湯の薬効よく小栗判官は49日で全快し
、再び当地を訪れたお礼にお寺を建て、地蔵を御本尊
にしたという。このお寺を「蘇生寺」という。
その後、蘇生寺は戦火で焼け、安置場所が定まらなか
ったがったが、昭和の初めに現在地に落ち着いた。
左の大きな地蔵は、その時に地元の一古老から奉納さ
れた「安産地蔵」という。
  白清水(しらしょうず<滋賀県米原市柏原>
平成8年3月 山東町教育委員会設置の案内版による
と小さな泉で古くから白清水又は玉の井と呼ばれている。
「古事記」に倭建命
(やまとたけるのみこと)が伊吹山の神に
悩まされ、この泉で正気づいたとあり、また中世仏教説
話「小栗判官照手姫」に姫の白粉で清水が白く濁ったこ
とから白清水というようになった。
滋賀県内の国道21号線今須交差点と柏原東交差点区
間の中山道及び東山道(鎌倉街道)は東海道本線の北
側をほぼ重複している。関ケ原から進んだ場合、JR東
海道本線と並行する街道は、柏原東交差点北の踏切を
左折横断するのが中山道、西に直進するのが東山道
(鎌倉街道)である。

中世の仏教説話「小栗斑岩照手姫」にまつわる伝説が
ある池である。古事記に登場する日本武尊が傷を癒し
た「居醒(いさめ)の泉」の一つともいわれる。








     
旧東山道<滋賀県米原市長久寺>
野瀬山、長比(たけくらべ)城址入口の神明社鳥居前の
石碑。左が中山道、右高台が東山道遺構である










  寝物語の里<滋賀県米原市長久寺>
 近江・美濃国境寝物語<滋賀県・岐阜県>
中央の小さな溝が国境である。
この地に伝わる寝物語の由来は美濃と近江の国境を挟
んで建つ旅籠屋があり、壁越しに「寝ながら他国の人と
話し合えた」ので寝物語の話が生まれたという。道の反
対側にある石碑の由来書によると、平治の乱(1159)に
敗れ追走の義朝を追ってきた常盤御前が夜ふけに隣の
宿の話声から家来の江田行義と気づき寄寓を喜んだ所
とか、義経が兄頼朝と不和になり、奥州藤原秀衡を頼っ
て東に下るが、追ってきた静御前が義経の家来源蔵と
巡り合った所とも伝わるとしている
     
中山道柏原宿<滋賀県米原市柏原>
江戸時代中山道柏原宿。宿場の長さ 13町(約1.5
キロ)という大きな宿場で当時も雰囲気が今も残る







  はびろネット<滋賀県米原市柏原>
何事でも特性があるように、少子化問題でも地域により
異なる要因がある。柏原地区では、子供の減少問題を
起点に活性化に取り組む活動を開始し、初年度の平成
26年は歴史文化講座を6回開催し予想外の参加者を
得ている。27年度は、言葉文化、関西弁と名古屋弁・
岐阜弁の違いを踏まえて柏原に注目を集めながら活性
化に取り組んでいる。
たいした協力はできないが、ここに紹介し皆様に知って
いただけるように、ご協力させていただきたい