鳴海潟と松巨島<南区>の鎌倉街道
 
鳴海潟は、海の干満の差が約2メートルとされ、 鳴海潟に囲まれた松巨島(まつこしま)<南区>は、京と鎌倉を連絡する街道の要所に
位置し、古代から東西交通の難所であった。 満潮時は渡し船で移動したと推測され、専ら舟渡し説で説明されてきた。
たまに干潮時は時間を気にしながら徒歩で移動したことが紀行文等に書かれている。
 <紀行文等を検討すると、ほとんどが干潮時の徒渉(かちわたし)を記録しており、改めて徒渡しを主眼に変更>
詳細が不明なので、下記「熱田旧記」を参考に、熱田神宮近接の「夜寒の里」と鳴海側は古鳴海(船着き場)を行程と推定した。
「宝暦二年(1751)の「熱田旧記」には、
 「往古の海道は古渡、高田村(瑞穂区)を経て古鳴海(緑区鳴海町古鳴海)、沓掛に架カリテ三河へ往来す。 汐干ノ時は熱田へ
 カカリ、二名橋(牛橋周辺)ヲ経てカチワタリ(徒渡り)也」
 
江戸時代の書き物であり陸地化が進展している。 だから中世時代からの伝承であるが、干満時ごとの対応が異なることに注目したい。
松巨島を通る主な街道ルート
旧街道のなぞに迫る・緑区(1)<平成17年10月加納 誠著>に「尾張洵行記」(文政5年)の内容が掲載されている.
 <上の道、出典:南区の歴史>
(1)古渡(又は熱田・高蔵宮)→→→大喜村(蛇塚・大悲堂)→→→本井戸田村→→→中根村(瑞穂区中根町)→→→
  夜寒(南区大堀、平子二丁目)→→→野並(旧字上野・聖松)→→→古鳴海→→→相原→→→二村山
<上の道のバイパス、出典:瑞穂区の歴史>
(1-2)北井戸田村→→→新屋敷村(南区外山町、鳥栖八剣社)→→→古鳴海
<中の道、出典:南区の歴史>
(2)熱田→→→山崎村(百毫寺・物見の松)→→→桜村(村上社)→→→古鳴海→→→相原→→→二村山
<下の道、出典:南区の歴史>
(3)熱田→→→山崎村(百毫寺)→→→長楽寺東→→→前浜通5と6の境界→→→笠寺(狐坂、笠寺観音)→→→
  三王山→→→相原→→→二村山
備考
  史料によれば、上記ルート以外に拠点を連結したコースが想定される。




 上の道
     
夜寒の里
宮崎通「平子橋」北部は、山崎川と天白川が近接する低地帯で
あった。 旧山崎村字夜寒の歴史がある。
西側から左に南区大堀町、外山町、正面は瑞穂区軍水町、
任所町、中根町です。


  梅野公園(天白区野並3)
上野山といわれ、山頂近くに目印となる大きな聖松(ひじりまつ)が
あった。 尾張名所図会にも「野並の梅」で山麓の梅畑の中央に
聖松が描かれいる。 この松は江戸時代中期まで二本あり、並松と
称されていたが、天保年間に1本枯れ、残りも昭和18年の暴風雨
で倒れたそうだ。
 
     
野並八剣社北側の鎌倉街道の遺構
八剣社は日本武尊、天照大神他7神を祀る。野並村が旧熱田
大神宮大宮司であった千秋家の領地であった関係から熱田神
宮にある八剣社の分身として当地に祀ったのが始まりである。
神社の北側に旅人の目印となった上野山の聖松に向かう鎌倉
街道の遺構がある、
  野並交差点の案内標識(天白区野並3)
八剣社西の野並交差点の一画に野並八剣社北側の鎌倉街道
遺構を案内する案内板がある。
 





 中の道
     
眉間山(みけんざん)百毫寺(びやくごうじ) <南区岩戸町3>
元亀二年(1571)の開基で、本尊は阿弥陀如来である。「尾張
名所図会」に「境内に桟敷(さじき)山」と称するあり。 むかし、
源頼朝が上洛の時、休息ありし地なるがゆえ名付けたという。
頼朝が旗を掛けたと「旗掛けの松」があったといわれるが、昭和
35年に落雷で倒れる。 幹回り約7.5mもあり、「源頼朝旗掛
松」と書かれた石柱があったが、木もないのに石柱があるのは、
おかしいとのことで、無関係な呼続公園の大きな松の傍に置き
換えられた。 松がなくなっても、そこの歴史を示すために、「本
来の場所に石碑が必要」と鎌倉街道ファンは思っている。
  鎌倉街道中の道
百毫寺入口の右(北)の「中の道」。松巨嶋の高台を
進んできた道が船乗り場があった海岸目指して下って
いる。





 
     
年魚市潟勝景の碑<百毫寺境内>
昔、松巨嶋と呼ばれていた頃の笠寺台地は、海面か
らの高さが十メートル前後、南北が約3.3キロ、東西
が約1.5キロで南に行くほど幅が狭くなった、くさび形
の島状の台地である。
松巨嶋の周囲は遠浅の海で、年魚市潟と呼ばれ、景
勝の地で和歌等に多く読まれた名所であった。
大正9年、愛知県より文化名勝の地として、境内の見
晴らしのよい場所に、景勝の碑が建てられた。
  万葉歌碑<百毫寺境内>
「年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝こぐ舟も
沖に寄る見ゆ」 万葉集
・・・年魚地潟は潮がひいたらしい。知多の海辺の舟も
、沖の方に見える・・・
 
「年魚市」は「あいち」と転じ、県名の語源となったとい
われる。

     
黒田清綱(くろだきよつな歌碑<百毫寺境内>
大正天皇即位の時、大嘗祭式場の屏風に年魚市潟と桜田の
絵が描かれた。 その時、清綱公が「わたつみの 神もほぐらし
年魚市潟 ちたの浦なみ千代の声して」
の自作の歌を書かれたので、年魚市潟が世に知られるように
なった。 大正9年愛知県より文化名勝の指定を受け、写真の
歌碑を呼続村有志が建立した。
  春風塚(はるかぜつか)<百毫寺境内>
「春風や 戸部山崎の やねの苔 はせを」
この句は、松尾芭蕉が西国にくだる途中、山崎村・戸部村をすぎ、
百毫寺あたりで休憩したときに詠んだ句といわれている。
草屋根やかやぶき農家が並んだ東海道の様子が偲ばれる。
**江戸時代の東海道が百毫寺東を通っていた**
     
海底山地蔵院<南区呼続3>
真言宗の寺院で京都醍醐寺の末寺で室町期の創建と伝わる。
東海道と鎌倉街道が交差する場所にある。



  湯浴(ゆあみ)地蔵尊
「尾張名所図会」ではご本尊の鉄地蔵は「湯浴地蔵尊」
の名で紹介されている。元久2年(1205)5月24日、北
井戸田村の呼続の浜に現れ、お湯で洗った伝承があり
、近隣の信仰を集めた。慶長年間(1596〜1615)に
この地に移された。
 
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梅林山 黄龍寺(ばいりんざん おうりゅうじ) <南区呼続3>
応仁2年(1468)、大雲山
龍玄寺として創立されたが、宝暦八年
(1758)黄龍寺と改めた。 この寺に菅原道真自筆自画像が
ある。 文禄元年(1592)後陽成天皇の皇后より菅原道真自
筆自画像等が熱田の誓願寺に安置された。 「尾張洵行記」に
書かれている由来記によると、誓願寺二代目の照山慶光上人が
夢のお告げにより、黄龍寺に遷座したという。
  笠寺道・名古屋道の道標<南区元桜田1>
桜本町交差点東南1本目の道奥に道標がある。 近くで庭木の
手入れをしてる方にお聞きしたら、昔は笠寺に向かう利用者が多く、
建立されたのである。 当初は道側にあったが、車にあたり折れ
たが、少し位置を変え復旧したそうである。
鎌倉街道が通っていたことをご存じで、山崎村ウォーキングを
見せていただきました。 私もいただいて、持っていることや「鎌倉
街道は、ここをやや南寄りに進んでいたが都市計画で、痕跡も
なくなっている」とのお話であった。
     
村上社(むらかみしゃ)の楠<南区楠町>
樹齢約千年といわれ、根廻り 13.2m、樹高 20mの楠。
中世時代も、年魚市潟を渡り舟や徒歩の旅人の目印となって
いた。
  万葉歌碑<村上社境内>
 
「桜田へ鶴(たず)鳴きわたる 年魚市潟 潮干(しおひ)にけらし 
  鶴鳴きわたる」       万葉集(高市連黒人)

・・・鶴が餌を求めて鳴きながら潮が引いた桜村の沖の年魚市潟へ
  向かって行く光景を見て歌ったものであろう。
    ・・・
 名古屋市設置の説明版より引用
     
熊野三社(くまのさんしゃ)<南区呼続2>
永禄年間(1558〜)の山崎城主佐久間信盛が城の守護神と
して、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)伊邪那美大神(いざ
なみのおおかみ)、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおきみ)を
祀ったのが始まりである。 寛永4年(1627)、山崎村民
の総鎮
守社として現地に移された。境内に樹齢800年といわれる、幹回り
約5mの楠の神木がある。
  松巨嶋の手水鉢<熊野三社境内>
当時の旧家・三宅氏(山崎家)の氏神の嵯峨野神社にあったものを、
明治期に熊野神社に合祀の際に移された。
背面に 
 明和3(1766)丙犬歳 5月吉辰
 願主 三宅徳左衛門 年定 と銘がある。
昔はこのあたりを「松巨嶋」と称された由来を伝えている。
 




下の道
このルートは、百毫寺東から南下し、笠寺観音の南を巡り、狐坂の急坂を経て、後世の東海道笠寺一里塚横に出る道である。 ここから
年魚市潟を渡り、対岸の三王山の下に上陸後、丘陵を登り、嫁が茶屋(現在の伝治山交差点)で北の野並・古鳴海と南の相原からの
街道に合流していた。
 
     
長楽寺の正門<南区呼続4>
811(弘仁12)年、弘法大師(空海)がこの地に巡礼しており、夢の
お告げによって、この呼続(よびつぎ)の浜に七堂伽藍(しちどう
がらん
)
を創建され、真言宗戸部道場 寛蔵寺と名付け、清水
叱枳尼眞天
(しみずだきにしんてん)
を鎮守神として安置した。
この清水叱枳尼眞天は、現在、当山の清水稲荷殿に祀られて
いる。 その後、寺は一山十二坊を有する大寺になったが、
1470年頃(文明の頃)に衰微してしまう。  それを当山2世の義山
禅師が再興、宗派も曹洞宗に改宗し、第1世の明谷禅師を中
興の開祖として、寺名を現在の長楽寺(ちょうらくじ)と改めた。
・・・長楽寺ホームページより引用

動物霊園もあり、参拝者を多くみるように思われる。
  長楽寺前の街道遺構<南区>
白毫寺東を南下した鎌倉街道下の道は、現在は遺構がないが、
薬師通の呼続小学校と新郊中学校の間の道から長楽寺前、富部
神社の横までに遺構を見ることができる。








     
富部神社<南区呼続4>
慶長11年(1606)、徳川家康の四男・松平忠吉<清須藩主>
の病気平癒を祈願して津島神社の牛頭天王を勧請したのが
始まりである。
祭神は須佐之男命(牛頭天王)で明治に、田心(たごり)姫命、
端津(たぎつ)姫命、市杵(いちき)姫命、菊理姫命を合祀した。
本殿は慶長当時の形態を今に伝え、特に正面の蟇股(かえる
また)、屋根の懸魚(けぎょう)、桁隠(けたかくし)等によく桃山
時代の特徴を備えており、国の重要文化財に指定されている。
祭文殿と回廊は市の指定文化財となっている。

  天林山笠履寺(りゅうふくじ)<南区笠寺町>
通称、笠寺観音とよばれている真言宗のお寺。尾張4観音の一つ。
天平年間(729年頃)禅光上人の開基で十一面観音を安置する。
初め小松寺と称していたが、延長8年頃(930)藤原兼平(ふじわらの
かねひら)が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。
寺伝に、
「雨ざらしでびしょぬれだった観音さまを見て、自分がかぶっていた
笠をかぶせた彼女は、京からやってきた青年貴族・藤原兼平公にみそめ
られ、長者の家で仕えていたところから、京に召され、兼平公と結ばれ、
玉照姫(たまてるひめ)と呼ばれる事となった。」話が伝わり、山号にな
っている。
     
狐坂の西入口<南区粕畠町1>
前浜通が名古屋鉄道名古屋本線高架下を約50m過ぎた
東に入口の坂がある。
  狐坂<南区笠寺町>
笠寺一里塚傍の狐坂。東側に地蔵堂があり、左に弘法井戸が有るが、
詳細は不明である。 
先の「中切公民館」でT字路となり左(南)に曲がり、
次の四つ角を右に折れると西入口まで道なりで行ける。
     
桜田八幡社<南区呼続町>
見晴台近くの春日野小学校の東にある。 また境内に「神影流 
桜棒の手発祥の地」碑が建っている。
<昭和31年6月 愛知県無形民俗文化財指定>
  万葉歌碑<八幡社境内>
「桜田へ鶴(たず)鳴きわたる 年魚市潟 潮干(しおひ)にけらし
 鶴鳴きわたる」      万葉集(高市連黒人)
・・・村上社の歌碑と同じ内容です・・・
     
千句塚公園と猪畑稲荷大神社<南区緑区片平>
三王山に右の千鳥塚と猪畑稲荷社境内、小公園として整備
されている。

 
  千鳥塚<千句塚公園>
貞享四年(1687)11月、寺島安信宅での歌仙
「星崎の闇を見よやと鳴く千鳥」の巻が満尾した記念に建立した
もので、文字は芭蕉の筆である。 芭蕉存命中に建てられた唯一の
翁塚であり俳文学上、稀有の遺跡といってよい。
・・・市設置解説版より引用
 



主な参考資料
   ・松巨島
(まつこじま)<平成14年8月発行 著者 片山鐘一>
   ・旧街道のなぞに迫る<平成17年10月8日発行 著者 加納 誠>
   ・新修 名古屋市史<平成10年3月31日発行 名古屋市>
   ・名古屋の古道とその開拓<昭和46年3月5日発行 名古屋市教育委員会>
   ・南区史<昭和54年3月31日発行 名古屋市南区役所>
   ・南区の歴史<昭和61年4月10日発行 著者 三浦俊一郎>
   ・緑区の歴史<昭和59年11月30日発行 著者 榊原邦彦>
   ・天白区の歴史<昭和58年12月10日発行 著者 浅井金松>
   ・南区史跡散策路<平成20年1月 三刷 名古屋市南区役所>
   ・瑞穂区史跡散策路<名古屋市教育委員会 名古屋瑞穂区役所>
  
  ・熱田風土記(中巻)