岐阜県羽島市〜安八町内の美濃路
この美濃路と鎌倉街道を調べるため岐阜県西部をバイクで2回、自動車で1回延べ3回走破しました。 その成果として多くのことを知ることができた。 第一は、この地図から分かるように日本を代表する木曽川、長良川、揖斐川の大きさを実感できたこと、言い換えれば、昔の旅人の難儀を少しは理解できたことです。 また、かっては日本の大動脈であったが、今では忘れられている鎌倉街道が美濃路と交差していることが確認できたことです。
 
不破一色の一里塚跡 (羽島市正木町不破一色)
左の建物は正木小学校です。
西方寺 (羽島市直道)
親鸞聖人が一時滞在されたと伝えられる
美濃路と鎌倉街道の合流点 (羽島市東小熊)
堤防上の美濃路と集落を経由してきた鎌倉街道が合流した地点といわれている。 石碑は親鸞聖人が滞在された西方寺への西の案内のために建立された親鸞聖人御旧跡碑である
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西小熊の一里塚跡 (羽島市西小熊)


 墨俣(すのまた)宿
   
墨俣一夜城
織田信長の美濃攻略拠点となった城である。近世の治水工事により当時の様子を伺い知ることはできないが、現在でも周囲を川に囲まれ、難工事が推測できる。 豊臣秀吉は蜂須賀小六など川並衆の協力を得て、一夜でなく7日で建設したと伝えられている。また、この城は秀吉が出世する契機となったことから出世城とも呼ばれている
  墨俣城から見た長良川(左)と新犀川
墨俣城から南を見た風景。 長良川に並行して川があるのが、素人ながら不思議と思い撮影しました。(13年9月撮影)
     
墨俣宿の絵図面
安永七年(1778)作成の墨俣宿の絵図面。中心やや右に現在地とあるが、現在の新犀川西側堤防付近である。 この右の船着場や町屋が新犀川建設に伴い水没したことになる。
 




  軍隊が出動した犀川事件
上の図は、岐阜県地名文化研究会の第267回例会<2015年(平成27年)>で会員の野田清彰さん(当時83歳)が発表された資料の一部である。 昭和4年(1929)1月、安八郡で「犀川事件」が発生した。 犀川等4河川の水を現在の安八町を横断して掘削した新たな川に放流する改修計画をめぐり、反対した住民が警官隊や憲兵隊と衝突したもの。 2百人が検挙、44人が有罪とされた。 その後、工事が開始され、昭和11年6月に長良川に沿った現在の新犀川が完成した。
 
阿仏尼の歌碑
大きな寺院が集まっている寺町があり、町の観光案内地図にも
紹介されている。 写真の歌碑は、浄土真宗大谷派の萬福寺の
正門左の墓地の奥にある歌碑です。
<十六夜日記>
  この河、堤の方はいと深くて、片方は浅ければ 片淵の深き心は ありながら 人目つつみのさぞせかるらむ                                  阿仏尼
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
この河は、堤の方は大層深くて片側は浅くいので 片側だけ深い淵が堤に堰き止められている様子は、深い恋心を抱きながら人目を恐れて包み隠している、苦しい恋のようで同情されるよ。
  墨俣八幡神社
小栗判官死後、現人神として祀られたと伝わる。

            ・・・正面設置の案内板より抜粋










 
安八町史跡「美濃路一里塚跡」(安八町東結)
慶長9年(1604年)初代将軍家康は、江戸日本橋を起点として主要街道の一里毎に塚を築いた。 後に脇街道にも及ぼし、塚の大きさは5間(9M)四方が基準で、塚の上には榎木や松などを植えて旅人に利便を与えた。
昔、町屋から先入方に至る約1300Mの間は、立派な松並木で
あった。 松は「いがみしぐれ」といって、曲がりくねっていた。 三つ又のところに、「左大垣街道」の道しるべが立っていて、道の両側に一里塚がある。    ・・・・・  安八町教育委員会
  結(むすぶ)大明神
創建は第80代高倉天皇の嘉応年間(1169〜71年)と伝えられる。 祭神は高御参霊尊(たかむすびとのみこと)、天御中主尊(あめのみなかぬしみこと)、神御産霊尊(かみのむすびのみこと)の三神で社名はこの御三神を「むすぶ」に由来し、縁結びのほか諸願成就に霊験あらたかと伝えられている。




大 垣 市 内 の 美 濃 路 
 
     
佐渡(さわたり)常夜灯
揖斐川右岸の常夜灯。嘉永七年(1854)に渡しの標識、伊勢両宮の献灯のため建立された。 鎌倉街道及び美濃路は、ほぼ同じ地点で渡河している。
  長橋の道標
美濃路と鎌倉街道が重なっている長橋地区。 長橋の意味は、かって湿地地帯であったため橋通路が約600メートルもあったことに因むという
     
船町港と住吉灯台   大きな画像へ
江戸時代は水運が盛んであり、この水門川により船町が繁栄した。  (平成18年4月8日18時30分撮影)
  観光たらい舟(平成17年4月撮影)
春の観光シーズンに運行されています。 詳しくは観光協会に
お尋ねください。
     
塩田の常夜灯
杭瀬川に設置されており、かっては水運が盛んなころ伊勢講の人々がここから船に乗り込んだとされる。
 ここも台風の被害を受け、青シートが被せられていた。
  久徳の一里塚
美濃路では尾西市富田の一里塚(一対)とここが現存するのみである。 残念ながら、ここは南側のみが現存する。 しかし、この地でも、平成30年の台風21号で幹の上部の枝が折れる被害を受け、無残な姿になっている。


 松尾芭蕉の足跡
元禄2年(1689年)、俳聖・松尾芭蕉は、約5ケ月の漂白の旅を大垣で終えた。世に名高い「奥の細道」の旅である。 大垣市は松尾芭蕉の史跡を評価し、句碑、観光パンフレットの作成、奥の細道むすびの地記念館(平成24年4月8日新館開館)等の周辺整備を進めてきた。 以前、お世話になった観光ボランティアガイドさんも記念館の<観光・交流館>に移転・入居しており、ワンストップサービスが図られている。
参考  奥の細道むすびの地記念館 電話 0584−84−8430
     観光ボランティアガイドふるさと大垣案内の会 電話 0584−77−1535
     
        住所 〒503-0923 大垣市船町2-26-1(奥の細道むすびの地記念館内)
 
     
松尾芭蕉と本因銅像
水門川西岸にある「奥の細道結びの地」記念公園に設置されて
いる。 大垣を立ち、桑名に向かう芭蕉を見送る本因の像
 
  蛤塚 銅像北に設置)
蛤のふたみに別行秋そ(芭蕉)
 


垂井 (たるい) 宿 
 
     
綾戸の松並木
松の老木が江戸時代の雰囲気を残している
  追分道標
ここが美濃路と中山道の分岐点である
 
     
旅籠亀丸屋
垂井宿の入り口付近にある。旧街道は鍵の手になっている。現役の旅籠であるが、江戸時代様式を伝える建築物と言われる
  中山道垂井宿の町並み
     
垂井の泉
岐阜県の名水五十選に選ばれた由緒ある泉です。 大ケヤキから湧き出る清水は涸れることをしらない。 垂井の地名に因むとも伝えられている。 
樹齢推定800年のケヤキであったが、平成27年9月11日に長い一生を終えている。
   安藤広重「垂井宿」(垂井町観光案内版)
     
南宮大社大鳥居
鉄製、高さ21mと東海一のスケールで、新幹線の車窓からも見える
 
  垂井曳山(くるまにやまと子供歌舞伎
<県指定重要有形民俗文化財>
例年5月前半、三日間にわたり三両の山車がでる「垂井曳山祭り」が行われるが、山車を舞台にした子供歌舞伎が上演される。
 (14.05撮影)
     
南宮大社楼門
金山彦命を主祭神に、旧国幣大社、美濃一の宮、全国の鉱山、金属業の総本山として崇敬を集めている。
  ふいご祭