第七章 静岡県中部(駿河)の鎌倉街道 
島田市から藤枝市岡部の鎌倉街道 
はじめに
遠州(湖西市から掛川市)から大井川を渡ると、駿河国に入る。 牧之原台地を下りて大井川を渡る地点は、古代から中世、近世江戸東海道と年代に
よって上流に移っている。 中世時代の紀行文によると、幾筋にも分流した大井川は、渡河に難儀した。 堤防がない時代のため大雨時には藤枝駅
周辺まで水浸しとなった。 戦国時代末期、大井川の河川改修が行われ、近世東海道の道筋が安定した。 中世時代は紀行文では大井川の中州などを
たどったとされる。 街道遺構は残っていないが、紀行文で道筋をたどることは可能で、ここでは紀行文に従って進んでいる。
しかし、幾筋にも流れる大井川は、洪水で地形を変えており、絶えず道筋は変化しており、また複数の道筋も想定されるが、ここでは割愛した。
***鎌倉街道の推定遺構について***
「静岡県歴史の道・東海道」
は、中世紀行文の行程を初倉から前島、藤枝、岡部としている。 江戸時代東海道の行程では出てこない。初倉から大井川を
渡ったことが記録されており、鎌倉時代の主要街道であったことは確実である。 このことから、初倉から前島、藤枝、岡部のルートを進めていきたい。
参考資料
○「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会   
〇島田市史・昭和53年3月発行<島田市>
○藤枝市史・ 平成22年3月発行<島田市>
島田市東部から藤枝市岡部のイメージ 
 
 島田市西部の近世東海道
     
島田宿大井川川越遺跡<島田市>
大井川横の市博物館から東約3百メートルの旧東海道街道遺跡は昭和
41年(1966)、国指定遺跡となり整備されている。 ここは、川の深さなど
を測って川越しの料金を決めたり、川札(かわふだ=切符)の販売の
ほか川留めや、川開けなどを取り仕切った川役人がいた川会所である。
  番宿<島田市>
川越人足の詰所。川越人足は一から十までの組に分けられ、各
番宿にて待機していた。現在は三番宿、十番宿を公開している。
     
大井神社<島田市大井町>
創建不詳なれど、三代実録巻11に貞観7年(西暦865年)の記載がある。
島田に鎮座の記録が残っているのは建治2年(西暦1276年)8月のこと
で、その後、大井川の度々の洪水によって神社の位置が変わった
ようだ。 慶長9年(西暦1604年)7月の大洪水で、島田の町と共に大井
神社は現在の元島田の野田山へお遷しされた。
元和元年(西暦1615年)になり、島田の町も元の町並みに戻り、元禄2年
(1689年)現在の御社地にお遷しされた。 (大井神社HPから引用)
  帯まつり<島田市>
3年に1度、10月中旬に開催される島田大祭。 大井川鎮護や安産
の神として信仰されている大井神社の祭りで、1695年(元禄8年)に
神事祭式が定まり、初めて神輿が渡御(とぎょ)されてから令和元年
で109回を数える。(令和元年は台風のため規模が縮小され開催)
現在では一般に「帯まつり」の名で知られ、その名は島田宿に嫁いで
きた女性が安産祈願を大井神社にお参りしたあと、宿場内に帯を披
露していたものが、いつしかお嫁さんの代わりに大奴が金爛緞子
(きんらんどんす)の丸帯を太刀に掛けて練り歩くようになったことに由来
し、日本三奇祭に数えられている。
(島田市HPから引用)
 中世までの島田市西部の街道
     
古代小川駅跡・小川(こがわ)城趾<焼津市西小川>
古代延喜式東海道・小川駅の推定値付近。当時の史料はないが
古代東海道の行程から当地ではないかと推定されている。 最近、
宅地化が進展し、遊歩道の一画にあるため探索に苦労した。
江戸時代に記された「駿河志料」に法永(ほうえい)長者の旧蹟と記
される。 15世紀後半に「山西の有徳人」と慕われた法永長者長谷
川正宣
(まさのぶ)の拠点となぅたと考えられる。 長谷川氏の時代は
陸路の要衝であると同時に、海運の基地である「小川湊
(こがわみなと)
も支配下におき、今川氏と連携して勢力を誇った。 (中央説明板
より引用) 幼少時、家督争いがあり、今川氏親は母親と小川城に
身を寄せていたことがある。
  焼津神社<焼津市焼津>
社伝では、景行天皇(第12代)40年7月に日本武尊は東征に際して
当地で野火の難を逃れたとし、日本武尊の功徳を敬って神社が創
建されたとする。
この伝説から、この地は「ヤキツ」といわれるように
なり、現在の「焼津(やいづ)」という地名の由来となったのです。
(焼津神社HPより引用) 
     
大崩(おおくずれ)の道跡<焼津市浜当目>
古代から焼津から静岡へ向かう陸のルートには、日本坂の他に
大崩を通る道があった。 大崩には海岸沿いと尾根沿いの二つの
ルートがあり、虚空蔵
(こくぞうさん)下の海岸を通る道は、東海の親
不知
(おやしらず)といわれた。 現在は海食により、通ることはでき
ないが、昭和初期には海岸を歩いて静岡の学校へ通っていたという
話を聞いた。 冬には、右海上に冠雪の富士を見ることができる。
<焼津辺
(やきつべ)文化遺産ガイド・焼津市文化財課発行
  花沢の里<焼津市花沢>
焼津市北方の山間部の谷地にある約30戸の山村集落。中央に
奈良・平安時代の東海道と云われる「やきつべの小径」と「花沢
の里」がある。建物は江戸時代の主屋(しゅおく:母屋)や付属屋が
散在的に残る。平成26年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」
に選定された。
 (令和2年4月4日撮影)
     
<万葉歌碑><焼津市花沢>
花沢の集落奥、法華寺近くの万葉歌碑。
   焼津辺(やきつべ)に わが行(い)きしかば駿河なる
   阿部
(あべ)の市道(いちじ)に逢いし児(こ)らはも        
              春日蔵首老
(かすがのくらびとおゆ)
 <かって焼津に私が行った時、阿部の市へ通う道で
 逢った娘たちがいたが、今頃どうしていることだろうな>
 
  *阿部市
(あべのいち)
   「静岡県歴史の道・東海道」では諸説あるが、静岡市人宿町,
   七間町周辺とみる説が古くからあると紹介している。
 
  前島(まえじま)神社<藤枝市前島>
境内の由緒説明によると約4百年前の天正年間(1575年)創建と
ある。 住所表示が変更され、前島の地名を説明しがたいので、
中世ではないが、引用した。
中世の大井川には堤防がなかった。 大井川本流から約3キロ
離れた当前島まで川原であったと推定されている。
 <海道記>大井川・藤枝・岡部・宇津山・手越(2)
 前島(まえしま)を過ぐるに波は立たねど、藤枝(ふじえだ)の市を
 通れば、花は咲きかかりたり。
    <前島の市には波の跡もなし
         みな藤枝の花にかへつつ>


<海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 前島を過ぎた時は波は立たなかったが、藤枝の市街を通ると
 藤の花はまだ咲き残っている。
  <前島の市では、島というけれど波の立った様子もない。
    みな藤枝の里の花に変わって、藤の波となったようだ>
 
  <東関紀行>遠江路 ー 大井川を渡り、前嶋の宿に至る(2)
前嶋
(まへしま)の宿を立ちて、岡部(をかべ)の今宿(いますく)
打ち過ぐるほど、片山の松のかげに立ち寄りて、乾飯

(かれいひ)
 など取り出でたるに、嵐(あらし)すさまじく梢(こずえ)
ひびきわたりて、夏のままなる旅衣
(たびころも)、薄(うすき)
(たもと)も寒くおぼゆ。
   <これぞこの頼む木のもと
          岡べなる松の嵐よ心してふけ>

<東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 前嶋の宿場を出立して、岡部の今宿を通り過ぎる時、片側の山
の松の木陰に立ち寄って弁当などを取り出していると、激しい風が
荒々しく梢に鳴り渡って、夏物のままの旅の薄い袂のあたりが肌
寒く感じる。
 <これこそが私が休息の陰
(かげ)と頼む木のもとだから、岡べの
  松に吹く激しい風よ、それに気を配って吹いておくれ>
     
古東海道蹟<藤枝市青島>
県道222号(青島焼津街道)の島田市立青島小学校東南の古東海
道蹟碑。  県道の南には、東海道追分碑が建っている。
青島史跡保存会が平成6年(1994)建立したものである。 両碑の
説明板によると、当地は、池や湿地が多く、水を避けて瀬戸山の
裾を古東海道が通っていたという。 また、追分では、前島からの
道と合流し、南新屋(藤枝宿入り口)に向かっていたと
説明されている。 大井川渡河の前島が認識されている。
  鏡池堂(きょうちどう)<藤枝市瀬戸新屋町>
古東海道蹟碑の近くにある。 お堂横の由来によると歴史的にも
古く、東海道筋の霊験あらたかな由緒ある霊場としてよく知られて
おり、駿河国二十四番札所第九番の霊地に指定されている。
六地蔵尊は、この近くに神龍が済んでいたと伝えられる鏡池から
出現し、庶民の安寧祈願のため玄昌上人によって約八百年前の
承安三年(1171)に池の畔に祀られたと伝えられる。 正徳三年
(1713)、この地を治めていた大草太郎左衛門によって男子が授か
ったお礼に、堂宇を当地に新築移転し「鏡池堂六地蔵尊」として秦
安した。 また、お堂の扁額は渡辺崋山が揮毫した。
・・・境内設置の六地蔵尊由来から引用
     
「志太郡衙(ぐんが)跡」<藤枝市南駿河台>
奈良・平安時代の藤枝市西側8郷の志太郡を領域として収税と
租税を納めた正倉(しょうそう)の管理を主として担当した国の
出先機関があった。昭和55年10月22日国史跡に指定
 
  白子由来の碑<藤枝市本町2>
天正十年(1582)、本能寺の変がおきた時、泉州にいた徳川家康
は三河に逃れる途中、伊勢国白子の孫三に助けられた。 その後、
現在の本町周辺を白子町として孫三に居住を許し、諸役免除の
御朱印が与えられた事などが刻まれた碑が子孫の眼科医院前に
設置されている。
     
久遠(くおん)の松<藤枝市青島>
高さ25メートル、枝張り28メートルの黒松の大樹である。
建長五年(1253)の早春、日蓮上人が比叡山で勉学した帰り道、
ここに立ち寄って記念に植えたものと伝わる。
  笠懸松と西住の墓<藤枝市川原町>
西行が岡部宿にさしかかった時、荒れ果てた小さなお堂に都で
共に修行した西住の笠が懸かっているのを見つけた。 「我身
(わがみ)(いのち)を惜(お)しまず、ただ惜しむ無上道(むじょうどう)」。 
ここは歌聖として有名な西行が西住と東国に旅をした時に天竜
川の渡し場でおきた悲しい物語の舞台である。
     
小野小町の姿見の橋藤枝市岡部
世界三大美人の一人、絶世(ぜっせい)の美女と世にうたわれた
小野の小町は、父を良貞といって出羽守であった。 その一女として
生まれた小町は幼い頃からすぐれた才能に恵まれ、その上に顔
かたちがすぐれ、人々の話題にのぼり大評判であった。  晩年に
なったある時、京都から東の国へ行く途中に岡部の宿に泊まった
ことがあった。 長旅と病弱の身のため、いつとはなくやつれてしま
った。 小町はこの宿場の橋の上で立ちどまり野山の景色の美しさ
に見とれていたが、ふと眼を橋の下の水面に移し、水にうつっている
自分の姿を見つけた。 自分の姿がひと頃の姿とかわり、やつれ果
てていてあまりの変わりように自分の老いの身をなげき悲しんだので
ある。 すぎし昔の面影はどこにも残っていなかったのである。 水に
映った姿を疑いつつ岡部の宿を旅立っていったという。
  岡部宿・大旅籠柏屋<藤枝市岡部>
江戸時代に建てられた「大旅籠柏屋」は、建物そのものが資料館
として見学できる。 また、一画には、売店、飲食施設があり、ゆっ
くり見学できる。



 島田市から静岡市西部(手越)の鎌倉街道
はじめに
街道は、中世から利用されてきた藤枝宿を通り、岡部宿、手越宿と進む。 鎌倉時代に宿として整備された丸子宿の間を宇津ノ谷峠の難所を通る
ことになるが、中世時代は東側の急坂を登ることになる。 戦国時代、豊臣秀吉の小田原征伐み際して、大軍が移動できる道が必要となり、西側に
新しい道が整備され、江戸時代東海道の本線として利用されてきた。
交通要路の特徴として、先の街道以外に明治時代のトンネンル、昭和時代のトンネル、平成のトンネルと5本の道が集中している。
***鎌倉街道の推定遺構について***
「静岡県歴史の道・東海道」
は、中世紀行文の行程を初倉から前島、藤枝、岡部としている。
江戸時代東海道の行程では出てこない初倉から大井川を渡ったことが紀行文で記録されており、鎌倉時代の主要街道であったことは確実である。
このことから、初倉から前島、藤枝、岡部のルートを進めていきたい。 
また、安部川渡河については、あまり知られていないが、藁科川と安倍川の合流地点にある舟山島経由を提唱したい。 中世時代までは、ここでも
川の反乱が常態で、徳川家康時代に建設された薩摩土手で安倍川の流れが安定し、合流する現在の形態となったが、静岡市史でも詳細不明と
しており、説明できないことをお断りせざるを得ない。
参考資料
○知られざる万葉の道 ふるさとの東路 滝本雄士著 昭和57年12月発行・平成7年4月改訂
○新丸子路考 春田鐵雄著 昭和58年8月15日発行 
 
     
坂下地蔵堂<藤枝市岡部>
建立年代、建立年次は不明であるが、元禄十三年(1700)、再建
された。 霊験あらたかと村人たちに信仰され、霊験のあらたかさ
を示す、「鼻取地蔵」、「稲刈地蔵 」の伝説が残されている。 堂内
に地蔵菩薩像が安置され、宇津ノ谷を越えようとする旅人の安全を
守り、堂前の木陰は旅人の疲れを癒やした。
・・・藤枝市教育委員会作成の現地説明板から引用
  (つた)の細道<藤枝市岡部>
岡部宿と丸子宿 の間にある宇津ノ谷峠。 平安時代から中世まで
利用された宇津ノ山を通る官道をいう。 それ以前の東海道は日本
坂を経由していたが、通過容易なこの道が開かれ次第に主要な
道となった。 その後、豊臣秀吉が小田原攻めの際、新しい道を峠の
北側に整備、江戸時代の東海道となった。
     
(つた)の細道<藤枝市岡部>
伊勢物語「第九段東下り」(平安初期)の一節に
「ゆきゆきて駿河にいたりぬ。 宇津の山にいたりてわが入ら
むとする道はいと暗う細きに、蔦かえでは茂り、もの心細く」

  以下、略
蔦の細道の名の由来もこの「伊勢物語」によるとされる。 宇津の山
は歌枕となって、とくに新古今時代以降、「伊勢物語」を下敷きにして
宇津の山を詠む和歌は非常に増えた。
参考:・・・物語の舞台を歩く・・・十六夜日記(田淵句美子著)
  峠の頂上<藤枝市岡部・静岡市>
蔦の細道のほぼ中間の「峠の頂上」展望台。(令和元年12月15日撮影)
鎌倉時代初期には、治安が保たれていなく、承元4年(1210)6月12日、
三代将軍源実朝の夫人丹後局(たんごのつぼね)の一行が京より
鎌倉へ下る途中、「駿河国宇津山」で群盗のために所持していた財宝
や装束を一切盗み盗られるという事件があった。
<藤枝市史 通史編上 P438>
<海道記>大井川・藤枝・岡部・宇津山・手越(3)
岡部の里邑
(さと)を過ぎて遙かに行けば、宇津の山にかかる。
この山は、山中に山を愛するたくみの削り成せる山なり。 碧岸
(へきがん)の下に砂(いさご)長くして巌(いはほ)をたて、翠嶺
(すいれい)
の上には葉落ちて壌(つちくれ)をつく。  腕を背に負ひ、
(おもて)を、胸にいだきて、漸(やうや)くのぼれば、汗、肩袒
(けんたん)の膚(はだ)に流れて、単衣(たんい)おもしといへども、
懐中の扇を手に動かして、微風の扶持可
(ふちか)なり。 かくて、
森々
(しんしん)たる林を分けて、蛾々(がか)たる峰を越ゆれば、
貴名
(きめい)の誉(ほまれ)はこの山に高し。
<一部略>
足に任するものは、苔の岩根、蔦の下路
(したみち)、𡸴難にたへず。
暫くうち休めば、修行者一両客
(いちりゃうかく)、縄床(じょうしゃう)
そばにたてて、又休(またきゅう)す。
  <立ち帰る宇津の山臥(やまぶし)ことづてん
      都恋ひつつ独
(ひと)り越えきと>
手越の宿に泊りて、足をやすむ。
   <海道記><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 岡部の里を過ぎて遙かに行くと、宇津の山にかかる。 この山は
山中に山を愛する工匠が削って作った山だ。 碧
(みどり)の岸の下
には、砂地が長く続いて大きな岩が立ち、青い峰の上には葉が落ちて
土がついている。 腕を背中に回したり顔を胸で抱くような格好でだん
だん登ると、汗が肌脱ぎの肌に流れて、濡れた単衣(ひとえ)も重いの
だが、懐中の扇を取り出して手で動かすと、生ずる微風に助けられて
とてもよい。 こうして生い茂る林を分けて、厳しく聳え立つ峰を越えて
くると、名所としての評判は本当だ。
 <一部略>
足に任せて歩いて行く所は、苔の生えた岩、蔦の下の道で、その険しさ
には耐えられない。 しばらく休んでいると、修行者が一人、二人、縄で
作った腰掛けを立てて休んだ。
 <宇津の山から都へ立ち帰る山臥(やまぶし)にことづけよう、私が
  都を恋しく思いながら一人で山を越えたと>
手越の宿に泊り、足を休める。
<東関紀行>駿河路 ー 宇都山にて修行僧の庵を訪ねる
宇部
(うつ)の山を越ゆれば、蔦(つた)かづらは茂りて昔の跡た
えず。 かの業平
(なりひら)が修行者(すぎやうざ)に言伝(ことづて)
しけんほど、いづくなるらんと見ゆくほどに、道のほとりに札
(ふだ)
を立てたるを見れば、無縁の世捨人(よすてびと)あるよしを
書けり。

<一部略>
峠といふ所に至りて、大きなる卒塔婆
(そとば)の年経(としへ)
けると見ゆるに歌どもあまた書き付けたる中に、「東路
(あづまじ)
は、ここをせにせん宇津の山哀れも深し蔦の細道」と詠める。 
心とまりて覚ゆれば、その傍
(かたわら)らに書き付けし。
 <われもまたここをせにせん
  宇津の山わきて色ある蔦の下露>


<東関紀行><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 宇津の山を越えると、蔦かずらが今も茂っている昔の有様が残って
いる。 あの業平が修行者に都への言伝
(ことづて)をした辺りはどこ
であろうかと注意しながら行くと、道の傍らに札が立ててあるのを
見ると、この世と縁を絶った世捨人がいることが書いてあった。
 <一部略>
峠という所に到着し、大きな卒塔婆の随分と古くなっていると思わ
れるものにいろいろな歌がたくさん書きつけてある中に
「東路はここを東海道の中で第一としょう。 蔦の下道の情緒が
実にすばらしいから」と詠んである。
それが面白く思われたので、私もその傍らに書き記した。
 <わたしもまたここを東海道で最高の所としましょう。 この宇津
  の山は特別に色づいている蔦の下の露があるのだから> 
  <十六夜日記>駿河路 ー大井川より田子の浦まで(2)
宇津の山越ゆる程にしも、阿闍梨(あざり)の見知りたる山伏、行き
あひたり。 「夢にも人を」など、昔をわざとまねびたらむ心地
(ここち)していと珍(めづら)かに、をかしくも、あはれにも、優しくも
覚う。  「急ぐ道なり」と言えば、文
(ふみ)もあまたはえ書かず、
ただやむごとなき所一つにぞおとずれ聞ゆる。
   <我が心うつつともなし宇津の山
        夢路
(ゆめじ)も遠き都恋ふとて>
   <蔦
(つたかえで)時雨れぬひまも宇津の山
        涙に袖の色ぞこがるる>

今夜
(こよひ)は手越といふ所にとどまる。 某(なにがし)の僧正とか
やの上
(のぼ)りとて、いと人しげし。 宿りかねたりつれど、さすが
に人のなき宿もありけり。

<十六夜日記<解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
ちようど宇津の山を越える所で、阿闍梨の知り合いの山伏に
行き逢った。 「伊勢物語」の「夢にも人を」の歌の情景をわざと
まねしたような感じがして、大変意外にも、面白くも、あわれにも
優雅にも思われる。 「急ぎの旅です」と言うので、ことづけたい手紙も
たくさんは書けず、ただ一番大切なあの方の所だけに音信申し上げる。
  <私の心は旅を現実とも思えません。 ここ、宇津の山でも
     夢の中でさえ遠い都をひたすら恋しく思って>
  <蔦や楓が時雨で紅葉しない間でも、宇津を越える私の衣は
     涙で袖の色が真っ赤になります>
 今夜は手越(てごし)という所に泊る。 何とかいう名の僧正の上洛
 だといって、大変、人が多い。 宿が取りにくい様子だったが、それ
 でも人のいない宿もあって、どうやら泊まれた。
   参考 *阿闍梨・・・都から同道した子息の僧
     
手越宿・丁子屋(ちょうじや)<静岡市駿河区丸子>
「吾妻鏡」文治五年(1189)十月五日に 、源頼朝は軍功の賞として
手越平太家綱に駿河国麻利子一色を賜り、宿の設置を認めた。 
中世の手越宿の始まりとされる。
丁子屋は、慶長元年(15966)、丁子屋平吉が宿場の茶屋として創業。
とろろ汁が名物のお店。 近世東海道五十七次、二十番目の宿場
「丸子宿」  歌川広重の「東海道五十三次」<丸子宿>に描かれて
いるが、中世の手越宿との位置関係は不明。
  手越原古戦場跡<静岡市駿河区みずほ>
建武2年12月5日、後醍醐天皇が足利尊氏追討を新田義貞に命じた
新田軍と足利軍との合戦である。 両軍は安部川右岸の手越河原で
激突。 正午から夜八時まで17回の激闘の末、新田軍が夜襲に成功し、
足利軍は鎌倉に引き揚げた。・・・出典:ウイキペディア
     
久能山東照宮<静岡市駿河区根古屋>
徳川家康公を祀る全国の東照宮の中で最初に創建された神社。
家康公が75才で亡くなると遺言により久能山に埋葬され、二代将軍
秀忠の命によって1年7ヶ月で造営された。平成22年、本殿、石の間
拝殿が国宝に指定された。  
  史跡・久能山<静岡市駿河区根古屋
太古久能山は日本平と共に平野であったが、その後隆起によって
出来たもので、昔は日本平と続いていたが、長い年月の間に浸食
作用等のため堅い部分のみ残り現在のように孤立した山となった。
『久能寺縁起』によると、推古天皇の御代(7世紀頃)秦氏の久能忠
仁が初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し補陀落山
久能寺と称したことに始まる。 久能山の名称もここから起こる。
久能寺は平安朝の仏教隆昌と共に多くの僧坊が建てられ、僧行基、
伝教大師等を始め多くの名僧知識が相次いで来往し、平安末期から
鎌倉初期にかけては、360坊、1500人の衆徒をもつ大寺院となった
という。 ところが、鎌倉時代中期の嘉禄年間(1225年~1227年)
山麓の失火によって類焼し昔の面影はなくなった。
永禄11年(1568年)には、武田信玄公は当山が要害であることを聞き、
久能寺を近くの北矢部(静岡市清水区、今の鉄舟寺)に移し山上に
城砦を設け久能城と称した。 天正10年(1582年)武田氏が亡びて駿河
国一帯が徳川氏の領有するところとなったので久能山も自然と徳川
氏のものとなった。・・・参考:久能山東照宮HP「久能山の歴史」 
<海道記>四月十三日、久能寺・清見が関から蒲原へ(1)
十三日、手越を立ちて、野辺を遙々と過ぐ。 (一部略)
宇度
(うど)の浜を過ぐれば、波の音、風の声、心澄む処(ところ)
なん。 浜の東南に霊地の山寺あり。 四方
(しほう)高く晴れて、
四明天台
(しめいてんだい)の末寺なり。 堂閣繁盛(どうかくはんじょう)
して 本山中堂(ほんざんちゅうだう)の儀式をはる。 一乗読誦
(いちじょうどくじゆ)
の声は、十二廻(くわい)の中(うち)に聞えて絶ゆる
事なし。 安居一夏
(あんごいちげ)の行(ぎょう)は、採花汲水
(さいくわきふすい)の勤(つとめ)(げん)を争ふ。 (一部略)
伽藍の名を聞けば、久能寺と云ふ。 行基菩薩
(ぎょうきぼさつ)
建立、土木、風きよし。 本尊の実
(じつ)を尋ぬれば観世音と申す。
補陀洛山の聖容
(しゃうよう)、出現月(つき)明らかなり。
     (一部略)
  <袖ふりし天津(あまつ)乙女(おとめ)
      羽衣の面影
(おもかげ)にたつ跡のしら浪>
   
 <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 十三日、手越を出立して、野辺を遙かに遠く過ぎる。 (一部略)
 宇度の浜を過ぎると、波の音や風の声のおかげで心が澄む所だ。
海岸の東南に、神聖な所に立つ山寺があった。 四方が広々と見渡
され、天台宗比叡山延暦寺の末寺である。 諸々の建物があって盛
んで、本山の根本中堂に倣った儀式を立派に守り行っている。 法華
経を読み上げる声は、一年中聞こえて絶えることがない。 夏三ヶ月
の僧の修行は、花を採り水を汲んで、仏に供えるお勤め行われており
、修行の効果を互いに競っている。 寺の名を聞くと、久能寺という。
行基菩薩が建立したもので、建物の様子は清々(すがすが)しい風が吹く
かのようだ。 本尊を問うと、観世音菩薩と申す。補陀洛山の観世音の
聖なる姿がここに出現し、明月のように照らしているのである。 
 (一部略)
  <袖を振って舞った天女の羽衣の様子を思わせるように、
   その去った跡にたっている白い波であるよ>
  補陀洛山鉄舟寺<静岡市清水区村松>
上欄の「史跡・久能山」の記載のとおり、永禄11年までは、久能山の
補陀洛山久能寺であったが、武田信玄により現在地に移された。
幕末頃、無住となったが、山岡鉄舟により再興された。  
     
 三保松原(みほのまつばら)<静岡市清水区区>
約7キロの海岸に三万本の松が茂る三保松原は富士山の構成
資産として平成25年6月、世界文化遺産に登録された。 歌川
広重の浮世絵や数々の和歌などに表現されている。
また、一角に、天女が舞い降りたと伝わる「羽衣の松」がある。
文・「ぶちりょこ静岡」(平成31年2月発行・静岡市観光ガイドから引用
海道記は、この浜辺を過ぎると、松の風は上品な琴の音であり、
波の音は鼓を打つ音のようで、天人の昔の音楽を今そのまま聞く
ようであると賛美している。
   江尻(えじり)城趾<静岡市清水区区江尻町>
現在は、市立清水江尻小学校として利用されている。 当時の史料は
ないが、小学校正門近くに「江尻まちづくり推進委員会」名の江尻城趾
説明板が掲示されている。(上記写真参照)
永禄三年、桶狭間で今川義元戦死後、永禄十一年、武田信玄は駿河
に攻め入り、巴川が蛇行するこの地に急いで城を築いた。 十年後の
天正六年、穴山梅雪は城を大改築すると共に江尻を城下町とする本格
的な城となしたが、天正十年、西から攻めてきた徳川家康に降伏し、
城を明け渡した。 慶長六年(1601)、廃城となったが、お城に関連した
地名が今も残っている。