第四章 名古屋市内及び豊明市の鎌倉街道
名古屋市中村区・中川区・熱田区の鎌倉街道   
 
萱津東宿から熱田の宮まで
萱津宿から庄内川を渡った鎌倉街道は、現在の名古屋市中村区宿跡町、東宿町とほぼ直線で東進し、東宿の明神社から南下後、直ぐに
東進し、中村日赤前から東南に向きを変え中川区愛知町、露橋町と続き、中川運河の小栗橋から東に向きを変え、古渡町に到る。  下段
左の図のとおり中村公園東の日比津町から中川区高畑町まで旧庄内側の堤防であった微高地があり、これを利用したことが分かった。  
しかし現在は、都市化が進展し、街道の遺構を探すことは不可能となっている。 街道は、古代東海道の駅家<新溝=にいみぞ>があったと
推定される古渡町から南進したと推定される。(東進の道は、鎌倉街道以前の道か。 鎌倉道と呼称したい。)
 
     
 出典:中村区の歴史
P19自然堤防図から引用
昭和58年12月発行
横地清著
愛知県郷土資料刊行会発行
  女郎塚<中村区宿跡町>
鎌倉古道は、あま市甚目寺町下萱津の三ノ宮神社付近から庄内
川を渡り、名古屋市中村ポンプ場<宿跡町>付近に到る。
ポンプ場北側に道があり、この道沿いに墓地があり、中央に女郎
塚と呼ばれる墓石がある。 宿場の飯盛女が葬られたという。 
この場所へは、豊公橋の東にある本陣六交差点を南下し、二番目
の信号「東宿北」交差点を西に進むと直ぐである
  
    <東関紀行>尾張路 ー萱津の東宿を市の日に過ぎる
萱津の東宿の前を過ぐれば、そこらの人集まりて、里も響くばかりに
ののしり合へり。  「今日は市
(いち)の日になん当りたる」とぞいふなる。往還(おうかん)のたぐひ、手ごとに空(むな)しからぬ家苞(いえづと)も、
かの「見てのみや人に語らむ」と詠める花の形見
(かたみ)には
(やう)かはりて覚ゆ。
 
<花ならぬ色香(いろか)も知らぬ市人(いちびと)
     いたづらならでかへる家苞
(いえづと)
(みょう)神社<中村区東宿町>
先の交差点「東宿北」交差点を東に進んだ場所にある。 中村公園
の木々が直ぐ近くに見える。 境内にある神社由緒によると、創建は
鎌倉時代の建歴・貞応年間(約780年前)に熱田神宮摂社大和武尊
を鎮守産土神として勧請したもので、当時鎌倉街道(小栗街道)が通じ、
京鎌倉間の宿駅として栄えた頃の社である。

  <東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
萱津の東の宿の前を通ると、多くの人が集まって、里中に響きわたる
程の大声で騒いでいる。 「今日はちょうど市の日で ある」ということで
ある。 行き来する人々は、手に手にそれなりの家への土産物
(みやげもの)
を持っているが、例の素性法師
(そせいほうし)
 「見てのみや人に語らむ」と読んだ、花の枝の土産とは様子が違って
いると思ったことだ。
 <市に集まった無風流な人々が、花とは違う、役に立つ物を持って
  家への土産としているよ> 
 
 <筆者コメント>  萱津東宿の賑わいぶりと住民の暮らしを優れた
  描写で書き留めている
名文である。 実利的なお土産論は今にも通じ、
  よく理解できるが、都
(みやこ)人には野暮に見えるのかな?
     
中村公園・豊国神社 <中村区中村町>
中村公園の中心は豊臣秀吉を祀った豊国神社である。明治18年
の創建で、出世、開運、茶道、建築などに御利益があるといわれて
いる。 
本殿東側に豊臣秀吉生誕地の石碑が建立されているが、
中村中町<下中八幡宮>出生説も根強い。 なお中村公園東隣りに
「加藤清正生誕の地」碑がある妙行寺
(みょうぎょうじ)がある。
  油江(あぶらえ)天神社 <中村区中村町2>
中村日赤に近い西側に位置する。境内の案内によると、御祭神は
少彦名命
(すくなひこなのみこと)で、神話では大国主命と協力して国土開発
にあたったとされ、一般には「医薬の神様」として親しまれてきた。 
かっては多くの人々が菜種油を奉納し、油を塗って痛みの去るのを願
った。 神社創建年次は不明であるが、貞治三年(1364)奥書の「尾張国
神名牒」には従一位上油江天神と記載されている古い神社である。
     
小さな小栗橋 <中村区中村町>
油江天神前の二本南で中井筋緑道(旧惣兵衛川)の場所にかって
小栗橋があった。 ここでの古道は東西に向かっていた。西は明神
社を南に下った草薙町、東は中村日赤から中村保健所に曲がり
ながら南下していった。 中井筋緑道は中村日赤傍の散策道。
小栗橋の銘版は、柵の下部にあったが、再確認した結果、現在は
腐食落下し無くなっていた。
平成25年7月確認 
  元一里塚跡・中村保健所 <中村区名楽町4>
古道は小栗橋から中村日赤・その南にある中村保健所西と進んだ。
北向きに撮影した画像で、前方白いビルが日赤である。 参考資料
には、一里塚跡とあるが、中村区史、中村区の歴史にも記述がなく
詳細は不明である。
 




 
     
中村天神社<中村区中村町3>
古道は中村保健所から太閤通六丁目交差点に向かうが民家が
立て込んでおり、現状は探索不可能である。 ここは主要道路で
ある太閤通の一本北・ガスト裏になるが、幸い、駐車場となって
おり道から稲荷社の赤い鳥居が見え目印となっている。
境内の案内によると、当初は名古屋城清水御門の杜にあったが、
明治43年10月25日、当時の愛知郡中村郷日比津字野合の守
護神として遷座される。 以来、勉学の先達として地元住民の尊崇
の中心となってきた

  金山神社<中村区長戸井町1>
古道は中村天神社東から太閤通6交差点を南進、中村郵便局そして
黄金中学(熊野町)西・カーマホームセンター名古屋黄金店東を南下する。
ここから東進し深川町3(黄金陸橋北口登坂路東)から南進して長戸井
町3から関西本線及び近鉄名古屋本線を渡るが、橋や線路の構築物と
狭い道路事情で探索は不可能であった。
金山神社の祭神は南宮大社から分霊勧請された金山毘古神で寛文年
間(1661〜1672)の寺社志に尾張国則武庄米野村に金山祠有と記載さ
れている。 昭和2年名古屋駅拡張・鉄道用地(向野橋南坂付近)となった
ため現在地に移転した
     
向野橋(こうやばし)と名古屋駅の遠景<中村区長戸井町1>
中村区長戸井町と中川区愛知町を連絡する向野橋から撮影した
名古屋駅方面の遠景。 中村区魅力マップによるとこの橋は、トラ
ス式でかって京都の保津川に架かっていた鉄道橋を移築したもので
ある。 自動車も通行可能な橋であるが、老朽化により歩行者と二
輪車専用となっている。 なおトラス式とは、細長い三角形に繋いだ
部材で橋桁が構成された橋である。
  安井山善行寺 <中川区愛知町>
向野橋東側は運河通に挟まれた区域で狭い路地ばかりであるが、運河
通と中川運河の間も同様に狭い路地で簡単に道の説明を行うことは困難
である。 豊成団地の南、平和堂の南西運河通一本奥に善行寺がある。
寺の詳細は不明であるが、この北側に神明社・熊野社合殿があり、古道
はこの間を通っていた
 
     
神明社・熊野社合殿 <中川区愛知町>
当社は、一見すると普通の神社であるが、鳥居横に神社銘が彫ら
れた石柱が二本あり、右に「熊野社」、左に「神明社」となっている。
県内の熊野神社を現地調査したことがあり、平成18年6月当地
にて地元の方から聞いた話では、本来は熊野社であったが、江戸
時代に神明社(お伊勢さん信仰)が盛んになり、合祀されたらしい
との説明であった。
  小栗橋 <中川区月島町・広川町2>
古道は善行寺と神明社の間を東に進み、中川運河に架かる小栗橋に
出る。 この画像は小栗橋から西方を撮影したものであるが、前方の大
きな建物が豊成団地である。 橋の名前の小栗は歌舞伎や狂言の小栗
判官を指す。 鎌倉街道と縁があり、通称「小栗街道」とも言われる由縁
である。 橋の先の地域も、かっては小栗町で
あったが、現在は月島町と変更されている
 
     
古道の横道 <中川区露橋町>
鈴木バイオリンを直進した道。街道ではないが雰囲気が良いので
撮影しました 
  露橋神明社 <中川区山王3>
露橋の住宅街を抜けた古道は、名鉄名古屋本線高架に突きあたり、左に
移動し山王駅(旧名古屋球場前駅)横の道から山王通、古渡交差点に
向かう。 古道は山王通の一本南となる。露橋町に神明社がある
     
(くらがり)之森八幡社 <中区正木2>
祭神は応神天皇、仁徳天皇、神功皇后である。 江戸時代の書
「尾張志」では創建を源為朝としており、本殿の西に為朝愛用の
武具を埋めたといわれる鎧塚が残っている。
  山王稲荷社・犬見堂 <中川区広川町>
国道19号(伏見通)と山王通が交わる古渡交差点西南に稲荷神社が
ある。 稲荷社の山王通に面した北入口である。
名古屋市教育委員会の説明版が設置されており、「尾張徇行記」によると、
鎌倉街道の道筋は、萱津宿から庄内川を渡り、東宿から、上中、米野、
露橋、古渡地内に出て、その先、大喜、高田(又は昭和区村雲町)へは
舟で渡り、井戸田、古鳴海に抜けると説明されている。 稲荷社と山王通
敷地にあった犬見堂の間を東西に走り、この稲荷社の西側を南に折れ、
直ぐに西進したという。 
なお、ここでは触れていないが、中世紀行文の十六夜日記、海道記、東関
紀行を熟読すると、熱田の宮から鳴海潟(旧・年魚市場
(あゆちがた)経由
野並、古鳴海への行程である
。 次のページに書いたように、紀行文の
舞台を楽しむ者として熱田神宮経由、干潮時の「浜の道」を鎌倉時代に
一番利用された街道として進んでいきたい。
      
熱田神宮第一神門跡 <熱田区新尾頭2>
国道19号(伏見通)と八熊通が交差する新尾頭交差点南西近くに
ある碑。 文字面は車道側のみである。
熱田神宮享禄古絵図
文化5年(1808)享禄古図屏風写。 原本は着色であるが、参考資料
からの引用であるので白黒である。 左上に一の鳥居が見える。
主要な道が熱田台地の中央にあることが分かる。
     
高座結御子(たかくらむすびみこ)神社 <熱田区高蔵町>
俗に高蔵の森、高座さまと呼ばれ、子育ての神として信仰を集めて
いる。 祭神は高倉下命を祀る熱田神宮の摂社で延喜式内社で
ある。  ・・・市設置案内板より
  夜寒(よさむの)里跡 <熱田区夜寒町>
熱田神宮の北から高座結御子神社の南部に至る一面に広がった鳴海潟
(年魚地潟)を見渡せる高台で、かっては眺望の良い別荘地でもあった。
 <熱田ぐるりんマップ>
 渡船場利用の史実は確認できないが、熱田志に「高蔵宮の辺より」
大喜村に向かうとあり、熱田の拠点の一つと推定したい。
<名古屋市教育委員会が設置した説明版>より引用
   
源頼朝生誕地(誓願寺) <熱田区神宮西>
この場所は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったとこ
ろである。 藤原季範の娘由良御前は源為朝の正室となり久安三
年(1147)身ごもって熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだ
と伝わる。   ・・・案内板より





  熱田神宮 <熱田区神宮1>
第12代景行天皇の時代、日本武尊が東国平定の帰路に尾張に滞在した
際に、尾張国造乎止与命
(おとよのみこと)の娘・宮簀媛命と結婚、その後、
伊吹山の神を素手で討ち取ろうと草薙剣を紀の手元に置き出立つする。 
白い大猪(古事記)とか大蛇(日本書記)に化身した伊吹山の神を無視し、
大氷雨を降らされ病となり下山するが、煩野(亀山市〉で亡くなる。 紀の
簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斎鎮守したのが始まりといわれる。
景行天皇43年創建と伝えられており、平成25年5月8日に「創祀千九百年
大祭」が行われた。 祭神は天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、
建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている
信長塀
織田信長が桶狭間合戦での勝利を祈念し、寄進した塀である。 
土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねている。 三十三間堂
の太閤塀、西宮神社の大練塀と並ぶ日本三大塀といわれている
 
   鳴海潟を行く阿仏尼(十六夜日記写本の挿絵)
田淵句美子著 「十六夜日記」<物語の舞台を歩く>口絵

<十六夜日記>尾張路 ー 一の宮より鳴海潟まで(2)
 
廿日 避きぬ道なれば、熱田の宮へ参りて、硯取り出でて
  書きつけて奉る歌五(いつつ)
  <祈るぞよ我が思ふことなるみがた
    かたひく潮も神のまにまに> 
  
  

<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 二十日、(尾張国下戸(おりど)の駅(うまや)を出発して行く。=再掲)
 
ちょうど道筋にあたるので、熱田の宮に参拝して硯を取り出して
 書き付け奉納した。
 <お祈りいたします、私の念願が成就しますように。 望む方へ
  引く潮も、神の思し召しのななともうしますから>
 <一部・略>
 

参考
*避きぬ道・・・避けられぬ道、当然の通り道






  <東関紀行>尾張路 ー熱田の宮に参拝、匡衡を偲ぶ
尾張の国熱田の宮に至りぬ。 神垣のあたりに近ければ、やがて
参りて拝
(おが)み奉(たてまつ)るに、木立年(こだちとし)ふりたる森の
(こ)の間(ま)より、夕日影(ゆうひかげ)たえだえさし入りて
  <一部略>
大江匡衡
(おおえまさひら)という博士ありけり、当国(尾張国)の守
(かみ)にて下りたりけるに、大般若を書きて、この宮にて供養をとげ
たりえる願文
(ぐわんもん)に、「吾(わ)が願(ぐわん)すでに満ちぬ。 
任限
(にんげん)また満ちたり。 故郷へ帰らんとする期(ご)、いまだ
幾ばくならず」と奉りたるこそ、あはれに心細く聞ゆれ。

 
    <思い出もなくてや人の帰らまし
         法
(のり)の形見をたむけおかずは>

<東関紀行>
<解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
尾張国熱田の宮に着いた。 お宮はすぐ近くなので、早速に参詣
(さんけい)
したが、樹木の年経ている森の木の間から、夕日の光が切れ切れに差し
込んで、  <一部略>

 大江匡衡という博士が尾張の国司として下向したが、この宮で経文
供養を行った時の願文に「かねてからの願は成就した。国司の任期も
満ちた。故郷に帰る日はいつか」と書いたは、あわれなことであり、心
細くも思われる。
<思い出の種もなくては匡衡は帰国することいなったであろうよ。
 もし仏法の記念になるものを、この宮に奉納することがなかったならば>



 鳴海潟の鎌倉街道(浜路)
鳴海潟は、海の干満の差が約2メートルとされ、 鳴海潟に囲まれた松巨島(まつこしま)<南区>は、京と鎌倉を連絡する街道の要所に位置し、
古代から東西交通の難所であった。 満潮時は渡し船で移動したと推測され、専ら舟渡し説で説明されてきた。 
   しかし<紀行文等の内容では、三大紀行文全てが干潮時の徒渉
(かちわたし)を記録しており、シンプルに浜路の鎌倉街道として説明>

詳細が不明なので、下記「熱田旧記」を参考に、熱田神宮近接の「夜寒の里」と鳴海側は古鳴海(船着き場)を行程と推定した。
「宝暦二年(1751)の「熱田旧記」には、
 「往古の海道は古渡、高田村(瑞穂区)を経て古鳴海(緑区鳴海町古鳴海)、沓掛に架カリテ三河へ往来す。 汐干ノ時は熱田へ カカリ、二名橋
(牛橋周辺)ヲ経てカチワタリ(徒渡り)也」
 
江戸時代の書き物であり陸地化が進展している。 だから中世時代からの伝承であるが、干満時ごとの対応が異なることに注目したい。 
 
<海道記>四月八日、鳴海・二村山・八橋・矢矧(1)
  八日、萱津を立ちて鳴海浦に来(きた)りぬ。熱田の宮の御前ヲ
  過ぐれば、示現利生
(じげんりしやう)ノ垂跡(すいしゃく)に跪(ひざまづ)   いて、一心再拝(いっしんさいはい)の謹啓(きんけい)に頭を傾
  
(かたぶ)く。     
(一部略)
  この浦を遙かに過ぐれば、朝
(あした)には入潮(いりしお)にて、
  魚に非ずは游
(およ)ぐべからず。 昼は潮干潟(しおひがた)、馬を
  はやめて急ぎ行く。
    (一部略)
 
 この干潟を行けば、小蟹(こがに)ども、おのが穴々より出でて、
  蠢
(むくめ)き遊ぶ。 人馬の足に周章(あわて)て、横さまに跳
 
 (もど)り平(ひら)さまに走りて、己(おの)が穴々へ逃げ入るを
  見れば、足の下にふまれて死ぬべきは、外なる穴へ走り行きて
  命を生き、外におそれなきは、足の下なる穴へ走り来て踏まれ
  て死ぬ。 
(あはれ)むべし。   (以下、略)

<海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 
八日、萱津を出立し、鳴海の浦に来た。 熱田神宮の御前を過ぎる
ので、仏の垂迹した神の前にひざまずいて、一心に祈り、謹んで頭を
下げた。 
  (一部略)
 この浦を遠く過ぎると、朝は満潮で、魚でなくては泳げない。 昼は
潮のひく陸地を馬を急がせて通る。(一部略)
 この干潟を行くと、小さな蟹が自分の穴から出てきて、もそもそと
遊んでいる。 人や馬の足の音に慌てて、横向きに跳び平たく走り、
自分の穴に逃げ込むのを見ると、馬の足の下に踏まれて死ぬはずの
ものは他の穴に走っていって助かり、ほかの方にいて死ぬはずのない
ものが足の下の穴に走ってきて踏まれて死ぬ。 不憫だよ。(以下、略)
   <東関紀行>尾張路 ー鳴海潟から二村山にかかる(1)
 この宮をたちて、浜路
(はまぢ)におもむくほど、有明(ありあけ)
 月かげ更
(ふ)けて、友なし千鳥ときどきおとづれわたり、旅の
 空のうれへ心にもよほして、哀れかたがたふかし。
  <故郷(ふるさと)は日を経て遠くなるみ潟(がた)
          いそぐ潮干
(しほひ)の道ぞすくなき>

<東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
この熱田の宮を出立して、浜辺の道の方に向かうと、有明の月の光が
さえわたって、友にはぐれた千鳥の声が時々聞えてきて旅行く物悲しい
心が湧きあがり、しみじみ悲しみが深い。
  <故郷は日を経るにしたがって遠ざかり、この鳴海潟を
   潮の干
(ひ)る間に渡ろうとするのみ潮が満ちてきて、その道も
   どんどん少なくなっていくことだ>


 <十六夜日記>尾張路 ー 一の宮より鳴海潟まで(3)
 潮干(しほひ)の程なれば、障(さわ)りなく干潟を行く。  折しも
  浜千鳥多く先立ちて行くも、しるべがほなる心地して、
  
<浜千鳥鳴きてぞ誘ふ世の中に
       跡(あと)とめしとは思はざりしを>

<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  干潮時なので、苦もなく干潟を行く。 ちょうど浜千鳥がたくさん、
  先立って飛んで行くのも、案内者のように思われて
 <浜千鳥が鳴いて私を誘う。 世間に認められるほどの人間とは
  思っていなかったのだが>

 緑区へ
  参考・松巨島経由