| 萩原(はぎわら)宿 | 
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| 美濃路の町並み (一宮市萩原町萩原) 萩原商店街の中を通過する美濃路街道。本陣及び問屋場は少し先の西にある。 町内を名鉄尾西線が通り、萩原駅近くの踏切傍に歌手・舟木一夫さんの生家(長屋)跡に白いアパートが建っている。駅から徒歩数分のことが「ロックンロール故里」に唄いこまれている。  | 
      萩原宿本陣跡 (一宮市萩原町萩原) | 
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| 高木の一里塚跡 (一宮市萩原町高木) 美濃路NOW(新川みのじ会)によると明治の初め頃までは、道の両側に小山があって榎も残っていたというが、今は右側(東塚)の跡地に碑が残されているのみである。  | 
      孝子・佐吾平遭難の碑 (明地新田橋) 馬方の佐吾平は大変な孝行息子として村の評判だった。 ある日、播州明石藩主松平斉宣(なりのぶ)候の行列が通行する際に、暴れ馬が一行の列に飛び込んだ。 佐吾平はその馬を取り押さえようとして行列に飛び込み無礼打ちになったという。この事件はその日のうちに、萩原宿の問屋から尾張藩へ注進された。尾張藩は御三家筆頭の威信にかけて清須本陣に泊まっていた斉宣に強く抗議した。 以後、明石藩が尾張藩領を通る時は、夜間に葬式の装いをしてのみ往来が許され、特に名古屋城下では堀川を舟で上り下りさせられたという。  | 
    
| 起(おこし)宿 | 
| 起宿は愛知県最後の宿であるとともに大河木曽川に面した町です。木曽川を渡るには船が利用されました。 また美濃路には面して いないが、織田信長と斉藤道三が初めて対面したといわれる聖徳寺跡があるなど国境特有の史跡があります。  | 
    
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| 冨田一里塚 (一宮市富田) 塚は東西の一対あり、美濃路唯一の現存する一里塚であった。しかし平成30年9月の台風21号により反対側の木が倒れ、以後は片側のみとなっている。  | 
      昭和15年頃の冨田一里塚 平成31年4月18日、現地で確認中に説明版を発見し、借用しました。  | 
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| 起宿脇本陣跡 一宮市尾西歴史民俗資料館別館として無料で公開されている。この建物は濃尾大地震の後で再建されたものです。 左手に手入れされた庭園がある。  | 
      船橋河戸跡 江戸時代、将軍上洛や朝鮮通信使通行のような高貴な行列に際しては、左下のように船を並べて固定した舟橋が架設された。  | 
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| 船橋模型 舟橋の模型は尾西歴史民俗資料館内部にあり、説明では大船44艘、小船230艘、橋の長さ840Mと他の河川の3倍程度大きい規模であった。  | 
      象様は特注の双胴船で木曽川を渡る 享保14年(1729)、長崎から江戸に送られた象の通行イメージ。  | 
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| 象の渡船の様子(尾西資料館の展示物) 今回は馬3頭を載せる船2艘を横繋ぎにして板を敷いて土を入れ、その上に2間半四方、高さ8尺の小屋を建てて、象を落着かせるため周囲を蓆で囲って水が見えないようにした。  | 
      宮河戸跡と「起の大銀杏」(天然記念物) 大明神社鳥居傍の石碑と大銀杏  | 
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| 定渡船場 美濃路が木曽川を渡る場所は、上・中・下の三箇所あった。 上は、この定(じょう)渡船場で、中は大明神社前のため「宮河戸(みやこうど)」、下は将軍や朝鮮通信使が通るため舟橋をかけたため「舟橋河戸」と呼ばれた。  | 
      聖徳寺(しょうとくじ)跡 美濃路のやや西部に位置する。 織田信長が舅である斉藤道三と初めてあった場所といわれている。 この場で斉藤道三は信長の非凡さを見抜いたと伝承されている。  |