第六章静岡県西部<遠江>の鎌倉街道について |
静岡県西部の鎌倉街道について 当地の鎌倉街道は、紀行文等から海と浜名湖を隔てていた砂嘴(海岸堤)を進んだことが記録されている。 この砂嘴は、松が茂り、 天橋立や三保の松原のように風向明媚であった。 浜名湖からは、浜名川が流れ、この川には、浜名橋が架けれており街道の経路で あったが、災害や火災で毀損し、数回の架設が記録されている。 橋が毀損していた時期は、舟で渡ったが、中心は利便性の勝れた 橋の通行であったと思われるので、ここでは海沿いの道を進んだ形で紹介したい。 いずれにしても数度の大地震・大津波の被害が 記録されており、文書などの記録がないことにより、当時の様子を伺うことが不可能である。 参考にしている「平安鎌倉古道」や「静岡県歴史の道・東海道」(平成6年3月31日静岡県教育委員会)では、この海岸沿いの道の 説明がなく、紀行文等と共に進んでいる私にとって大変残念であり、あえて強調していきたい。 この説は、地元の研究者が書かれた「三河路に消えた・いざ鎌倉の古道」と「濱名の渡りと鎌倉への道」でも採用していることを ご紹介したい。 ***静岡県史・通史編2 中世(平成9年3月発行)は、P122、123で浜名橋を経路とする「東海道ルート図」、浜松市史(昭和43年3月 発行)p299は、「浜名湖口図」の中で「浜名の橋」を経路して掲載していることを発見した。 |
湖西市(白須賀町・新居町)の鎌倉街道 |
はじめに 湖西市の鎌倉街道は、今回の探索のために調べた結果、ほとんど情報が無いことがわかった。 参考にしている「平安鎌倉古道」 の資料ではBコースを採用しているが、明確な根拠や出典が示されず想定遺構が示されたものであった。 手掛かりを求め、平成29 年の弁天島から掛川まで歩くマラニックのお誘いに応じ参加した機会(早足のスピードに脱落、探索を兼ねて単独行動に変更)に、 浜松市立図書館に立ち寄り、「三河路に消えた・いざ鎌倉の古道」と「濱名の渡りと鎌倉への道」のコピーを入手した。 しかし、湖西市の地理特に災害史を理解できていない私には難解であった。 よくわからなかった。 このような理由で、まとまった情報がない中で、とりあえず現地探索を行うこととし、新居町に出向き、駅近くのレンターサイクル (新居関所周辺活性化協議会が運営)をお借りした際、担当の人・山本さんに鎌倉街道及び中世紀行文の歌碑についてお尋ね したことを契機に、末尾に記載させていただいた方々をご紹介いただき、更に、皆さん最高のおもてなしでアドバイスや資料提供 をいただき、かなり自分のイメージを固めることができた。 この紙面の最初にお世話になった皆様の内容を書きかけたが、文章 だけでは十分説明できないうえに、鎌倉街道遺構の説明が混乱することを予測し、涙をのんで断念した。 シンプルな言葉ですが 本当にお世話になりました。 ありがとうございます。 ***鎌倉街道の推定遺構について*** 湖西市新居町及び白須賀は、静岡県西端に位置し、東は浜名湖、南は太平洋(遠州灘)、西から北は湖西連峰に挟まれた風光 明媚な景観を有している。 海に面した丘陵地帯の南端は海蝕崖で、天竜川からの土砂が黒潮で運ばれた砂州と太平洋が一望 でき旅人を楽しませてきた。 ここで取り上げている中世紀行文等でも数多くの和歌が詠まれ、残されている。 浜名湖は、淡水の湖であったとされるが、明応7又は8年(1498・99)に大規模な地震と大津波の被害を受け、浜名湖の海側が 切れ、海と直接つながった。また、宝永4年(1707)にも大規模な地震と大津波の被害を受けたとされ、海岸近くに住んでいた 白須賀等の人たちに大きな被害を及ぼし、白須賀地区が海蝕崖の上にある現在地に移転している。 このような歴史から白須賀地区及び新居町には、歴史的資料が少なく、中世・鎌倉街道の道筋が明確になっていない。 私が参考にしている「平安鎌倉古道」(尾灯卓夫著)は、下記地図のBを街道遺構としているが、徒歩と自転車で現地を調べたり、 資料を確認したが、新幹線の工事や地域開発もあり、街道があったイメージがわかない、すっきりしない気持ちであった。 「濱名の渡りと鎌倉への道」は、和歌などを根拠にしている箇所が多く、私も紀行文を参考にしていることから、賛同できることが 多々あった。 新居関所周辺活性化協議会の山本さんに教えていただいた、「浜名橋跡」、「橋本宿関係の旧跡」を中心に、「濱名の 渡りと鎌倉への道」に忠実に探索した。 多くの皆様にお世話になり、Aコースの概要をまとめることができた。 白須賀、橋本宿の風光明媚な風景は中世の旅人、特に文化人の心を打ち、紀行文や和歌などに文学作品を残している。 ここでは街道遺構を探索し、その成果である鎌倉街道(Aコース)とセットで新居町及び白須賀の自然や文化資産をご報告します。 ***<ご協力・アドバイスでお世話になった皆様>・・・・・順不同 〇新居古里ガイドの会メンバー・山本富治さん ○新居まちネット」の寺田敏幸さん 〇佐吉翁に学ぶ会・小池 力さん ○禮雲寺ご住職・加藤憲学さん 参考資料 〇濱名の渡りと鎌倉への道・2001.7発行、加茂豊作著 ○三河路に消えた「いざ鎌倉」への道・平成元年12月・浅野浩一著 ○「静岡県歴史の道・東海道」・平成6年発行静岡県教育委員会 〇中世の東海道をゆく・2008..4中公新書・榎原雅治著 ○地名が語る新居・昭和57年・新居町教育委員発行 ○湖西の歴史探訪・昭和58年彦坂良平著 ○ふるさとの文学散歩道(チラシ)・湖西市教育員会 ○湖西風土記文庫<振り返る>・平成14年 湖西市発行 ○HP新居関・新居宿・浜名の橋・・・新居関所資料館編 ***レンターサイクル 〇 新居関所周辺活性化協議会(有料) |
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街道遺構の概要 鎌倉街道(古道)は豊橋市東部の雲谷(うのや)普門寺経由と二川町の火打ち坂経由の2経路とされ、その先は新所原駅付近に出た後、 白須賀経由<Aコース>及びほぼ新幹線沿いに進む(Bコース)と想定されている。 Bコースの経路は、単純に決めてはいけないが、湖面の水際を歩いたとも思われる。 鎌倉時代の浜名湖の水面は現在より高く、豊田 佐吉記念館前の農地は湖面だったとされる。 しかし、紀行文などの記録がなく、主要な街道遺構の探索に決め手がなく、平坦な行程で あり、兵馬などの道があったと想定したい。 Aコースの白須賀経由の行程は、紀行文及び和歌で、海が見える風景を愛でている。 ・特に海道記の記述に 「この山の腰を南に下りて、遙かに見くだせば、青海浪々として、白雲沈沈足り。海上の眺望は此処に勝れたり。漸くに山脚を下れば、 匿空の如くに堀入りたる谷に道あり。身をそばめ、声を合わせて下る。」 ・・・・・尾根と谷を横断する道筋を示し、検校谷(けんぎょうや)付近を歩いたと想像される。 旧東海道を歩いた感想では谷筋らしき場所は なかった。 しかし、坊瀬にお住まいの小池さんにゴルフ場東・西様子の道をご案内いただき、車中ではあるが、川の流れと同じく南北 に走る深い谷筋を確認している。 海蝕崖の上にある検校谷を歩いた様子を想像できる。 ・飛鳥井雅有は「都の別れ」 <中世の東海道をゆく・榎原雅治著・中央公論新書刊 P80から引用>で潮見坂を下るとあまりに苦しかった ので、蜑(あま・漁師)の釣り船に乗ることとした。 供の者は先に行かせ、管弦の心得のある者ばかりを舟に乗せ、宿に入るまでの間、 海青楽(かいせいらく)を演奏した 水門(みなと)より 入海遠く さすしおに 棹をまかせて のぼるあま舟 ここの浜名の橋は著名な所で、情のある遊女も多く、一夜とどまった。 ***坊瀬等の登り釜で焼かれた焼き物が、一本松経由で白須賀元町海岸の湊から船出した話もあり、「都の別れ」の舟行程も、作り事 とは思えない。 笠子神社の由緒でも<浜名川白須賀の湊云々>とあり、浜名川の河口場所に諸説あるが、白須賀と決めたい。 Aコースは距離や難易度から不利であるが、このような海との記録がある。 Aコースは文化の道としても利用されたと理解したい。 白須賀・新居町の紀行文等の概要 海道記(貞応2年:1223)は、作者不詳であるが 上段にあるように、海を見下ろす風景、狭い谷筋を谷に落ちないように反対側に身を寄せ、安全のために互いに声を掛け合っている様子は 海蝕崖(検校ケ谷)近くを歩く危険な様子をリアルに書いている。 東関紀行(仁治3年:1242)も、作者不詳である。 三河・遠江の境となる境川を越した時の歌はあるが、途中の記述がなく、橋本宿に進んでいる。行程の推測は不可能である。 十六夜日記(弘安2年:1279)の阿仏尼は、訴えのための東下りである。 高師の山を越えつ。海見ゆる程、いと面白し。と簡潔な記述で行程の推測は不可能である。 都の別れ(文永五年から建治元年(1268~75)は、飛鳥井雅有が京鎌倉を往復しながら記した4つの旅日記の一つ。 これも上段の記述のとおり、途中から漁師の舟に乗り、帯の湊から長く入り江を満潮の潮に乗って橋本宿まで進んだ様子を述べている。 海に近い街道があったことを推測させる。 Aコースの存在を実感できる文である。 |
鎌倉街道Aコースの概要<西から東進> |
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境川<湖西市駅南4> 静岡県と愛知県の国境の川、境川。 海近くの潮見坂から反対の 北向きに流れる。 新所原駅近くで北からの半尻川と合流し、梅田 川となり三河湾に向かう。 |
元普門寺総門跡 <湖西市白須賀> ソニー工場の北側道路にあるコンビニ(及びクリーニング)の右 にある坂道に普門寺の礎石一個があった。 礼雲寺の加藤ご住 職のお話では、現在、民家の庭にあるという。 坂道の先は、権現山という里山があり、明治2年6月、静岡県知 事となった徳川家達に随従してきた旧幕臣200余世帯が住み着 いた士族屋敷跡があった。(湖西の歴史探訪・彦坂良平著) なお、GSユアサとソニー工場の間にある川は、昔あった大池の 跡であったという。、 |
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白須賀・笠子神社 <湖西市白須賀> スズキ湖西工場の西に隣接する笠子神社。 鳥居右に由緒書が あり、祭神が大巳貴命(大黒様)、塩土翁命であることと、歴史的 には、過去には白須賀の海岸にあったが、数度の大地震、大津 波の被害により移転し、当地には 天文四年(1535)の遷座とある。 なお、写真右の由緒によれば、浜名川白須賀の湊の西岸に鎮座 していたとある。 このことは浜名川が白須賀まで流れ、河口が湊 として利用されていたということになる。 河口は橋本、松山、大倉 戸等諸説あるが、この資料に加え、後に出てくる、「都の別れ」で 徒歩に疲れた飛鳥井雅有が(橋本)宿まで移動するため舟に乗り 換えた場所と想定できる、ここの白須賀説を支持したい。 |
大ケ原池(だいがはらいけ) <湖西市白須賀> 県道332号(オレンジロード)西の微高地にある大ケ原池。 北か ら南を望んでいる。 左に県道、右が低くなり境川が流れる。 地名が門原とあり、中世時代は原野の中を進んだものと想像さ れる。 自然にできた微高地を道とした時代であり、位置は絶えず 移動したものと思われる。 |
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境川近辺の風景<湖西市白須賀> 初めて新所原駅から新居町駅まで歩いた時の写真である。当地 の鎌倉街道は境川沿いと書いてある資料があり、歩いての現地 調査である。 右直ぐに境川が流れており河川敷みたいな場所 である。 河川敷では大雨の時は水浸しとなり歩行には困難と なる。 せめて微高地のこのような場所かなと手がかりがなく参考 にと思って撮影した画像である。 出会った農家の方に訪ねたが、 簡単に説明できないのか口を濁された。 ここではないという感触 であった。 しかし、後日、縁ができた加藤憲学さんのアドバイスは もう少し左(東)の微高地でした。納得です。 |
番場池北の分岐点 <湖西市白須賀> 左に境川周囲の田が広がり、境宿に入る手前の微高地に池がある。 池北にある分岐点を南から撮影した画像。 大ケ原池へは右折し、 左なりに曲がり直ぐの直線をわずかに進む。 街道は、概ね、県道 332号(オレンジロード)の西側を平行している。 |
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東海道と古道との合流(追分)地点<湖西市白須賀> 番場池の東を南進すると、やがて東海道に 突き当たる。 右の ブロック塀に高札場跡の石柱が立てられている。 正面に成林寺 が見える。 成林寺境内に昭和七年、建立された境宿村開祖碑があるが、 詳細は不明である。 当初は、間宿(まのしゅく)であったが、白須賀 宿が近くに移転してきたので加宿扱いになった。 |
白須賀宿マップ <湖西市白須賀> 観光客用に西入り口の成林寺前に設置された案内マップ。 徒歩であったので、中心の白い部分に区間距離が書かれており 参考になった。 鎌倉街道は、先の門原地区同様、原野の中を歩いたと思われ、 加藤憲学さんからは「東海道(地図赤線)の東(右)に街道が あった」と白須賀に伝わる伝承を、具体的にご教示いただいた。 個人宅もあるので、明示はできないが、活用させていただいた。 |
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海隣山禮雲寺(れいうんじ) <湖西市白須賀> 曹洞宗の寺院として正保元年(1644)、元町の神明宮の西隣に 本寺蔵法寺6世によって創建され、その後、現在地に移された。 ご住職の加藤憲学さんは90歳になられるが、郷土史に強く私も アドバイスや資料をいただいています。<令和元年7月> |
潮見坂 <湖西市白須賀> 東海道の南にある海岸段丘(海蝕崖)の中間の風景。 遠州灘の 海が見える。 西から進んできた場合、初めて間近に海を見ることが でき、印象に残ったと思う。 (2019.7.26潮見坂公園跡展望台で撮影) 江戸時代は歌川広重の浮世絵、 中世でも、同じ場所ではないが、紀 行文や和歌に素晴らし景色を表現している。 |
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海から見た白須賀海岸 <湖西市白須賀> 海岸は海から寄せられた砂浜で遠浅の海岸、陸地は台地が波で 浸食された崖(海蝕崖)が迫り、平地は少ない。 千年以上前の白須賀の集落は海岸沿いにあったが、大地震 ・大津波で大きな被害を受け、順次、内陸に移転した。 残された 記録は少ないが、(南笠子及び境地内に各1社)笠子神社由緒に 明記されているように、浜名川河口と湊があった。 |
蔵法寺・潮見観音 <湖西市白須賀> 慶長3年(1598)、曹洞宗の寺として開創。観音堂に安置されて いる潮見観音は、江戸時代、蔵法寺前の海岸から引き上げたと いわれている。 宝永四年(1707)10月4日、遠州灘一円に大地震 発生と大津波来襲の時に参勤交代のため岡山藩二代藩主池田 綱政が当地に宿泊していたが、夢枕に立ち、「災害が迫っている」 と教えて、危うく危難から免れることができた。 綱政公は観音様 のご加護に深く感謝し、厚く崇敬したという。 ・・・境内の説明板抜粋 |
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蔵法寺から海蝕崖を登る道 <湖西市白須賀> 7月26日、山本さんと二人で加藤憲学さんを訪問した時に教えて いただいた道。 昔から牛車で運搬に利用された道という。 江戸時代、蔵法寺で通行・乗船許可の鑑札を出していたという。 湊の伝承もある。 「都の別れ」で徒歩に疲れた飛鳥井雅有が (橋本)宿まで移動するため舟に乗り換えた場所とも思える。 (元年7月26日撮影・左に崖があるが草木で見えない) |
海蝕崖 <湖西市白須賀> 山本さんと発見した海蝕崖。崖上から海方面を撮影撮影したが、 樹間にかすかに海が見える。 昔は、薪確保のため里山を手入 れし、もう少し海が見えたと思う。 崖はきびしい傾斜で、立っている位置は直角に近く、足がすくむ くらい怖い。 地図上の海抜は、約70メートル、蔵法寺山門で16 メートルと簡単には登れない。 また、暗い夜間では危険で近づけ ない場所である。(令和元年7月31日撮影) |
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一本松 <湖西市白須賀・坊瀬> 県道173号の浜名湖カントリークラブの西にある。 古くから坊瀬 や吉見の人たちのお伊勢参りの道、焼き物を他国・特に東国に 搬出するため海岸の湊に運んだ道として伝承されてきた。 小池さんのお話では、一本松付近では高圧線鉄塔(尾根)の道を 歩いた記憶があるという。 |
才の神(道祖神) <湖西市白須賀> 白須賀宿から一本松に向かう県道、白須賀第三区公会堂約百 メートル北で分岐する地点の林。 加藤憲学さんのお話では、以前 は馬頭観音像があり、供養されていたが、紛失し今はない。 石像 の側面に「右坊瀬道」が刻まれていたという。 林の手前に坊瀬に 向かう道跡が今も残る。 左欄の小池さんが歩いた道に繋がる。 また、加藤さんからいただいた地図に「馬捨場」という字名を発見 した。 馬の乗り換え場の可能性もある。 場所をお聞きしたが街道 遺構から少し離れた自動車修理工場周辺で詳細不明であった。 |
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<海道記> 是より、遠江国に移りぬ。 < くだるさえ高しといへばいかがせん のぼらん旅の東路(あづまじ)の山> この山の腰を南に下りて、遙かに見くだせば、青海浪々として、 白雲沈沈たり。 海上の眺望は此処に勝れたり。 漸くに山脚に 下れば、匿空の如くみ堀りいりたる谷に道あり。 身をそばめ、 声を合わせて下る。 <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) そこから遠江に移った。 <下る時でも高しというのに、都に上る時の旅では更に高くてどう したらよいのか、この東路にある高志の山は> この山の中腹を南に下って、遠く見下ろすと、青い海が音を立てて、 白い雲が盛んにわいてくる。 海上の眺望はここが勝れている。 だん だんと山の麓に下ると、隠れ穴のように堀入っている谷に道がある。 身を片寄せ、声をかけながら下る。 以下、略 <覧冨士記> ・・・鎌倉公方けん制のための軍事誇示活動 ・・・永享4年9月、将軍義教の富士山見物に随行した堯考の紀行文 今日(けふ)なむ遠江国(とほたふみのくに)塩見坂に至りおはします。 かの景趣なおざりにつづけやらん言の葉もなし。 まことに直下と 見下ろせばと言ひふるしたる面影浮びて、雲の波、煙の波、そこ はかとなき海のほとり、松原はるばるとつづきたる州崎、数も 知られず漕ぎ連ねたる小舟、いと見所多かり。 雲水茫々たる遠方に、富士の嶺まがひなく現れ侍れ。 御詠二首、 <今ぞはや願ひ満ちぬる塩見坂心ひかれし富士をながめて> <立ち帰り幾年なみか忍ばまし塩見坂にて富士を見し世を> <解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 今日、遠江国塩見坂に到着なさった。 そこの景色は通り一遍の表 現ではつくせないほど素晴らしい。 まさに「直下と見下ろせば」と 言い古されてきた面影が浮かび、雲の波や煙の波が立ち、ぼぅっと かすんだ海のほとりに、松原が遙かに続いている州崎、それに数も わからぬくらい漕ぎ連なっている小舟など、たいそう興趣が多かった。 雲と水が遙かに広がる向こう側に富士の峰がくっきりとその姿を現わ した。 これによって将軍が御筆を染めて詠まれた歌2首、 <今早くも願いが叶ったことだ。塩見坂から見たいと思ってきた 富士山を 眺めて> <塩見坂で富士山を見た世を都に帰ってからも、どれほど長く 懐かしく 偲ぶことであろう> |
<東関紀行> 三河、遠江のさかひに高師の山と聞ゆる山あり。 山中に越え かかるほど、谷川の流れ落ちて、岩瀬の波ことごとしく聞ゆ。 境川とぞいふ。 <岩つたひ駒うちわたす谷川の音もたかしの山に来にけり> <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 三河と遠江の国境に、高師の山という有名な山がある。山の中に さしかかると谷川の水が流れ落ちて、岩の多い瀬の水をたいそうな 音をたてている。境川という。 <川瀬の岩をつたって馬で渡っていく谷川の水音も高い。あの 高師の山に来たことだよ> 注<境川周囲の風景に該当する場所がなく研究者間で 混乱している> <十六夜日記> 高師の山を越えつ。海見ゆる程、いと面白し。浦風荒れて、 松の響きすごく、波いと荒し。 <わがためや風も高師の浜ならむ袖のみなとの波 はやすまで> いと白き州崎に黒き鳥の群れ居たるは、鵜といふ鳥なりけり。 <白浜に墨の色なる鳥つ鳥筆もおよばば絵にかきてまし> 以下、略 <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 高師の山も越えた。海の見える景色は、大変面白い。浦風が強くて 松風の響が物寂しく、波がひどく荒い。 <私のために、風も音高く吹く高師の浜なのだろう。袖に湊の波の ように涙がかかるのを、一層はやし立てるように> 真っ白な州崎に黒い鳥が群れているのは、鵜という鳥であった。 <白砂の浜においる。墨のように黒い島の鳥よ。私の筆でうまく 描けるなら絵にでも描いてみたいものだ> |
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藤原為家・阿仏尼歌碑<湖西市新居町浜名> 白須賀宿と新居宿・関を連絡する東海道。地元では、旧浜名街道 と愛称をつけている。 松並木の東端に阿仏尼夫婦の歌碑がある。 風わたる濱名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣船 前大納言藤原為家 わがためや浪もたかしの浜ならん袖の湊の浪はやすまで 阿仏尼 <解説は右上にあります> |
角避比古(つのさくひこ)神社比定地<湖西市新居町浜名> 旧浜名街道の特別支援学園入り口がある交差点。 大津波などの 被害により資料はないが、地元では後方の丘が検校谷(けんぎょうや)と よばれた海蝕崖。 明応7又は8年(1498・99)の大規模な地震と 大津波及び山崩れにより、当地に推定される古社・角避比古神社が 流失し、手前の浜名川が埋まったのでは、と推定される。 この災害 に関連し、浜名湖の海と隔てていた陸(砂嘴)が流失し、今切と呼称 される水路となり、海と連絡した。 |
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歩行坂(ほこうさか) <湖西市新居町浜名> 鎌倉街道Aコース及びBコース両方が、橋本宿から、この坂を登る ことから始まりとされてきた。(諸説あり、愛宕山北から登る説もある。) ところが加藤憲学さんの話によると、昭和18年頃学徒動員で自動 車道整備のための測量のポール持ちを手伝った記憶があるという。 それ以前は獣道みたいな地元民が往来に使う小道であったいう。 中世の旅人が利用したとは言えないことになる。 またカチ坂と呼ば れることがあるが、ここは歩行坂で、北にある道がカチ坂というそうで ある。 |
紅葉寺(もみじでら)跡 <湖西市新居町浜名> 紅葉山(こうようざん)本覚寺といい室町六代将軍足利義教が 永享四年(1432)、富士遊覧の途次、立ち寄り紅葉を鑑賞した ので紅葉寺といわれている。 建久元年(1190)、頼朝上洛の おり橋本に宿泊した頼朝の寵愛を受けた長者の娘が頼朝亡き 後、出家して妙相(みょうそう)と名乗り、建てた寺と言われている。 ・・・門前の説明板より引用 |
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風炉の井(ふうろノい)<湖西市新居町浜名>湖西市指定史跡 浜名旧街道が県道417号と合流する橋本西交差点近く、教恩寺前 (道の対面)にある。 言い伝えによると、左の頼朝宿泊した時に、 この井戸水を使用したとされる。・・・ 説明板より引用 海近くにありながら真水の水脈をもった少ない井戸であったと思 われる。 以前は井戸の外観が残されていたが、現在は写真の ような現況である。 |
女屋(おんなや)跡 <湖西市新居町浜名> 現在は新井市消防署の奥の緑地帯にあるが、旧は県道沿いの 田にあったという。 橋本宿・長者屋敷の一角と考えられ、頼朝上洛の際、多くの遊女 (文芸に秀でた芸者のような職)が群衆したことから、この名称が つけられたといわれる。 |
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浜名橋跡碑 <湖西市新居町浜名> 今切口ができる前の浜名湖は淡水湖で、浜名湖から太平洋に 浜名川が流れ、そこには浜名橋が架けられていた。 しかし浜名川は災害により何度も流路が変わり、橋の場所も移動 して掛け替えられた。 口伝によれば、浜名橋の跡地がこのあたり と、いわれている。 平安時代の浜名橋の規模は、 長さ 167メー トル、幅 4メートル、高さ 5メートルあたりで、当時としては大きな 橋であった。 浜名橋周辺は、風光明媚な景勝地として知られ、東 海道(鎌倉街道)を往来した旅人の日記や歌にしばしば登場してい る。・・・市設置説明板引用 |
浜名の橋の図(部分)<教恩寺蔵> <画像はHP新居関所・新居宿・浜名の橋>から引用 静かな水面の浜名湖と荒波打ち付ける遠州灘と間の松並木の 街道は、旅人の旅情をかきたてる。 左が橋本宿側、右が舞阪に続く須崎と松並木である。 |
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<海道記> <行き過ぎる袖も塩屋の夕煙(ゆうけぶり)たつとも海士(あま)の さびしとやみぬ> 夕陽(せきやう)の影の中に橋本の宿に泊まる。 大海南に湛 へて、遊興を漕ぎ行く舟に乗せ、駅路東に通ぜり。 誉号を浜名 の橋にきく。 時に、日車西に馳せて、牛漢漸くあらはれ、月輪 峰に廻りて、兎景(とけい)初めて幽かなり。 一部略 <解説> ・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) <行き過ぎる旅人は塩屋の夕煙を見て袖を涙で濡らすが、それを たてる海士(あま)は寂しいさまだとみるだろうか。> 夕日のあるうちに、橋本の宿に泊まる。 ここは大海が南に水を湛 えて、舟に乗りながら遊興する者もあり、駅路は東に通じて浜名の 橋が有名だ。 ちょうど、その時、日は西に早くも去り、牽牛星や天ノ川 が次第に現れ、月が山頂に登って、その光が最初はほのかだ。 一部略 夜も巳(すで)に明け行けば、星の光は隠れて、宿立つ人の 袖は、よそなる声によばはれて、しらぬ友にうちつれて出づ。 暫く旧橋(きうけう)に立ちとまりて、珍しき渡を興ずれば、橋の下に さしのぼる潮(うしお)は、帰らぬ水をかへして上(かみ)ざまに流れ、 松を払ふ風の足は、頭(かしら)を越えてとがむれどきかず。 大方(おおかた)羇中(きちゆう)の贈物は、此処に儲けたり。 <橋本やあかぬ渡とききしにもなほ過ぎかねつ松のむらだち> <波枕よるしく宿のなごりには残して立ちぬ松の浦風> <解説> 夜もすでに明けていくと、輝いていた星の光は消え、宿を出立する 人は他の所にいる人の声に誘われて、それまで知らなかった人と 共に出る。 しばらく古い橋の所に立ち止まり、珍しい景色を楽しむと、 橋の下にさし上がってくる潮は、帰らぬはずの水を押し戻して川上に 逆流し松を吹く風は、足で私たちの頭を越えていくようで、咎めても 聞き入れない。 大体、旅の人への贈物としての景趣はここに用意 されている。 <橋本は名残(なごり)尽きぬ景色の渡と聞いていたが、やはり過 ぎて行きがたい松の群がりの有様のすばらしいことだよ> <夜に波が寄せる音がよく聞こえた宿の名残として、海岸の松風の 音を耳に残して出立したよ> <十六夜日記> 浜名の橋より見渡せば、鴎という鳥、いと多く飛びちがひて、 水の底へも入る、岩の上にも居たり。 <鴎いる州崎の岩もよそならず波の数こそ袖にみなれて> <解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 浜名の橋から見渡すと、鴎という鳥がたくさん飛び交って 、水の底へ入るのもあれば、岩の上にとまっているのもいた。 <鴎のとまっている州崎の岩も私に関係ないものとは思われない。 岩を越える波の数は、袖に見馴れた涙の数と同じくらいなのだもの> |
<東関紀行> 橋本といふ所に行き着きぬれば聞きわたりしかひありて、景気 いと心すごし。 南には海湖(かいこ)あり、魚舟(ぎょしゅ)波に浮かぶ。 北には湖水(こすい)あり、人家(じんか)岸に連なれり。 その間に州崎遠くさし出でて、松きびしく生(お)ひつづき、嵐しきりに むせぶ。 松の響き、波の音、いづれも聞き分きがたし。 行く人 心(こころ)をいたましめ、泊まるたぐひ夢を覚さずといふことなし。 水海(みずうみ)にわたせる橋を浜名と名づく。 古き名所なり。 朝立つ雲のなごり、いづくよりも心細く。 <行きとまる旅寝はいつもかはらぬどわきて浜名の橋ぞ 過ぎうき> さてもこの宿に一夜泊まりたる宿あり。 軒古(のきふ)りたる藁屋 (わらや)の、ところどころまばらなる隙(ひま)より、月の影くもりなく さし入りたる折りしも、君(きみ)どもあまた見えし中に、すこしおとな びたるけはひにて、「終夜(よもすがら)、床の底(もと)に晴天を見る」 と、しのびやかに打ち眺めたりしこそ、心にくく覚えしか。 <言(こと)の葉の深き情けは軒端(のきは)もる月の桂の 色に見えにき> <解説> ・・・中世魚を日記紀行集(新日本古典文学大系51) 橋本という所に到着すると、前から評判を聞いていただけのことは あって、その景色はさすがに心にしみる。 南には海があり、魚をとる 舟が浮かんでいる。 北には湖があり、人家が岸に並んでいる。 その 間には州崎遠く突き出ていて、そこに松が隙間鳴く生えていて、強い風 が絶え間なくむせび鳴くような音を立てている。 松に吹く風の響きと寄 せてくる波の音は、それがどれかと聞き分けることはできない。 道行く 旅人はそれによって心を愁い、旅泊する人たちは夢を覚さないという ことはない。 湖に渡した橋を浜名の橋という。 昔からの名所である。 朝、出立する時の雲の消え残っているさまは、どこの景色よりも心に しみる感じがして、 <旅をしては泊まる旅寝の名残はどこでも変わらないけれど、 とりわけ浜名の橋は景色がすばらしくて、通り過ぎるのがつらい> さて宿場で一晩泊まった宿がある。 軒も古びている藁屋で、所々まば らになっている隙間から月光がはっきりとさしこんできた時に、遊女たち が大勢いた中に少し年かさらしいのが「終夜(よもすがら)、床の底(もと)に 晴天を見る」とひそかに口ずさんだのは、誠に奥床しいことに思った。 <くちすさんだことにみえた遊女の雅情は、軒端からもれてくる 月光の輝きにはっきりわかったことだよ> |
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藤原定家歌碑<湖西市新居町浜名・親水公園> 浜名霞 影たえて したゆく水もかすみけれ はまなの橋の春の夕暮 <参考資料なく解説なしです> |
荘境石(庄境石)<湖西市新居町新居> 東門松風通り沿い「みなと運動公園」から東南最初の交差点内側に ひっそりと設置されている。 諸説あるが、荘園時代の笠子荘と曳馬 荘の境界標識であったとも伝わる。 明応地震以後は、湖岸漁業の 海別標識にも用いたという。 |
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松並木<湖西市新居町浜名> 東関紀行などに記述がある砂嘴の松並木をイメージした写真。 「三保の松原」や「天橋立」のような景色であったと思う。 浜名バイパスが建設され、当時の松並木はないが、同じような 雰囲気を教えていただき、浜名橋跡碑の海岸で撮影できた。 |
浜名大橋<湖西市新居町新居> 明応7又は8年(1498・99)に大規模な地震と大津波の被害を受け 街道があった砂嘴が切れて海と 直接、つながった「今切」と称される 場所。 今は国道一号線「浜名バイパス」が建設され、橋が架設されて いる。 |
鎌倉街道Bコースの経路コースの概要 <東から西進> |
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新居関所<湖西市新居町新居> 徳川家康により慶長5年に設置される。大津波などにより、二度 移転する。 現在に残る建物(面番所)は、安政5年(1858)に再建 されたものが現存しており国指定特別史跡である。 新居町は、古代から東西交通路の要所であった。 特に中世時代 には紀行文や和歌ですばらしい景観を記録しており、今でも楽しむ ことができる。 また、今回の探索で江戸時代の雰囲気が残る施設 が残され、活用されていることを知った。 地震・大津波の被害経験 があり、幅広く学ぶことができる町であると思う。 |
源太の山跡<湖西市新居町浜名> 建久元年(1190)、頼朝上洛の途次、橋本宿に宿泊した。その時、 家来の梶原源太景季(かじわらげんたかげすげ)は警護のため 当地の大松の上で物見をして警戒にあたったという。 本来の山は 新居小学校の西にあるが、現在は造成され山はなく、碑が設置さ れている。 なお学校の北に新たに「源太山」と命名された山がある が、伝説の山とは関係ないという。 |
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頼朝歌碑<湖西市新居町内山> 若宮八幡宮がある愛宕山に設置。 <かへる波 君にとのぞみことづてし 濱名の橋の夕ぐれの空> |
天神社<湖西市新居町浜名> 橋本宿の北にある愛宕山の西南に位置する。この神社の西に 平治ケ谷(へいじがや)に向かう道がある。左の歩行坂にも近い。 天神社西に登り坂がある。 橋本宿に近く、高師台地を登る道であることから、古代街道時代の 宿を「猪鼻駅」、この坂を「猪鼻坂」とみる見解がある。 この先が昭和50年頃、団地開発され、道路も整備され、昔日の 様子を伺うことができない。 ゆるやかな坂道で、約2百メートル先に八幡社及び内山公民館が ある三叉路を左に進む。 |
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天神社西の道<湖西市新居町内山> 新しい住宅地の中を直進すると、突然、農地が現れる。ほぼ長方 形で左右の雑木林に囲まれた平地で街道の施設(私案は古代の 猪鼻駅など)があったかもと思われる雰囲気である。左(西)の道の 中間・二本目の道が「平治ケ谷」、「カチ坂」に進む道である。 なお、最初の道は三十ヶ谷(みとがや)・ユースホステルがあった入り口 への道であるが、中郷山口に行くことができる道でもある。 |
平治ケ谷(へいじがや)<湖西市新居町内山> 湖西市ゴミ焼却場前の平治ケ谷の解説板。 この先を東に進むと 数枚の田があり、右折すると天神社、直進すると源太の山があった 湖西小学校西の東海道に出る。 西には、南北の道と合流し、山口や吉見方面に進むことができる。 |
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豊田佐吉記念館<湖西市山口> 山口大池の東を北上すると比較的近くにある。当日は水曜日で 定時休館日でした。 民家風、看板も地味で近くにならないとわかり にくいので事前調査は、必要と反省した。 |
山口観音堂<湖西市山口> 豊田佐吉記念館から百メートルほど南にある観音堂。記念館と ことなり高台にあり、下の田は鎌倉時代は入り江で会ったという。 |
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妙源寺<湖西市坊瀬> 佐吉翁が明治8年から4年間通った寺子屋跡。 和尚より「日本は土 地が狭く貧しい。 勉強せんといかん。」との教えを受けた。 後に、 この寺子屋時代の親友と夜学会を開く契機ともなった。 また、後年 発明研究の過程でくじけそうになったとき、寺を訪ねは和尚から激励を うけて奮起したといわれている。 ・・・豊田佐吉ゆかりの地周辺を訪ねる散策マップ・ 湖西市発行から引用 **車で案内していただいた小池さんは少ない檀家のお一人であり、 「佐吉翁に学ぶ会」事務局を担当されております。 |
熱田神社<湖西市吉見(きび)> 室町時代、尾張の守護である斯波氏が一時、遠江を支配した 時代、勧請したものである。 熱田神社境内に日本武尊御陣所跡碑がある。 東国征伐のおり、 当地で陣をしき、浜名湖を舟で渡った伝説がある。 周囲から島の ようにみえる高台である。 |