初めての武士による都・鎌倉市の概要 
 
はじめに
鎌倉街道<京鎌倉往還>の探索を進めるについて、各地に出向けば史料が集まると大きな期待をしていたが、愛知県及び岐阜県では容易に史料や
情報を集めることができたが、神奈川県下では、得られる情報が少なく難儀することになった。
神奈川県は、政権がおかれていた鎌倉があり、神社仏閣が多く、数多くの街道が造られ利用されてきた。 中世の鎌倉は幕府がおかれたことで、政治
や文化の拠点であり、地元では鎌倉と連絡する「鎌倉道」と呼ばれている。 多くの街道に迷い苦慮したが、混乱を回避するため市史等を基本に、
原点である中世紀行文の足跡を普通の旅人が歩いた街道として捉え探索の中核とした。 この方針は、「京鎌倉往還」を報告する上では、道の選択に
極めて有効であるが、読者の地元の理解と異なる事例も想定されるが、ご理解をお願いしたい。
***鎌倉街道の推定遺構について***
 先述のとおり、鎌倉幕府政庁所在地であることから、連絡する「鎌倉道」が多数知られている。 その中で、鎌倉幕府が宿などを整備する手配を
行った京鎌倉往還(鎌倉街道)に、文学作品として残された紀行文で街道の風景がわかる紀行文の行程を紹介していきたい。
     
龍護山満福寺<鎌倉市腰越2>
真言宗 大覚寺派。 天平16年(744年)に行基が建立したと伝えられる。
 ご本尊は薬師如来像である。 源義経が「腰越状」を書いたところと
して有名である。 境内には弁慶が墨をする水を汲んだといわれる
硯池、腰掛け石がある。
  七里ガ浜<鎌倉七里ガ浜>
稲村ヶ崎から見た江ノ島と富士山。 浜辺の砂浜は
広いが、数年前に
海岸堤防及び河川整備が施工され、最近では砂浜が痩せ細っている
ことが気になる。 (2015.3.27撮影)
      
稲村ヶ崎・新田義貞徒涉伝説地碑<鎌倉市稲村ヶ崎2>
江ノ電・稲村ヶ崎駅から徒歩十分の鎌倉海浜公園(稲村ヶ崎地区)
小公園。 左の国道134号線沿いに「新田義貞徒涉伝説地碑」等が
建つ。  1333年(元弘3年)5月21日、大潮に乗じて稲村ヶ崎を
突破し鎌倉に攻め入った新田義貞は、
北条高時ら一族を勝寺
おいての自刃に追い込み、鎌倉幕府を滅ぼした。

国道は、昭和13年に海岸を通るバス道として雲仙山を切り開き建
設された。・・・旧鎌倉街道P43から引用
  稲村ヶ崎海岸部西<鎌倉市稲村ヶ崎>
崎の先端部。 鎌倉時代前半は、下記地図の赤い点線のように崖際
ないし砂浜を鎌倉街道が渡った。(筆者は海浜徒歩説を採用)
当時、極楽寺切通がなく、約30メートルの峠越えを避けるための浜道で
あった。 
     
稲村ヶ崎海岸部東
遊歩道が整備されているが、先端の崎近くで扉が閉じられている。
  稲村路(いなむらみち)<鎌倉市稲村ヶ崎>
江ノ電「由比ヶ浜駅」から南西に進む道がある。 国道を横断し、市営
プール近くの老人ホームで街道はとぎれている。 
その先は、海岸縁を
進む道(浜道)があったが、関東大震災(対象12年)で崩落し、ほとんど
滅失した。 一部、遺構が残されていたが、崩落する危険性があるため、
侵入禁止、通行止めとなっている。
出典:旧鎌倉街道 芳賀善治郎著 昭和53年10月さきたま出版会発行 
 <海道記>大磯・小磯から江の嶋を経て鎌倉へ(5)
     <一部・略>
 腰越と云ふ平山
(ひらやま)のあはひを過ぐれば、稲村(いなむら)
と云ふ所あり。 嶮(さが)しき岩の重なりふせるはざまをつたひ
行けば、岩にあたりてさきあがる浪
(なみ)、花の如くに散りかかる。
 
<憂身(うきみ)をば恨みて袖(そで)をぬらすとも
            さしてや波に心くだかん>
   <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 腰越という低い山の間を過ぎると、稲村
(いなむら)という所があった。 
 険しい岩が重なり横たわる狭い間を伝って行くと、岩にあたって打ち
 上げられる波は、花のように散りかかってくる。
  <つらい身を恨んで涙で袖を濡らすことはあっても、どうして波に
   袖を濡らさぬように心を砕かねばならぬのか>
     
極楽寺<鎌倉市極楽寺3>
真言律宗の寺院で霊鷲山感応院極楽律寺
(りょうじゅうせんかんのういん
ごくらくりつじ)、
開山は 良観房忍性。 正元元年(1259)建立、文永4年
(1267)北条重時が現在地に移転開山する。
  極楽寺切通<鎌倉市極楽寺1>
江ノ電
極楽寺駅前から長谷駅南の坂ノ下に連絡する鎌倉街道<極楽寺
切通>。 右の階段は、成就院入口である。 極楽寺開山の忍性が文永
4年(1267)以降に開削したと伝わる。 昔の道の高さは、成就院の山門の
高さという。 大正十年(1921)、切通しは自動車が通れるように、ぐっと
掘り下げられた。 出典:鎌倉の切通し・栄光学園 鎌倉の切通し研究会編
     
成就院東入口<鎌倉市極楽寺>
鎌倉市内側に下りる階段。 前方に相模湾の海が見える。 この
階段は約20メートルの高低差である。 三代執権北条泰時が
<1219年>成就院を建立。 真言宗大覚寺派の寺院。 1333年
新田義貞の鎌倉攻めで焼失し西ヶ谷に移ったが、1688年元禄元年
に<中興の祖 祐尊>により元の地に再建され、現在に至る。
  星ノ井<鎌倉市>
「星ノ井」は、別名「星月ノ井」又は「星月夜ノ井」と呼ばれ、鎌倉十井
一つ。
  昔、この井戸の中に昼間でも星の影がみえたことから、この
名がついたといわれている。 奈良時代の名僧・行基は井戸から出て
きた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩を
祀ったという伝説も伝わる。・・・説明版より引用
     
日限地蔵<鎌倉市極楽寺>
道行く人を守ってくれる地蔵です。地蔵の目の届く範囲であれば、
事故が起きても大事には至らないと言い伝えられています。

また、善男善女が邪心を捨てて清らかな心で期日を決めて願い
事をすれば、その期日までに功徳がいただけるありがたい地蔵で
ある。 このことから、日限地蔵と呼ばれるようになった。
・・・日限
六地蔵尊護持会設置説明版引用
  御霊神社(ごりょう)(権五郎神社:ごんごろう <鎌倉市坂ノ下4>
 平安時代後期の創建。 祭神景政公は、桓武天皇の末裔、平氏一門で
鎮守府将軍平良文が祖父、父は鎌倉権守景成。

 当時関東には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉のいわゆる関東平氏五家が
割拠しており、景政公はこれらの平氏五家と共に、鎌倉武士団を率い、
現在の湘南地域一帯を開拓した開発領主

「奥州後三年記」によれば、景政公は十六歳にして源義家に従い、奥州
後三年役に金沢の柵(秋田県)を攻めた折、鳥海三郎という者に右の眼に
矢を射込まれ、しかし彼はひるまずその矢を抜かずして答の矢を放って
相手を倒してしまった。 三浦の平太為次が景政の眼に刺さった矢を抜
こうと「つらぬき」(毛皮で造った靴)をはいたまま、景政の面部に足をか
けた。 すると景政は「弓矢に当たって死するは武士の本望だ。 なのに
土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と刀をかまえてその無礼を叱咤した。

 為次驚いてその無礼を謝し膝を以て押さえその矢を抜いた。 人々これを
見聞し景政の功名いよいよ高しと。 
 こうしたことから、景政の勇名は鎌倉
武士の誇りとなり、御霊神社の祭神として崇められるようになった。
・・・御霊神社HPから引用
     
長谷寺<鎌倉市長谷3>
正式には「海光山慈照院長谷寺」と号する。 開創は奈良時代の
天平八年(736)と伝え、聖武天皇の治世下に勅願所と定められた
鎌倉有数の古刹である。 本尊は十一面観世音菩薩像。
  鎌倉大仏殿高徳院<鎌倉市長谷4>
高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像。 造立が開始されたのは
建長四年(1252)。 制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも
伝えられている。 その後、大仏殿は台風や大津波のため倒壊し、室町
時代の末までには、今の「露坐の大仏」になった。 
     
六地蔵<鎌倉市由比ヶ浜1>
この付近にあった刑場で罪人の霊を弔うことを目的に祀られた。
  下馬<鎌倉市由比ヶ浜2>
鎌倉時代、下馬四ツ角から鶴岡八幡宮までは、馬の乗り入れが許されず、
参拝するときはここで馬を下りた。 
また、若宮大路を横切るときもここで
馬を下りて礼拝したことから「下馬」と呼ばれるようになった。
・・・HP鎌倉地帳から引用
     
小町通り<鎌倉市小町>
鎌倉地代の幹線道路。 鎌倉街道(京鎌倉往還)は、前方の大倉
幕府(政庁)
を出て、この道を南下し、後方の下馬から西進して
いた。 若宮大通の一本東にあるが、観光客はほとんど来ない
忘れられた道である。
  日蓮上人辻説法<鎌倉市小町2>
日蓮上人は建長5年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て松葉ヶ谷
(まつばがやつ)
<現在の長勝寺、安国論寺の辺り>に草庵を結んだ。
鎌倉時代、この辺りは武士の邸と商家町が混在した地域と考えられ
毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと
伝わる。  ・・・案内版の概要
     
白旗神社<鎌倉市西御門2>
現在は雪ノ下区の氏神社であり、境内は国指定史跡になっている。
鶴岡八幡宮とは、横浜国立大学付属中小学校で分断されているが、
境内社(職員の見回り管理あり)で重厚感のある立派な社殿である。
  源頼朝の墓<鎌倉市西御門2>
現在、墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の
死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれた。 墓の層塔(そうとう)は安永8年
(1779)に島津重豪(しまずしげひで)により大御堂(おおみどう)から移された
ものといわれる。国史跡に指定されている。 ・・・鎌倉市HPから引用
     
大倉幕府旧蹟碑<鎌倉市雪ノ下3>
清泉小学校南西角にある旧蹟跡碑。

治承4年(1180年)から、承久元年(1219年)まで39年間、鎌倉将軍
(鎌倉殿)の御所があった。 承久元年の焼失後は大倉北条義時
亭内南方の仮御所(1219~1225)を経て、宇都宮辻子御所(1225年
-1236年)、
若宮大路御所(1236年-1333年と四転している。
  荏柄天神社<鎌倉市二階堂>
長治元年(1104)晴天の空が突如暗くなり、雷雨とともに黒い束帯姿の
天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が社殿を建ててその画像を
納め祀った縁起に始まる。 福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮
と共に三古天神社と称される。 ・・・神社HPから引用
     
鎌倉宮<鎌倉市二階堂>
御祭神・護良親王は幼少より英明・勇猛にして父帝後醍醐天皇を
助けて鎌倉幕府を倒し平和な世を実現されて征夷大将軍・兵部卿に
任ぜられたが足利尊氏の陰謀の為に 鎌倉二階堂に幽閉の御身と
なり 建武二年御年二十八歳にて苦闘のご生涯を閉じられた。
明治天皇は親王への追慕の念 真に篤く 明治二年勅旨を以て一社
をご創建され御自ら社号を鎌倉宮と定められ 永く親王の御霊を祀
られました。 ・・・神社HPから引用
  鶴ヶ丘八幡宮<鎌倉市雪の下2>
源頼義が1063年(康平6)、由比郷鶴岡に京都の石清水八幡宮を勧請
(かんじょう)し鶴岡若宮を称したのが始まりといわれる。 源頼朝は治承
4年(1180)に現在の地に移し、鎌倉のまちづくりを開始、建久2年(1191)
には火災で焼けてしまったため、翌年うしろの大臣山(だいじんやま)にあった
稲荷社を隣に移し、そのあとに社殿を建て、現在の体裁となった。
段葛は,頼朝の夫人・北条政子が二代将軍・源頼家「を懐妊した時、安産
を祈って,養和2年(1182)3月,北条時政以下の御家人と共に,土石を運んで
築いた。 段葛は,道の中央に段2檀を築き緑石を兼ねる葛石を並べた
一段と高い道で,段葛の名はこの段の葛石にちなんでいる。 道は鶴岡
八幡宮,に向かって近つ”くほどに狭くなる遠近法を利用して、軍事上長い
道と錯覚させるためと云われる。 ・・・鎌倉市HPから引用
     
鎌倉幕府終焉の地・東勝寺跡<鎌倉市小町3>
鎌倉幕府終焉の地。 新田軍に敗れた幕府軍は鎌倉を突破され、
北条高時等一族870名が東勝寺で自害した。 ここに150年続いた
鎌倉幕府は滅亡した。
  和賀江島(わがえじま)<逗子市小坪5>
神奈川県鎌倉市の材木座海岸の外れ、逗子市との境目にある鎌倉時代
の港の跡。 現存する日本最古の港湾施設の遺構であり、昭和二十九年
(1954)に国の史跡に指定されている。
見た目は人の頭くらいの丸い石が広がっているだけで港の跡だとはわから
ない。 普段は一部を除いて水没してしていて島のような外観だが、大潮
などで潮が引いた際には陸地と繋がる。
(令和2年12月23日 午後5時頃撮影) 干潮と夕暮れの明るさを気にしての
撮影であった。 正面が富士山で手前が稲村ヶ崎と極楽寺坂(切通し)が
わかる。 左が江ノ島である。 切通しがないと、小さな山を越えることに
なるが、以前は稲村ヶ崎の浜路を通ることが通常であった。


阿仏尼の足跡について 
     
阿仏邸旧跡碑<鎌倉市極楽寺3>
この石碑の場所に住んでいたわけではありませんが、この先が
「月影ヶ谷」となります。 この谷の何処かに居を構えていたようだ。
  月影地蔵<鎌倉市>
月影というのは、ここから南西に山を越した所にある月影ガ谷からきて
いる。 月影地蔵堂の横の谷にある墓地から山道を上り、尾根道を海
側に下るとそこが月影ガ谷である。  鎌倉時代にはそこにあったが、こ
ちらに移って来たとされる。<極楽寺の小寺が多数あった>
月影ガ谷には、「十六夜日記」(弘安6年(1283年)頃に成立か)の作者
で知られる阿仏尼が住んでいた。
月影地蔵堂のある境内は、極楽寺の塔頭跡かの廃寺跡の一角に地蔵
堂が建てられ、月影地蔵尊が移って来たのだろう。・・・traver.jpから引用
 <十六夜日記・東日記> 
 東(あずま)にて住む所は、月影の谷(やつ)とぞいふなる。 
浦近き山もとにて、風いと荒し。 山寺の傍らなれば、のどかに
すごしくて、波の音、松の風絶えず、都のおとづれはいつしか
おぼつかなき程にしも、宇津の山にて行きあたりし山伏の
たよりに、ことづてもうしたりし人の御もとより、たしかなる便
(びん)につけてありし御返事(かえりごと)とおぼしくて。
一部略
都を出でし事は神無月
(かんなづき)の十六日なりしかば、いさ
よふ月を思
(おぼ)し忘れざりけるにや、いと優しくあはれにて、
ただこの御返事ばかりをぞ、又聞ゆる。
    <めぐりあふ末をぞ頼む
        ゆくりなく空にうかれし十六夜の月>

   <十六夜日記・東日記>
     <解説>
中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  鎌倉で住む所の名は月影(つきかげ)の谷(やつ)というそうだ。 海岸に
近い山裾で、風がひどく荒い。 山寺のそばなので、ひっそりと物寂しく、
波の音、松風が絶えず聞えるばかり、都からの音信が早速にも待ち
遠しい折りしも、宇津の山で行きあった山伏に託しておことづけをした
方の所から、確実な便に頼って、いつぞやのお返事と思われるお手紙を
いただいた。
 <一部・略>
 都を出発したのは十月十六日であったから、あの十六の月をお忘れ
にならなかったのだろうか、本当に優しくいじらしくて、ただこの歌の
お返事だけを、また申し上げる。
<再会する将来を頼みにしておりますよ。 あてもなく旅の空に
 浮かれ出た、十六夜の月のような私は>
     
阿仏尼の墓<鎌倉市扇ガ谷1>
JR鎌倉駅から湘南新宿ライン沿いを約600メートル北上した英勝寺の
直ぐ北にある阿仏尼のやぐら(洞窟形態の墓)  文書等史料がなく、供
養塔とも見えるが、不明である。 なお、京都・大通寺にも阿仏尼の墓
がある。
  泉ノ井<鎌倉市扇ガ谷2>
鎌倉十井の一つである。 十井の中では、比較的原型がよく残されて
いる。 
往時の勢いはないが、今でもきれいな水がでている。
・・・画面にある白い説明版より引用
     
真言宗泉涌寺派泉谷山浄光明寺<鎌倉市扇谷ガ谷2>
真言宗の高僧だった文覚上人の坊として前身が開かれた。 建長三年
(1251年)に執権北条時頼公により本格的に寺院化された。
京都の上流貴族ながら鎌倉幕府と非常に関係が深かった冷泉為相公
の御廟が裏山境内山中に存在する。 
  冷泉為相公の墓<浄光明寺裏山> ・・・国指定史跡
藤原定家の孫で、母は十六夜日記の作者・阿仏尼である。 為相は
歌学・連歌の造形が深く、荷風は広く知られている。 永仁三年(1295)、
鎌倉に下り、嘉歴三年(1328)、この地に没した。