清須宿  (愛知県清須市)
 

江戸時代の枇杷島橋
現在の枇杷島橋欄干に設置されている銅版画
西枇杷島の地名について
平安時代末期、治承3年(1179)、枇杷の名手である、ときの太政大臣藤原師長(もろなが)は、平清盛のため、尾張国井戸田(名古屋市瑞穂区妙音通)に流され、村長の娘と恋に落ちた。 翌年、平清盛の死により、師長は許され、都に帰るとき、娘が師長を慕い、枇杷島を過ぎ、土器野(かわらのけ)の地まで後を追ってきたという。師長は形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残してその場を立ち去った。 娘は別れを悲しみ、現在の西枇杷島町宮前あたりの池に身を投じたと云われていることから、地名に因んでいるという説もある。
枇杷島橋道標
文政10年(1827年)旧枇杷島橋の橋元に立てられていたものを、橋の移設もあり、「市場モニュメント」脇にたっている。
北    いわくら道 
東 にしハ つしまでんわう きよす宿
西 ひがしハ とうかいだう なごや道
南 文政10年 丁亥七月吉日
尾張西枇杷島まつり
例年、6月の第一土日曜日に旧美濃路の西枇杷島地区で開催されている。 江戸時代からの問屋の財力を背景に作られ、地元5町内が保存する5両のからくり山車が引き回される。
写真の山車は、西六軒町の「紅塵車(こうじんしゃ)」です


みのじの館
旧美濃路の名古屋市寄りに、まちづくりの拠点となっている古民家を利用した施設。 (社)愛知建築士会(名古屋西支部)などが、美濃路まちづくり推進協議会を結成し、活動している
問屋記念館
枇杷島は、江戸時代の青物市場(問屋)開設、その後の市の発展とともにあった。 問屋創業者の一人である山田邸を移築し、記念館として解放されている。

問屋記念館内の商家風ただずまい




屋根神様・・・中日新聞6月4日記事
屋根神様は、江戸時代末から明治始めにかけて名古屋を中心に尾張部に広まった信仰で、たいていは疫病除けの津島神社、火難除けの秋葉神社、武運長久の熱田神宮の3社の祈願お札が祀られている。 かっては、旧西枇杷島町に12箇所あったが、屋根の上にあるのは、僅かしかないという。
日本一の宝塔
瑞正寺境内にある日本一の宝塔(高さ4.5M)。 かって当地北部に尾張藩の刑場地があり、罪人を弔うため法華信者が文化5年から8年の歳月をかけて建立したという
日蓮宗 瑞正寺
枇杷島市街の北部にある

正覚寺
一里塚跡を少し北に上ると街道の東に正覚寺(しょうがくじ)がある。ここには桶狭間の合戦で織田信長に討たれた今川義元の首がさらされ、その菩提を弔うため塚を築いた今川塚がある
  今川塚
この塚は、名鉄須ヶ口駅近くの民家の敷地内にあったが、平成19年11月、ここに移設された。 石碑は、正覚寺六代三誉上人が寛文元年(1616)建てた供養塔という。 
(平成20年11月23日撮影) 
清洲山王宮 日吉神社
神社に掲示してある由緒や案内パンフによると、宝亀2年
(771年)の疫病除災が始まりと伝えられ、天正3年、近江
坂本より山王21社を勧請した。 織田が清洲在城時は、城下総鎮守と崇められた。 また秀吉は母が当社に祈願し授けられたと伝うる。 また尾張徳川氏の崇敬も厚く、徳川吉通は、当神社の御分霊を稲荷社とともに鎌倉街道沿いの山王稲荷社として奉斎している。
天下随一お申神社 厄をさる福を招く 
当神社の神の使いは申(猿)とされ、左の写真のように拝殿前の青銅製の御幣を担いだ猿などが配されている。 
上の絵は、平成16年の申年の正月に奉納された水墨画家
井上北斗氏の製作による申の巨大絵馬(縦3M、横4.5M)の大作で、拝殿の東に掲げられている

織田信長公銅像
大正11年(1922)清洲城址に開園。 桜やツツジの名所として賑わう。 園内には桶狭間に出陣する織田信長の銅像(作者 杉浦藤郎)がある
新清洲城
平成元年4月、天守閣の金鯱、信長塀、自然石で構成された石垣、本瓦葺三層四階の天守閣が日本古来の城郭様式で再建された。

清涼寺と札の辻
清洲宿の中間に位置し、美濃路は寺の前で向きを変えていた。この関係もあり、高札がたち「札の辻」と呼ばれていた。
清洲宿本陣跡
門はかっての本陣の門を規模を縮小して建設されたものという。

清須から稲沢市東部の美濃路
 
総見院
織田信長縁の寺院である。



  焼錆兜
総見院に織田信長愛用で本能寺の焼け跡から探しだしたと
される兜が保存されている。 兜の左に箱があり、吉野の実家である生駒家が本物と断定し箱書したものという。
(平成21年9月11日撮影)
     
浅野長勝邸跡
豊臣秀吉正室ねねの義父である浅野長勝屋敷跡の石碑が
見える。 六角堂南にある
  長光寺六角堂(稲沢市六角堂東町)
臨済宗妙心寺派の寺院であるとともに尾張六地蔵の一つである。地蔵堂が六角形であることから通称、「六角堂」と呼ばれている。室町時代のものとされる
 
長光寺の汗かき地蔵鉄造地蔵菩薩立像(国重要文化財)
国家に一大異変あれば、全身に汗をかかれ、汗かき地蔵さまと言われた。

  この寺の奥にある「臥松水」(がしょうすい)は織田信長公お気に入りの井戸であったと言われている。 寺の西が鎌倉街道で東が美濃路である。 (平成20年12月撮影)
 
四ツ家追分(稲沢市井ノ口町)
西から見た美濃路と鎌倉街道(正面左は鎌倉街道・岐阜街道、後ろが美濃路である)


  長束(なずか)正家邸跡(稲沢市長束町)
長束正家は理財の才を買われ、豊臣秀吉5奉行の一人として財政を担当した。 関が原合戦では西軍に属し、自決した。天保時代の村絵図に、長束正家邸が書かれており、その場所は北西近くにある。

稲葉の宿(愛知県稲沢市)
 
稲葉宿本陣跡(稲沢市小沢二丁目)
後ろの建物は愛知県稲沢農業改良普及所である
  本陣跡付近の町並みとマンション
ここにも新しい都市化の波が寄せています。 古い町並みも
いつまで見えるか不安に思う
 
稲葉宿問屋(といや)跡
問屋は公用人馬の継立を行った場とのことです


  臨済宗金華山禅源寺
永和二年(1376)太清禅師の創建。寛永11年(1634)三代将軍家光上洛のおり宿舎となり、家光の病が治癒したことを喜んで、表具類に葵紋の使用を許された。