梶原(景時公)顕彰会
令和7年忌供養・名馬磨墨供養のご報告

梶原景時公顕彰会について
梶原景時の人物像については、悪玉の権化のように評されることが多いようですが、近年になって、鎌倉幕府の御家人の中でも最も有能な武士で、かつ能吏であり、和歌を詠むなど教養人であったことが知られるようになってきました。
源頼朝は、そうした景時の官吏能力の高さを見抜き幕府の要職に就け,重用したため、他の御家人たちの妬みと恐れを招くことになり、頼朝の死後、幕府内の権力抗争に敗れ、1200年(正治二年)駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区瀬名の「梶原山」)で非業の死を遂げます。
この時、相模国寒川にあった景時の屋敷には、景時の次男景高の遺児豊丸と妻室に仕える隅の方と七家臣が残されていた。隅の方は、父長谷部佐善が住む羽黒(現犬山市)へ落ち延びることを言上し、建仁年間(1201~1202)の羽黒に到着した、長谷部佐善の手配で、梶原屋敷と呼ばれる広大な地に居館を構えた梶原氏は、羽黒の在地領主として長く治めていきます。
その後、豊丸は元服して梶原景親と名乗る。1300年代に入り、何代目かの領主は米作を中心に強固な基盤づくりに努め羽黒の繁栄が続いた。景時から十七代目の景義は、織田信長に仕え3000石の羽黒領主になり、大いに栄えたが、本能寺の変で殉死したため、後目を失った羽黒梶原氏は断然、羽黒城(梶原屋敷)は廃城となった。その後、およそ380年間、羽黒梶原氏が羽黒一帯を治めていた。
景義の娘(松千代の実姉)は黒田城主山内盛豊室(法秀尼)で、高知城主となる山内一豊の生母という。

昭和62年(1987)、「梶浦景時公顕彰会」が発足し、毎年5月に供養(梶原忌)を厳修されている。研究発表・会報誌
「かじわら」を発行する他、地域団体・地域行事への参加や、梶原公ゆかりの他地域(寒川、清水瀬名、明宝など)との交流・親睦も盛んである。
顕彰会は景時公の遺徳を偲び、梶原氏の事績を知り顕彰し郷土の地理・歴史・史跡・文化を互いに学ぶ、新規会員を募集しています。 <梶原景時公顕彰会 事務局 興禅寺 0568-67-0032>

                     ・・・顕彰会作成「梶原景時が羽黒に残したもの」 から引用
梶原忌供養に参加して得たもの
きっかけは、令和7年2月、一宮市西成連区副連区長のNさんから梶原景時公菩提寺興禅寺前住職(閑栖:かんせい)に道案内した関係で知り合い、鎌倉街道と関係深そうであるので、一度、会ったほうが良いと電話でアドバイスをいただきました。 これも何かのご縁と早速、連絡し、2月24日、興禅寺に林閑栖を尋ねました。右下の写真のとおり立派な寺院で、しかも随所に梶浦景時公に関連したもので溢れ、圧倒されました。事前に面談をお願いしておりました林閑栖は、既に〇興禅寺紹介パンフレット 〇興禅寺史 〇エッセイ「梶原景時が羽黒に残したもの」 〇梶原景時公顕彰会会報(昭和62年から毎年総会時に発行、今年で第37号を発行) *十五周年記念誌(第一号~第十三号合本) *二十五周年記念誌(第十四号~第二十五号合本)等が用意されており、購入いただいた冊子をお渡しし、その内容や各地の思い出を語りました。また、顕彰会の更なる活性化についても意見交換することができました。そして、5月開催の顕彰会定例総会に出席させていただくことをお願いし、貴重な経験をさせていただきました。特に、取材時は、紙媒体情報を確認する方法であったが、梶原景時公の足跡があり、かつ地元で活動されている神奈川県寒川町や静岡市瀬名地区の団体の皆さんと生きた交流ができたことは、貴重な経験でした。取材時に経験しておれば、内容が充実できたと少し残念ですが、知ることができた満足な供養祭の一日でした。
     
    妙国山興禅寺の山門
     
 開基梶原景時公碑   再起を期して京に向かう 「梶原一族の雄姿」
下山 昇氏作品の彫刻
高源寺(静岡市瀬名)の作品説明文から引用
     
 供養忌会場の本堂内   梶原景時公座像 
     
 本堂近くの梶原景時公供養塔及び一族五輪塔   名馬磨墨塚 と隅の方の塚、正面手前は磨墨が
使っていた轡(くつわ)と伝わる
     
 会報「かじわら36号」(令和6年5月発行)
平成14年からA4サイズに変更、通常30ページ弱で構成

  神奈川県寒川町観光協会作成資料
A5版 30ページ 
構成は、梶浦景時一族の紹介文に適宜、イラストを使用、見やすい。