鎌倉街道 <京鎌倉往還> の魅力
自分のための「街道ウォーキング(トレイル)」                     


第一部 鎌倉街道の魅力
1.街道の歴史
平安時代中頃から律令国家の崩壊により七道を中心とした交通体系は、荘園を中心とした交通体系へと組み替えられていった。 
しかし古代の交通組織は全てが消滅したわけではなく、古代の街道を活用して鎌倉期の交通体系が確立していく。 各荘園が
管理する道は、限られた経済力から充分な管理ができなく自然の微高地、河川堤防、浜路などを利用していたとされる。 このため
残された街道遺は少ない。
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、二大政治都市である京都と鎌倉を結ぶ街道として、第一級の街道としての機能を果たすようになった。 
2.鎌倉街道と紀行文
街道の詳細(遺構)は大部分が不明であるが、旅行者が記した紀行文が 残されており、街道調査に重要な役割を果たして
いる。 中世紀行文の主な作品を年代順にみると。
「海道記」 貞応二年(1223)4月4日~17日 作者:不詳
 白河の詫士なる者が京から鈴鹿越えの東海道で鎌倉に下り、17日に鎌倉に着き、さらに帰京するまでを描いている。
「東関紀行」 仁治三年(1242) 8月13日~25日 作者:不詳
 京都東山から鎌倉までの道中の体験や感想で厚生されている。和漢混淆文(わかんこんこうぶん)で、風景描写等が優れた
紀行文といわれている。特に萱津の東宿の賑わいをリアルに書き留めている。
「十六夜日記」 弘安二年(1279)10月16日~29日 作者:阿仏尼
 藤原為家の側室・阿仏尼が相続(後継者)問題を鎌倉幕府に訴えるため、弘安二年(1279)都から鎌倉までの旅で見聞した 事柄を簡潔な文書で書き
残した紀行文日記で、当時の状況を思い浮かべることができる貴重な文学作品である。 成立当初、 阿仏尼はこの日記に名前をつけておらず、単に
「阿仏日記」などど呼ばれていたが、日記が10月16日に始まっていることを由来として後世に「十六夜日記」と称された。
  
 
 中世三大紀行文との関わり
 政治権力が鎌倉に成立したことにより、京鎌倉間は政治、経済、軍事の用務以外に僧侶、文化人の往来も盛んになった。
 鎌倉時代は、次に紹介する三大紀行文が成立し、この記録から当時の行程、景色、庶民の生活の様子等が読み取ることが
でき、街道探索を楽しむことができる。 8百年の時空を越えて、鎌倉時代の人々が見た同じ風景を頭で想像することができる。
  
 
3.鎌倉街道の推定経路<広域地図西、東参照>
○京三条大橋から東海道と同じ経路で草津に進み、そこから中山道(東山道)に分岐し、美濃赤坂から尾張に向かっている。
熱田の宮から鳴海潟を干潮時に徒歩で鳴海に向かう。鳴海から近世東海道と並行して東進した。岡崎市明大寺(名鉄東岡崎駅)
から宮路山周辺までは近世東海道(国道一号線)付近が排水不良であり、南側の山裾に迂回している。
湖西市から静岡市までは、ほぼ近世東海道と重複若しくは並列している。静岡市では駿河国府跡(駿河城)から山裾を直進して
いる。旧清水市(清見寺、清見が関跡)から合流している。鎌倉街道は海岸の岫が崎(薩埵峠下の海岸)を蒲原宿(富士川西岸)、
田子の浦(富士川河口)、千本松原(富士市から沼津市)と浜路を進み、黄瀬川宿(沼津市、駿東郡清水町)に至る。黄瀬川宿から
当初は足柄峠越の経路、そして鎌倉時代中頃から三島経由、箱根西坂(平安鎌倉古道)経由の湯坂路と進み箱根峠を越え、
逆川宿で合流している。三島経由の経路は、近世東海道と並列しているが逆川宿から浜路の海岸線を大磯町、湘南海岸、鎌倉へと
進んでいると推定している。
紀行文は、大河を渡る、海(浜路)を歩く、嶮岨(けんそ)を越える等の険しい旅程が書かれている。自然の地形を利用した街道を命
がけで歩いた旅であった。



鎌倉街道 広域地図西 <京都府~滋賀県~岐阜県~愛知県>
 
鎌倉街道 広域地図東  <静岡県~神奈川県>