浜松市西部<旧舞阪町>の鎌倉街道について
はじめに
当地の鎌倉街道は、紀行文等から海と浜名湖を隔てていた砂嘴を進んだことが記録されている。この砂嘴は、松が茂り、天橋立や
三保の松原のように風向明媚であった。海と浜名湖は、現在の新居町から白須賀周辺まで浜名川が流れ、この川には、浜名橋が
架けれており街道の経路であったが、災害や火災で毀損し、数回の架設が記録されている。
橋が毀損していた時期は、舟で渡ったが、中心は利便性の勝れた橋の通行であったと思われるので、ここでは海沿いの道を進んだ
形で紹介したい。 いずれにしても数度の大地震・大津波の被害が記録されており、文書などの記録がないことにより、当時の様子を
伺うことが不可能である。
 参考にしている「平安鎌倉古道」や「静岡県歴史の道・東海道」(平成6年3月31日静岡県教育委員会)では、この海岸沿いの道の
説明がなく、紀行文等と共に進んでいる私にとって大変残念であり、あえて強調していきたい。
この説は、地元の研究者が書かれた「三河路に消えた・いざ鎌倉の古道」と「濱名の渡りと鎌倉への道」でも採用していることを
ご紹介したい。
 
***静岡県史・通史編2 中世(平成9年3月発行)は、P122、123で浜名橋を経路とする「東海道ルート図」、浜松市史(昭和43年3月
    発行)p299は、「浜名湖口図」の中で「浜名の橋」を経路して掲載していることを発見した。   <県史は下記図参照>
 
 中世における浜松市西部(旧舞阪町)の街道のイメージ
 
     参考:「静岡県歴史の道・東海道」付属地図(関係部分抜粋)
    注   <今後削除予定>
     青色点線は、古代から中世時代の推定街道遺構図
     赤色点線は、江戸時代東海道の街道遺構図
  ***浜名湖今切れは、明応7年(1498)の地震で、砂嘴が切れ、
    海と直接繋がった。 紀行文等では湖西市の浜名橋を通り
    廻沢・舞沢
(まいさわ・まいさわ)を経由し浜松に向かっている。
    この観点から左の地図は私には、不満でオリジナルの地図を
    作成した。しかし静岡県史(平成9年)では、「浜名の橋」が経路
    とされており、この項目は削除予定。 
     
弁天神社 <浜松市西区舞阪>
JR弁天島駅近くにある弁天神社。
  弁天島と天女 <弁天島境内の案内>
昔、砂州が橋本あたりまで続き、泊紗青松「天の橋立」のような
風景が広がっていた。そんな弁天島の美しさに誘われてか、天女
が舞い降りたが、どういう訳か三保の松原へ立ち去っていった。
それから長い年月の後、このあたり一帯は大きな災害に見舞われ
州崎の一部であった弁天は海に取り残され島となった。
その後、新居と舞阪の間は渡船で往来するようになった。
 
     
弁天島の赤鳥居 <浜松市西区舞阪
昭和48年に設置された、高さ18メートルの鳥居。秋から冬にかけては
鳥居の間に沈む夕日が見えるという。

「和名抄」<平安時代中期に作られた辞書>で解説されている郷名の
一つに象島(きさしま)があり、平安時代における三河から遠江への交
通路のポイントとして登場。静岡県史は位置について舞阪町周辺として
いる。 詳細は不明であるが、舞阪のシンボルの鳥居付近も含まれると
考えたい。
  廻沢・舞沢(まいさわ・まいさわ)浜松市西区舞阪
「東鑑」や「東関紀行」で舞阪町周辺の場所を示す地名としている。
「静岡県歴史の道・東海道」p11 と同じく、当地を代表する舞阪漁港を
映した画像である。

     
雁木跡 <浜松市西区舞阪
舞阪宿西端の浜名湖岸にある東海道渡船場跡北雁木跡の碑。
江戸時代は、舞阪から新居まで渡船で渡るのが東海道であった。
中世までの浜名橋があった時代でも橋が欠損、亡
失した時期は、
舟で渡った。
<更科日記>
菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘が著した「更級日記」(平安中期)
には、冬深くなりたれば、河風けはしく吹き上げつつ、耐え難く覚え
けり。そのわたりして浜名の橋に着いたり。浜名の橋、くだりし時は
黒木をわたしたりし、この度は、跡だに見えねば、舟にて渡る。入り江
にわたりし橋也。
外の海はいといみじくあしく波高くて、入り江のいたづらなる州どもに
こと物のなく、松原の茂れる中により、波の寄せかへるも、いろりろの
玉のように見え、まことに松の末より波は越ゆるように見えて、いみ
じくもおもしろし。
 <HP新居関所 新居宿 浜名の橋から引用>
  岐佐神社 <浜松市西区舞阪
延喜式神名帳』(927年)に記載がある式内社蚶貝比賣命(きさがい
ひめのみこと)
蛤貝比賣命(うむがいひめのみこと)を祀る。
拝殿横に「赤猪石」が安置されている。
大国主命は、八十神等の騙し討ちにより、赤猪に見立てた大きな焼けた
岩を抱きとめ大火傷を負う。母神(刺国若比賣命)の願いにより神産巣
日神は、蚶貝比賣命と蛤貝比賣命を使わす。蚶(あかがい)の白い粉と、
蛤(はまぐり)の粘液で膏薬(こうやく)を作り治療すると、大国主命は
元の麗しいお姿に戻られた。
これにより、健康・長寿の神、また怪我・
病気平癒の神と崇められている。
    <東関紀行>
名残多く覚えながら、この宿
(橋本宿)をも打ち出でて行き過ぎる
ほどに、舞沢の原といふ所に来にけれ。北南は眇々(べうべう)と
はるかにして、西は海の渚近し。錦花繡草(きんかしらさう)のたぐ
いはいとも見えず、白き沙(いさご)のみありて雪の積もれるに
似たり。

<解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
名残惜しく思いながら、この宿場を出立して旅を続けていくと
 舞沢の原という所に来た。北と南は果てもなく遠くに広がり
 西は海岸に近い。美しい草花などは少しも見えず、白い砂だけ
 があって、雪が積もっているようである。

東関紀行 <浜松市西区舞阪
舞阪図書館玄関前のモニュメントと東関紀行の関係文 
   
     
東海道松並木 <浜松市西区舞阪
舞阪宿の東端から東に約7百メートル、370本の松が手入れされている。
  モニュメント <浜松市西区舞阪
松並木の南側に遊歩道が併設されており、東海道の浮世絵などが
レリーフとして整備されている。
     
海中出現釈迦牟尼仏安置碑・日蓮宗長久山西本徳寺
   <浜松市西区馬郡阪

東本徳治の直ぐ西に西本徳寺がある。身延山第11代行学院日朝
上人が永徳元年(1381)に開いたと言われている。ご本尊は釈迦
牟尼仏で、街道に面して写真のように碑が建っており、明応7年
(1498)の津波で流された釈迦像が漁師の網にかかり西本徳寺に
安置されている。
  史跡・引佐山大悲院観音堂跡(馬郡観音堂跡)
 <浜松市西区馬郡町

寛仁五年(1021)、定朝上人、山住神社(水窪町)に参籠中、老杉の
頂(頭)に光明を感じ、老杉を伐り、聖観世音菩薩を彫り上げ、「国家
安民、五穀豊穣」のため引佐の地に堂宇を建てて、安置した。
久安五年(1149)八月下旬、天災により大海となり当地に選し、安置
申し上げた。・・・設置の説明版から引用
 <東関紀行>
末遠き野原なれば、つくづくと眺め行くほどに、打ち連れたる
旅人の語るを聞けば、「いつのころとは知らず、この原に木造
の観音おはします。御堂など朽ち荒れるにけるにや、かりそめ
なる草の庵のうちに、雨露たまらず、年月を送るほどに、一年
(ひととせ)望むことありて鎌倉へ下る筑紫人ありけれ。この観音
の御前に参りたりけるが、もし本意とげて故郷へ向はば、御堂を
造りけるより、人多く参る」なんどぞいふなる。聞きあへずその
御堂へ参りたれば、不断香の匂ひ風にさそはれてうち香り、閼伽
の花も露あざやかなり。願書とおぼしき物、斗帳(とちょう)の紐に
結びつけたれば、「弘誓(ぐせい)のふかきこと海のごとし」とい
へるもたのしく覚えて、
  <たものしな入江にたつるみおつくし深き験(しるし)の
   ありと聞くにも>

<解説は右覧参照>
   <解説> ・・・中世魚を日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
遙かに続く野原であるから、よくよく眺めながら通っていると、道連れ
になった旅人が語るのを聞くと、「いつ頃からかはわかりませんが、この
原に木造の観音がおいでになる。御堂などは朽ちて荒れてしまったの
だろうか、間に合わせの草の庵では雨露も防ぐことができないので
年月を過ごしているうちに、ある年、願いの筋があって、鎌倉へ行く
筑紫の人があった。この観音に参拝したのだが、もし願い事がかなって
故郷に帰るならば、御堂を寄進しようと心の中に誓っておきました。
鎌倉で希望することがかなったもので、御堂を造ってから人が多く参拝
する」との話である。それを聞いて早速にその御堂へ参ったところ、
いつも絶えることのない香の匂いが風に送られて薫り、仏前の花も露を
含んで色が鮮やかである。願書らしいものが帳(とばり)の紐に結び
つけてあるので、「弘誓のふかきこと海のごとし」とお経にあるのも
頼もしく思われて
  <頼もしいことだよ。この観音の深い誓願の霊験あらたかで、
   願いがかなうと聞くにつけても>
     
山伏塚跡 <浜松市西区坪井町
戦国時代、勧進と修行のため山伏の一行が全国行脚をしていた。
その一行が当地(旧地名:馬郡)にさしかかった。先達が、にわかに
病にかかり帰らぬ人となった。山伏たちは嘆き悲しんだが、先達の
志をつぎ街道の一隅に小さな祠を建てて手厚く供養して旅立っていった。
住民は、山伏の死を哀れに思い、月の15日を命日と定め供養した。
いっしか大木が繁り、山伏塚を呼ぶようになった。
出典:わがまち 文化誌 浜風と街道 <発行:篠原公民館>
*東海道本線に近い東光寺の南にある道路付近にある。昭和40年代
 に土地改良事業が施工され往時の雰囲気は全くない。
  比丘尼塚跡 浜松市西区坪井町
左平安時代、侍所の武者が東国に赴く国司の随行の一人として任地に
旅立った。
しばらくすると、文の便りもいつしか途絶え、その妻は心配と
夫恋しさのあまり侍女を共に旅にでた。当地(旧地名:馬郡)まで来た
ところ病にかかり帰らぬ人となってしまった。主人思いの侍女は髪を
下ろし比丘尼となって主人を冥福を祈り菩提を弔っていた。そのうち、
侍女も病をえて帰らぬ人となってしまった。主人思いの侍女の心根を
哀れに思い、みんなで供養をしたという。
出典:わがまち 文化誌 浜風と街道 <発行:篠原公民館>
*場所が移動しており困難な捜索であった。東光寺西の墓地から
始まる道の少し南に移動している。
     
二つ御堂浜松市南区東若林町
北の御堂前の説明板によると
奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年
ごろ)創建されたと伝えられている。

 京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、
京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、
その菩提を弔うために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。
一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を
聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てた
という。
御堂の隣の緑は、秀衡が側室の亡骸を埋めた所に秀衡が
植えた「秀衡の松」と呼ばれる古木が明治15年頃
であったと伝わる。
  鎧橋跡 <浜松市南区東若林町
平安時代末期(800~900年前)、戒壇設置のことで、比叡山の僧兵
が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の僧兵は、この辺一帯の水田に
水を張り、鎧を着てこの橋を守り固めて戦ったので、その後、鎧橋と
称したという。
その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、「千塚」
又は「血塚」といったと伝わる。
中央の白い説明板は東若林自治会設置のもので、バス車中から
発見し、再度、調査したものである。
     
伊場遺跡 <浜松市中区東伊場町
弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡。
周囲に多数の遺跡が確認されている。ここは弥生時代から平安時代に
かけての複合遺跡。奈良時代から平安時代初期にかけての地方官衙
ある、敷知郡衙郡家)と栗原駅家跡である。
  鴨江寺(かもえじ) <浜松市中区鴨江4
今から千三百年ほど前、遠州地方の民話で知られる芋掘長者が
観音堂を立てたいと願っていた時に、行基が来られた。長者は
文武天皇の勅願所として観音堂を建てることを願い出た。大宝
二年六月十八日、帝の特許が
あり七堂伽藍輪奥の美をなした。
平安時代は鴨江寺に三百余の寺々があり、勅許を得ずに戒壇を
作り殷盛であった。このため比叡の僧と戒壇のことで争い戦を
したと伝えられる。現在も鎧塚とか血塚とか戒壇塚という所が残って
いる。
出典:鴨江寺
ホームページから引用
 <海道記>
 十一日、橋本を立ちて、橋の渡(わたり)より行く行く願(かへり)
みれば、跡に白き波の声は、過ぐるなごりをよび返し、路に青き
松の枝は、歩む裾を引きとどむ。北に願みれば、湖上遙かに浮か
んで、波の皺、水の皃(かほ)に老いたり。西に望めば、潮海
(てうかい)広く滔(はびこ)りて、雲の浮橋、風の匠に渡す。水上の
景色(けいそく)は彼も此れも同じけれども、潮海の淡鹹(たんかん)
は気味(きび)これ異なり、浥(みぞ)の上には波に羽(は)うつ鶚
(みさご)、すずしき水をあふぎ、船中には唐櫓(からお)おす声、秋
の雁をながめて、夏の天(そら)に行くもあり。興望(きょうぼう)は
旅中(りょうちゅう)にあれば、感腸(かんちゃう)頻りに廻りて思休
しがたし。以下、略
<解説は右覧参照>

<十六夜日記>
 舞阪での記述なし
   <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
十一日、橋本を出立して、橋の渡し場から振り返ると、通る船の跡の
白波の音は過ぎた名残を呼び返し、また、路の青い松の枝は、歩く
裾を引き止めるようだ。北を振り返ると、浜名の湖の上に遙かに
浮かぶ波の皺は、老人の顔を思わせる。西を見ると海が広々と広がり
風が雲の浮橋を架けている。水上の景色はどこも同じようだが、湖水の
海と淡水の湖とは、やはり趣が異なり、深い水の上で波に羽を打つ
鶚が、涼しい水をたてており、船の中では唐風の櫓を押す音が、秋の
雁の声を思わせ、夏空を雁が飛んでいくような気がする。興趣ある
眺めは旅の中にあるのだから、しきりに感動がわいてきて、様々な
思いを止(とど)めることができない。







 中世における浜松市(市街地及び東部)の街道のイメージ
概要
浜松市中央図書館の発行物によると、明治初年の大火と
 太平洋戦争の空襲によって、市内の中心部が消失したことにより、江戸時代(以前)の
絵図、地図(記録)の大半が失われたが、市民の寄贈や図書館が絵図等を購入していることが記されていた。
このような事情から鎌倉街道の遺構を探すことは、かなり困難なことであるが、県史、市史等を基礎にたどってみたい。
街道遺構の基礎は、「静岡県歴史の道・東海道」(平成6年3月31日静岡県教育委員会)により、私が確認できる事項については、できる限り修正を
加えていきたい。<下記地図の72鎧橋跡、74二つ御堂を鎌倉街道遺構に加えるため東に迂回させた。>

なお東部を流れている天竜川は、暴れ川の異名を持ち、平安時代は「浜松平野の西側」(馬込川)、鎌倉時代は東側(磐田原台地側)、戦国時代に
現在の位置になったと推定されており、紀行文から様子を伺うことができる。
 
 
 <十六夜日記>
今夜(こよひ)は引馬(ひきま)の宿といふ所にとどまる。この
所の大方の名は浜松とぞ言ひし、親しと言ひしばかりの人々
なども住む所なり。住み来(こ)し人の面影も、さまざま思ひ出で
られて、又めぐりあひで見つる命の程も返す返すあはれなり。
  <浜松のかはらぬ陰(かげ)を尋ね来て見し人なみに
  昔をぞとふ>
 その世に見し人の子、孫など呼び出でてあひしらふ。

<解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
今夜は引馬の宿という所に泊る。この地方一般の名は浜松と
言った。昔、多少の縁故を結んだ人々なども住む所である。
ここに久しく住んだ父親の面影もいろいろ思い出され、命あって
再びこの地を見ることになった運命もつくづく不思議である。
 <浜松の土地の変わらぬ様子を尋ね、そこに住んだ父も亡い
  ままに、その昔の事を変わらぬ松に問いかけ追想するよ>

その当時知り合った人の子や孫などを呼び出して、語りあった。
  ひくまの宿(引馬の宿) <浜松市内に推定>
紀行文などに登場する「ひくまの宿」については、その正確な位置は
わかっていないが、浜松、あるいは、その近辺であろうことは、文章の
なかの地名との関連から容易に考えられるが、どのあたりに存在した
ものかは、正確にはわかっていない。
「静岡県歴史の道・東海道」P13から引用
 
 <海道記>
 林の風におくられて、迴沢(まいさは)の宿を過ぎ、遙かに
見わたして行けば、岳辺(をかべ)には森あり、野原には津あり。
岸に立てる木は、枝を上にさして正しく生(お)ひたれども、水に
うつる影は梢を逆さまにして本(もと)に相違せり。水と木とは
相生(そうじゃう)、中よしときけども、移る影は向背(きゃうはい)
して見ゆ。時巳(すで)にたそかれになれば、夜の宿をとひて、
池田の宿に泊る。

<解説は右覧参照>
   <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
松林の風に送られるようにして
迴沢
の宿を過ぎ、遙かに遠く見渡して
いくと、岡の辺りには森があり、野原には渡し場がある。岸に立っている
木は、枝を上にさして正しく生えているが、水に映る姿は、梢が逆さまで
もとの姿と異なっている。水と木とは相生で中がよいと聞くが、映る姿は
反対に見える。時刻はすでに黄昏になったので、夜の宿を求めて、池田
の宿に泊った。
<鎌倉時代、天竜川は磐田台地側を流れ、池田宿は西岸にあった。>
  そのかみの里は河瀬となりにけれ ここも池田のおなし名なれと
   冷泉為相<夫木和歌集>より
     
浜松八幡宮 <浜松市中区八幡町
安時代の神社を所載した延喜式には許部神社(こべじんじゃ)と
して記され、源義家公により源氏の氏神である八幡二柱の神が勧
請され多くの武家庶民の祟敬を集めました。 
・・・浜松八幡宮HPから引用
  雲立(くもだち)のクス <浜松八幡社内
 社殿の前に聳える「雲立楠」は樹齢千年を超える楠の巨木で
根回り約15m、枝張り四方約25m、幹の下部には大きな空洞が
ある。 元亀3年(1573)三方原の合戦において甲斐の武田信玄に
敗れた徳川家康公は武田方の追っ手を逃れて八幡宮境内へ
たどり着き、楠の洞穴に身を潜め、難を逃れたと伝わります。
・・・浜松八幡宮HPから引用
    浜松名称起源について
 足利義教が永享4年(1432)、富士見下向の時、この松のもとで、
「浜松の音はざざんざ」と謡ったといわれ、以来この松を「颯々之松」
というようになった。(ざざんざは松が風に吹かれる音
「曳馬拾遺」に 颯々の松とは野口村の森をいう とあり、一本の松では
なく三十本余りの松が群生していたと記されている。
この松林の場所は当宮から東へ約百メートル離れた八幡宮の飛び
社領地(現在の中区野口町)となっていたが、そこに「濵松名稱起源
颯々之松」の記念碑が建てられた。
碑は、平成19年に野口公園に移されましたが、元来「颯々の松」は
当宮遷座の由緒と関わりがあり、かつて社領地であったことから、平成
23年3月に境内に移された。松は5代目となる。・・・浜松八幡宮HPから引用
 *参考にしている「平安鎌倉古道」は野口町隣接地の馬込川に架 かる
  「共同橋」を鎌倉街道経路としている。
颯々(ざさんざ)の松と「浜松名称起源颯々松]の碑 
  <浜松八幡社内

伝承では天慶元年(938)、八幡宮が現在の宮地に遷座した際、
白狐が松の苗木を携えてこの地に導いたと伝わり移し植えた.。
その松が繁茂し颯々の松になったといいます。
松の木を浜から持ってきたので「浜の松」が転じて里の名を
「浜松」とし、浜松の名称の起源になったと伝えられている。

・・・浜松八幡宮HPから引用
 
しかし、伊場遺跡の出土「濱津郷」の木簡が発見されたことにより
1300年前の奈良時代に始まると修正されている。
   *浜松市博物館案内チラシから引用
     
五社神社 <浜松市中区
国主久野越中守、 曳馬城(浜松城)内に勧請。徳川家康公
浜松城に入り、天正七年、秀忠公誕生城内にて誕生、産土神
として天正八年、現在地の常寒(とこさむ)山に社殿建立し、遷座
する。・・境内設置の御由緒要約
  ひくま坂 <浜松市中区神明町、紺屋町、高町
「ひくま坂」は、東海道筋に面して構えられていた浜松城追手御門前
より紺屋(こうや)町をぬけ、高町(たかまち)に至る坂道をさす。
「曳駒拾遺」、「風土記伝」から、位置的にみて現在の神明町から紺屋町
をへて高町にのぼる坂以外には考えられない。写真は紺屋町交差点
   出典:「静岡県歴史の道・東海道」
     
常寒(とこさむ) <浜松市中区利町>
慶長の頃まで 東海道筋から五社神社のある丘陵を越えて西側
(裏側)の清水谷に下る道があった。その途中にあったのが常寒
峠で、風が強く夏でも寒さを覚えたところから、峠の名前が生まれた
という。本来の道は神社の西のようであるが、峠もなく似た道を自
転車で走った。・・・参考「静岡県歴史の道・東海道」
9月4の暑い日の正午頃であったが、涼しい風を感じることができた。
また、現在地は城に続く丘陵であることがよくわかる風景である。
  共同橋 <浜松市中区
参考にしている「平安鎌倉古道」が示す経路の馬込川に架 かる東から
見た「共同橋」。
東海道(国道152)馬込橋から約4百m上流にあり橋の
右手に「浜松名称起源颯々松の碑」があった野口公園がある。
鎌倉街道経路と推測できる傍証である。
     
浜松城浜松市中区元城町
徳川家康は、元亀元年(1570)から駿府城に移るまで17年間
過ごした。
  鎧掛松 <浜松市中区元城町
元亀三年(1573)、徳川家康は三方ヶ原合戦から城に帰り、大きな
松の木陰で休んだとされ、その時に鎧を脱いで松に掛けたと伝承が
残ることから「鎧掛松」と呼ばれている。・・・説明板抜粋 
     
静岡県指定史跡・犀ヶ崖古戦場浜松市中区鹿谷町
元亀3年12月 22日(1573.2.4)「三方原の戦い」で甲斐の武田
信玄に大敗した徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ込みました。
家康は攻め返すように見せかけて、なんとか武田軍の城攻めを
免れた。その夜、家康はどうにか一矢を報いようと犀ヶ崖近くで野営
する武田軍を急襲した。地理に不案内な武田軍は混乱し、崖に転落
して多くの死者をだしたという。
*崖の現状は、長さ約116m、幅約29m、深さ約13mです。しかし
  当時の深さは約40mと推定されている。
  徳川家康三方ヶ原戦没画像 通称「しかみ像」
「三方原の戦い」で大敗し、多くの将兵を死なせたことを教訓とするため
家康が描かせた自画像、通称「しかみ像」 
 周囲は公園として整備され、資料館も設置されている。
 ○観覧料  無料
 ○開館時間 9.00 ~ 17.00
 ○休館日  毎週月曜日(祝日の場合は翌日) 12月29日~1月3日
   左欄とも浜松市「犀が淵資料館」パンフレットから引用
     
駒形神社 <浜松市中区佐藤2
祭神は、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫命(とよたま
ひめみこと)、玉依姫命(みこと)です。 例祭日は9月28日という。
10月4日、場所を教えていただいたご婦人から、先日祭礼が終わったと言われました。
  (かば)神明宮一の鳥居 <浜松市東区
東海道に面した鳥居。本殿まで約1キロあり、往時の盛況を
示してる。

     
蒲神明宮二ノ鳥居と灯籠 <蒲神明宮
灯籠前に昔の触書スタイルの説明板がある。
文政4年生まれの「みい」は機織りに秀で、縞織りを研究し、遠州
織物を地場産業に定着させた人で、右の灯籠を建てた。
従来の織物は農家の副業的存在であったが、「みい」は協力者
と共に永隆社を創設し、機織を専業化した。同時に製造、販売、
弟子の養成にも尽力した。明治時代に一女性を称えた文章とともに
灯籠を建立することは希なことである。・・・東区役所設置説明板抜粋
  蒲神明宮 <浜松市東区
安のはじめ、蒲神社神官蒲氏の祖先が、この地を開拓した。しかし
国衙(地方庁)の圧迫に対抗するため皇大神宮に寄進となった。
蒲氏は、蒲検校職という管理人(荘官)となり、また皇大神宮を勧請し
、その神官を兼ねて御厨の経営をした。将監町は、内宮禰宜の知行
した将監名という名田の跡で領家の直営地の歴史がある。
・・・浜松市史から引用
     
蒲桜伝説 <蒲神明宮境内
源頼朝の異母弟で源義経の異母兄の範頼は、母は遠州池田宿
(静岡県磐田市池田)の遊女であり、蒲御厨の蒲氏の元で少年
時代を過ごす。
兄・頼朝の挙兵に応じ、関東に向かうとき、桜の苗木を持参し
居城(埼玉県北本市)に植えた。今も「石戸の蒲桜」と呼ばれる。
平家追討の総大将として上洛の途次、鈴鹿市の石薬師に立ち寄り
戦勝祈願をした。その時、蒲桜でこしらえた鞭(ムチ)を逆さに突き
刺した。源氏の大勝利に、この蒲桜が芽を吹いて、今は「石薬師の
蒲桜」と呼ばれる。・・・東区役所設置説明板抜粋
  子安神社 <浜松市東区子安町
遠当地の庄屋伊藤家の祖先が寛永十二(1635)年、浅間神社の
分霊を祀り、家の守護神としたことに始まる。
伝説では、源範頼が娘の無事出産を願って創建した話が残されて
いる。
戦前までは、4月3日、4日がお祭りで安産祈願の母親がお礼に
赤い旗を奉納した。秋の例祭日には甘酒が振る舞われ、これを
いただくとお乳がよく出るという。・・・境内内の案内板から引用
     
大甕(おおみか)神社 <浜松市東区中野町
右の社標の上段に「式内」とあり、平安時代以来の歴史がある
ことになる。浜松市史によると、松尾社(京)の御厨(荘園)が
あり、蒲神明社(伊勢御厨)と領地争いが記録されている。
 *大甕神社の甕は、正式には瓦と長の組み合わせです。
  金原明善(きんばらめいぜん)記念館 <浜松市東区和田町
東海道沿いの北側に生家が記念館として開放されている。天保3年、
豪農に生まれた明善は水害で苦しむ住民のため自費で治水工事を
行った。同時に水源地の植林にも力を入れ、杉や檜など292万本の
木がある森を造ったと言われる。
     
明治の記念 <浜松市東区中野町
東海道の東端・六所神社の天竜川堤防際に沿って建てられた
右・舟橋跡、左・天竜川木橋跡の木柱。これらの橋は、明治時代に
架設されたもので江戸以前の渡し場は約5百m上流にあるが、
現地には形のあるものは何もない。また、この木柱は、高さ50㎝
から1m程の小さいもので、最初は発見できなく、二回目で見つけた。
  天竜川に架かる二つの橋 <浜松市東区
浜松市と磐田市を連絡する橋。こちらの国道1号線と県道261が
並列する天竜川架設の二つの橋。 以前は、徒歩での通行は危険で
あったが、10年程前に自転車と徒歩専用の橋が架けられた。
後が浜松市中野町、先が磐田市である。中世から江戸時代までの
渡し場は橋から約5百m上流となる。池田には「天竜川渡船場跡」の
碑が建てられている。
 <海道記>
 十二日、池田を立ちて、暮々(くれぐれ)行けば、林野は
皆同じ様なれども、処々(ところどころ)、道ことなれば、見るに
随ひて珍しく、天中川(てんちゅうがは)を渡れば、大河にて、
水の面(おもて)三町あれば、舟にて渡る。水早く、波さがしくて
、棹もえさしえねば、大きな朳(えぶり)を以て、横さまに水を
かきて渡る。かの王覇(おうは)が忠にあらざれば、呼他河
(こたか)、氷むすぶべきに非ず。張博望(ちゃうはくぼう)が
牛漢(ぎゅうかん)の浪にさかのぼりけん。浮木(うきき)の船、
かくやと覚えて、
<よしさらば身を浮木にて渡りなん天津みそのらの中川の水>
<解説は右覧参照>


注1・・杁<農具の一種で長い柄に横板を取り付け土を平らにする
        のに用いる>

 

   <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
十二日、池田を出立して、早朝の道を歩いて行くと、林も野も皆同じ
様子だが、場所によって道は異なるので、見て行くにしたがい珍しく
感じられ、天竜川を渡ると、これは大河で水面が3町もあるので舟で渡る。
水が早く、波が盛んで激しくて、棹さすこともできないので、大きな杁を
用いて、横向きに水をかきわけて渡る。あの王
覇のような忠義心がある
わけではないので、呼他河のように、水を張らせて渡るわけにはいかない。
眺博望が天ノ川を遡ったというが、その時の浮木の船は、このようで
あったと思われて
 <よしそれならば、我が身を頼りない浮木として渡ってしまおう、
   空まで続きそうな天竜川を>

注2・・王覇<後漢の人。光武帝に従って出陣したが、敵に追われて
     呼他河を渡ろうとした時、舟がなければ渡れないことを知っては
     いたが、士気の衰えることを憂えて、堅氷が張っているから
     大丈夫と偽り、兵を進めたところ、本当に氷が張っていたと
     いう故事>

 注3・・眺博望<前漢の人。張鶱(ちょうけん)。武帝に仕え、匈奴
     (きょうど)討伐に派遣された。また、武帝の命により(略)
     天の川の水上を求めて戻った>

    <東関紀行>
天竜と名づけたる渡りあり。川深く、流れおそろしきと見ゆる。
秋の水みなぎり来たりて船の去ること速やかなれば、往還の旅人
たやすく向かひの岸に着きがたし。この川の水屑となるたぐひ
多かりしと聞くこそ、かの巫峡(ふかふ)の水の流れ思ひよせられて
、いとあやふき心地すれ。しかあれども、人の心にくらぶれば、
しづかなる流れぞかしと思ふにも、たとふべき方なきは世に経(ふ)
る道のけはしき習ひなり。
 <この川のはやき流れも世の中の人の心のたぐひとぞ見る>
おもてなし所「寄ってきっせえ」 <浜松市東区中野町
左の歩行者等橋は、堤防の上を走る国道と県道の間にあるため
勾配を緩くした進入路がある。その途中、椅子や地元「中野町を
考える会」作成の「散策マップ」が用意された、おもてなし所が写真
の左手にある。散策マップは、2016.5発行のもので第3版とあり、
かなり以前から作成・配布されていることが推察できる。
  <解説> ・・・中世魚を日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 天竜とよばれている渡し場がある。この川は深く、流れが恐ろしい
ように見える。折からの秋の水があふれていて、舟の流れさるのが
速いので
、ここを往来する旅人は、容易に向こう岸につくことができ
ない。この川に溺れ死んだ人も多いとのことであるが、あの巫峡
水の流れが連想されて、非常に危険な感じがする。でも人の心に比べ
てみれば、静かな流れであるようにと思うにつけても、たとえようのない
ものは、世間を渡っていく方法のきびしい有様である。
 <この川の急流の危険なことも、世の中の人の心の変わりようの
  速くて信じがたいことに、同じことだと思いますよ>