浜松市西部<旧舞阪町>の鎌倉街道について
 中世における浜松市西部(旧舞阪町)の街道のイメージ
 
     
弁天神社<浜松市西区舞阪>
JR弁天島駅近くにある弁天神社。
  弁天島と天女<弁天島境内の案内>
昔、砂州が橋本あたりまで続き、泊紗青松「天の橋立」のような風景が
広がっていた。  そんな弁天島の美しさに誘われてか、天女が舞い降り
たが、どういう訳か三保の松原へ立ち去っていった。 それから長い
年月の後、このあたり一帯は大きな災害に見舞われ州崎の一部であった
弁天は海に取り残され島となった。
その後、新居と舞阪の間は渡船で往来するようになった。
 
     
弁天島の赤鳥居浜松市西区舞阪
昭和48年に設置された、高さ18メートルの鳥居。  秋から冬にかけ
ては鳥居の間に沈む夕日が見えるというシンボルである。

「和名抄」<平安時代中期に作られた辞書>で解説されている郷名の
一つに象島(きさしま)があり、平安時代における三河から遠江への交通
路のポイントとして登場。 静岡県史は位置について舞阪町周辺として
いる。  大地震により地形が変わり詳細は不明であるが、大きくは
 鳥居付近も含まれると考えたい。
  廻沢・舞沢(まいさわ・まいさわ)浜松市西区舞阪
「東鑑」や「東関紀行」で舞阪町周辺の場所を示す地名としている。
「静岡県歴史の道・東海道」p11 と同じく、当地を代表する舞阪漁港を
映した画像である。

     
雁木跡浜松市西区舞阪
舞阪宿西端の浜名湖岸にある東海道渡船場跡北雁木跡の碑。
江戸時代は、舞阪から新居まで渡船で渡るのが東海道であった。 
中世までの浜名橋があった時代でも橋が欠損、亡
失した時期は、舟で
渡った。 菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘が著した「更級日記」
(平安中期)には、冬深くなりたれば、河風けはしく吹き上げつつ、耐え
難く覚えけり。 そのわたりして浜名の橋に着いたり。 浜名の橋、
くだりし時は黒木をわたしたりし、この度は、跡だに見えねば、舟にて
渡る。  入り江にわたりし橋也。 外の海はいといみじくあしく波高くて、
入り江のいたづらなる州どもにこと物のなく、松原の茂れる中により、
波の寄せかへるも、いろりろの玉のように見え、まことに松の末より
波は越ゆるように見えて、いみじくもおもしろし。
 
<HP新居関所 新居宿 浜名の橋から引用>
  岐佐神社浜松市西区舞阪
延喜式神名帳』(927年)に記載がある式内社蚶貝比賣命
(きさがいひめのみこと) 蛤貝比賣命
(うむがいひめのみこと)を祀る。
拝殿横に「赤猪石」が安置されている。
大国主命は、八十神等の騙し討ちにより、赤猪に見立てた大きな焼
けた岩を抱きとめ大火傷を負う。 母神(刺国若比賣命)の願いにより
神産巣日神は、蚶貝比賣命と蛤貝比賣命を使わす。 蚶(あかがい)
白い粉と、蛤(はまぐり)の粘液で膏薬(こうやく)を作り治療すると、大国
主命は元の麗しいお姿に戻られた。 これにより、健康・長寿の神、
また怪我・病気平癒の神と崇められている。
    <東関紀行>遠江路 ー舞沢の原にて観音堂に参詣(1)
 (名残多く覚えながら、この宿をも打ち出でて行き過ぎるほどに)
 舞沢の原といふ所に来にけれ。 北南
(きたみなみ)は眇々(べうべう)
 とはるかにして、西は海の渚近し。 錦花繡草
(きんかしらさう)
 たぐいはいとも見えず、白き沙
(いさご)のみありて雪の積れるに
 似たり。
   <一部・略>
    <たのもしな入江にたつるみをつくし
         深き験
(しるし)のありと聞くにも>
<東関紀行>解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
 (名残惜しく思いながら、この宿場を出立して旅を続けていくと)
  舞沢の原という所に来た。 北と南は果てもなく遠くに広がり、西は
  海岸に近い。 美しい草花などは少しも見えず、白い砂だけがあって、
  雪が積もっているようである。  <一部・略>
  <頼もしいことだよ。 この観音*の深い誓願の霊験があらたかで、
   願いがかなうと聞くにつけても>
      注*観音・・・馬郡観音

東関紀行浜松市西区舞阪
東関紀行の関係文が表示された舞阪図書館玄関前のモニュメント
   
     
東海道松並木浜松市西区舞阪
舞阪宿の東端から東に約7百メートル、370本の松が手入れされて
いる。
  モニュメント浜松市西区舞阪
松並木の南側に遊歩道が併設されており、東海道の浮世絵などが
レリーフとして整備されている。
     
海中出現釈迦牟尼仏安置碑・(日蓮宗長久山西本徳寺)
   <浜松市西区馬郡阪

東本徳治の直ぐ西に西本徳寺がある。 身延山第11代行学院日朝
上人が永徳元年(1381)に開いたと言われている。 ご本尊は釈迦
牟尼仏で、街道に面して写真のように碑が建っており、明応7年
(1498)の津波で流された釈迦像が漁師の網にかかり西本徳寺に
安置されている。
  史跡・引佐山大悲院観音堂跡(馬郡観音堂跡)
 <浜松市西区馬郡町

寛仁五年(1021)、定朝上人、山住神社(水窪町)に参籠中、老杉の
頂(頭)に光明を感じ、老杉を伐り、聖観世音菩薩を彫り上げ、「国家
安民、五穀豊穣」のため引佐の地に堂宇を建てて、安置した。
久安五年(1149)八月下旬、天災により大海となり当地に選し、安置
申し上げた。・・・設置の説明版から引用
<東関紀行>遠江路 ー舞沢の原にて観音堂に参詣(2)
 末遠き野原なれば、つくづくと眺め行くほどに、打ち連れたる
 旅人の語るを聞けば、「いつのころとは知らず、この原に木造
 の観音おはします。 御堂など朽ち荒れるにけるにや、かりそめ
 なる草の庵のうちに、雨露
(あめつゆ)たまらず、年月を送るほど
 に、一年
(ひととせ)望むことありて鎌倉へ下(くだ)る筑紫人
 
(つくしびと)ありけれ。 この観音の御前(まえ)に参りたりけるが、
 もし本意 
(ほい)とげて故郷(ふるさと)へ向はば、御堂を造るべき
 よし、心の中に申しおきたりけり。 人多く参る」なんどぞいふなる。
      <一部・略>
  
<たものしな入江にたつるみおつくし
          深き験
(しるし)のありと聞くにも>

<解説は右覧参照>
   <東関紀行><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
遙かに続く野原であるから、よくよく眺めながら通っていると、道連れ
になった旅人が語るのを聞くと、「いつ頃からかはわかりませんが、この
原に木造の観音がおいでになる。 御堂などは朽ちて荒れてしまったの
だろうか、間に合わせの草の庵では雨露も防ぐことができないので
年月を過ごしているうち、ある年、願いの筋があって、鎌倉へ行く筑紫
の人があった。 この観音に参拝したのだが、もし願い事がかなって
故郷に帰るならば、御堂を寄進しようと心の中に誓っておきました。
鎌倉で希望することがかなったもので、御堂を造ってから人が多く参拝
する」との話である。
  <頼もしいことだよ。 この観音の深い誓願の霊験があらたかで
   願いがかなうと聞くにつけても>
  (和歌の意味は3段上の舞阪図書館のモニュメントでも説明済)
     
山伏塚跡浜松市西区坪井町
戦国時代、勧進と修行のため山伏の一行が全国行脚をしていた。 その
一行が当地(旧地名:馬郡)にさしかかった。 先達が、にわかに病に
かかり帰らぬ人となった。 山伏たちは嘆き悲しんだが、先達の志を
つぎ街道の一隅に小さな祠を建てて手厚く供養して旅立っていった。
住民は、山伏の死を哀れに思い、月の15日を命日と定め供養した。
いっしか大木が繁り、山伏塚を呼ぶようになった。
出典:わがまち 文化誌 浜風と街道 <発行:篠原公民館>
*東海道本線に近い東光寺の南にある道路付近にある。昭和40年代
 に土地改良事業が施工され往時の雰囲気は全くない。
  比丘尼塚跡浜松市西区坪井町
左平安時代、侍所の武者が東国に赴く国司の随行の一人として任地に
旅立った。
しばらくすると、文の便りもいつしか途絶え、その妻は心配と
夫恋しさのあまり侍女を共に旅にでた。当地(旧地名:馬郡)まで来た
ところ病にかかり帰らぬ人となってしまった。主人思いの侍女は髪を
下ろし比丘尼となって主人を冥福を祈り菩提を弔っていた。そのうち、
侍女も病をえて帰らぬ人となってしまった。主人思いの侍女の心根を
哀れに思い、みんなで供養をしたという。
出典:わがまち 文化誌 浜風と街道 <発行:篠原公民館>
 *場所が移動しており困難な捜索であった。 東光寺西の墓地から
   始まる道の少し南に移動している。
     
二つ御堂浜松市南区東若林町
北の御堂前の説明板によると
奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)
創建されたと伝えられている。 
京へ出向いている秀衡公が大病で
あることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去
の知らせ(誤報)を聞き、その菩提を弔うために、北のお堂(阿弥陀
如来)を建てたという。
一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を
聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てた
という。 
御堂の隣の緑は、秀衡が側室の亡骸を埋めた所に秀衡が
植えた「秀衡の松」と呼ばれる古木が明治15年頃
であったと伝わる。
  鎧橋跡浜松市南区東若林町
平安時代末期(800~900年前)、戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が
鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の僧兵は、この辺一帯の水田に水を張り、
鎧を着てこの橋を守り固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。
その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、「千塚」又は
「血塚」といったと伝わる。
中央の白い説明板は東若林自治会設置のもので、バス車中から発見し、
再度、調査したものである。


     
伊場遺跡浜松市中区東伊場町
弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡。
周囲に多数の遺跡が確認されている。 ここは弥生時代から平安
時代にかけての複合遺跡。 奈良時代から平安時代初期にかけての
地方
官衙ある、敷知郡衙郡家)と栗原駅家跡である。
  鴨江寺(かもえじ)浜松市中区鴨江4
今から千三百年ほど前、遠州地方の民話で知られる芋掘長者が観音
堂を立てたいと願っていた時に、行基が来られた。 長者は文武天皇
の勅願所として観音堂を建てることを願い出た。 大宝二年六月十八
日、帝の特許が
あり七堂伽藍輪奥の美をなした。
平安時代は鴨江寺に三百余の寺々があり、勅許を得ずに戒壇を作り
殷盛であった。 このため比叡の僧と戒壇のことで争い戦をしたと伝え
られる。 現在も鎧塚とか血塚とか戒壇塚という所が残っている。
出典:鴨江寺ホームページから引用
 <海道記>四月十一日、浜松・廻沢・池田(1)
 十一日、橋本を立ちて、橋の渡
(わたり)より行く行く願(かへり)
 みれば、跡に白き波の声は、過ぐるなごりをよび返し、路
(みち)
 青き松の枝は、歩む裾
(すそ)を引きとどむ。 北に願みれば、
 湖上遙
(はる)かに浮かんで、波の皺(しわ)、水の皃(かほ)に
 老いたり。 西に望めば、潮海
(てうかい)広く滔(はびこ)りて、雲の
 浮橋、風の匠に渡す。 水上の景色
(けいそく)は彼(かれ)も此(これ)
 も同じけれども、潮海の淡鹹
(たんかん)は気味(きび)これ異なり、
 浥
(みぞ)の上には波に羽(は)うつ鶚(みさご)、すずしき水をあふぎ、
 船中には唐櫓
(からお)おす声、秋の雁をながめて、夏の天(そら)
 
に行くもあり。興望(きょうぼう)は旅中(りょうちゅう)にあれば、感腸
 (かんちゃう)
頻りに廻りて思休しがたし。 以下、略 
 
<解説は右覧参照>
   <海道記><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
十一日、橋本を出立して、橋の渡し場から振り返ると、通る船の跡の
白波の音は過ぎた名残を呼び返し、また、路の青い松の枝は、歩く裾を
引き止めるようだ。 北を振り返ると、浜名の湖の上に遙かに浮かぶ
波の皺は、老人の顔を思わせる。 西を見ると海が広々と広がり風が
雲の浮橋を架けている。 水上の景色はどこも同じようだが、湖水の海
と淡水の湖とは、やはり趣が異なり、深い水の上で波に羽を打つ鶚が、
涼しい水をたてており、船の中では唐風の櫓を押す音が、秋の雁の声を
思わせ、夏空を雁が飛んでいくような気がする。 興趣ある眺めは旅の
中にあるのだから、しきりに感動がわいてきて、さまざまな思いを止
(とど)
めることができない。

<十六夜日記>
 舞阪での記述なし






 中世における浜松市(市街地及び東部)の街道のイメージ
概要
浜松市中央図書館の発行物によると、明治初年の大火と
 太平洋戦争の空襲によって、市内の中心部が消失したことにより、江戸時代(以前)の絵図、
地図(記録)の大半が失われたが、市民の寄贈や図書館が絵図等を購入していることが記されていた。 このような事情から鎌倉街道の遺構を探す
ことは、かなり困難なことであるが、県史、市史等をベースにたどってみたい。
街道遺構の基礎は、「静岡県歴史の道・東海道」(平成6年3月31日静岡県教育委員会)により、私が確認できる事項については、できる限り修正を加えた。 
なお東部を流れている天竜川は、暴れ川の異名を持ち、平安時代は「浜松平野の西側」(馬込川)、鎌倉時代は東側(磐田原台地側)、戦国時代に現在の
位置になったと推定されており、紀行文から様子を伺うことができる。
 
 <十六夜日記>遠江路 ー高師山より菊川まで(3)
今夜(こよひ)は引馬(ひきま)の宿といふ所にとどる。 この所の大方
(おおかた)の名は浜松(はままつ)とぞ言ひし、親しと言ひしばかりの
人々なども住む所なり。 住み来
(こ)し人の面影(おもかげ)も、さま
ざま思ひ出でられて、又めぐりあひて見つる命の程
(ほど)も返す
返すあはれなり。
  <浜松のかはらぬ陰(かげ)を尋ね来て
          見
(み)し人なみに昔をぞとふ>
 その世に見し人の子、孫
(まご)など呼び出でてあひしらふ。
<十六夜日記><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
今夜は引馬の宿という所に泊る。 この地方一般の名は浜松と言った。
昔、多少の縁故を結んだ人々なども住む所である。 ここに久しく住んだ
父親の面影もいろいろ思い出され、命あって再びこの地を見ることに
なった運命もつくづく不思議である。
 <浜松の土地の変わらぬ様子を尋ね、そこに住んだ父も亡いままに、
   その昔の事を変わらぬ松に問いかけ追想するよ>

その当時知り合った人の子や孫などを呼び出して、語りあった。
  ひくまの宿(引馬の宿) <浜松市内に推定>
紀行文などに登場する「ひくまの宿」については、その正確な位置は
わかっていないが、浜松、あるいは、その近辺であろうことは、文章の
なかの地名との関連から容易に考えられるが、どのあたりに存在した
ものかは、正確にはわかっていない。
「静岡県歴史の道・東海道」P13から引用
 
<海道記>四月十一日、浜松・廻沢・池田(2)
 林の風におくられて、迴沢
(まいさは)の宿(しゅく)を過ぎ、遙かに
 見わたして行けば、岳辺
(をかべ)には森あり、野原には津あり。 
 岸に立てる木は、枝を上にさして正しく生
(お)ひたれども、水に
 うつる影は、梢を逆
(さかさま)にして本(もと)に相違せり。 水と木
 とは相生
(そうじゃう)、中(なか)よしときけども、移る影は向背
  (きゃうはい)して見ゆ。 時巳(すで)にたそかれになれば、夜の
 宿をとひて、池田
(いけだ)の宿に泊る。

<解説は右覧参照>
   <海道記><解説> 中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 松林の風に送られるようにして
迴沢
(まいさわ)の宿を過ぎ、遙かに
 遠く見渡していくと、岡の辺りには森があり、野原には渡し場がある。
 岸に立っている木は、枝を上にさして正しく生えているが、水に映る
 姿は、梢(こずえ)が逆さまでもとの姿と異なっている。 水と木とは
 相生(そうじょう)で仲がよいと聞くが、映る姿は反対に見える。 時刻
 はすでに黄昏(たそがれ)になったので、夜の宿を求めて、池田の宿
 に泊った。
<鎌倉時代、天竜川は磐田台地側を流れ、池田宿は西岸にあった。>
     
浜松八幡宮浜松市中区八幡町
安時代の神社を所載した延喜式には許部神社(こべじんじゃ)として
記され、源義家公により源氏の氏神である八幡二柱の神が勧請され
多くの武家庶民の祟敬を集めました。 
・・・浜松八幡宮HPから引用
  雲立(くもだち)のクス浜松八幡社内
 社殿の前に聳える「雲立楠」は樹齢千年を超える楠の巨木で根回り
約15m、枝張り四方約25m、幹の下部には大きな空洞がある。 
元亀3年(1573)三方原の合戦において甲斐の武田信玄に敗れた徳川
家康公は武田方の追っ手を逃れて八幡宮境内へたどり着き、楠の
洞穴に身を潜め、難を逃れたと伝わる。 ・・・浜松八幡宮HPから引用
    浜松名称起源について
 足利義教が永享4年(1432)、富士見下向の時、この松のもとで、
「浜松の音はざざんざ」と謡ったといわれ、以来この松を「颯々之松」
というようになった。(ざざんざは松が風に吹かれる音
「曳馬拾遺」に 颯々の松とは野口村の森をいう とあり、一本の松では
なく三十本余りの松が群生していたと記されている。
この松林の場所は当宮から東へ約百メートル離れた八幡宮の飛び
社領地(現在の中区野口町)となっていたが、そこに「濵松名稱起源
颯々之松」の記念碑が建てられた。
碑は、平成19年に野口公園に移されましたが、元来「颯々の松」は
当宮遷座の由緒と関わりがあり、かつて社領地であったことから、
平成23年3月に境内に移された。 松は5代目となる。
 ・・・浜松八幡宮HPから引用
 *参考にしている「平安鎌倉古道」は野口町隣接地の馬込川に架
  かる「共同橋」を鎌倉街道経路としている。
颯々(ざさんざ)の松と「浜松名称起源颯々松]の碑 
  <浜松八幡社内

伝承では天慶元年(938)、八幡宮が現在の宮地に遷座した際、白
狐が松の苗木を携えてこの地に導いたと伝わり移し植えた.。
その松が繁茂し颯々の松になったといいます。 <右欄に続く>
  松の木を浜から持ってきたので「浜の松」が転じて里の名を「浜松」
とし、浜松の名称の起源になったと伝えられている。

・・・浜松八幡宮HPから引用
しかし、伊場遺跡の出土「濱津郷」の木簡が発見されたことにより
1300年前の奈良時代に始まると修正されている。
   *浜松市博物館案内チラシから引用
     
五社神社浜松市中区
国主久野越中守、 曳馬城(浜松城)内に勧請。徳川家康公浜松城に
入り、天正七年、秀忠公誕生城内にて誕生、産土神として、天正八年、
現在地の常寒(とこさむ)山に社殿建立し、遷座する。
   ・・境内設置の御由緒要約
  ひくま坂浜松市中区神明町、紺屋町、高町
「ひくま坂」は、東海道筋に面して構えられていた浜松城追手御門前
より紺屋(こうや)町をぬけ、高町(たかまち)に至る坂道をさす。 「曳駒
拾遺」、「風土記伝」から、位置的にみて現在の神明町から紺屋町を
へて高町にのぼる坂以外には考えられない。 写真は紺屋町交差点
   出典:「静岡県歴史の道・東海道」
     
常寒(とこさむ)浜松市中区利町>
慶長の頃まで 東海道筋から五社神社のある丘陵を越えて西側(裏側)
の清水谷に下る道があった。 その途中にあったのが常寒峠で、風が
強く夏でも寒さを覚えたところから、峠の名前が生まれたという。
本来の道は神社の西のようであるが、峠もなく似た道を自転車で走った。
・・・参考「静岡県歴史の道・東海道」
9月4の暑い日の正午頃であったが、涼しい風を感じることができた。
また、ここは城に続く丘陵である地形がよくわかる風景である。
  共同橋浜松市中区
参考にしている「平安鎌倉古道」が示す経路の馬込川に架かる東
から見た「共同橋」。 
東海道(国道152)馬込橋から約4百m上流
にあり橋の右手に「浜松名称起源颯々松の碑」があった野口公園が
ある。 鎌倉街道経路と推測できる傍証である。
 備考 「浜松名称起源颯々松の碑」は、平成23年3月、浜松八幡宮
     境内に移転した。
     
浜松城浜松市中区元城町
徳川家康は、元亀元年(1570)から駿府城に移るまで17年間
過ごした。
  鎧掛松浜松市中区元城町
元亀三年(1573)、徳川家康は三方ヶ原合戦から城に帰り、大きな
松の木陰で休んだとされ、その時に鎧を脱いで松に掛けたと伝承が
残ることから「鎧掛松」と呼ばれている。・・・説明板抜粋 
     
静岡県指定史跡・犀ヶ崖古戦場浜松市中区鹿谷町
元亀3年12月 22日(1573.2.4)「三方原の戦い」で甲斐の武田信玄に
大敗した徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ込んだ。 家康は攻め
返すように見せかけて、なんとか武田軍の城攻めを免れた。 その夜、
家康はどうにか一矢を報いようと犀ヶ崖近くで野営する武田軍を急襲
した。 地理に不案内な武田軍は混乱し、崖に転落して多くの死者を
だしたという。
*崖の現状は、長さ約116m、幅約29m、深さ約13mです。しかし
  当時の深さは約40mと推定されている。
  徳川家康三方ヶ原戦没画像 通称「しかみ像」
「三方原の戦い」で大敗し、多くの将兵を死なせたことを教訓とする
ため家康が描かせた自画像、通称「しかみ像」 
 
  *左欄とも浜松市「犀が淵資料館」パンフレットから引用
     
駒形神社浜松市中区佐藤2
祭神は、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめ
みこと)
、玉依姫命(みこと)です。 例祭日は9月28日という。 10月4日、
場所を教えていただいたご婦人から、先日祭礼が終わったばかりと
言われました。
  (かば)神明宮一の鳥居浜松市東区
東海道に面した鳥居。本殿まで約1キロあり、往時の盛況を
示してる。

     
蒲神明宮二ノ鳥居と灯籠蒲神明宮
灯籠前に昔の触書スタイルの説明板がある。
文政4年生まれの「みい」は機織りに秀で、縞織りを研究し、遠州織
物を地場産業に定着させた人で、右の灯籠を建てた。 従来の織物
は農家の副業的存在であったが、「みい」は協力者と共に永隆社を
創設し、機織を専業化した。 同時に製造、販売、弟子の養成にも
尽力した。 明治時代に一女性を称えた文章とともに灯籠を建立する
ことは希なことである。・・・東区役所設置説明板抜粋
  蒲神明宮浜松市東区
安のはじめ、蒲神社神官蒲氏の祖先が、この地を開拓した。
しかし国衙(地方庁)の圧迫に対抗するため皇大神宮に寄進と
なった。 蒲氏は、蒲検校職という管理人(荘官)となり、また皇大
神宮を勧請し、その神官を兼ねて御厨の経営をした。 将監町は、
内宮禰宜の知行した将監名という名田の跡で領家の直営地の歴
史がある。 ・・・浜松市史から引用
     
蒲桜伝説蒲神明宮境内
源頼朝の異母弟で源義経の異母兄の範頼は、母は遠州池田宿
(静岡県磐田市池田)の遊女であり、蒲御厨の蒲氏の元で少年時代を
過ごす。 兄・頼朝の挙兵に応じ、関東に向かうとき、桜の苗木を持参
し居城(埼玉県北本市)に植えた。 今も「石戸の蒲桜」と呼ばれる。 
平家追討の総大将として上洛の途次、鈴鹿市の石薬師に立ち寄り
戦勝祈願をした。 その時、蒲桜でこしらえた鞭(ムチ)を逆さに突き刺
した。 源氏の大勝利に、この蒲桜が芽を吹いて、今は「石薬師の蒲桜」
と呼ばれる。・・・東区役所設置説明板抜粋
  子安神社浜松市東区子安町
当地の庄屋伊藤家の祖先が寛永十二(1635)年、浅間神社の分霊を
祀り、家の守護神としたことに始まる。 伝説では、源範頼が娘の無
事出産を願って創建した話が残されている。
戦前までは4月3日、4日がお祭りで、安産祈願の母親がお礼に赤い
旗を奉納した。 秋の例祭日には甘酒が振る舞われ、これをいただく
とお乳がよく出るという。・・・境内内の案内板から引用
     
大甕(おおみか)神社浜松市東区中野町
右の社標の上段に「式内」とあり、平安時代以来の歴史があることに
なる。 浜松市史によると、松尾社(京)の御厨(荘園)があり、蒲神明
社(伊勢御厨)と領地争いが記録されている。
 *大甕神社の甕は、正式には瓦と長の組み合わせです。
  金原明善(きんばらめいぜん)記念館浜松市東区和田町
東海道沿いの北側に生家が記念館として開放されている。天保3年、
豪農に生まれた明善は水害で苦しむ住民のため自費で治水工事を
行った。同時に水源地の植林にも力を入れ、杉や檜など292万本の
木がある森を造ったと言われる。
     
明治の記念浜松市東区中野町
東海道の東端・六所神社の天竜川堤防際に沿って建てられた
右・舟橋跡、左・天竜川木橋跡の木柱。これらの橋は、明治時代に
架設されたもので江戸以前の渡し場は約5百m上流にあるが、
現地には形のあるものは何もない。また、この木柱は、高さ50㎝
から1m程の小さいもので、最初は発見できなく、二回目で見つけた。
  天竜川に架かる二つの橋浜松市東区
浜松市と磐田市を連絡する橋。こちらの国道1号線と県道261が
並列する天竜川架設の二つの橋。 以前は、徒歩での通行は危険で
あったが、10年程前に自転車と徒歩専用の橋が架けられた。
後が浜松市中野町、先が磐田市である。中世から江戸時代までの
渡し場は橋から約5百m上流となる。池田には「天竜川渡船場跡」の
碑が建てられている。
<海道記>四月十二日、天竜川・佐夜中山・菊河(1)
 
十二日、池田を立ちて、暮々(くれぐれ)行けば、林野(りんや)
 皆同じ様
(さま)なれども、処々(ところどころ)、道ことなれば、見るに 
 随
(したが)ひて珍しく、天中川(てんちゅうがは)を渡れば、大河にて、
 水の面
(おもて)三町(ちやう)あれば、舟にて渡る。 水早く、波さが
 しくて、棹
(さお)もえさしえねば、大きな朳(えぶり)を以て、横さまに
 水をかきて渡る。 かの王覇
(おうは)が忠にあらざれば、呼他河
 
(こたか)、氷むすぶべきに非(あら)ず。 張博望(ちゃうはくばう)
 牛漢
(ぎゅうかん)の浪にさかのぼりけん。 浮木(うきき)の船、かく
 やと覚えて、

   <よしさらば身を浮木(うきき)にて渡りなん
       天津(あまつ)みそらの中川(なかがは)の水>

<解説は右覧参照>
注1・・(えぶり)<農具の一種で長い柄に横板を取り付け土を平らに
        するのに用いる>
注2・・王覇<後漢の人。 光武帝に従って出陣したが、敵に追われて
    呼他河を渡ろうとした時、舟がなければ渡れないことを知っては
    いたが、士気の衰えることを憂えて、堅氷が張っているから大丈
    夫と偽り、兵を進めたところ、本当に氷が張っていたという故事>
 

   <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 十二日、池田を出立して、早朝の道を歩いて行くと、林も野も皆同じ
 様子だが、場所によって道は異なるので、見て行くにしたがい珍しく
 感じられ、天竜川を渡ると、これは大河で水面が3町もあるので
 舟で渡る。 水が早く、波が盛んで激しくて、棹
(さお)さすこともでき
 ないので、大きな杁
(えぶり)を用いて、横向きに水をかきわけて渡る。
 あの王
(おうは)のような忠義心があるわけではないので、呼他河
 (こたか)のように、水を張らせて渡るわけにはいかない。 眺博望
 (ちょうはくぼう)が天の川を遡(さかのぼ)ったというが、その時の浮木の
 船は、このようであったと思われて
   <よしそれならば、我が身を頼りない浮木として渡ってしまおう、
     空まで続きそうな天竜川を>



 注3・・眺博望<前漢の人。 張鶱(ちょうけん) 武帝に仕え、匈奴
    
 (きょうど)討伐に派遣された。 また、武帝の命により(略)
     天の川の水上を求めて戻った>

    <東関紀行>遠江路 ー天竜川を渡り、今の浦に至る(1)
 天竜と名づけたる(わたり)あり。 川深く、流れおそろしきと
 見ゆる。 秋の水みなぎり来たりて船の去ること速
(すみ)やか
 なれば、往還
(わうくわん)の旅人たやすく向ひの岸に着きがたし。
 この川の水屑
(みくづ)となるたぐひ多かりと聞くこそ、かの巫峡

 (ふかふ)
の水の流れ思ひよせられて、いとあやふき心地すれ。
 しかあれども、人の心にくらぶれば、しづかなる流れぞかしと
 思ふにも、たとふべき方
(かた)なきは世に経(ふ)る道のけはしき
 習ひなり。

   <この川のはやき流れも
          世の中の人の心のたぐひとぞ見る>
おもてなし所「寄ってきっせえ」 <浜松市東区中野町
左の歩行者等橋は、堤防の上を走る国道と県道の間にあるため
勾配を緩くした進入路がある。その途中、椅子や地元「中野町を
考える会」作成の「散策マップ」が用意された、おもてなし所が写真
の左手にある。散策マップは、2016.5発行のもので第3版とあり、
かなり以前から作成・配布されていることが推察できる。

 
  <東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 天竜とよばれている渡し場がある。 この川は深く、流れが恐ろしい
 ように見える。 折からの秋の水があふれていて、舟の流れ去る
 のが速いので
、ここを往来する旅人は、容易に向こう岸に着くことが
 できない。 この川に溺れ死んだ人も多いとのことであるが、あの
 巫峡(ふきょう)の水の流れが連想されて、非常に危険な感じがする。
 でも人の心に比べてみれば、静かな流れであるよと思うにつけても、
 たとえようのないものは、世間を渡っていく方法のきびしい有様である。
   <この川の急流の危険なことも、世の中の人の心の
     変わりようの速くて信じがたいことに、同じことだと思いますよ>