掛川市の鎌倉街道 |
はじめに 掛川市の西端は、典型的な平野部で農地と民家又は事業所が混在する風景が続く。JR掛川駅周辺は、逆川が流れる中、江戸時代から城下町そして 掛川宿として発展しており、現在も雰囲気を残している。 下記略図の東部は、丘陵が迫り、逆川周辺の民家が混在する中を中世そして近世東海道が ほぼ同じ位置の道を進んだ ***鎌倉街道の推定遺構について*** 「静岡県歴史の道・東海道」は、掛川城周辺以外は、近世東海道と、ほぼ同じ遺構としている。掛川市史でも、東北の掛川古城跡を古代から中世の街道 遺構としており、その内容で探索したが、具体的な遺構は発見できなかった。 なお、天王山の古掛川城趾や中宿の地名などが残されており、史料はないが古代の東海道として参考に図示した。 参考資料 ○「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会 〇掛川市史・平成9年8月発行<掛川市> ○掛川市観光ガイドブック・掛川市商工観光課 |
掛川市西部のイメージ |
間の宿「原川」と金西寺 <掛川市原川> 原川は掛川宿まで1里18町(約6キロメートル)、袋井宿へ33町(約3.6 キロメートル)の位置にある「間の宿」であった。 間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできたが、旅籠の 営業は許されていなかった。しかしながら、金西寺の原川薬師とばれる 阿弥陀仏へ供えるための薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ね、 賑わっていた。・・・掛川市HPいちおしルート |
大池橋 <掛川市原川> 倉真川に架かる大池橋は、かつて長さ29間(約52メートル)、幅3間1尺 (約5.7メートル)の土橋で、橋東側には火防の神「秋葉山」へ通じる 秋葉街道の入口として、見上げるような大鳥居が建てられていたと伝え られている。 歌川広重の「東海道掛川」には、大池橋の西側たもとから観た風景が 描かれている。・・・掛川市HPいちおしルート |
|
平将門十九首塚(じゅうくしゅつか)<掛川市掛川> 天慶三年(940)、藤原秀郷は関東を制覇した平将門を征伐し、将門 以下家臣の首を持って上洛、ここ掛川の地で勅使と会い、後に「血洗 川」と呼ばれる川で首を洗って検死を受けた。 その後、無残にも路傍 に捨て去られようとするのを見て、秀郷は「その屍を鞭打ちは非道なり」 と19の首を埋葬し懇ろに供養した。 ・・・現地案内版より引用 |
掛川城<掛川市掛川> 戦国時代に、山内一豊が城主として十年間在城。 大規模な城郭 修復を行い、天守閣、大手門を建設するとともに、城下町の整備や 大井川の治水工事などの力を注いだ。 この城は、平成6年、住民の 支援で日本初の本格木造天守閣として復元された。 |
|
真如寺(しんにょじ)<掛川市仁藤> 天正十八年(1590)掛川に入封した山内一豊は、叔父の在川謙昨 (ざいせんけんさ)大和尚を招いて創建した寺である。 後の土佐にも 真如寺を創建し、山内家の菩提寺となった。 ・・・HP掛川のお寺から引用 |
中宿<掛川市中宿> 古代から中世時代の街道を紹介する資料に登場する掛川市内の 旧蹟。 具体的な史跡はないが、掛川城から西北約8百メートルの 中宿の風景。 中世に結びつく物は何もないが公園の看板に歴史を 想像したい。 |
|
天王山掛川城趾
<掛川市掛川> 現在の掛川城の東北約二百メートルにある古掛川城趾。 室町時代、 駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて 築城させたのが始まりとされる。 この築城に際し、付近の中世以前の 東海道は逆川の南に移設されたという。 古東海道は、西は大池橋 から馬喰橋までの直線とし、その線上に 中宿、天王山がある。 参考:「静岡県歴史の道・東海道」P26 |
龍華院大猷院霊屋(りゅげいんだいゆういんおんたまや) <掛川市掛川> 1656年、剛子のない北条氏重が三代将軍家光の霊を祀り、家の存 続を願った霊廟。 |
|
JR掛川駅舎 <掛川市掛川> 東海道本線掛川駅の駅舎外観。今では数少ない木造建築である。 |
城下町掛川の一風景 <掛川市中町> 近世東海道掛川宿問屋場跡近くの清水銀行掛川支店のレトロな建物。 角の正面に山内一豊夫婦が木彫で飾られている。 左信号機の下に 掛川城が小さく見える。 |
|
馬喰橋<掛川市葛川> 葛川一里塚跡の脇の逆川に架かる馬喰橋は、かって長さ23間 (約41.8メートル)の土橋だったようだ。 左が近世東海道で、右の逆 川の北側から天王山、中宿、大池橋と結んだ線が中世以前の街道と 推定されている。 右に見える橋の欄干擬宝珠は馬の顔である。 |
ねむの木学園「やさしいお店」 <掛川市> お城側にある看板。狭い敷地なのか配置に工夫されている。 |
|
ねむの木学園「やさしいお店」 <掛川市駅前> 大通り外観。入り口で全体が見えるくらいかわいいお店である。 |
やさしいお店の商品 <やさしいお店> 細長い敷地なのか、やや狭い店内。なかなか良い品物があったが 12月という時節柄、中央のカレンダーが気になります。 月単位で、いい絵が配置されており、お店に入った縁で買いたいと 申し出た。在庫を探していただいたのですが、残念ながら品物がなく、 ポストカードが記念品となった。 |
|
第六回全国軽トラ市inかけがわ <掛川市駅前通りなど> 掛川市の三回目となる街道探索は、令和元年12月8日(日)に実施 した。 軽トラ市は愛知県内の新城市などでも開催されており関心を 持っていたが、偶然、三回目の街道探索の日が幸い開催日で見学 できた。 当日いただいたチラシによると107出店であった |
全国軽トラ市inかけがわの様子 開始90分後の御前10時半頃のブルーベリーブレンドのお店です。 正面に早くも「完売」の張り紙が誇らしげに見えます。 |
掛川市東部及び旧金谷町の鎌倉街道 |
はじめに 掛川市東部に近づくにつれ丘陵が迫り、事任八幡宮・日阪宿から登り坂となり、小夜の中山は、両側を谷に挟まれた狭い尾根を進むことになる。 下記略地図の作成段階で、国道一号線や東海道本線が大井川を渡る時点で、曲線即ち距離を稼いで勾配を緩やかにしているように思えた。 このことは、 小夜の中山峠と大井川の高低差が約180メートルと測定でき、中世以前の街道が南(下流)に進んでいる要因と思える。 東海道の難所と知られた中山 峠は、和歌・俳句の名所であり、掛川市の資料では勅撰集だけで40余首、この他、多くの歌集、句集、紀行文に取り上げられ、歌枕として古くから人々に 親しまれてきたと特別な小冊子で紹介されている。 ***鎌倉街道の推定遺構について*** 小夜の中山は、西入口を掛川市、東入口を島田市(旧金谷町)と行政区域が異なるため、全体を解説したものは少なく、理解するのに時間を要した。 また、古代から中世の東海道は、東入口を牧之原台地経由で通過しており、しかも時代によって移動しているが街道遺構がないため、点での説明しか できなかった。紀行文での解説と併せて推察されることをお勧めしたい。 ルートは、「静岡県歴史の道・東海道」と、金谷町史、島田市史に従った。 参考資料 ○「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会 〇金谷町史・通史編 本編 平成16年3月31日発行 ○藤枝市史 通史編上 原始・古代・中世 平成22年3月発行 ○東海道・小夜の中山峠 周辺案内 日阪地域振興の会発行 ○HPお茶街道 カワサキ機工株式会社 |
<海道記>四月十二日、天竜川・佐夜中山・菊河(2) 山口という今宿(いましゅく)を過れば、路(みち)は旧に依りて通ぜり。 野原を跡にし、里村(さとむら)を先にし、うちかへり過ぎ行けば、 事(こと)の任(まま)と申す社に参詣(さんけい)す。 本地(ほんぢ)をば 我(われ)しらず。 仏陀にぞいますらん、薩埵(さった)にもいます らん。 中丹(ちゅうたん)をば神必ず憐み給ふべし。 (一部略) <思ふ事のままに叶(かな)へよ 杉たてる神の誓(ちかひ)のしるしをもみん> <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 山口という新しい宿場を過ぎたが、道は昔のままで通じている。 野 原を後にしたり、里や村を先方に見たりするのを繰り返しながら過ぎて いくと、事の任と申し上げる神社があり、参拝した。 御本体を私は知ら ない。 仏でいらっしゃるのだろうか。 菩薩でいらつしゃるのだろうか。 いずれにしろ私の真心を神は必ず憐れんで下さることだろう。 <その名のとおり私の思う事を叶えてください。 それで杉立つ社の神の誓のあかしと見ることができるでしょう> |
||
事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)<掛川市八坂> 創建年代は不詳であるが、成務天皇の御代(190年頃)に鎮座され、 大同二年(807年)坂上田村麻呂東征の際に桓武天皇の勅を奉じ、 本宮山より現在の地に遷宮されたと伝えられる。 古くは、「巳等乃麻智(ことのまち)神社」、「任事社」と尊称され、願い ごとのままに叶う有り難い言霊の社として京にも知れ渡っていたようだ。 また、東海道筋の小夜の中山の手前に鎮座することから和歌も 多く詠まれ、「十六夜日記」や「東関紀行」等に記載されている。 ・・・<事任八幡宮参拝のしおり>から引用 |
||
<東関紀行>遠江路 ー 天竜川を渡り、今の浦に至る(3) 事任(ことのまま)と聞ゆる社おはします。 その御前を過ぐるとて、いささか思ひつづけられるし。 <木綿(もふ)だすきかけてぞ頼む 思ふことのままなる神のしるしを> <東関紀行><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 事任(ことのまま)と申し上げる神社がある。その前を通り過ぎようと して、少々心に浮かんできたものがあった。 <今思っていることが成就するように祈る。そのままかなえて 下さるという名の神の霊験を頼みにして> |
<十六夜日記>遠江路 ー高師山より菊川まで(6) 廿四、昼になりて、小夜(さや)の中山越ゆ。 ことのままといふ 社の程、紅葉(もみぢ)いと面白し。 山陰(やまかげ)にて、嵐も 及ばぬなめり。 深く入るままに、遠近(をちこち)の峰続き、異山 (ことやま)に似ず。 心細くあはれなり。 麓の里、菊川(きくかわ)と いふ所にとどまる。 <越えくらす麓の夕闇(ゆふやみ)に松風おくる小夜の中山> <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 24日の昼頃、小夜の中山を越える。事任という社の辺りは紅葉が 大層美しい。 山陰なので嵐も吹きつけないのだろう。 山深く入る につれて、あちこちの峰続きの具合が、他の山と違って、心細くしみ じみした感慨を誘う。 麓の里の菊川という所に泊る。 <山越えに日を暮らして泊る。 麓の里の夕闇の中に、松風を 吹いてよこす、小夜の中山よ> |
|
小夜の中山峠<沓掛><掛川市> 西入口直ぐの急勾配の沓掛(くつかかけ)。 あまりの勾配に馬の くつわを捧げて通過を祈念したことからの名という。 ***小夜の中山峠又は佐夜の中山峠とあり、基本は掛川 市の説の「小夜の中山峠」とし、例外として原典の使用 例に従った。*** |
浮世絵<日坂><掛川市> 「小夜の中山峠周辺案内」冊子の表紙にある浮世絵師・安藤広重作品 の東海道53次の内(保永堂版)日坂。 中央旅人の間にあるのは、明治元年まで道の中央にあった夜泣石。 右の沓掛の急勾配、夜泣石、富士山を書き込んでいるが、ここは道の 印象を強く感じさせる。 |
|
<海道記>四月十二日、天竜川・佐夜中山・菊河(3) 社の後(うしろ)の小川を渡れば、佐夜(さや)の中山にかかる。 この山口を暫くのぼれば、左も深き谷、右も深き谷、一峰 (いちほう)に長き路は堤の上に似たり。 両谷(りょうこく)の梢を眼 (まなこ)の下に見て、群鳥(ぐんちょう)の囀を足の下に聞く。 谷の 両片は、又、山高し。その間を過ぐれば、中山とは見えたり。 (一部略) <分けのぼるさやの中山なかなかに 越えてなごりぞくるしかりけれ> 時に鴇馬(はうば)蹄疲れて、日烏(にちう)翼さがりぬれば草命 (そうめい)を養はんが為に、菊河の宿に泊りぬ。 解説は右覧へ |
<海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 神社の後の小川を渡ると、佐夜の中山にかかる。 この山の入り口を しばらく登ると左側も深い谷、右側も深い谷でその間の一つの峰の上の 長い路はまるで堤の上をいくようである。 左右の谷の梢を眼下に見て、 多くの鳥のさえずる声を足下に聞く。 谷の両側は、また山が高く聳えて いる。 この間を過ぎるので中山というのだと思われた。 (一部略) <苦しい思いで分け登った佐夜の中山だが、越えてから、かえって 景色に心がひかれて名残惜しく、つらいことだ> そうこうするうちに、私の葦毛(あしげ)の馬は脚が疲れ、日は西に傾い たので、はかない命を守るために菊河の宿に泊った。 |
|
小夜の中山峠の北(左)の風景<掛川市佐夜鹿> 街道は、南北を谷に挟まれた狭い尾根道である。 <東関紀行>遠江路 ー 佐夜の中山を越える 佐夜(さよ)の中山は、「古今集」の歌に、「よこほりふせる」と 詠まれたれば、名高き名所とは聞きおきたれども、見るにいよ いよ心細し。 北は深山(みゃま)にて松杉嵐(あらし)はげしく、 南は野山にて秋の花露しげし。 谷より峰にうつる、白雲に分け 入る心地して、鹿の音(ね)涙をもよほし、虫の恨み哀れ深し。 <踏みまよふ峰のかけはし途絶えして雲に跡とふ佐夜の中山> 解説は右覧へ |
小夜の中山峠の南(右)風景<掛川市佐夜鹿> <東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 小夜の中山は、「古今集」の歌に、「よこほりふせる」と詠まれている ので有名な名所であると聞き、心にとめていたが、来てみると、聞いて いたよりもいっそう心細く感じる。 北の方は山が深くて松や杉に吹く 風が激しく、南の方は野山で秋草の花に露がいっぱい置いている。 谷から峰へのぼっていくのは、白い雲の中へ分け入っていくような 気持ちがして、鹿の声が涙を誘い、虫の嘆く音は哀れを催させる。 <険しくて、峰にかかるかけはしを登っていると思われるのに、 それも雲が間がとぎれていて、雲の中に道をさがしながら越えて いく佐夜の中山であることよ。> |
|
西行歌碑<掛川市佐夜鹿>久延寺西の中山公園内の歌碑。 <年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山> この歌は、西行69歳の作。文治3年(1186年)の奥州への旅の途中、 生涯二度目となる中山峠越えを歌ったものである。 <年老いてから、再びこの小夜の中山を越えることになるとは、 予期できたであろうか、いや思いもしなかった。 それなのに、 こうして私はここにいる。 こうして生きている命をしみじみと 実感することだ> 西行は若いころ、二十代後半のころに、初めて陸奥へ下向した旅で ここを越えた。「命なりけり」という万金の一句に、西行の全生涯が 凝縮された歌である。 ・・・物語の舞台を歩く・十六夜日記から引用 |
久延寺(きゅうえんじ)<掛川市佐夜鹿> 奈良時代の行基が 開基と伝えられる。 慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いに向かう家康を山内一豊が煎茶を 接待しました。久延寺内にある御茶亭跡は、その時建てた茶亭の あった場所という。 |
|
夜泣石 山賊に殺害された妊婦の霊魂が移り、泣いたという「夜泣き石 伝説」の石。 往古は浮世絵に描かれて居るように、旧東海道の 沓掛からの登り道の途中にあった。 明治14年の東京の勧業博 覧会に出展し、帰路、現在の位置(国道一号バイパス沿いの小泉屋 裏手)に移された。 久延寺境内にある夜泣き石は、昭和三十年代に峠の人たちが石の 段(夜泣き石があったところ)で見つけて、寺へ運んできたものだと いう。 |
阿仏尼歌碑<掛川市佐夜鹿> 久延寺の約200㍍東に阿仏尼の歌碑がある。 <十六夜日記>遠江路 ー高師山より菊川まで(7) 廿四、深く入るままに、遠近(をちこち)の峰続き、異山(ことやま)に 似ず心細くあはれなり。 麓の里、菊川といふ所にとどまる。 (前段は先で説明済み) 暁(あかつき)、起きて見れば月も出でにけり。 <雲かかる小夜の中山越えぬとは 都に告げよ有明の月> <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 山深く入るにつれて、あちこちにの峰続きの具合が、他の山と違って 心細くしみじみした感慨を誘う。 麓の里の菊川という所に泊る。 明け方に起きてみると月も出ている。 <雲のかかる小夜の中山を越えたと 都に知らせておくれ、有明の月よ> *他に一首詠まれているが歌碑がないので省略 |
|
菊川宿<島田市菊川> 中央の木の看板には「間の宿・菊川の里会館」と書かれている。 近世東海道の間の宿である。現在は写真のとおり寂しい里であるが、 中世は歴史に登場する基幹の宿であった。 ○建久元年(1190)10月3日、源頼朝は上洛のため鎌倉を出発し、 菊川に泊り、鮭の楚割(そわり)を食べ、大層気に入り、歌を認め ている。 ○承久三年(1221)7月 中納言宗行卿宿泊 |
法音寺及び中納言宗行卿の塚入り口<島田市菊川> 左の菊川の里会館から約百メートル南下すると、 左折できる交差点が あり、直ぐに石垣の上に「法音寺入り口」、下に「中納言宗行卿の塚」に 向かう寄り道コースの案内版がある。道の遠方正面に菊川坂石畳を 歩く人影が見える。 |
|
<海道記>宗行中納言のこと ある家の柱に、中御門中納言宗行卿(なかみかどのちゅうなごん むねゆききゃう)、斯(か)く書き付けられたり。 彼南陽県菊水 汲下流延齢 此東海道菊河 宿西岸終命 彼の南陽県(なんやうけん)の菊水 下流を汲んで齢(よはひ)を延ぶ 此の東海道の菊河 西岸(せいがん)に宿りて命を終(を)ふ (一部・略) <心あらばさぞな哀れと水茎(みずくき)の跡 かきつくる宿(やど)の旅人> <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) ある家の柱に中御門中納言宗行卿が、以下のように書きつけられた。 <あの中国の南陽県の菊水(きくすい)という川は、その下流の水を 汲んで飲むと寿命が延びると聞いた。 この日本の東海道の 菊河は、その西岸に宿して命を終えるのだ> (一部・略) <心があるならば、この詩をあわれなことだと見よ、 と書いた、 この宿の旅人だよ> |
||
<東関紀行>遠江路 ー 菊川で中納言宗行を偲ぶ この山を越えつつなほ過ぎ行くほどに、菊川といふ所あり。 去りにし承久(しょうきゅう)三年の秋のころ、中御門中納言宗行と 聞こえし人、罪ありて東(あずま)へ下られけるに、この宿(しゅく)に とまりたるけるが、ある家の障子(さうじ)に漢詩*を書かれたり けれと聞きおきれば、哀れにてその家をたづぬるに、火のために 焼けて、かの言(こと)の葉も残らぬよし申すあり。 今は限りとて 残しおきけん形見(かたみ)さへ跡なくなりにけるこそ、はかなき 世の習ひ、いとど哀れに悲しけれ。 (*左上欄・海道記参照) <書きつくる形見も今はなかりけり 跡は千(ち)とせと誰かいひけん> |
||
中納言宗行卿の塚<島田市菊川> 「上の位置から450メートル奥にある塚。承久の乱の首謀者の ひとりとして捕らえられた中御門宗行は、「吾妻鏡」承久三年7月 十日条によると、小山朝長に伴われて下向し、この日、菊川駅に 宿泊した。その際、旅店の柱に漢詩を書き付けた。 |
<東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) あこの山を越えてさらに進んでいくと、菊川という所がある。 去る承久 三年の秋の頃、中御門中納言宗行卿といわれた人が、罪があって東国 へお下りなされた時、この宿場に泊ったのだが、 「昔、中国では南陽県の菊の水・・・」とある家の襖にお書きになったと 聞いたものから、心ひかれてその家を探したら、火事で焼けてしまい 残っていないという。 宗行卿がもうこれが最期だと思って、書き残しておいた記念さえも跡形も なくなってしまったことは、はかない浮世の通例であるが、ひどく気の毒で 悲しいことだ。 <書きつけておいた形見の文字も今はもうなくなったよ。 筆の跡は千年の後までも形見として残るものだとは 誰が言った言葉であろうか> |
|
菊坂石畳(菊川坂)<島田市菊川> 金谷坂と同様、急坂の上、粘土質であるために雨が降るたびに滑り やすく、大名行列や旅人は難儀した。 詳細な時期は不明であるが、 文久2、3年頃、石畳が敷設されたと推測される。 近代になって舗装 などにより石畳の面影をなくしていたが、「平成の道普請・町民一人 一石運動」としてボランティアなどの参加を得て石畳が復元された。 |
諏訪原城趾<島田市菊川> 戦国の武将、武田信玄親子二代の野望の象徴。 徳川家康との「国 盗り合戦」の舞台となった所の一つ。 「甲州流築城法」の典型的な 「山城の跡」と言われる。 巨大な二重の空堀や丸馬出し等の遺構は 九分通り現存しており、国指定の史跡である。 令和元年9月の訪問時、 新築木造のビジターセンターが公開されている。 。 |
|
金谷宿・本陣柏屋跡<島田市金谷本町> 徳川家康より家屋敷を賜り、200年以上金谷宿本陣の経営と名主を 務めた。 |
日本左衛門首塚<島田市金谷東町> 大井川鐵道本線新金谷駅そばの宅円庵にある日本左衛門首塚。 歌舞伎「白波五人男」の日本駄右衛門のモデル。 盗みはするが 非道はしない、金持ちの倉を破り貧乏人に盗んだ金をばらまいた ともいわれる。 京都で自首し、江戸で打ち首となり遠州鈴ヶ森で さらし首になっていたのを金谷宿の愛人「おまん」が持ちけり宅円庵 に葬ったと伝えられている。 |
|
大井川渡し場跡<島田市金谷東町> 金谷宿から東に大井川を目指してきた旅人は、画像の左側赤字 (現在地)から輿や肩車で大井川を渡った。 周辺は水神公園として シンプルに整備されているが、当時を偲ぶものはない。 |
大井川橋<島田市金谷東町> 県道島田岡部線西の様子。左の渡し場跡から少し上流に架設されて いる。 交通量が多く、車線を歩くには危険であるが、クリーム色の 歩行者専用通路が併設されており、安全に渡ることができた。 中央のモニュメントは、昭和3年架設の鋼製トラス橋で今なお当時の 姿をよく残しているとして、平成15年11月、土木学会選奨土木遺産に 認定されたことが記されている。 |
牧之原台地の古街道 |
***古代から中世街道のルートの概要***参考:<「静岡県歴史の道・東海道P26~28」> 東海道の概要は、大井川の川越しが蓮台や肩車によるビジュアルな印象が強く、中世以前の街道の経路を詮索することが自分には無かった。 今回、金谷周辺の古海道の歴史を整理すると、牧之原台地経由の街道の歴史を知ることができ、ここに報告することができた。 ただし、現地を歩いたり自転車で探索した結果、古代や中世に思いをはせる物は、ほとんど無いことをご報告したい。 ○馬道<金谷町猪土居~吹木(ふこおぎ)・湯日・色尾> 奈良時代の古道で菊川から初倉の駅屋郷へ抜ける道 ○色尾道<金谷町猪土居~谷口原・色尾> 平安時代には拓けた道で、菊川から初倉駅へ抜ける牧之原台地上の道。菊坂からヘソ茶屋を通り、二軒屋原(*)へ出、鎌塚を通り権現原から 谷口原(敬満神社)に出、ここを坂本・色尾に出るコースである。鎌倉時代にも利用されたと思われる。 *二軒屋原・・・東関紀行の駒場とする説が有力とされる。 ○鎌塚道(義教・道灌道路)直接、島田へ抜けるコースと時代をおって変遷する。 菊坂を登り、ヘソ茶屋から二軒屋原・鎌塚へ来る道は、権現原を通って色尾へ出れば色尾道だが、鎌塚から対岸の前島(藤枝)へ渡るコース、 参考資料 ○「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会 〇金谷町史・通史編 本編 平成16年3月31日発行 ○藤枝市史 通史編上 原始・古代・中世 平成22年3月発行 |
<海道記>大井川・藤枝・岡部・宇津山・手越(1) 志水の渡(わたり)と云ふ処(ところ)の野原を過ぐ。 仲呂(ちゅうりょ) の節(せつ)に当りて、小暑(せうしょ)の気、様々(やうやう)催せども、 いまだ納涼(だふりやう)の心ならねば、手にはむすばず。 <夏深き清水なりせば駒とめて しばしすすまん日はくれなまし> 播豆蔵(はずくら)の宿を過ぎて、大井川を渡る。 この河は中に渡 (わたり)多く、水又さかし。 流れを越え嶋(しま)を隔(へだ)てて、 瀬々、片々(かたがた)に分かれたり。 この道を二、三里行けば、 四望(しぼう)幽(かす)かにして、遠情(えんじゃう)おさえがたし。 時に、水風例(すいふうれい)よりも猛(たけ)くて、白砂霧(はくしゃきり) の如くに立つ。 笠を傾(かたぶ)けて、駿河国に移りぬ。 <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 志水の渡(*場所不明)という所の野原を過ぎる。 仲呂の時節に 当り、暑さの増す小暑(しょうしょ)の気配が次第に感じられるが、まだ 涼をとる気分でもないので、その水を手ですくうことはしなかった。 <もし夏の盛りの清水だったら、馬をとめてしばらく涼むうちに 時の経つのも忘れ、日が暮れてしまっただろうなあ> 播豆蔵(大井川右岸の渡り)の宿場を過ぎて、大井川を渡った。 この 河はその中に渡り所が多く、水もまた急だ。 水は他の流れを越え たり、島を分けたりして、瀬が方々で分かれている。 この道を二、三 里行くと四方の眺めがかすかに見えて、旅情を禁ずることができない。 その時、川風がいつもより激しくて、白い砂が霧のように立った。 その ため笠を傾けて駿河国に入った。 |
||
牧之原台地からの遠景<島田市金谷南町> JR金谷駅東の近世東海道を通り、鉄道の下を抜けて生活道路を 牧之原台地に登る。 眼下に大井川を渡る大井川橋梁が目に入る。 対岸左の紅白の煙突は、大井川川越し場後(現・島田市博物館) 隣接の新東海製紙である。 |
||
<東関紀行>遠江路 ー 大井川を渡り、前嶋の宿に至る(1) 菊川をわたりて、幾(いく)ほどなく一むらの里あり。 こはま ぞといふなる。 この里の東のはてに、すこし打ち登るやう なる奥より大井川を見渡したれば、はるばると広き河原(かはら) のうちに一すぢならず流れわかれたる河瀬(かわせ)ども、とかく 入り違ひたるやうにて、州流しといふ物をしたるに似たり。 なかなか渡りて見んよりも外目(よそめ)おもしろく覚ゆれば、 かの紅葉(もみじ)みだれて流れけん竜田川(たつたがは)ならね ども、しばしやすらはる。 <日数ふる旅のあはれは大井川 渡らぬ水もふかき色かな> 前嶋(まへしま)の宿を立ちて、岡部(おかべ)の今宿(いますぐ)を 打ち過ぐるほど、・・・(略) <東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 菊川を渡って、さほども行かない所に、一つの村里がある。 こは ま(*金谷町諏訪原周辺)というそうである。 この里の東のはずれ に少し上りになっている、その奥の所から大井川を見渡したところ、 遙かに広がっている川原の中に幾筋も分かれて流れている川の 瀬々は、あちこちと入りこんでいるようで、州流(すなが)しというも のをしたのに似ている。 かえって実際に渡って見るよりも、外から 見る方が興味深く思われて、例の、紅葉(もみじ)が乱れて流れただ よう竜田川(たつだがわ)ではないが、しばらく立ち去るのがためられる。 <日数を経るにしたがって、旅の愁いはいよいよ多く、 大井川を渡らずに眺めていると、趣の深い水の色であるよ。> 前嶋の宿場を出立して、岡部の今宿を通り過ぎる時・・・(略) |
<十六夜日記>駿河路 ー大井川より田子の浦まで(1) 廿五日、菊川を出でて、今日(けふ)は大井川といふ川を渡る。 水いとあせて、聞きしには違(たが)ひて、わづらひなし。 川原 (かわら)幾里(いくり)とかや、いと遙かなり。 水の出でたらむ面影 (おもかげ)、おしはからる。 <思ひ出づる都のことは おほ井河いく瀬の石の数も及ばし> 宇津の山越ゆる程にしも・・・(略) <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 25日、菊川を出て、今日は大井河という川を渡る。 水がひどく涸(か) れていて、聞いていたのと違って難なく渡った。 川原は何里という のか、大変広い。 ここに大水が出たらどんなだろうと思いやられる。 <思い出す都のことの多さは、 この大井河のたくさんの瀬の、石の数も及びもつかないだろうよ> ちょうど宇津の山を越えるところで・・・(略) |
|
蓬莱橋(ほうらいはし)<島田市島田南から金谷町坂本・権現原> 明治二年、最期の将軍・徳川慶喜を護衛してきた幕臣たちが牧之原 台地の開拓、お茶作りを始めた。 当初は筆舌につくせない苦労の 連続であったが、徐々に茶栽培が軌道に乗った段階で、危険な大井 川渡船の代わりに橋架設の要望がなされ、明治12年、橋が完成した。 木製の橋は増水の被害を受けることもあり、昭和40年、コンクリート 製の橋脚に取り替え、ギネス認定の世界一長い(897.4㍍)木造歩道 橋が完成した。(渡橋料金 大人 百円)・・・蓬莱橋パンフより引用 |
牛岩権現<島田市湯日> 県道230号線と東海道本線が最も近づく大井川西岸の権現社。 境内 の由来によると、創建年次等不明であるが、大河大井川の治水の神 としてあがめられてきた。 また、江戸時代から大正にかけて水飢饉の 時の雨乞い、そして五穀豊穣、無病息災の祈りに御利益があると伝え られてきた。 権現原の地名があるが、この神社との関係があると想定したい。 |
|
地名:鎌塚<島田市湯日> 牛岩権現の東、県道230号線沿いの鎌塚茶農協の建物。 平安 時代から鎌倉・室町時代の川越地点周辺と推定される。 永享4年 (1432)将軍足利義教の富士遊覧の記録である 「覧富士紀」に かまづかと申あたりにて 駒とめる草かるをのこ手もたゆくとる鎌塚を此わたりとて と大井川を鎌塚において島田宿の南に渡ったらしいと推測される。 ・・・島田市史 上巻 昭和53年3月発行 |
式内社敬満神社<島田市阪本> 垂仁天皇(紀元前69年生まれの伝説の天皇)の朝、26年の総祀と 伝えられ(社伝)、式内社に列せられた。 古代榛原郡の中心、主邑たる初倉の鎮護として、崇敬厚かった。 ・・・境内設置由緒抜粋 |
|
敬満神社付近の遠景<島田市坂本> 上の画像の先にある牧之原台地上から見た遠景。 先に見える 大井川の対岸は島田と藤枝の中間の六合駅付近。 右に渡し場の 東となる前島(まえしま、さきしま)が近くにある。 |
地名:初倉<島田市坂本> 「延喜式」によれば、駅路は横尾(掛川市)、初倉(坂本)、小川(焼津 市)と記されており、奈良時代以降すでに初倉は交通の要所であった。 この初倉は秦蔵が訛って初倉になったと言われるくらい秦氏との関係 が深いとされる。 ・・・「静岡県歴史の道・東海道」から引用 |
|
地名:色尾<島田市坂本> 色尾道と呼ばれる道があった。 牧之原台地を二軒屋原、権現原、 谷口原・色尾と抜ける道で敬満神社前を通っている。 馬道が吹木 から台地の中腹を色をに抜けるのと対照的に、色尾道は台地上を 色尾に抜けており、平安時代から鎌倉時代も利用されていたと思わ れる。 ・・・「静岡県歴史の道・東海道」から引用 |
天神社<島田市湯日> 県道230号線中間の結節点(市道との交錯点)にある天神社。 総記 年次など不明であるが、菅原道真公を祀り、鎌塚山に鎮座されていた が武田信玄に焼かれた。 数度の再建を経て昭和26年現在地に遷座 と社殿に由緒の掲示あり。 古街道との関係はないことになる。 現地 探索時の目印として意味がある。 |