第八章 静岡県東部<富士市>の鎌倉古道(街道)について
富士市は、西を富士川流域、東を浮島ヶ原地域で構成され,北部には、日本一の富士山とその南麓が市街地近くまで迫っている。 南部は駿河湾
に面しており、海岸には、高さ10m位の砂丘地帯がある。  運が良ければ新幹線の中から富士山が見えるが、冠雪の富士山が一番好きである。
背景の関係から富士川周辺から見る富士山が特に良いと思える。 諸説あるが、万葉歌人の山部赤人が「富士の高嶺」と詠んだ場所の一つと
推測される。 
このように優れた風景であるが、東海道新幹線新富士駅から富士山を望むと近くに多くの煙突を見ることになる。 吉原公園西に「富士南麓
製紙業発祥の地」碑があり、豊富な伏流水を利用した製紙産業が明治22年から始まり主要産地として富士市が発展してきたことがわかる。
残念なことに昭和40年代頃までは、全国的に煤煙や汚水・ヘドロ等公害が社会問題となった。 富士市でも住民運動の成果と公害関係法規の
整備により、公害問題は解消したと思うが、多数のエントツの存在感は重過ぎるものがある。 富士市役所はエントツ名簿を作成し、平成3年度
調査で高さ5m以上のエントツ272本の景観形成基準の指導を行っている。 大きなエントツと排出される水蒸気を中心とした煙は、何んとなく
不安を感じさせるが、富士市内を街道調査のため、全体で自転車で三日、歩きで二日間過ごしたが、目や鼻に感じる異常が無く、他所と変わりが
なかったことを確認した。
さて、中世までは富士川は十六夜日記で阿仏尼が15瀬を渡ると書いた乱流地帯であった。 本流は東にあり、河口は田子の浦港周辺とされ、
現在の市街地の西半分は乱流地帯の中と推測されている。 富士市史によると、富士川は大きな流域面積に比べて、下流の扇状地の広がりが
あまりにも小さく、また長大な川であるにもかかわらず、その下流部が極端に短いという特性を持っている。 このことから富士川の急流で運ばれ
た土砂は駿河湾に注ぐが、汐の流れと南風で海岸に運ばれ、砂嘴となり堆積し、高さ10m以上の砂丘を作り、西は富士川から東は沼津港までの
広大な砂丘となっている。 そして、この砂丘は広大な浮島ヶ原の海側を締め切り、湾口等が閉じ込められて潟湖(ラグーン)となってきた。 潟湖
は、大小の沼が点在し、総称して浮島沼と呼ばれていた。 沼の周囲は、浮島ヶ原と呼ばれていた約20平方キロメートルに及ぶ湿地帯であった。
海面との標高差がほとんどないため、大雨や高潮の被害が多く、昭和30年代まで腰や胸まで水に浸かって田植えを行う程であったが、昭和30年
代頃までに治水事業等が施工され、現在は美田となっている。
この地理のため、古代の東海道は市街地の北側の県道22号を遺構とする根方道を、中世時代は、富士川河口を渡河し、田子、鈴川、柏原、沼
津市原町と進む浦方道、江戸時代東海道は、高潮を避け、2古街道のほぼ中間地にと変遷してきた。
参考資料
〇「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会
〇ホームページ<静岡の「みち」>
〇富士市史(上巻) 〇「ふじさんぽ」(富士市観光ガイドブック・マップ付)2016・3富士市観光課
〇富士市の歴史文化探訪<富士山>・平成28年3月発行(市民部文化振興課)
〇守りたい貴重な自然<浮島ヶ原自然公園>(都市整備部みどりの課)
〇御ア坂(みさきさか)のいわれ・吉永郷土研究会(御ア神社前にチラシ配布ボックスあり)
***アドバイス
〇新富士駅観光案内所(源太坂碑の場所というマニアックなことを丁寧に調べて教えていただきました。)
〇鰍bREEK<富士市宮島>小林社長 (富士飛行場跡や田子の歴史について教えていただきました)
***レンターサイクル
 〇富士グリーンホテル(平成29年9月7日)  〇新富士駅観光案内所(平成29年9月29日)
 
〇岳南鉄道吉原駅(平成29年12月21日、平成30年1月27日) 

古代〜中世における富士市の街道のイメージ
 
     
道の駅・富士楽座<富士市岩淵>
静岡県道10号富士川身延線の道の駅である。  施設はハイウェイ
オアシスとして富士川サービスエリアに併設されており、東名高速道路
上り線、富士川SAからもアクセスできる。 富士川をテーマにした参加
体験型の科学館にもなっており食事ができ、遊びながら学ぶことも
できる、多目的複合型施設である。
<国土交通省「中部の道の駅」HP引用>
二階に国土交通省の説明パネルがあり、右蘭のパネルで中世の富士
川の乱流状態をイメージとして理解できたことが最大の収穫となった。 
  中世の富士川流路<富士市岩淵・岩本>
説明パネルの一枚。 想像と断ってあるが、十六夜日記に阿仏尼が15
瀬を渡ると書いてある当時の様子が理解できた。  富士川の歴史を
学んで、富士市平野(扇状地)、海岸砂丘帯、浮島沼の母なる源であった。
 
<海道記>四月十四日、富士川・浮嶋が原・富士山
十四日、蒲原を立ちて遙かに行けば、前路
(せんろ)に進み先立つ
(まらうと)は、馬に水飼ひて後河(こうか)にさがりぬ。 後程(こうてい)
にさがりたる巳
(おのれ)は、野に草敷きてまだこぬ人を先にやる。 
先後
(せんご)あれば、行旅(かうりよ)の習(ならひ)も想ひしられて打ち
過ぐるほどに、富士川
(ふじかは)を渡りぬ。 この河は、河中(かわなか)
によりて石を流す。 
 (一部略)
人の心は、この水よりも嶮
(さが)しければ、馬を憑(たの)みてうち
わたる。 老馬老馬、汝
(なんぢ)は智ありければ、山路の雪の下
のみに非
(あら)ず。 川の底の水の心もよくしりにけれ。
 
<音に聞きし名たかき山のわたりとて底さへ深し富士川の水>
   <十六夜日記>駿河路 ー大井川より田子の浦まで(5)
 廿七日
、 明けはなれて後、富士河(ふじかは)渡る。 
  朝川*いと寒し。 数
(かぞ)ふれば十五瀬をぞ渡りぬる。
  <さえわびぬ雪よりおろす富士河の
      川風氷
(こほ)る冬の衣手(ころもで)
 <海道記> <解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
十四日、蒲原を出立して、遙々と行くと、道の前方を先に進んでいた
旅人が馬に水を飲ませるために後方の川に下った。 遅れていた自分
は草の上に越を下ろして一休みして、後にいた人を先に行かせる。
人生にも遅れ先立つことがあるので、旅の習わしに同じだと思い知られ
て、過ぎていくうちに富士川を渡った。 この川は川の中が揺れ動いて
石を流している。  (一部略)
人の心はこの水流よりも危険で信用できないので人に頼らず、馬で川を
渡った。 老馬よ、お前は賢いので、山道の雪の下の道だけではなく、
この富士川の水の底の様子までよく知っていたことだね。
 <噂(うわさ)に聞く名高い山の近くの渡(わたり)、その分、水底も深い
  富士川だよ>   ・・・根方道(愛高山麓)を通ったと推定
   <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 27日、すっかり夜が明けてから、富士川を渡る。 朝の川渡りは大変
 寒い。 数えてみれば、15瀬を渡った。
 <ひどく寒くて辛い。雪の峰から吹き下ろす富士河の川風の冷たさに、
  凍りつくような冬の旅衣の袖よ>
 
***注***
○*朝川・・・朝、渡河すること。
○解説本等では、15瀬を都を出てから渡河した川の数としているのが
多い。 しかし眼前の富士川の乱流を見れば、先ほど渡った川の支流の
数を述べたと理解するのが自然と思う。 
     
富士川に露出する溶岩<富士市松岡>
古富士山から噴出したと推定される岩淵溶岩により川幅が
上・下流に比べ二分の一以下になっており、洪水の原因と
なっていた。(平成30年1月28日撮影)
  (すい)神社<富士市松岡>
境内の案内書によると、雁金堤防を築いた古郡孫太夫が堤防工事の
完成を願い正保三年(1646)、社殿を造営。 祭神は、水の徳を持った
神の弥津波能売神(みずはのめのかみ) を祀る。 元々は富士川西岸と
地続き*であり、岩淵村で祀っていた。 江戸時代東海道の富士川渡船
場の一部であった。
*注 富士川の支流があったはずであるが、本流に比して小さいので
    陸続きと表現したと思う。
     
雁堤(かりがねづつみ)<富士市松岡>
富士川は、多くの支流に分かれて流れていた。 度重なる洪水は、
田畑に損害を与えていた。 戦国時代が終結し、江戸時代に入ると
新田開発が急務となり、富士川の洪水を制する大堤防の築造が
絶対条件であった。 古郡(ふるごおり)氏は三代に亘り、この難工事
に取り組み、元和年間(1615〜23)に始まった戦いは、幾度も
洪水に見舞われ、やり直しをしつつ、ついに1674年(延宝二年)、
広大な遊水機能を持った延長2.7キロの堤防が完成し富士市
加島平野の人々や財産を守り続けている。
<堤防付属の説明版抜粋>参考<木屋江戸日記より引用>
この築堤は、対岸の蒲原町側で洪水被害の多発と考えられている。
安政大地震(1854年)で西岸(蒲原町側)の土地が約三丈(9.9m)
隆起し、以後、洪水被害を免れるようになった。 しかし東岸では、
加島の大洪水となり、以前より大きな被害を被るようになった。
  護所神社<富士市松岡>
雁堤の築堤は富士川との洪水との戦いを強いられた難工事で、堤を
築いては流され、開墾しては流され、古郡代官三代50年の年月と莫
大な費用がかかってしまい、全く手の施しようがない状態が続いていた。
人々は、この上は神仏の加護に頼るほかはないと考え、その日から
富士川を渡ってくる者を数え、千人目の人に人柱にたってもらうことに
なった。  西岸の岩渕を渡ってきた千人目は、東国の霊場を巡る巡礼
姿の老人であった。 人々はこの巡礼に訳を話し、人柱になってもらい
たいと心を込めてお願いをした。 最初はビックリした老人であったが、
「私の命が万人のお役に立てば、仏に仕える身の本望」 と言って引き
受けた。 白木の棺に入った巡礼の読経の声と鐘の音が、ここに差し
込んだ竹竿から21日間聞こえたという。 以来、巡礼の魂は堤を守って
おり、人々は巡礼を神様と崇め、護所神社に祀っている。
<神社前の説明版抜粋>
     
岩本山実相寺<富士市岩本>
久安元年(1145)、鳥羽法皇の祈願により、天台宗の寺院として
建立されたと伝わる。
日蓮が「立正安国論」の構想を練った寺として知られる。 
街道遺構のイメージは、実相寺付近から岩松中学、堅掘駅、県立冨士
、ユニプレス兜x士工場と東進し、潤井川山橋から千代田町交差点
まで北進、弥生通を富知六所浅間神社まで東進する経路となる。
  富知(ふじ)六所浅間神社<富士市浅間町>
門前の説明パネルによると
創建は第五代天皇孝昭二年六月十日にして、延暦四年(785)、
噴火が続く富士山頂より当地に遷したと伝わる。
 「静岡県歴史の道・東海道」では、出土瓦から当地周辺を富士
郡家及び貞観六年以降の蒲原駅所在地とする説があると説明
している。 (平成30年1月28日撮影)
     
松林山妙永寺<富士市浅間上町>
永仁三年(1295)、宗祖日蓮聖人の直弟子蓮華阿闍梨日持上人の
留錫説法跡にて、 説法の霊跡(れいせき)となったことから、ここに法華
題目堂が建てられ、布教の拠点となったのが始まりである。  伝法の
地名もここに由来する。 延宝三年(1675)に至り、本迹院日和上人が、
この霊跡に本堂・尊神堂・妙見堂 などの堂宇を建立され、松林山妙永
寺と公称するようになった。 (妙永寺ホームページより引用)
  富士山光照院秦徳寺<富士市浅間上町>
寺伝
によれば、天長2年(825)に空海が開創した古刹で、
弘安2年(1279)に一遍の弟子覚阿了玄が改宗した時宗の
寺院である。付近から出土した古い瓦が秦徳寺瓦と称され、
古代街道時代の郡家や蒲原駅所在地と推定されている。
     
源太坂<富士市国久保・今泉町>
後方に見える富士市教育委員会設置の説明版によると元暦元年
(1184)、木曽義仲追討のため源頼朝は弟の範頼、義経を総大将に
した六万の軍勢を京に向かわせた。 この軍勢に頼朝の重臣である
梶原源太景季が加わっていた。  源太景季は、日頃から頼朝の持って
いる「生月(いけづき)」という名馬を欲しいと思っており、出発の時、願い
出たが、許されず代わりに二番目の「磨墨(するすみ)」という名馬を拝領
した。 ところが頼朝は、後に出発の挨拶にきた佐々木四郎高綱に
「生月」を与えてしまった。  この話を、当地で聞いた源太景季は頼朝の
信頼が四郎高綱より薄いと感じ、ここで四郎高綱と刺し違えて死のうと
待ち構えていた。  この気配を知った四郎高綱は機転をきかせ、「拝領
したのではなく盗んできたのだ」と言ってその場を収めたといわれる。
以来、この地は名馬「生月」と「磨墨」の馬比べをした地として現在に知ら
れている。 
  昭和20年代の源太坂<富士市国久保・今泉町>
平成29年9月7日、源太坂にたどり着くも源太坂碑が分からなく、空振り
に終わってしまった。  「静岡県歴史の道・東海道」には、歴史の基点と
して記述されており、何んとしても確認したい気持ちが高まった。 
 9月29日、再び、富士市を訪れ、新幹線・新富士駅構内の新富士駅観光
案内所で相談したところ、平成12年9月5日号の富士市広報「ふるさとの
昔話2」の<源太坂>の記事を探していただいた。 広報誌に源太坂碑の
位置と昭和20年代当時の写真があり、旧道の遺構筋が見えてきた。
また、写真では、70年前は農地ばかりであったが、現在は住宅地化して
おり月日の流れを実感できた。
     
飯盛浅間(いいもりせんげん)神社<富士市原田(原田公園西隣)>
境内の説明版によると 
祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)。 治承四年、
源平両軍が富士川を挟んで対峙の際、源軍は当社に食糧を置き、
守備したことから「飯盛明神」
と称したと伝わる。 現存する文書、記
録が乏しく創建年代等は不明であると記されている。
  手児の呼坂(たごのよぶさか)<富士市原田公園内>
昔このあたりに、一人の娘が住んでいた。 心やさしく美しいこの娘に村
の若者たちはほのかな思いを寄せていた。 ある夏の夕方、松原川の
ほとりを散歩していた娘は一人の若者と会う。 十里木を越えてやって
来たアイヌの若者であった。 村の若者たちは嫉妬し、二人の結婚の
邪魔をした。 娘は大変悲しみ、この坂の下でいつまでも若者の名を呼び
続けていたという。 以来この坂を「手児(娘の意味)の呼坂』と呼ぶように
なったという。 <左の石碑の説明文より引用>
     
冨栄山清岩寺<富士市宇東川西町(うとがわにしまち)
境内にある瘡守稲荷大明神(あわもりいなりだいみようじん)の説明版によると
、武田信玄の娘婿稲葉但馬が
天正八年(1580)清岩寺建立と同時に
守護神の稲荷大明神を祀った沿革という。 平安・鎌倉時代の街道との
関連性はないが、門前近くに次に説明する「呼子坂」碑があり、現地に
赴く目印となっている。
  呼子坂<富士市宇東川西町>
治承四年(1180)富士川の合戦に際し、源頼朝の率いる軍勢がこの
付近の高台一帯に陣を敷き、ここで呼子を吹いて軍勢を集めたことから、
この呼び名が付けられたと伝えられている。 また、「手児の呼坂」という
伝説から、この名がうまれたという説もあるが、同様の伝説は市内元吉原
地区の海老坂(薬師)にも残されている説もあるが、統一見解はない。
<富士市指定史跡・呼子坂の現地説明板>
     
御崎(みさき)神社と御崎坂<富士市比奈>
神社前に、吉永郷土史研究会が作成した「御崎坂のいわれ」と題する
配布資料がおかれていた。 その概要を掲載したい。
<この地は、富士山南麓から浮島沼に連なる岬になっている。 八世紀
に地名の二字表記となり岬から御崎となった。 ここには、東西を貫く街
道(根方道・街道;初期東海道)があり、北に向かう坂道を御崎坂と呼ぶ
ようになった。 神社の創建は古く、安元三年(1177)といわれている。
治承四年(1180)十月、源頼朝が富士川を挟んで平家の軍勢と対峙した
時、源氏の大軍はこのあたりに陣をしき、兵糧を置いて備えた。 境内に
三本の大松があり、源氏軍物見の松と呼ばれていた。>
  平家越<富士市吉原宝町>
治承四年(1180)十月二十日、富士川を挟んで東岸に源頼朝の軍勢、
西岸に平維盛
(たいらのこれもり)の軍勢が対峙していた。 その夜半、甲斐
源氏の武田信義軍は敵の後ろから攻め込もうと兵を移動したが、これに
驚いた大群の水鳥が一斉に飛び立った。 これを敵襲と誤った平家軍は
陣を乱して西に敗走し、一戦もせずに源氏軍の大勝利となった。
     
藤澤山妙善寺(とうたくさん・みょうぜんじ)<富士市原田>
臨済宗妙心寺派の寺院で、寺伝では天平年間、行基による開山と
伝わる。 
ご本尊は釈迦牟尼であるが、観音堂に十一面千手観音を
祀り、「滝川の観音さん」とも呼ばれている。 観音堂下に小栗判官の
愛馬・鬼鹿毛が眠っていると伝わる。

 
鑑石(かがみいし)<富士市原田>
公園入口に説明版があり、それによると室町時代、常陸(茨城県)の小栗
城主・小栗判官満重は関東公方足利持氏の大軍に攻められ落城、兄を
頼って三河に逃れる途中、相模の横山大膳のもとに身を寄せた。 
小栗は横山の謀略の荒馬・鬼鹿毛を乗りこなし、絶世の美女の照手姫を
得た。 さらに、横山は毒酒を飲ます謀略を企てるが、照手姫の知らせで
命からがら鬼鹿毛に乗り、当地の妙善寺にたどり着き、住職・大空禅師
に匿われた。 禅師は小栗を助け、しばらくして紀州熊野に湯治に行か
せた。 小栗の帰りを待つ間、照手姫は湧水の中にある表面が平らな石
<「鑑石」>に毎日顔を映し、化粧をしたという伝説がある。
 
     
瀧川(たきがわ)神社<富士市原田字滝川>
社伝によると第七代孝霊天皇の時代、富士山大噴火の際、「浅間大神
(あさまのおおかみ)」を祀り、山霊を鎮められたのが始まりとされる。 現在
の主祭神は木花之佐久夜毘売命
(このはなさくやひめのみこと)である。
瀧川神社の名前は明治6年から土地の名前を採用するようになってから
である。 江戸時代以前は、原田村の富士浅間社と記されたり原田浅間
社、新宮と呼ばれていた。 かって駿河国富士郡下方5社を管理運営して
いた富士山東泉院に伝来してきた「富士山大縁起」において、当社の
御祭神を愛鷹神
(あしたかしん)とし、境内は「赫夜紀(かぐや姫)」誕生の地で
あったと記されている。 周辺には、「竹採塚」はじめ多くのかぐや姫伝説
を伝えている。
  竹取物語と赫夜(かぐや)の舞<竹採公園一帯>
平安の昔、この地は東西の交通路とされた根方街道沿いにあり、我が国
最初の小説といわれる「竹取物語」が生まれとされる。 
富士山が世界文化遺産登録を契機に、伝説を語り継ぐため
〇富士山の恩恵を認識し
〇内外に富士山の魅力を発信しながら
〇富士市民一人ひとりが、つながり、関わり合いながら富士山を守り、
 「こころの資産」として後世に引き継いでいく。

そして、できることから実践していく。 「オール富士山さん」活動が
2013年8月から活動がスタートした。 その一つに中秋の名月のころ、
富士のかぐや姫に思いを込めた「赫夜の舞」が竹採公園から瀧川神社、
滝川の観音寺、永明寺まで舞い歩く。 <平成29年10日9日見学> 
<海道記>富士山伝説 ー かぐや姫の物語
昔、採竹(たけとり)の翁(おきな)という者ありけり。 女(むすめ)
「かぐや姫」と云ふ。 翁が宅
(いえ)の竹林(ちくりん)に鶯(うぐいす)
(かひこ)、女形(ぢょけい)にかへりて巣の中にあり。 翁、養ひて
子とせり。  ひととなりて、かほよき事比
(たぐ)ひなし。 光ありて
(かたは)らを照らす。      (小略)
 <逢(あ)ふことの涙にうかぶ我身(わがみ)にはしなぬ
                薬もなににかはせん>

使節、知計を廻
(めぐ)らして、天に近き所はこの山に如(し)かじとて、
富士の山に昇りて、焼き上げければ、薬も書
(ふみ)も煙(けぶり)
むすぼほれて空にあがりけり。 是
(これ)よりこの峰に恋の煙を
立てたり。 仍
(より)て、この山をば不死(ふじ)の峰と云(い)へり。 
(しか)れども、郡(こほり)の名に付けて、富士と書くにや。(以下、略)
  <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 昔、竹取の翁という者がいたという。 娘をかぐや姫」といった。
 翁の家の竹林で鶯の卵から女性が生まれて、巣の中にいた。 翁は
自分の子として養った。 成長して顔の美しいことは比べるものがない。
体から光が出て辺りを照らした。 (略)
 <逢うことのない、その悲しみの涙に浮んでいるような私にとって、
              不死の薬は何の役にたとうか>
帝の使者は知恵を働かせて天に最も近い山はこの山よりほかはないと
考えて、富士山に登って焼いたので、不死の薬もかぐや姫の手紙も煙と
からみ合うようにして空に昇っていった。 この時から、この山頂に恋の
煙が立ち昇っている。 それで、この山を不死の峯という。 だが、ここの
(こおり)の名によって富士と表記するのだろうか。 
 (以下、略)
     
湧水公園<富士市原田>
富士山の地下水は長い年月をかけて何層もの溶岩の隙間から
清らかな湧き水となって地表に湧き出ている。 富士市には、
医王寺参道の「湧水公園」、永明寺近くの「鎧ヶ淵親水公園」と
水を主役にした公園が整備され楽しむことができる。
  富士南麓製紙業発祥の地碑<富士市今泉八丁目>
正面石碑の左に由緒を書いた碑があり、
明治12年、伝法村の栢森貞助等が富士南麓で初めて手漉和紙工場を
設立稼働し、農民の救済を図った。 富士地域が世界的な製紙業の地と
なった発祥の地であることを記念し建碑する。 平成六年八月 とある。
富士市は静岡市、浜松市に次いで3番目に人口が多く、製紙に特化
した工業都市として発展してきた。 昭和40年頃の公害は多くの被害
を与えたが、この碑はひっそりと吉原公園の北西隅にただずんでいる。
     
東泉院(とうせんいん)<富士市今泉八丁目>
東泉院は、山号を「富士山」とする密教寺院で、戦国時代から明治
初めまで
富知六所浅間神社をはじめとする5つの神社(下方五社)を
管理する「別当」という職を代々務めてきたが、明治初期の神仏分離で
廃された。 <富士市の歴史文化探訪<富士山>から引用>
  日吉浅間神社<富士市今泉八丁目>
言い伝えでは、この神社は崇神(すじん)天皇5年(紀元前93)に勧請
され、社殿は富士郡の久邇
(くに)郷(富士市伝法のあたりか?)に建て
られたとされる。

<富士市の歴史文化探訪<富士山>から引用> 


富士市の鎌倉街道<中世東海道=浦方街道>
   t  
元陸軍「富士飛行場跡」<富士市五貫島他>
昭和30年代の富士飛行場跡地写真。 左に富士川が見える。
整然と区画されており古代条理地かなと思っていた。 ところが、
縁ができた鰍bREEK 小林社長から飛行場があったと教えて
いただいた。 ネットで検索すると静岡新聞が特集した記事が残さ
れていた。 
戦時下の中、4〜5か月の期間で230戸が女子供の
人力で墓地改装から家具、家屋が運ばれた。 昭和19年(1944)
10月、「富士飛行場」が開設。
 敗戦により廃止され、昭和21年
8月、元富士飛行場開拓組合が設立され、順次、土地が返還された。
  デイアナ号の錨<富士市五貫島>
江戸時代末期、開国を求めて来航したロシア軍艦「ディアナ号」は、嘉永
7年(1854)10月、下田港に入港したが、安政地震に遭遇して大破し、
修理のため戸田港に向かったが、強い西風によって田子の浦港沖で
座礁した。 大嵐の中、地元住民は危険を顧みずにロシア人の救助に
当たった。 
この錨は永く海底にあり、漁師や住民に「唐人の根っこ」と
呼ばれてきたが、昭和51年8月に五貫島の三四軒屋沖合水深24mから
引き上げられた.。

<東関紀行>駿河路 ー田子の浦から富士を見る
 
田子の浦にうち出でて、富士の高嶺(たかね)を見れば、時分
 (ときわ)かぬ雪なれども、なべていまだ白妙(しろたえ)にはあらず、
 青
(あを)うして天によれり。 姿、絵の山よりもこよなう見ゆ。
    (以下、略)
 <富士の嶺(ね)の風にただよふ白雲(しらくも)を天津乙女が
  袖かぞと見る>

<東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 田子の浦へ出で、富士の高い峰を眺めると、いつも消えることの
ない雪ではあるが、全体がまだ真っ白にのなっているわけではなく、
青々と天の一方に聳
(そび)えている。 その姿は絵に描かれている
山よりもずっとすばらしく見える。 
 <富士の山頂で風に漂っている白雲を、昔、山頂で舞ったという
  天女の白衣の袖かと眺めるよ> 
   <十六夜日記>駿河路 ー大井川より田子の浦まで(6)
  今日は、日いとうららかにて、田子の浦に打ち出づ。 海人(あま)
 どもの漁
(いさり)するを見ても

  <心から下り立つ田子のあま衣干さぬ恨みも
    人にかこつなとぞ>
  とぞ言はまほしき。


<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 今日は日光が大層うららかで、田子の浦に出る。 海人(あま)どもが
 漁をするのを見ても、
 <自分から苦労しているのは、田子の浦の海人も私も同じ。 袖の乾く
  暇のない恨みも、人に文句を言うべきではないよ> 
 と言いたい感じがする。  
     
推定鎌倉街道遺構と多胡宿<富士市田子>
鎌倉時代浦方路の隆盛に伴い、富士川河口の扇状地上に新宿の
一つである「田胡宿」が設けられた。

春能深山路」(はるのみやまじ)
<飛鳥井雅有、弘安三年(1280)11月18日>に
「あまたせながれわかれたる中に家せう々あり、せきの島とぞ
いふなる。 又小宿あり、田子のすくとぞ申める、宿のはしに川
あり、うるい川云々」 
とあり、蒲原宿⇔富士川・田子宿・潤井川⇔よしはら(見付宿)と
交通網(鎌倉街道)が存在したことが判る。
    出典:静岡県歴史の道・東海道
 
  仏原山立光寺<富士市前田>
立光寺のホームページによると
文禄4年(1595)に唯本院日演上人が創建した寺院である。 しかし、
明治32年の津波で、一切の記録がなくなってしまったため、創建のいき
さつやその後の経過などは全くわからなくなっている。 また、以前は
龍光寺と呼ばれていたが、昭和12年に現在の寺号に変えられた。

「春能深山路」<解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
富士川も袖が濡れるくらいに浅くて心配するような波もない。 たくさん
浅瀬が流れ分かれている中に、家が数軒ある。 堰の島というそうで
ある。 また、小さい宿がある。田子の宿と申すそうだ。 宿のはずれに
川がある。 潤井川、これは浅間大明神の宝殿の下から流れ出た
御手洗
(みたらし)の末とかいうことだ
     
田子の浦砂丘(砂嘴)<富士市前田>
立光寺の裏(南)付近の砂丘の頂上。防風林の松林に覆われて
いる。 この付近は、お寺から十メートル弱の高さであった。
 富士
川の急流で運ばれた土砂は、駿河湾に注ぐが、汐の流れと南風で
海岸に運ばれ砂嘴となり堆積し、高さ10m以上の砂丘を作り、西
は富士川から東は沼津港までの広大な砂丘帯となっている。
  山部赤人万葉歌碑
      <富士市前田・ふじのくに田子の浦みなと公園内>
  「田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にぞ
           富士の高嶺に 雪は降りける」
富士の高嶺の歌碑は、左端の黒い石である。 この歌碑は、昭和61年、
田子の浦港富士ふ頭(旧フェリー乗り場)に建立された。 平成24年、
静岡県が整備していた「ふじのくに田子の浦みなと公園」内に移設された。

***この歌が詠まれた場所について、富士川の西の蒲原町から、
    当みなと公園までの諸説がある。 歌が詠まれた奈良時代の
    東海道は富士川の上流を途河し根方街道を利用したとされ、
    蒲原町周辺が有望と思う。*** 
<平成30年 1月27日撮影>
     
田子の浦港<富士市前田>
古郡三代による富士川の治水工事が完成するまで、蒲原と元吉原
の間には富士川や潤井川等の氾濫原があって徒歩困難なところが
多く、東西交通に大きな障害となっていた。
鎌倉時代、幕府の交通政策によって浦方路に多胡・見付・原中の
各宿が営まれるようになり、沼川・和田川・潤井川が注ぐ吉原湊は、
東西交通の上で渡船場として重要な役割を果たすようになった。
戦国時代、矢部氏は大名の保護を受け、湊の後方砂山に設けら
れた見付宿で商人問屋を営み、渡船業務を掌
(つかさ)っていたが、
慶長7年、東海道の富士川渡船場が上流に移動すると、衰退した。
昭和36年産業港湾の田子の浦港として整備されたが、工場排水
等による汚染の影響で山部赤人の万葉和歌にみる風情は失われ
てしまった。 出典:静岡県歴史の道・東海道
<漁協付近から対岸に見える見附跡を望む。>
 
  見付と元吉原宿<富士市鈴川町>
見付付近に設置の案内版。左に吉原湊があり、右に見付及び、更に
その右に元吉原宿の表示がある。
説明文の内容は、鎌倉時代、(阿字神社の下に)見付が置かれ、往来
する人々の改めが行われた(関所のような機関があったこと)、対岸の
前田地区へ舟渡していたという。  見付近くに見付宿があったが、
高波や飛散砂のため、天文年間(1533〜54)元吉原宿(鈴川、今井
地区)に所変えし、更に江戸時代の東海道に合わせ依田橋西に所変え
したと宿の歴史概要が説明されている。
出典:案内版及び静岡県歴史の道・東海道

     
阿字(あじ)神社里宮<富士市鈴川>
三ッ股淵の生贄伝説<*詳細は、六王子神社参照>で人身御供
に選ばれた「あおじ」が富士浅間社の神力で淵に住む龍が鎮まり、
開放されるも仲間が悲観し浮島沼に身投げしたことを知り 、「おあ
じ」も身投げした。 土地の者は、「あおじ」を鈴川に、6人の神子は
六王子神社に氏神として祀った。
  見付宿跡<富士市松岡>
阿字神社里宮の砂丘の上に奥宮があるが、その北(後)に写真の
「宿跡」と左に「ばばが井戸」がある。 
この石碑の左に海に向かう小道が
あり見付跡に向かう道ではないかと歩いてみたが、海岸沿いの道路と
段差があり行き止まりとなっていた。 港湾整備工事がなされており、
当時の地形が残っていないと思われる。
     
富士塚<富士市鈴川>
<平成30年1月27日撮影>
富士山登拝のため、登山者が浜で身を清め(浜垢離:はまごり)、
登山への安全と無事を祈願し、浜から拾ってきた小石を積み上げた
ものだと江戸時代に資料に記されている。
静岡県で現存する唯一の富士塚と考えられる。(昭和51年復元)
   出典:
 富士市の歴史文化探訪<富士山>
  閻魔堂・地蔵堂・六地蔵<富士市鈴川>
見付宿跡から鎌倉街道遺構を東に移動すると吉原駅近くの砂丘高台に
六地蔵が並び、冬の晴れた日には後方に冠雪の富士山を望む絶景地が
ある。 由緒は不明であるが、この六地蔵の道路反対側に安置されて
いるのは、古くから道行く人を見守り続け、どんな願いも叶えてくださる
「いいなり地蔵」として親しまれている。左手には、閻魔堂の祠がある。
「富士市まちの駅ブログ」によると、地蔵盆には、ご近所の皆さんによる
 
縁日が行われている。 <平成30年1月27日撮影>
     
海老坂薬師<富士市今井>
「万葉集」に古代東海道に「手児の呼坂」と呼ばれる坂道が存在
したことが判るが詳細は不明である。 「駿河志料」など江戸時代の
地誌類に名がみえるが、その所在地を清岩寺前の坂とこの今井の
坂とする説が対立している。 今井の坂の口あたりは、かって田子
の海老坂と呼ばれたといわれるところで、現在海老坂薬師(写真
右の社)が祭られている。 古代柏原駅の所在について根方道(船
津)と、この浦方道の柏原(柏原)の二説が対立している現在、坂の
所在を決定することはできない。 出典:静岡県歴史の道・東海道  
  香久山(こうきゅうざん)妙法寺・毘沙門天<富士市今井>
千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜ゼロb
から富士山に登った、 その禊ぎの道場が当山の起こりである。 
主神毘沙門天像は聖徳太子の御親作と伝わり「太子両肩上湧現の尊像」
と言って聖徳太子の肩の上に立たれた像で実に珍しい様式である。 
普通の像が悪鬼をふんまえているのに対し、この像は聖徳太子すなわち
我々人間の上に毘沙門天王が立って常に護ってくださるという開運の
「守護神像」である。 <妙法寺HPから引用>
     
立圓寺・望嶽碑<富士市西柏原新田>
万治三年(1660)、京都立本寺20世霊鷲院日審によって開創さ
れた日蓮宗寺院。 
境内には尾張藩の典医・柴田景浩がこの地
から望む富士山の美しさに感銘を受け、文化5年(1808)5月建立
した「望嶽碑」がある。
この一帯は東海道の宿場である原宿と吉原宿の中間に位置して
おり、間宿柏原が設置されていたと考えられる場所である。 とりわ
けこの場所は眺めがよく、参勤交代の行列が、休憩がてら富士山
の眺望を楽しんでいたと伝えられている。
<平成30年1月27日撮影>
  六王子神社<富士市西柏原新田>
田子の浦港の奥、沼川と和田川が合流する場所を「三股淵」といった。 
龍が住まい、少女を生けにえとしてささげていた、という伝説があり、
「生贄淵」とも呼ばれた。
 
四百年程前、関東の巫女7人が上京の途次、里人に止められた。 その
年の人身御供に選ばれたのだ。 くじを引かされ、年若い「おあじ」が
"当り"を引いた。 くじに外れた6人は関東へ戻ることとなり、柏原村
まで引き返した。 しかし、あおじのことを思うと、自分たちだけ生き長ら
えることはできず、みなで浮島沼へ身を投げた。 土地の者は、彼女らの
亡骸を引き上げ、1か所に埋葬した。 ところが翌日、龍は富士浅間の
御神力で鎮まった。 災いを免れたおあじは、解放されるや6人を追い、
悲報を知る。 おあじの嘆きはふかく、やがて沼に身を投げてしまった。 
以降、龍は富士浅間の御神力で鎮まり、生贄の儀は止んだ。 
人々は、巫女たちのおかげと感謝し、彼女たちを土地の氏神として
祀った。 柏原新田の六王子神社である。
     
庚申塚古墳<富士市東柏原新田>
東西(左右)40m、南北20mの双方中方墳。昭和34年静岡県
指定文化財。東海道本線沿い、東田子の浦駅の東方にある。
説明版によると
浮島沼
に接する砂丘上の標高5mに位置し、おおよそ1500年
前に作られた、当時この一帯を統治していた豪族の墳墓と推定
される。 ここの東方150mの「山の上古墳」とともに、当時の
繁栄を知る文化財である。
この古墳等から古代の街道が通っていたという説もある。
  歌川広重(初代)東海道五十三次之内「吉原」
江戸時代末期の浮世絵師。  1832年、東海道を初めて旅した後に
作製したといわれている。吉原宿は、浮島ヶ原と少し離れているが、
池沼の中の街道の景色が読み取れる。
<富士市の歴史文化探訪・富士山>から絵を引用
     
浮島ヶ原自然公園<富士市中里>
富士川の急流に運ばれた土砂が駿河湾の汐の流れと南風で海岸
に運ばれ砂嘴(さし)が砂丘となり海を締め切り、湾口等が閉じ込め
られて潟湖(ラグーン)となって大小の沼が点在し、約20平方qの
低湿地帯が取り巻く浮島ヶ原。  江戸時代から新田開発が試みら
れてきたが、昭和30年代までは腰や胸まで浸かって田植えを行う
「湿田農法」であった。 浮島ヶ原湿原の貴重な植物や自然風景を
保全し、自然が観察できる公園がJR東田子の浦駅近くに整備されて
いる。<平成30年1月27日撮影>
  絵ハガキ「浮島からの富士」
富士山を背景にした浮島沼の絵ハガキ。 明治〜大正時代には、日本
各地の名所や風俗が写真に収められ、絵ハガキとして流通した。 特に、
富士山を背にした風景は数多く撮影された。
<富士市の歴史文化探訪・富士山>から絵と文を引用
<東関紀行>駿河路 ー 浮嶋が原、千本の松原の眺望
 浮島(うきしま)が原はいづくよりもまさりて見ゆ。 北は富士の
(ふもと)にて、西東(にしひがし)へはるばるとながき沼あり。 
布を引けるがごとし。 山のみどり影をひたして空も水もひとつ
なり。 芦刈
(あしかり)小舟(をぶね)所々に棹(さを)さして、群れたる
鳥多く去り来たり。 南は海の面
(おもて)遠く見渡されて、雲の波
(けぶり)の波いとふかき眺めなり。 すべて孤嶋(こたう)の眼に
(さへぎ)るなし。 わずかに遠帆(ゑんばん)の空につらなれるを
望む。 こなたかなたの眺望
(てうぼう)、いずれもとりどりに心細し。

<影うつす沼の入江の富士の嶺(ね)の煙も空に浮嶋が原>
  <東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 浮島が原は、どこよりもすばらしい光景に見える。 北の方は富士山の
麓で、そこに西から東にかけて、遙かに長い沼がある。 まるで布を敷い
たようだ。 富士の山の緑が影を水に映して、空と一つになっている。 
蘆を刈る子舟があちこちに浮んでいて、群がっているたくさんの鳥が飛び
交っている。 南の方は海の面が遠くまで見わたされ、雲のように立ち
重なった波や、煙のようにかすむ波の景色は、趣が深い。 一つの島も
見えない。 ただわずかに遠くに白帆が空に接しているのが見られる。 
あちらこちらの光景は、どれもそれぞれにもの寂しい趣である。

<その山影を沼に映している富士の煙が空に浮いている浮嶋が原よ>



 <沼津市・清水町・長泉町>の鎌倉街道(古道)について
沼津市は、西を富士市から続く浮島が原湿地帯、東は狩野川流域で構成され,北部には日本一の富士山とその南麓の愛鷹山が市街地
近くまで迫っている。南部は駿河湾に面しており、富士市から続く砂嘴が、原、片浜、千本浜地区に砂丘地帯となっている。
平野の大部分、しかも中央を広大な浮島が原湿地帯であったため、東西に延びる街道は、富士市同様に古代は市街地の北側の県道22
号を遺構とする根方道を、中世時代は、富士川河口を渡河し、田子、鈴川、柏原、沼津市原町、片浜と砂丘縁を進む浦方街道が利用され
たと推定される。浦方街道は、六代松がある門間付近から海岸を離れ、北上し第一中学近くの丸子神社前を東折し・沼津駅前、蓮光寺東
の車返し、黄瀬川宿(黄瀬川大橋付近と推定)、伊豆国府(三島市内)、箱根越と続くことになる。
根方街道は、県道22号の元と推定され、富士市から沼津市、長泉町(永倉駅跡)、足柄路と続くことになる。なお、黄瀬川宿から伊豆国府
に向かう道以外に足柄路に向かう道も想定されているが、黄瀬川を挟んで根方道と並行していたと推定されているが詳細は不明である。
参考資料
〇「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会   〇沼津市史
 
沼津市の街道<古代東海道=根方街道> 
     
大泉寺(だいせんじ)<沼津市井出>・・・沼津市HPから引用
曹洞宗で裾野市千福の普明寺の末寺。 本尊は聖観音で運慶の
作と伝えられている。 この大泉寺には、伝阿野全成・時元の墓が
ある。 阿野全成は、幼名を今若丸といい頼朝の弟である。 
弟に乙若丸・牛若丸がおり、後にそれぞれ義圓・義経と名乗っている。
平治の乱で父義朝は死に、牛若丸を除き、今若丸と乙若丸は出家
させられた。 全成は山城の醍醐寺に預けられたが、次第にたくま
しく成長し、その荒法師ぶりから醍醐の悪禅師ともよばれた。
  <注:ここでは悪とは、強い意味で使われている>
治承4年(1180)源頼朝が韮山で挙兵すると、全成はひそかに寺を
抜け出し、修行をよそおいながら頼朝のもとに参ずると、頼朝は
その志に涙して感動したという。 全成は頼朝を手助けした功績に
より、駿河国阿野庄(現在の東原、今沢から富士市境一帯)を与え
られ、阿野を姓として阿野全成を名乗り、この地を根拠地とした。 
東井出に居館を構え、居館の一隅に持仏堂を建てて祖先の霊を
弔った。 これが現在の大泉寺である。
鎌倉に幕府を開き、武家政治を始めた頼朝は正治元年(1199)
に没したが,その後有力な御家人がつぎつぎと世を去ったため、
源氏に代わって北条氏の勢力が次第に強くなっていった。 全成は
源氏の血を受け継ぐ者として、この状況を黙って見ていることが
できず、建仁3年(1203)5月に阿野庄において北条氏討滅の兵を
挙げたが、幕府軍に謀叛の罪で捕らえられ、常陸国(現在の茨城
県)に流され同年6月23日下野国(現在の栃木県)で処刑された。 
  興国寺城跡<沼津市根古屋>
・・・平成7年3月国史跡指定
・・・沼津市HPから引用
興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を
利用して築かれている。 この城は、戦国時代に関東一円を支配した
北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として
名高い城である。
北条早雲は初め伊勢新九郎盛時と称し、室町幕府将軍の申次集を務め
たが、駿河の守護今川氏とは、姉北川殿が今川義忠の正室というつな
がりがあった。 文明8年(1476)義忠が急死すると、その後の家督争い
で甥の今川氏親を助けた功により、長享2年(1488)頃、富士郡下方12
郷を与えられ、興国寺城主となったとされる。
この後、盛時は明応2年(1493)に伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を
襲って伊豆国を攻め、戦国大名としての第一歩を踏み出す。 その後、
興国寺城は戦国大名による領地争い境界の城として争いの渦中におか
れ、今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の勢力下となり、慶長
6年(1601)徳川家康の家臣天野三郎兵衛康景が1万石の城主となる。
しかし康景は家臣をかばい自ら逐電してしまったため、慶長12年
(1607)興国寺城は廃城となった。
     
桃澤神社下宮<沼津市青野>
愛鷹明神として崇敬され、愛鷹山頂に奥宮、一合目に中宮、青野の
下宮の三社からなる。
「愛鷹山縁起」によれば
,愛鷹山麓は神馬の牧場として有名である
が、建久五年、源頼朝が駿馬九十九頭を奉納したことが、愛鷹山
牧場の始まりであると伝わる。
<出典:HP玄松子の記憶>
  岡宮浅間神社<沼津市岡宮>
この地は「延喜式」に見える岡野馬牧があった地で、その地に所在した
浅間宮(現岡宮浅間神社)を岡野の宮と呼んだのが地名の由来と伝え
る(駿河志料)
。 創建は不明であるが、建治二年(1276)の「光長寺
由緒記」で「昔文永年中駿州岡宮庵地アリ」とあるように鎌倉時代に辿る
ことも可能である。 岡宮の地の始まりは不明であるが、大岡荘の存在、
用水源としての上津(こうず)池の存在といい、沼津市域の中世における
開発の拠点として重要な役割を担ったと考えられる。 (沼津市史P375)
     
光長寺(こうちょうじ)<沼津市岡宮>
光長寺は法華宗大本山で、建治2年(1276)開山と伝えられている。
寺の創建についてははっきりしないが、旧記によれば、もとは天台
宗の寺院であったものが、文永年間(1264〜1275)空存の代に、
日蓮上人の高弟日法上人の布教により改宗したと伝えられている。
空存は日蓮の門弟となり日春の名を授けられ、寺を徳永山光長寺
と改称したと伝えられている。 そのため寺は日蓮を開祖とし、
日春・日法が同時二祖となった。
  門池(かどいけ)<沼津市大岡>
沼津市域の発展は、大岡牧の大岡荘への転換であったと考えられる。
この転換に大きな役割を果たしたのが上津池(現門池の前身)
である。 
建久年間に造立された三明寺経塚に埋蔵された経筒に「上津池」の文
字があり、信仰の対象と意識されていた。 上津池から主水路が形成
され水田開発が進み、大岡牧から大岡荘へと発展することになった。
(沼津市史P376)
     
鮎壺の瀧<駿東郡長泉町下土狩>
約1万年前の富士山溶岩流(三島溶岩)にかかる落差約9メートル、
幅約65メートルの滝である。
伝説によると小野政氏という長者が観世音菩薩に祈願し一女に
恵まれた。 その子は名前を亀鶴という美しい子であった。 両親
に早く死なれ、18才の時藍壺に身を投げて死んだという。 
一説には、源頼朝が富士の巻狩の際、招こうとしたが、遊女亀鶴
は応じないで入水したといい、また工藤祐経に召されたが、曽我
兄弟の復讐で祐経の後を追って死んだともいわれている。
  古代官道永倉駅想定地<駿東郡長泉町下長窪> 
県道22号が門池を過ぎ、次の南小林交差点から左折し約1.2q北上
すると下長窪交差点に至る。 この交差点から蓮華寺付近の間に、初期
古代官道の永倉駅があったと推定されているが詳細は不明である。 
また交通の要所であることから駿河郡家(沼津市大岡日吉)や伊豆
国府(三島市)への連絡路が考えられている。 そして駅家所在地に
ついて、遷置前に長泉町下長窪、沼津市大岡、遷置後の裾野市伊豆
島田、長泉町本宿、下戸狩などどする説がある。 
<静岡県歴史の道・東海道:平成六年三月 静岡県教育委員会発行>
     
養隆山蓮華寺<駿東郡長泉町下長窪>
法華宗(本門流)の寺院であるが、詳細情報は入手できなく、
不明である。
  城山神社・長久保城跡<駿東郡長泉町下長窪> 
城址は国道246号沿い「城山神社」近くにある。 戦国期、今川氏に
より長久保城が構築され、東駿地方を治める拠点として、また北条氏
に対する備えとして築かれた。 その後、北条氏、今川氏、武田氏と
渡ったが、関ヶ原の戦いの後、廃城になったとされている。 城山神社
は長久保城の守護神を祭っていた神社とされる。

沼津市の鎌倉街道<中世東海道=浦方街道> 
富士川河口を渡河した鎌倉街道(浦方街道)は、富士市田子、鈴川、柏原を経て、沼津市原町、片浜と砂丘縁を進み沼津駅近くの旧
丸子神社、蓮光寺東の車返し(坂)、駅家説もある大岡廃寺、日枝神社付近を通り、黄瀬川宿に至る。
この浦方街道は、大津波で宿が大打撃を受け移転したことから遺構が残されていなく、海岸沿いにあったと推定されている。 江戸時代
東海道は東海道本線の北側を通っており、ほぼ平行していたと思われる。 また、戦国時代、武田信玄が塩を甲斐におくる「塩の道:甲州
街道」を整備したと伝わるが「六代松」付近でしか確認できなかった。
     
鵠林山松陰寺(しょういんじ)<沼津市原>
白隠宗の大本山で、白隠が出家し、のちに住職をつとめた寺として
有名である。 「駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の
白隠」と称えられた
白隠 慧鶴(はくいんえかく)は臨済宗中興の祖と称さ
れる江戸中期の禅僧である。
  六代松の碑<沼津市東門間>
東間門に近い千本松原の中に六代松の碑がある。 六代は小松の
三位中将平維盛の息子であり、祖父は重盛、曾祖父は清盛である。
平家物語によると、六代は平家一門の滅亡に伴い、源頼朝の家来
北条時政によって捕らえられ、鎌倉ヘ護送の途中、千本松原において
処刑されようとした。 その際、文覚(もんがく)上人の命乞いによって
赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり、処刑されたと伝え
られている。 従者斉藤六範房は、六代の首を携え、ゆかりの深い
千本松原にやって来て、その首を松の根元に埋め弔ったと伝えられて
いる。 この松を土地の人は「六代松」と称し親しまれてきたが、松が
枯死したので、天保12年(1841)に沼津藩の典医であった駒留正隆の
撰文により、枯れた松の傍らに記念碑が建てられた。
<出典:沼津市HPから引用>
     
首塚<沼津市本字千本>
本光寺に隣接した北側西隅に首塚の碑がある。明治33年
(1900)5月、暴風雨の翌朝、千本松林の中で露出した頭蓋骨が
発見された。 これを集めて弔ったのがこの碑である。
 昭和29年(1954)、東京大学教授の鈴木尚氏によって調査が行わ
れ、百体以上に及ぶ骨はほとんどが青年男子の頭骨で、特に若者
達の骨が非常に多いことも確認された。 骨の特徴は中世末のもの
と推定され、言い伝えるように戦国時代の戦いの結果の首実検後
に葬られたものではないかといわれている。 天正年間に千本浜で
起こった武田・北条氏の合戦(北条五代記)に際し、種子島銃、矢、
槍によるものと思われる。 <出典:沼津市HPから引用>
  甲州街道<沼津市本字千本>
一般的には、甲州街道は江戸時代・五街道の一つを示すが、沼津市
や甲斐(山梨県)の関係者が知っている別の甲州街道がある。
沼津市から富士市に至る駿河湾側、千本松原の名で知られた、海
沿いの道が甲州街道と呼ばれたことが、土地の人々の記憶にまだ
残っている。 平成29年9月5日、当地を訪れ、右(北)の山神社で
寛いでいた地元の方に六代松の碑の場所を尋ねた際に甲州街道の
ことも聞いたら、直ちに、この道と教えていただいた。 
かつて伊豆
近海から伊豆七島まで含めた漁獲物の一部が沼津市の湊で荷分け
され、甲州街道と伝えられる道を通って甲府に運ばれた。 山梨県側
の資料によれば、沼津だけでなく、歌枕として名高い景勝の地、田子
の浦から北上し、富士の西側さらに北側の裾野をかすめて、この道が
甲州に至っていたといわれている。(株かいやHP:甲府市・あわび煮貝)
     
式内社・丸子神社旧跡<沼津市丸子町>
式内社・丸子神社に比定されている。当社の社号から、鎮座地
名が丸子になったという。社伝によると、崇神(すじん)天皇
(紀元前148〜29)の御代に創祀されたという。経歴年次に矛盾
があるが、頭書の沼津市史記載の地図に丸子神社の記載があり、
歴史的に知られた存在と思われる。
 天保二年(1831)、社殿焼失により浅間神社の相殿となり、
明治十年二月、浅間神社に正式に奉遷されているので、現在
は丸子神社の古社地となる。
  蓮光寺<沼津市三芳町>
臨済宗妙心寺派に属し、京都妙心寺の末寺で、本尊は千手観世音
菩薩である。 昔は車返牧の御所の旧地にあって、北条時頼の建立
になり、当時は大岡院と称したといわれている。 天正8年(1580)
武田・今川の戦に兵火で焼かれること数回に及んだ。 当時は浄土
宗であったが、その後、徳岫(とくしゅう)禅師が遠江国奥山方広寺
よりきて堂宇を建て、改めて臨済宗蓮光寺を開いた。  さらに徳岫は
数度の洪水の災いを憂え、堂宇を北方丘上の現在地に移したという。
<出典:沼津市HPから引用>
    <東関紀行>駿河路 ー 車返しの里にて漁師の家に泊る
 車返(くるまかえし)といふ里あり。 ある家に宿(やど)りたれば、
 網
(あみ)、釣(つ)りなどいとなむ磯者(いそもの)のすみかにや、
 夜のやどり香
(か)うことにして、床(とこ)のさむしろもかけるばかり
 なり。      (小略)
 
 <是(これ)ぞこの釣する海士(あま)の苫庇(とまひさし)
     
いとふありかや袖にのこらん>

 注:苫家:苫で屋根を葺 (ふ) いた家。菅、茅などで編んだ、こもの
       ようなもの。小屋等を覆って雨露をしのぐのに用いる。
車返しの里<沼津市三枚橋>
鎌倉時代浦方路の隆盛に伴って発達した宿駅で、「海道記」、「東関
紀行」など当時の文献にその名が見える。 蓮光寺境内には、車返
牧御所があり、「吾妻鏡」に嘉禎四年将軍頼経が上洛の途次、宿泊
していることが書かれている。 蓮光寺裏から沼津駅に至る台地は、
東海道線や国道の開設に伴う工事等により大きく様相を変えたと
思われる。 蓮光寺を中心とする一帯に集落が形成され、東西交通
の要衡として栄えていたことが考えられる。
<静岡県歴史の道調査報告書・東海道:昭和55年3月静岡県
教育委員会>  (写真は蓮光寺東の坂から北を望む)
  <東関紀行>
<解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 車返という里がある。 ある家に泊ったら、網をひいたり魚を釣る
 のを家業とする漁師の住家であったのか、その夜の泊は臭気が
 ひどく、床の敷物も足りないことであった。(小略)
 <この家こそ漁をする海士(あま)の苫家(とまや)である。 好きで
  ない臭気が袖に染みたことだろう。


 <海道記>車返と地名の由来について
 車返(くるまかえし)と云ふ所(ところ)を過ぐ。 この所は、若(も)し、
 昔、蟷螂(たうらう)の、路に当り行人
(かうじん)を留めけるか。
    (一部・略)
 嶮岨
(けんそ)の地なれば、太行路(たいかうろ)とは、云ひつべし、

 此の道はさかしくて車をくだく。 されども、騎馬
(きば)の客(かく)
 なれば、うちつれて通りぬ。
  <昔たれここに車のわづらひて
     轅
(ながえ)を北にかけはづしけん>
  <海道記> <解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 車返という所を通る。 車返というからには、昔、蟷螂(とうろう)が道に
 立ちふさがって旅人の車を止めた所だろうか。
   (一部・略)
 険しい所なので、あの太行路といえよう。 この道は険しくて転落する
 車を砕いてしまう。 だが私たちは馬に乗った旅人なので、車を返す
 こともなく、連れだって過ぎた。
 <昔、誰かここを車で通れなくて、
   北に向いていたをはずしたという故事でもあったのであろうか>
     
日吉廃寺<沼津市大岡日吉>
沼津駅東方約1qの東海道本線の線路脇に所在する山神社付近
に存在する寺院跡である。 神社の境内に塔の礎石が残り、史跡
公園として整備されている。 出土した瓦等から、当地の有力者が
白鳳期(7世紀後半)に建立した寺院跡(氏寺)と推測され、平安
時代初期(9世紀)にかけて存続したと考えられている。 
文献資料はなく、寺院名も不明なため、所在地の地名から日吉
廃寺跡と呼ばれている。 
  日枝神社<沼津市平町>
平安時代から山王社とも称され、人々には山王さんとして親しまれて
きた。 この地域一帯は平安時代の末頃には大岡庄と称され、関白
藤原師通の領地であった。 嘉保2年(1095)、源義綱が比叡山延暦
寺の僧を殺害するといった事件があり、これに端を発し、師通は僧
たちの呪詛により山王の祟りを受け、38歳で死亡した。 師通の母は
近江国の日吉神社の分祀を請い、これに大岡庄のうち八町八反を寄
進して祀ったといわれる。 これが現在の日枝神社で、明治に至るまで
近郷近在22か村の総鎮守の神としてあがめられた。(沼津市HPより引用
     
潮音禪寺・亀鶴姫の碑<沼津市大岡>
潮音寺は臨済宗妙心寺派の寺院で、弘仁年中、弘法大師が伊豆
修善寺に修行のみぎり、当地を通りかかりの際 感応を感じ、聖
観音菩薩像を刻み一堂を建立・安置されたのが始まりという。
小野政氏という長者が子に恵まれないため里の観世音菩薩に祈っ
たところ一女に恵まれた。 その子は名前を亀鶴という美しい子で
あった。 両親に早く死なれ、18才の時鮎壺に身を投げて死んだと
いう。 一説には、源頼朝が富士の巻狩の際、招こうとしたが、
遊女亀鶴は応じないで入水したといい、また工藤祐経に召されたが、
曽我兄弟の復讐で祐経の後を追って死んだともいわれている亀鶴
伝説が伝わる。(沼津市HPより引用)
  黄瀬川宿跡推定地<沼津市大岡黄瀬川>
鎌倉時代箱根路の隆盛に伴い、黄瀬川のほとりに発達した宿駅で
ある。 「海道記」など当時の文献にしばしばみえる。「春能深山路」に
「きせ川は足からへかかる道なれば云々」とあり、北駿の藍澤・竹之下
へと通ずる足柄路の分岐する交通の要所であった。
長い間、東海道の宿駅として栄え、天正の末・慶長の初め頃、廃された
という。 宿域は沼津市大岡黄瀬川から駿東郡清水町長沢・八幡・伏見
など黄瀬川を挟んで広範囲に亘っている。 <静岡県歴史の道調査
報告書・東海道:昭和55年3月静岡県教育委員会>
<海道記>宗行中納言の和歌一首
 黄瀬川の宿に泊まりて、萱屋の下に休す。  (小略)
 ある家の柱に、又、かの納言、和歌一首をよみて、一筆
 (いちひつ)の跡留められたり。
  <今日過ぐる身を浮嶋が原にきて
          つひの道をぞ聞き定めつる>

 此を見る人、心あれば、みな袖をうるほす。 (小略)
 誠に、今日
(けふ)ばかりと思ひけむ心の中を推すべし。
  (以下、略)
 十五日、黄瀬川を立つ。遇沢
(あひざわ)と云ふ野原を過ぐ。
 この野、何里とも知らず、遥々と行けば・・・(以下、略)。

<海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 黄瀬川の宿場に泊まって粗末な茅葺の家に休んだ。(小略)
 ある家の柱に、あの中納言が和歌一首を詠み、一筆を書き留めて
 おかれた。
   <今日まで身を愁いものと思っていたが、この浮嶋が原で
   いよいよ終わりと聞いて命も最期と決心したよ>
 本当に今日限りだと思った宗行卿の心中を推察することができよう。
     (以下、略)
 十五日、黄瀬川を出発。逢沢という野原を通る。
この野原は
 何里ほどかわからないほど広い。
   
逢沢
 黄瀬川宿から竹之下(静岡県駿東郡小山町)にわたる広い地域。
 
  八幡(やはた)神社<駿東郡清水町八幡>
御祭神として応神天皇(誉田別命:ほんだわけのみこと)、相殿に
比売神(ひめがみ)、神功皇后(息長帯比売神:おきながたらしひめのみこと)
三柱を祀る。 (駿東郡清水町HPより引用)
     
八幡神社・対面石<駿東郡清水町八幡>
治承四年(1180)十月、平家の軍勢が富士川のあたりまで押し寄
せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。 たまたま、
奥州から駆けつけた弟の義経と対面し源氏再興の苦心を語り合い、
懐旧の涙にくれたという。 この対面の時、兄弟が腰かけた二つの
石を対面石という。
(境内設置の清水町教育委員会の案内版より引用)
  柿田川(かきたがわ)公園<駿東郡清水町>
柿田川湧水群は約40q北方の富士山の雪解け水が地下水となり
三島溶岩流の間を長い年月(約10数年といわれる)を経て流れ、
ほぼ無菌で適度にミネラルを含む日本有数のすばらしい湧水となり、
ここに湧きだしている。 全長約1.2キロの柿田川となり狩野川に
合流し、駿河湾に注いでいる。 
 昭和61年4月、「自然の保護・保全」
「コミュニティー広場の確保」を目的に町民の憩いの場として柿田川の
上流部に公園として開園した。 <園内説明文から引用>




三島市の鎌倉街道(古道)について 
三島市は、富士山麓から湧き出る清水に恵まれ、市内いたるところで湧き水が見られる。三島市が作成したガイドマップ「平安・鎌倉古道」の
解説によると、東に箱根山麓を控え、古来は北の足柄路が利用されたが、延暦二十一年(802)正月、富士山の大噴火で足柄路が
ふさがり、そのため三島大社から元山中をとおり芦ノ湖の南岸に出て箱根町へと抜ける「平安鎌倉古道(街道)」が開かれた。 
翌年、足柄路は復旧され再び、官道として通行できたのであるが箱根路は険しいが、距離が短いなど便利なため多く利用された。
このホームページの街道探索の道案内としてきた鎌倉時代の三大紀行文は、海道記は足柄路、東関紀行及び十六夜日記は箱根
路を通っている。  海道記では、「岩が根高く重なりて、駒もなづむ(難儀)するばかりなり」、十六夜日記は「・・・いと険(さか)しき山を
下る。  人の足もとどまりがたし(非常に険しい山を下る。 人の足も止められない急坂である)」とリアルに表現している。
江戸時代に入り、ほぼ平行した東の近距離に箱根旧道(近世・東海道)、そして関所が作られると地元の人々が通るだけになった。
(関所管理の理由からも古道の情報は出なくなったと思われる)
このため、中世の街道は人々の記憶から忘れられていたが、平成二年七月、ゴルフ場建設にあたり元山中の一部を発掘調査した
ところ出土品から「平安鎌倉古道(街道)」が確認され、以後、三島市により復旧整備及び啓発資料の「平安・鎌倉古道」のマップ類の
発行が行われている。 
この鎌倉街道探索の旅は、三島市のソフト・ハード両面の成果が無ければ中断していたかもしれないので、
感謝の気持を表記したい。
参考資料
〇「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会
〇平安鎌倉古道・三島市教育委員会 
三島市内の鎌倉古道(鎌倉街道) 
 
     
国分寺<三島市泉町>
伊豆国分寺に比定される以前、当国分寺は古くは「蓮行寺」という
名の真言宗の寺院であった。 時期は不明ながら、慈眼(慶長14年
(1609年没)が日蓮宗に改宗したという。 のち当地が伊豆国分寺跡
に比定されたことから、昭和38年(1963年)に現在の「伊豆国分寺」
と改称した。  (出典:ウイキペディア)
  伊豆国分寺塔跡 <国分寺境内>
聖武天皇の勅命により創建された伊豆国分寺七重の塔の大伽藍の
遺跡である。 礎石8個が残されており塔の礎石の一部、北半分の
ものとされる。 塔の高さは、60m程あったと推定されている。
 出典: <みしまっぷ>(三島商工会議所編・三島市協力)
 
 
   
源兵衛川 <三島市>
広瀬通と交差し広瀬橋の下を流れる源兵衛川。 源流は近くの楽
寿園の小浜池であるが、豊かな水量である。 令和元年8月26日、
現地に赴き撮影したが、夏休み中で多くの子供達が遊んでいた。
「源兵衛川を愛する会」が河川清掃や蛍の幼虫放流などの活動を
行っており、美しい水環境の親水公園が維持されている。
  源兵衛川のくみ上げ井戸<三島市>
右岸にくみ上げ井戸があり、子供が楽しく水を汲んでいた。 人気が
あり、他の親子連れが来ると交代します。 お母さんが声を掛けて
譲り合っていた。  (令和元年8月26日撮影) 
     
鎌倉古道(街道)跡<三島市>
旧東海道の北にある広瀬通。一見すると何もない普通の商店街の
道路である。
  
  鎌倉古道(街道)<三島市>
右上の商店街の街路灯に設置された案内板。 嬉しいの一言しか
出ない。 感謝
この
看板を見付けた契機は、観光案内所で入手した<みしまっぷ>
(三島商工会議所編・三島市協力)で鎌倉古道の表示を見付け、現
地で探した結果である。
     
伊豆国庁(国府)跡<三島市>
広瀬通り(上の写真)の源兵衛川近くの芝本町薬局とレストラン
「じゅん」の間の道奥に国庁跡の名盤がある。
左側のブロック塀の根元にあり発見しがたいが、三島の中心で
あったことを意味する。
阿仏尼は国府付近で宿泊したとある。

  広澄山圓明寺(えんみょうじ)表門 <三島市>
設置の案内版によると、「伝旧樋口本陣表門」と伝わる。 門内に孝行
犬の像があり、由緒の説明もあった。 
幕末の頃、番犬として母子六匹
の犬が寺を守っていた。 母犬が病気になった時、子犬たちはそばを
離れず、町の人から貰った食べ物を持ち帰り母犬に与えた。 母犬が
死んでも子犬たちは屍を守ったが、ついに子犬たちも死んでしまった。 
寺の日空上人がそれを見て石碑を建て、人にも勝るその純情を表彰
して世の中の人の誡
(いましめ)とした。   
<十六夜日記>伊豆路 ー 伊豆の国府より湯坂まで(1)
伊豆の国府といふ所にとどまる。いまだ夕日残る程、三嶋の
明神へ詣(まい)るとて、詠みて奉る

<あはれとや三嶋の神の宮柱ただここにしもめぐり来にけれ>
<おのづから伝へし跡もあるものを神は知るらむ敷島の道>
<たづね来て我が越えかかる箱根路に
     山のかひあるしるべをぞとふ>
 
 
  <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  伊豆の国府という所に宿る。 まだ夕日が残る時刻に、三嶋明神に
参拝
(さんけい)するというので、詠んで奉(たてまつ)る。
〇いじらしいと、三嶋の神も見て下さいましょう。 ただ、この宮に詣
 
(もう)でたくて、やってまいりました。
〇伝えるべくして自然に伝えてきた歴史もあるのですから、 神もおわ
  かり下さいましょう。 私の主張する歌道の家としての正しさを。
〇この社に尋ねて来て、私のこれから越えかかる箱根の難所で、山越
  えの苦難のかいがあるようにと、道案内の三嶋の神様の御助力を
  お願いいたします。 
     
祓所(はらえど)神社 <三島市大宮町>
この神社は浦島神社とも呼ばれ、旧三島宿裏町(浦町・現、大宮
町)の氏神として祀られてきた。 毎年6月30日と12月31日を祭日
とし、禍(わざわい)から守られるよう大祓式(おおばらいしき)を行
っている。 この地域は大昔、清水が湧き出し神社は島の中にあった
と言われている。 地元の人はこの池を「はらいど」と呼び、三嶋大社
の祭事に当たり関係者が大祓を行っている場所である。
<三島市観光協会HPより引用>
  
  三嶋大社 <三島市大宮町>
創建の時期は不明であるが、三島の地名の由来となった伊豆国
一宮である。 伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を
祈願し、成功以来、武士の崇敬することとなった。
<東関紀行>三嶋から箱根 ー 三嶋大明神のこと
 伊豆の国府(こふ)にいたりぬれば、三嶋の社の御注連(みしめ)
うち拝(をが)み奉るに、松の嵐木暗(あらしこぐら)く音づれて、
庭の気色
(けしき)も神さびわたれり。
   (小略)
 
<せきかけし苗代水(なはしろみづ)の流れ来て
     また天降
(あまくだ)る神ぞこの神
  <東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 伊豆の国府に来たので、三嶋神社の境内に参拝申し上げたが、
松に吹く風が木陰の奥に響いていて、庭の様子もおごそこかである。
 
(小略)
<天の川を塞(せ)きとめて苗代田へ水が流れ下ったように、
  伊予国からこの三嶋に天下ってこられた神がこの神なのだ> 
*注
 東関紀行では、伊予国三嶋大明神をうつし奉ると聞くとしている。
     
三嶋暦師の館 <三島市>
三嶋暦を代々発行してきた暦師河合家の家屋で、仮名暦では日本
最古といわれる国内でもいち早く木版による印刷出版されていた
「三嶋暦」の版木や資料が無料で展示されている。 平成29年夏、
現地を訪れた際、道を尋ねた近所の方から天文台の跡地であった
と教えていただいた思い出がある。
 
<休館日:月曜日、年末年始、
  開館時間午前9時30分から午後4時30分>
    <三島市観光協会HPより引用>
  三嶋暦師の館への案内 <三島市>
道路に埋め込めれた暦師の館まで案内する鉄製の案内版。 中央の
矢印が進むべき方向を示している。 三嶋大社東駐車場角から館まで
5か所程に平成15年頃に設置されたという。 地元の人は地理を知っ
ているから関心は薄いが、市外の人は評価する人が多いらしい。
(平成30年1月23日市観光課から電話取材)