4.旅人に厳しい自然の難所
 4-1.大河を渡る

 ○木曽川乱流地帯の街道(尾濃国境が変更される。)
  中世時代の木曽川は前渡(各務ヶ原市)から西進市、墨俣で長良川と合流していた。 美濃尾張の国境は、 当時の木曽川
  (境川)とされた。 街道は墨俣川を舟で渡り、境川堤防を進み、木曽川本流の足近川を渡った。
   天正14年(1586)、木曽川が氾濫し地形が大きく変化した。 尾濃国境が変更され、当時の尾張北西部が美濃に編入された。
  今も尾張時代の大字名が使用され、歴史を物語っている。 
   
中世時代の木曽川乱流地帯と鎌倉街道 境川堤防(輪中)を利用した街道(左:鎌倉街道、右:美濃路) 
○天竜川を渡る(紀行文から天竜川の流路変更が分かる)
  浜松市と磐田市の間を流れる天竜川の別名は、暴れ川。 紀行文によれば、深く、川幅が3町(約300㍍)もあり、舟の流れ
 去るのが速いので容易に向こう岸に着くことができない。 溺れ死んだ人も多いという。このように、他の川の途河状況に比べ、
 厳しい描写であり、市場の難所と思える。 また、紀行文中の池田宿と渡船の順番が現在の位置関係と異なっている。 この
 ことから、天竜川が西から東に移動していることが分かる。
○大井川を渡る(渡河地点が年次に従い上流に移動)
  堤防がない時代、河口近くの幡豆蔵の宿から大井川を渡った。 数多くの瀬を渡り二、三里ある石が多い川原を前嶋(現在の
  藤沢駅周辺)までを歩いて渡った。 十六夜日記には、「水が干上がっていて、聞いていたのと違って難なく渡っている。
              参考 初倉から藤沢駅(前嶋)までグーグルマップで約4キロ。
○富士川を渡る(中世当時は分流、江戸時代治水工事により本流に整備)
  中世時代は河口は15瀬に分流して流れていた。 江戸時代、治水工事により現在の本流に一本化された。 

       

4-2.海を歩く
 
○鳴海潟の路
  京都と鎌倉を連絡する街道の要所に位置し、古代から東西交通の要所であった。 三大紀行文の全てが最初に熱田神宮に
  参詣、次いで干潮時の徒渡り(かちわたり)を記録している。 また、平安時代の「更級日記」には、「尾張の国、鳴海の浦を
  過ぎるに・・・潮満ち来なた、ここを過ぎじと、あるかぎり、走りまどひ過ぎぬ」と満潮を前に浜を走って急いで渡る様子が書かれて
  いる。
     
鳴海潟 を進む鎌倉街道の経路イメージ   出典:十六夜日記 田淵句美子著 
○波間を走り抜けた「岫(きぎ)が崎」(静岡市清水区
  興津地区と由比地区の境界付近は、薩埵山が海へと突き出す地形となっており、峠越えを避けた旅人は海岸を波にさわら
  れぬように駆け抜ける必要があった。 このため、新潟県・富山県境の親不知と並び称されたり、東海道の三大難所として
  語られてきた。
   嘉永7年(1854年)の大地震で海岸が現在の形に隆起した。 隆起した場所は、今は鉄道、車が集中する交通拠点として
  利用されている。
○大磯の浜路(はまみち)(諸説あり)
  大磯は海浜で名高い風光明媚な地であり、「早むる駒は大磯の。 急ぎて過ぐる磯伝い」(宴曲集)のように「磯」と「急ぐ」の
  二重の意をもつ通過点であった。 「磯伝い」は浜路をさしていると推定したい。 
       出典:大磯町史11 ダイジェスト版 p62(平成21年3月発行)
○湘南の浜路<平塚市・茅ヶ崎市・藤沢市>
  二千年前の海岸は、現在の海岸線から2キロ程内陸のJR東海道本線付近であった。 千年前の海岸線は、現在の海岸線と
  東海道本線のほぼ中間である。 平塚市史9 通史編(平成2年3月発行)P86で、更級日記(平安時代)の記述から海岸
  沿いに通路が開かれていたとする。 内陸側の砂丘列でなく、浜辺でなくては、スムーズな歩行は不可能と思う。 当地区は
 一晩で地形(特に道)が変わるといわれる位、強風による飛砂が多く、旅人を苦しめてきた。 湿った浜路は、飛砂の害が少なく、
  障害物が少ない道である。
      


4-3 険しい山道を歩く
○宮路山(豊川市、旧音羽町) <迂回遠回りには理由がある>
  宮路山(標高 361メートル)古道切通しの鎌倉街道。 岡崎市から豊川市(旧音羽町)までの街道は、旧東海道、国道一号線
 及び名古屋鉄道本線近くの山裾を通っている。 音羽町史通史編(平成17年3月発行、音羽町)によると、平地は山間を流れる
 千束川や沼などの湿地帯、そして岩場であるとしており、水害を避け山裾を通っていたのではとの説明がある。(音羽町史P78)
○小夜の中山(静岡県掛川市)
  最高点の標高は252mであるが急峻な坂道が続く難所であった。 また歌枕として古今集などで歌われ、鎌倉時代初期に
 西行法師が詠み新古今和歌集に入れられた「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」の和歌が読まれた。  
○蔦の細道(藤枝市、静岡市)
  標高120mの宇津ノ谷峠にある古道である。 宇津ノ谷峠を越える最古のルートで、平安時代から戦国時代にかけて使われて
 いた峠越えの道である。 平安時代前期に書かれた「伊勢物語」に登場したことで有名になり、「歌枕の地」として多くの文学
 作品に登場、「文学の古道」とも呼ばれている。 当時は蔦が生い茂り、薄暗く寂しい山道であった。
○足柄峠(静岡県小山町、神奈川県南足柄市)
  古くから官道として防人(さきもり)や旅人の往来が盛んであった。 律令国家の時代、九州防備のために駆り出された東国
 出身の防人たちは、この峠を越えて遥か西へと旅立っていった。 古代時代は宿もない時代であったが、鎌倉時代は旅行者も
 増え、海道記は関宿(南足柄市)の夜の情景を生々しく伝えている。
○湯坂路(神奈川県箱根町)
  箱根山中の道であるのでアップダウンは、多々ある。 湯坂路を終える直前の約1キロほどは石畳(近世施工)である。 更に
 その西1キロ強は階段の補修はされているが、湯坂城趾付近は木の根が露出し 嶮しい山道である。 ハイキング資料では
 浅間山(標高 801m)から湯坂バス停までの 6.5㎞を7百m下ることになる。  十六夜日記の中にある「人の足も留まりがたし」
 の名文通り、嶮しき山道を夕暮れと向き合って必死に下るのみであった。 更に、私が歩いた令和2年10月1日は、朝まで雨で
 あったので、粘土質の赤土のため足をとられ、想像以上に厳しい行程であった。 
○幻の「浜名の橋」(静岡県湖西市)
  山道ではないが、街道として利用された二つの砂嘴(さし)を連絡した「浜名の橋」は紀行文に書かれる等大きな存在であった。 
  橋の規模は、長さ 167m、  幅 4m、高さ5mと推定され、当時としては大きな橋であった。 明応7又は8年(1498.99)室町
  時代に大規模な地震と大津波の被害を受け、浜名湖の海側が切れ、海と直接つながった。 その時に「浜名の橋」が流出、
  更に砂嘴が分断され、以後街道としての利用がされなくなり、「浜名の橋」は忘れられたものになっている。

 
 足柄路と箱根路の進路概念図   湯坂路、終盤の険しい坂道



5 武士の都・鎌倉の概要 
 
 中世の鎌倉は幕府がおかれたことにより、政治や文化の拠点となった。 鎌倉街道のゴールは、鶴岡八幡宮を中心に
幕府の政庁が配置されていた。 戦火により大部分が焼失し、当時の様子を想像することは、かなり困難である。 鎌倉は
周囲を低山と海に囲まれ、防御に適した天然の要害地で外部との出入り口は、七切通と限定され、防御に秀でていた町で
あった。 
 京鎌倉往還は、極楽寺切通し経由とされ、高さが成就院の山門の高さ(約7~8m)の険しい勾配であった。
 大正年代に自動車が通れるように切り下げられた。(浜路経由の説もある) 幕府の一大事の時に「いざ鎌倉」の号令で
御家人が駆けつける軍事用の街道「鎌倉街道」。 政治や文化の一大拠点に対し、愛知県始め各地で多くの道が鎌倉と
連絡していることが意識され、「鎌倉道」「鎌倉街道」と呼ばれている。
  鎌倉街道探索として対象を把握する段階で、各地の鎌倉街道の取り扱い、選択に苦慮した。 諸説あるが、中世紀行文の
足跡を普通の旅人も歩いたであろうと推定し、探索、掲載した。 
     

         

第一部 「歩いて分かった鎌倉街道の魅力」のまとめ
○京から鎌倉までの全区間を歩いて調べたことにより、中世の大動脈である鎌倉街道は「乱流地帯を進む」、「大河を渡る」、
「険しい坂道を越える」等、命がけの旅をした道であったことが分かった。
○街道を歩くと、車のスピードでは見えなかった風景や歴史、文化をじっくり感じることができた。 また、紀行文と私が現地で
撮影した約700枚の写真及び説明文とで、800年の時空を越えて中世当時の風景を発見できる。
○頭の中で思い描いて楽しむため、現地に足を運んで下さい。 現地に出かけ、自分で探し発見する、想像する楽しみは、幻の
街道といわれる鎌倉街道探索の最大の魅力です。