磐田市の鎌倉街道 
はじめに
磐田市は、西端を天竜川、ほぼ中央を磐田原台地を経て、東は大田川を経て、袋井市に向かっている。 天竜川は、別名「暴れ川」といわれたように、
大規模な洪水に見舞われて、本流を浜松市内を流れている「馬込川」から磐田台地西端あたりまで変化しているとされ、鎌倉時代の池田宿は天竜川の
西岸にあった。 記録などは乏しいが、紀行文例えば、海道記は「池田宿を立ち・・・一部略・・・天竜川を渡ると」あり、宿が西岸にあったことが判る。
遠州の中心地として、磐田原台地に古代から国府がJR磐田駅近くの「御殿・二宮遺跡」にあったと推定され、大之浦が舟運の拠点として利用された。
平安時代には海進(海水面が上昇)したため、府八幡宮付近に移転したと見られる。  「御殿・二宮遺跡」には、徳川家康が当地の見付などの支配や
軍略の拠点として、中泉御殿を建て、江戸時代に入ると代官所や陣屋として利用された。
***鎌倉街道の推定遺構について***
参考にしている「平安鎌倉古道」
及び「静岡県歴史の道・東海道」とも磐田原台地の西を姫街道の経路としており、同じ経路とした。  また見付宿から
東は、近世東海道の経路としており、同じ経路とした。
参考資料
○「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会   
〇磐田市史・平成5年発行<磐田市>
○ふるさと散歩(豊田編、中泉編、東部編)・磐田市教育委員会発行      ○東海道見付宿&姫街道<ぶらーり・歩いてみよう>(磐田市)
***レンターサイクル
〇 いわたペダル(有料・窓口・ホテルくれたけイン・イワタ)<磐田市観光協会>
 中世磐田市のイメージ
 
     <十六夜日記>遠江路 ー高師山より菊川まで(4)
 廿三日、天中
(てんちゅう)の渡りといふ。 舟に乗るに、西行
 
(さいぎょう)が昔も思ひ出でられて心細し。 組み合わせたる舟
 ただ一つにて、多くの人の往来に、さしかへる、ひまもなし。
   <水の泡のうき世を渡る程をみよ
         早瀬の瀬々に棹も休めず>
 
<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 23日に天中川を渡るという。 舟に乗るにつけて、昔、西行が難儀を
 した話も思い出されて心細い。
 木を組み合わせたような舟、たった
 一つで大勢の人を渡すので、行ったり来たり、往復に休む暇もない。
  <天中の渡し舟に、水の泡のようなはかない人生のあり方を
   見るがよい。あの舟人も早瀬を一つ一つ乗り切るのに棹を休める
   暇もないのではないか> 
「天竜川渡船場跡碑」 <磐田市池田>
天竜川東岸に建てられている碑。中世から近世江戸時代に渡船場
として利用された。 
 
     
天竜川池田渡船の歴史 <池田の渡し歴史風景館
左の碑近くにある「風景館」の説明資料。
平安時代から渡船が始まり、鎌倉時代に臨時的な浮橋架設の歴史も
あった。鎌倉時代までは、磐田原台地
の裾を流れていたが室町時代に
現在の流れに変わり、今に至っている。そのため池田の宿は、天竜川
の東に位置するようになった。 旨が書かれている。
  時宗・行興寺(ぎょうこうじ) <磐田市池田
渡し場近くにある行興寺。熊野(ゆや)御前が母の死後、その冥福を
祈るため、お堂をたてたことが始まりといわれる。通称「熊野寺」といわ
れている。

・・・出典:「ふるさと散歩・豊田編」(磐田市教育委員会発行)
熊野(ゆや)御前
熊野御前は池田荘の庄司藤原重徳の娘で、熊野権現に祈願して生ま
れたので、熊野と名づけられた。 才色ともに優れ、当時の女性の手本
とされた。 治承4年(1180)には京に上り、平宗盛(平清盛の三男)に
仕え、宗盛の寵愛をうけた。 熊野は病母から届いた手紙で見舞いに
赴きたいと宗盛に暇を乞いたが、聞き入れられず、清水の桜見物に同
行したが、舞を舞った熊野は雨に散る花によせて、故郷の病母を気遣い
 <いかにせん 都の花も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん>
 と和歌を詠んだのを見、宗盛も哀れに思い、暇を与えた。
 熊野は、これも清水観音の御利益と喜び故郷に帰っていった。

    ・・・謡曲史跡保存会設置の案内から引用
   
熊野(ゆや)の長藤磐田市池田
行興寺には、謡曲「熊野(ゆや)」で知られる「熊野御前」が植えた
「熊野の長藤」と「熊野の墓」がある。境内に、国指定天然記念物1本と
県指定天然記念物5本が植えられている。
 
   
熊野(ゆや)御前の墓 <行興寺>
行興寺境内の熊野親子の墓。右の白い札に
右:ゆやの母の墓、左:ゆやの墓 とある。
  一言坂(ひとことさか)古戦場 <磐田市一言
県道413号の磐田警察署から西方約4百mにある古戦場碑。 元亀
3年(1572)、三ヶ野で武田軍に敗れた徳川軍は浜松城へ退却する
途中、この一言坂で追いつかれ激しい戦いが行われた。 徳川家康が
戦いで負け逃げているとき、一生に一度、それも一言だけ叶えてくれる
という観音様に「助けてくれ」と頼んだところ、戦運が有利になった。
本田平八郎忠勝が「とんぼ切り」という大槍で一人奮戦し、助けたと
いう。 (観音様は、元は姫街道沿いの台地にあったが、今は知恩齋に
移されている。)
     
一言観音<智恩齋(ちおんさい)
一言坂古戦場碑西北の智恩齋に安置されている観音様。
山門前にお御堂が造られ、観音様をお参りすることができる。

(令和2年3月3日撮影)
  挑燈野(ちょうちんの) 磐田市上万能
磐元亀3年(1572)武田信玄は、3万5千の大軍で徳川家康の軍4千人と
一言坂で戦い、打ち破った。 家康軍は退却に際し、武田軍を迎え撃つ
ため、湿地帯の石動(ゆるぎ)といわれる沼地を利用した。 腰までもぐる
震田(ゆるぎだ)に布橋をかけ、松林には幟や火をともした提灯をかけて
陣地と見せかけ武田軍を待った。 武田軍は怒濤のように押し寄せ
深い沼に落ち苦しんだ。 家康軍は武田軍に大損害を与え浜松に帰る
ことができた。 村人たちは、この戦いで死んだ将兵の死体を集めて
懇ろに弔った。 ここを桃燈野といい、夏の夜「万能ボタル」という大きな
蛍がたくさん飛ぶのは、武田軍将兵の魂であると伝えている。
・・・HP磐田のお宝見聞帳から引用
     
善導寺の大楠 <磐田市中泉
JR磐田駅前の大クス。 説明板によると、かって、ここに善導寺
があり、境内にあった推定樹齢7百年の大クス。昭和34年、県指定
文化財(天然記念物)である。当地には、巨樹が多く見られる。
  遠江(とおとおみ)国分寺跡 磐田市見付
 奈良時代(西暦741)に聖武天皇の命令によって全国60数カ所に建て
 られた仏教文化を代表する寺院である。 この遠江国分寺は往時の
 偉容を偲ぶことができる数少ない寺院跡である。 全国に先駆けて
 昭和26年に発掘調査され、27年、国特別史跡に指定された。
 ・・・右の磐田市教育委員会設置の案内より引用
  なお、国分尼寺跡は、北接地とされる。
     
遠江国分寺 <磐田市見付
コンピュータグラフィックスによる推定復元図
・・・出典:磐田市観光ガイドブック
  参慶山国分寺 <磐田市見付
現在の国分寺の東正面。 詳細は不明であるが、左の案内板に遠江
四十九薬師霊場第一番札所と説明されている。 享保年間に開創され、
三百年の間、広く人々に信仰され生きる力と光を与えて今日に至り
遠州最古の霊場であると解説されている。
     
府八幡宮(ふはちまんぐう) <磐田市中泉
天平年間(8世紀前半)に遠江国司であった桜井王が、国府の守護と
して勧請したと伝えられている。  
・・・出典:磐田市観光ガイドブック
また、市史によれば隣接する「今の浦公園」付近は、江戸時代初期
まで遠州灘が深く湾入した「今の浦湾」の湊であり、国衛が移転した
見付から今の浦に続く宿場を形成していたとされる。(磐田市史p505
  府八幡宮楼門 <磐田市中泉
江戸時代(寛永12年)に建立され、県有形文化財の指定を受けている。
・・・出典:磐田市観光ガイドブック
<波の音も松の嵐も今の浦に昨日(きのふ)の里の名残をぞ聞く>
 <東関紀行>遠江路 ー 天竜川を渡り、今の浦に至る(2)
 遠江(とほたうみ)の国府今の浦に着きぬ。 ここに宿(やど)かりて
 一日二日とまりたるほどに、海士
(あま)の小舟に棹(さお)さしつつ
 浦のありさま見巡
(みめぐ)れば、潮海(しほうみ)の間より州崎遠く
 へだたりで、南には極浦
(きょくほ)の波袖を潤(うるほ)し、北には
 長松
(ちょうしょう)の風(かぜ)心を痛ましむ。 名残(なごり)多かりし
 橋本の宿
(しゅく)にぞ似たる。 昨日の目うつりなからずは、これも
 心とまらずしもあらざらまし、などは覚え
  <波の音も松の嵐(あらし)も今の浦に
         昨日
(きのふ)の里の名残(なごり)をぞ聞く


<東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 遠江の国府の今
(いま)の浦(うら)に到着した。 ここで宿をとって一日
 二日滞在した時、漁夫の小舟に乗って海岸の様子を見物したのだが、
 海の中に州崎が長く突き出して居て、南には遙かに遠い岸辺に波が
 寄せて旅愁に袖を濡らし、北には高い松に風が吹いて心を悲しま
 せる。 名残惜しかった橋本の宿によく似てる。 もし昨日の美しい
 景色に心を奪われなかったら、この景色も心にとまらないことはおそ
 らくなかっただろうに、などと思われて
  <波の音も松風の音も、今日今の浦で、
       昨日の橋本の里の名残として聞いているよ>
   <十六夜日記>遠江路 ー高師山より菊川まで(5)
 今夜は、遠江
(とおうあふみ)、見附(みつけ)の国府(こふ)といふ所に
 とどまる。 里荒れて物恐ろし。 傍
(かたわら)らに水の江あり。
    <誰か来て見附の里と聞くからに
             いとど旅寝ぞ空恐ろしき>
 

 <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 今夜は遠江国の見附の国府という所に宿る。 里が荒れていて、
 何だか恐ろしい感じがする。 近くに入海がある。
 <誰かが来て見附
(みつ)けるという名の里だと聞くにつけても、
       いよいよ旅の寝床は
気味の悪い気持ちがする>
***注<磐田市史の説明>***
阿仏尼は、見付の国府は荒れていて恐ろしいと感じたと書いている。
しかし、当時は守護所が置かれ、国府も存在していた。 周囲には、
33を数える郷があり、年貢などの物資の集積地、そして遠江国の守護所
所在地であり、政治の中心地として見付は栄えていたと思われる。
阿仏尼がこのように感じたのは、前日の引馬宿での知人たちとの交流
の直後であり、遠江以東の旅の悲しみと不安が見付の町を恐ろしく
見せたのであろう。
***<筆者の見解>***
 35年前の「東関紀行」には景勝地を愛でるプラス思考の文があるが、
荒れる等マイナスの表現は書かれていない。十六夜日記の天竜の渡り
場面で「心細い」と弱気の表現がある。 市史の見解に賛同したい。
     
大池磐田市二宮
JR磐田駅南1キロの大池。中世まで、磐田(見付)付近まで海が入り
組んで、国府への舟運、交通路の場であり、「今の浦」と呼ばれた。  
海がひき、残された水面が大池という。 今は、周囲1.3キロの遊歩
道が整備され、市民憩いの場となっている。
  中世東海道(鎌倉街道)のイメージ
大池の西北に設置されている案内版「大池の歴史」の付属地図。
中段に推定中世東海道が図示されている。 東関紀行の記事が
理解できる。
     
東福山・西光寺(さいこうじ) 磐田市見付
阿弥陀如来をご本尊とする時宗の寺院。文永2年(1265)、真言宗の
傾木和尚によって創建されたが、建治・弘安年間(1280前後)、時宗
開祖・一遍上人を迎えて改宗、時宗の修行道場となった。
本堂には、ご本尊の阿弥陀如来、願いを叶える日限のお地蔵尊、
薬師如来が安置され、若い二人連れの参拝者も見かけた。
また一角には、お寺ライブの案内チラシが掲示されており、お寺を
核にした地域活性化に工夫・努力されていることに敬意を表したい。
  西光寺の大樟(おおくす) <西光寺境内
推定樹齢5百年の大樟。生命力あふれる力と長い歴史を生き抜いた
ことから「縁結びのパワースポット」として注目を浴びているという。
・・・説明板抜粋
     
瑞雲山・見性寺(けんしょうじ) 磐田市見付
臨済宗妙心寺派の寺院。
 歌舞伎「白波五人男」のひとり、日本駄右衛門のモデルにもなった
日本左衛門のお墓がある事でも有名である。
享保4年(1719年)生まれ、盗賊団の一味。延享4年(1747年)京都の
町奉行に自首、江戸に送られ同年3月11日(1747年4月20日)打ち首。 
遠州鈴ヶ森にて獄門(晒し首)。 享年29歳。
晒された首は、金谷出身の愛人により密かに持ち出され、現在の島田
市金谷の宅円庵に葬られたと伝えられている。
  旧見付学校・遠江総社・淡海(おうみ)国玉神社磐田市見付
右の淡海国玉神社は創立は不明であるが、平安時代に書かれた「延喜
式」に記載された神社で、遠江国総社として平安時代、国司が国内の
主な神社を巡拝する行事を効率化するため国府近くに設置された。 
主祭神は、大国主命(大黒様)で、拝殿前に兎が配置されている。 
左は、明治8年に建設され、現存する日本最古の木造擬洋風小学校
校舎で、国史跡に指定されている「旧見付学校」である。 建物内まで
も見学可能で、当時の授業の様子が再現されている。 二つが並んで
いるのは、淡海国玉神社・神官の大久保忠利や町の有力者が資金を
出し、学校敷地を大久保忠利が提供した経緯を物語る。
・・・国史跡旧見付学校・磐田文庫見学資料から引用
   
     
大見寺(だいけんじ) 磐田市見付
日照山光明院大見寺は磐田市見付に境内を構えている浄土宗の
寺院である。 大見寺の創建は鎌倉時代にまで遡ると云われ、今川
氏の支配下では見付端城が築かれ遠江支配の拠点となった。
  大見寺周辺の様子
門前設置の「江戸時代初期」(元禄11年:1696)の絵図。  中央の
大見寺の周囲に今川氏によって築かれた見付端城(みつけはじょう)
の土塁等がある。 旧東海道の南に遠州灘に繋がる「今之浦」入江が
見える。
     
矢奈(やいなひめ)神社<見付天神>磐田市見付
創立年月は不明であるが、延喜式内社に列せられてるという。 
矢奈比売命、菅原道真を祭神とし、別名・見付天神とも言われて
いる。 鳥居の右に、
「悉平(しっぺい)太郎像」が見える。 悉平太郎
は怪物退治のため、駒ヶ根市の「光前寺」から借り受けた霊犬。
昔、見付村では田畑を荒らされないように毎年祭の日に白羽の矢が
立てられた家の娘を生贄(人身御供)として怪物に捧げていた。 
旅の僧が怪物の正体を暴こうと、祭の夜に様子を窺うと、「信濃の
悉平太郎はおるまいな」と悉平太郎を恐れている様子であったが、
あっという間に生け贄をかっさらって消えた。 人見御供を怪神の
仕業と確信した旅僧は、すぐさま信濃へ旅立ち、「信州の悉平太郎」
を探したところ、光前寺に飼われている犬であった。 次の祭の日、
悉平太郎を借り受けて娘の身代わりとすると、悉平太郎は大狒狒
(ひひ)と一晩中戦い続け、ついに退治した。
里人は悉平太郎に深く感謝し、神様の生まれ変わりと称えると
ともに、そのお礼として大般若経を光前寺に納めた。
・・・神社資料から引用
  矢奈(やなひめ)神社拝殿<磐田市池田
拝殿の前に天神様と関係ガ深い牛像が配置され、さする人が
見える。


   
見付天神裸祭 <磐田市見付国指定重要無形民俗文化財
この祭は当神社の御神霊が遠江国総社・淡海国玉神社へ渡御する
際に行われる祭で、渡御に先立ち裸の群衆が見付地区内を練り歩き、
神社拝殿で乱舞(鬼踊り)することからこの名がある。 練りが最高
潮に達し、いよいよ神輿渡御(みこしとぎょ)の時刻となると見付の町は
一斉に明かりを消して漆黒の闇となる。 腰簔姿の氏子は神輿を
奉じて闇の中をひた走り、御旅所(おたびしょ)である遠江国総社(淡海
国玉神社)へ向かう。・・・神社資料から引用
  遠州鈴鹿森刑場跡付近 <磐田市富士見町
国道一号線「わかば台団地入り口」バス停近くの「刑場跡」といわれる
場所の告知文。 その内容は
○ここは(鈴鹿森)刑場跡ではない。 刑場跡は昭和31年の国道一号
  線改良工事により道路傍下に埋設された。
○見付地内に刑場があったことを記す史跡碑建立の場として所有者
  玄妙寺が管理しているものである。・・・見付 本立山玄妙寺
宅地化が進んでおり、探索は迷惑ですという地元の見解を尊重すべき
と思う。
     
東海道にある道標 <磐田市三ケ野
行人坂から約1キロ東方に進むと緩い勾配となり直ぐに画像の分岐
点となる。 右に白い道案内があり、大日堂の境内に至る。
  三ケ野七つ道 <磐田市三ケ野
大日堂境内入り口にある「歴史がうつる三ケ野七つ道」の説明板。
説明板下には、「江戸時代の古道」と刻まれた石が置かれている。
少し右には、「鎌倉の古道」と刻まれた石と遊歩道が整備されている。
     
大日堂 <磐田市三ケ野
上の「七つ道」説明板の奥(東)の見通しのよい境内。
元亀三年(1572)、上洛を目指す武田信玄が遠江へ進行し木原(袋井
市)に陣を布いた。 これを迎え撃つため徳川軍は、三ケ野、見付宿、
一言坂と戦った。 この丘陵には、本多平八郎物見の松と伝えられる
大松があった。 ここからは、下の太田川から遠く袋井まで一望でき、
本多平八郎の物見もさぞやとうなづける戦国ロマンがただよう。
・・説明板から引用
  鎌倉の古道東入口 磐田市三ケ野
鎌倉の古道を下った東入口。約5分程度の整備された遊歩道である。
こちらの石にも「鎌倉の古道」と刻まれ、木製の道案内も用意されて
いた。

     
近世東海道から望む三ケ野坂と鎌倉古道の案内
磐田市三ケ野
太田川から西進、三ヶ野坂が見える東海道。松の近くに「鎌倉時代
の古道」と書かれた道案内が「田原歴史愛好会」によって設置されて
いた。 鎌倉街道ファンとして嬉しい案内であり記録していきたい。
  須賀神社磐田市西島
太田川の東にあり、袋井市と地続きの須賀神社。 鳥居横に設置されて
いる由緒書きによると
祭神は素戔嗚尊で創建は嘉禄元年(1225)とされる。
     
須賀神社の大楠 <磐田市西島
磐田市指定天然記念物(H17年11月21日指定)
樹齢5百年と推定される。 江戸時代から東海道を行き交う
旅人たちの目印になっていたとわれれている。
  鶴ヶ池 <磐田市岩井
資料がなくネットで検索した結果、磐田市立向笠小学校のhpに校区の
歴史「鶴ヶ池伝説」(鎌倉時代)が紹介されており、引用させていただいた。
健久9年(1198)10月、頼朝は都へ向かう途中、朝長の墓所(袋井市
三川)に参拝したと伝えられている。 
そこから鎌倉街道に戻るとき、
岩井の村人たちが鶴を数多く飼っているのを知り、十数羽の鶴を譲り
受け、池の畔で黄金の札をつけた鶴を放つ放生会を開いた。 
以来「鶴ヶ池」と呼ばれるようになったのが「鶴ヶ池伝説)である。




袋井市の鎌倉街道  
はじめに
磐市史では、古代以来、東海道(鎌倉街道を含む)は袋井地域中央部を東西に走っていた。中世の記録・紀行文学などで袋井について触れたものは
 乏しく、大半は見付(磐田市)にあった遠江国府から懸川あたりに素通りして、袋井に関する記述はみられない。
このため案内に苦慮するが、下記のとおり、参考資料の説どおりで進んでいきたい。
***鎌倉街道の推定遺構について***
参考にしている「平安鎌倉古道」
及び「静岡県歴史の道・東海道」とも袋井市内の鎌倉街道は、近世東海道とほぼ同じとしており、その説に従った。
参考資料
○「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会 
〇袋井市史・通史編 昭和58年11月発行
 
     
許禰(こね)神社袋井市木原
鳥居横にある案内版によると、平治元年(1159)以降、遠江は熊野
新宮を造営する費用を負担する地域になった関係で多数の熊野
神社が建てられた。 ここは、かって木原権現社と呼ばれ、古代
末期に創建されたと考えられている。
 
  古戦場・木原畷(きはらなわて)袋井市木原
元亀3年(1572)、武田信玄は大軍を率いて遠州国に攻めいり木原
付近に布陣した。これに対峙する徳川家康の家臣・内藤信成は磐田
の三箇野台
(みかのだい)から偵察の兵を出したので、集落付近で
木原畷の戦い」と呼ばれる戦闘となった。 その後、徳川勢は
三箇野川、見付宿、一言坂と信玄から追撃を受けた。
 
     
どまん中茶屋<袋井市袋井>
広重が描いた「東海道53次袋井出茶屋ノ図」をモチーフにして
建てられた憩いの茶屋(休憩所)である。地元ボランティアが
常駐しており、交流の場でもある。
 
  袋井山(ていせいざん)観福寺(かんぷくじ)袋井市袋井
延暦十二年(793)天台法華宗寺院として建立され、袋井地名の発祥
とされる。 ご本尊は聖観世音菩薩で遠州三観音に数えられる。 
脇本尊は建久元年(1190)十月、源頼朝上洛の無事を祈り御母御前
の持仏
を奉安された延命地蔵菩薩である。 東海道、袋井宿の基と
なった鎌倉街道六十二宿「袋井駅次(えきつぎ)」が設けられた。 境内に
住んでいた子狐が観音様の思し召しで人間の姿になり、義経と常磐
御前を引き合わせたと伝えられている。
     
七ツ森神社袋井市国本
鳥居の右にある説明板に
尾張藩藩士・高力猿猴庵
(えんこうあん)が天明六年(1786)自ら旅して
記した「東海便覧図略」
(とうかいべんらんずりゃく)に田園の真ん中に
残る
七つの塚と一番大きな塚の上にある当神社が描かれている。 
この七つの塚(森)には桓武天皇の頃日阪宿に出没していた怪鳥を
退治するため朝廷から派遣された七人の武士が返り討ちに遭い
命を落とした。 これを哀れみ村人が葬った墓が七つの塚という
悲しい伝説が伝わる。 神社には古墳時代にこの地方を治めて
いたと考えられる久努国造(くどのくにのみやうこ)が祀られ、周辺に関連
する「久野、久能、岡本」などの地名がみられることから古墳とも
考えられる。  ・・・平成十年袋井市教育委員会
東海道松並木の説明板<袋井市国本
主要な街道の両脇に並木を植えることは古来より行われ
天平宝字
(てんぴょうほうじ)3年(759)、駅路に果樹を植えたのが始まり
とされる。 「信長公記」に天正三年(1576)、織田信長が「路辺の
左右に松と柳」を植え置く」と記されている。*大垣に一里塚の記事あり
 徳川実記に「慶長九年(1604)徳川秀忠が松並木と一里塚を整備
した」ことが記されている。 江戸時代を通じて旅人を日差しや風から
守っていた松並木は明治維新以後、その数を減らしてしまったが、
現在地より東には松並木がよく残り、江戸時代の面影を今に伝える。
・・・平成12年3月 袋井市教育委員会
     
貫名山妙日(みょうにち) <袋井市広岡
正慶3年(1332)身延山久遠寺の日善によって開かれた古刹である。 
日蓮宗を開いた日蓮の父の法名を寺名とし、境内は一族である
貫名
(ぬきな)氏の代々の邸宅跡と伝わる。 本堂には一塔両尊四士
をご本尊として祀り、本堂東の「思親殿」には、日蓮聖人と両親の
木像が安置されている。
日蓮の父・貴名重忠は源平の合戦において平氏に味方したため
鎌倉幕府から安房国小湊に流され、その地で貞応元年(1222)に
日蓮が生まれた。・・・袋井市設置説明板より引用
  
  孝養門 <妙日寺
山門の扁額は、両親思いの深い日蓮の気持ちを表している。



源朝長を縁にした交流
     
袋井市立三川小学校 <袋井市友永
袋井市中心部から北西約7キロにある市立三川小学校。
岐阜県大垣市とある人間を介した交流が続けられている。
  高林山積雲院(こうりんざんせきうんいん) <袋井市友永
源頼朝が兄、朝長の菩提を弔うために、鎌倉時代の始まった
文治元年(1185年)に建立されたと伝わる曹洞宗の寺院。
     
源朝長(ともなが)公の墓 <積雲院>
源朝長は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄(義朝次男)にあたる。
1159,父義朝と平清盛が戦った「平治の乱」で負け、父や兄弟と
ともに京から逃げ延びる途中で矢傷を負い、青墓で父・義朝の手を
借りて亡くなった。 朝長の首と体は、青墓に埋葬されたが、平氏が
墓を暴き、京でさらし首にされた。 これを知った朝長の守役であった
大谷忠太は、朝長の首を奪い返し、自分の生まれ故郷である袋井
三川に持ち帰り埋葬したと伝わる。 積雲院は、頼朝が菩提を弔う
ため、文治元年(1185年)に建立されたと伝わる
  交流モニュメント <青墓小学校
学校間交流は、朝長の墓がある積雲院、大垣市の円興寺に寺子屋
として発足した学校とうことで始まったようだ。
青墓小学校と三川小学校は、平成5年度より学校間交流を始めた。
平成7年度、青墓小学校に画像のモニュメントが建立された。
二川小学校には、記念樹が送られ運動場で大きく成長している。

     
交流・音楽劇<朝長と青墓の夜> <青墓小学校
令和元年の学校間交流は、5月に青墓小の児童が袋井市を訪問。
11月20日には、二川小学校の児童が青墓小学校を訪問し、その
一環で音楽劇が上演された。 新聞記事によると劇は両校の児童
に強い印象を残す成果が見られたという。
  御沙汰神社 <袋井市友永
大国主命と源朝長を祭神とする。
例祭日は10月17日に行われるが、8月15日を朝長の霊を祭る日と
定め
 夜に源朝長公御祭礼が行われ、朝長の供養塔がある積雲院
まで念仏を唱えながら歩く。 ・・静岡観光おでかけガイドHPから引用