参考<鳴海潟と松巨島<南区>の鎌倉街道>
 
松巨島を通る主な街道ルート
旧街道のなぞに迫る・緑区(1)<平成17年10月加納 誠著>に「尾張洵行記」(文政5年)の内容が掲載されている.
 <上の道、出典:南区の歴史>
(1)古渡(又は熱田・高蔵宮)→→→大喜村(蛇塚・大悲堂)→→→本井戸田村→→→中根村(瑞穂区中根町)→→→
  夜寒(南区大堀、平子二丁目)→→→野並(旧字上野・聖松)→→→古鳴海→→→相原→→→二村山
<上の道のバイパス、出典:瑞穂区の歴史>
(1-2)北井戸田村→→→新屋敷村(南区外山町、鳥栖八剣社)→→→古鳴海
<中の道、出典:南区の歴史>
(2)熱田→→→山崎村(百毫寺・物見の松)→→→桜村(村上社)→→→古鳴海→→→相原→→→二村山
<下の道、出典:南区の歴史>
(3)熱田→→→山崎村(百毫寺)→→→長楽寺東→→→前浜通5と6の境界→→→笠寺(狐坂、笠寺観音)→→→
  三王山→→→相原→→→二村山
備考
  史料によれば、上記ルート以外に拠点を連結したコースが想定される。




 上の道
     
夜寒の里
宮崎通「平子橋」北部は、山崎川と天白川が近接する低地帯で
あった。 旧山崎村字夜寒の歴史がある。
西側から左に南区大堀町、外山町、正面は瑞穂区軍水町、任所
町、中根町です。


  梅野公園(天白区野並3)
上野山といわれ、山頂近くに目印となる大きな聖松(ひじりまつ)があった。
尾張名所図会にも「野並の梅」で山麓の梅畑の中央に聖松が描かれ
いる。 この松は江戸時代中期まで二本あり、並松と称されていたが、
天保年間に1本枯れ、残りも昭和18年の暴風雨で倒れたそうだ。
 
     
野並八剣社北側の鎌倉街道の遺構
八剣社は日本武尊、天照大神他7神を祀る。野並村が旧熱田大
神宮大宮司であった千秋家の領地であった関係から熱田神宮に
ある八剣社の分身として当地に祀ったのが始まりである。
神社の北側に旅人の目印となった上野山の聖松に向かう鎌倉
街道の遺構がある、
  野並交差点の案内標識(天白区野並3)
八剣社西の野並交差点の一画に野並八剣社北側の鎌倉街道遺構を
案内する案内板がある。
 





 中の道
     
眉間山(みけんざん)百毫寺(びやくごうじ) <南区岩戸町3>
元亀二年(1571)の開基で、本尊は阿弥陀如来である。「尾張
名所図会」に「境内に桟敷
(さじき)山」と称するあり。 むかし、源
頼朝が上洛の時、休息ありし地なるがゆえ名付けたという。
頼朝が旗を掛けたと「旗掛けの松」があったといわれるが、昭和
35年に落雷で倒れる。 幹回り約7.5mもあり、「源頼朝旗掛松」
と書かれた石柱があったが、木もないのに石柱があるのは、おか
しいとのことで、無関係な呼続公園の大きな松の傍に置き換えられ
た。 松がなくなっても、そこの歴史を示すために、「本来の場所に
石碑が必要」と鎌倉街道ファンは思っている。
  鎌倉街道中の道
百毫寺入口の右(北)の「中の道」。松巨嶋の高台を進んできた道が
船乗り場があった海岸目指して下っている。





 
     
年魚市潟勝景の碑<百毫寺境内>
昔、松巨嶋と呼ばれていた頃の笠寺台地は、海面からの高さが
十メートル前後、南北が約3.3キロ、東西が約1.5キロで南に行く
ほど幅が狭くなった、くさび形の島状の台地である。
松巨嶋の周囲は遠浅の海で、年魚市潟と呼ばれ、景勝の地で和歌
等に多く読まれた名所であった。 大正9年、愛知県より文化名勝の
地として、境内の見晴らしのよい場所に、景勝の碑が建てられた。
  万葉歌碑<百毫寺境内>
「年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖に寄る見ゆ」
                                    万葉集
・・・年魚地潟は潮がひいたらしい。 知多の海辺の舟も、沖の方に
  見える・・・
 
*「年魚市」は「あいち」と転じ、県名の語源となったといわれる。

     
黒田清綱(くろだきよつな歌碑<百毫寺境内>
大正天皇即位の時、大嘗祭式場の屏風に年魚市潟と桜田の絵が
描かれた。 その時、清綱公が「わたつみの 神もほぐらし年魚市潟
 ちたの浦なみ千代の声して」の自作の歌を書かれたので、年魚市
潟が世に知られるようになった。 大正9年愛知県より文化名勝の
指定を受け、写真の歌碑を呼続村有志が建立した。
  春風塚(はるかぜつか)<百毫寺境内>
「春風や 戸部山崎の やねの苔 はせを」
この句は、松尾芭蕉が西国にくだる途中、山崎村・戸部村をすぎ、
百毫寺あたりで休憩したときに詠んだ句といわれている。 
草屋根やかやぶき農家が並んだ東海道の様子が偲ばれる。
**江戸時代の東海道が百毫寺東を通っていた**
     
海底山地蔵院<南区呼続3>
真言宗の寺院で京都醍醐寺の末寺で室町期の創建と伝わる。
東海道と鎌倉街道が交差する場所にある。


  湯浴(ゆあみ)地蔵尊
「尾張名所図会」ではご本尊の鉄地蔵は「湯浴地蔵尊」の名で紹介
されている。 元久2年(1205)5月24日、北井戸田村の呼続の浜に
現れ、お湯で洗った伝承があり、近隣の信仰を集めた。慶長年間
(1596〜1615)にこの地に移された。
 
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梅林山・黄龍寺(ばいりんざん おうりゅうじ) <南区呼続3>
応仁2年(1468)、大雲山
龍玄寺として創立されたが、宝暦八年
(1758)黄龍寺と改めた。 この寺に菅原道真自筆自画像がある。
文禄元年(1592)後陽成天皇の皇后より菅原道真自筆自画像等が
熱田の誓願寺に安置された。 「尾張洵行記」に書かれている由来
記によると、誓願寺二代目の照山慶光上人が夢のお告げにより、
黄龍寺に遷座したという。
  笠寺道・名古屋道の道標<南区元桜田1>
桜本町交差点東南1本目の道奥に道標がある。 近くで庭木の手入
れをしてる方にお聞きしたら、昔は笠寺に向かう利用者が多く、建立
されたのである。 当初は道側にあったが、車にあたり折れたが、少し
位置を変え復旧したそうである。
鎌倉街道が通っていたことをご存じで、山崎村ウォーキングを見せて
いただいた。 私も持っていることや「鎌倉街道は、ここをやや南寄りに
進んでいたが都市計画で、痕跡もなくなっている」とのお話であった。
     
村上社(むらかみしゃ)の楠<南区楠町>
樹齢約千年といわれ、根廻り 13.2m、樹高 20mの楠。
中世時代も、年魚市潟を渡り舟や徒歩の旅人の目印となって
いた。
  万葉歌碑<村上社境内>
 
「桜田へ鶴(たず)鳴きわたる年魚市潟潮干(しおひ)にけらし 
  鶴鳴きわたる」       万葉集(高市連黒人)

・・・鶴が餌を求めて鳴きながら潮が引いた桜村の沖の年魚市潟へ
  向かって行く光景を見て歌ったものであろう。
    ・・・
 名古屋市設置の説明版より引用
     
熊野三社(くまのさんしゃ)<南区呼続2>
永禄年間(1558〜)の山崎城主佐久間信盛が城の守護神として、
伊邪那岐大神
(いざなぎのおおかみ)伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)、
熊野速玉大神
(くまのはやたまのおおきみ)を祀ったのが始まりである。 
寛永4年(1627)、山崎村民
の総鎮守社として現地に移された。
境内に樹齢800年といわれる、幹回り約5mの楠の神木がある。
  松巨嶋の手水鉢<熊野三社境内>
当時の旧家・三宅氏(山崎家)の氏神の嵯峨野神社にあったものを、
明治期に熊野神社に合祀の際に移された。
背面に 
 明和3(1766)丙犬歳 5月吉辰
 願主 三宅徳左衛門 年定 と銘がある。
昔はこのあたりを「松巨嶋」と称された由来を伝えている。
 




下の道
このルートは、百毫寺東から南下し、笠寺観音の南を巡り、狐坂の急坂を経て、後世の東海道笠寺一里塚横に出る道である。 ここから
年魚市潟を渡り、対岸の三王山の下に上陸後、丘陵を登り、嫁が茶屋(現在の伝治山交差点)で北の野並・古鳴海と南の相原からの
街道に合流していた。
 
     
長楽寺の正門<南区呼続4>
811(弘仁12)年、弘法大師(空海)がこの地に巡礼しており、夢の
お告げによって、この呼続
(よびつぎ)の浜に七堂伽藍)を創建され、
真言宗戸部道場 寛蔵寺と名付け、清水叱枳尼眞天
(しみずだきに
しんてん
)
を鎮守神として安置した。 この清水叱枳尼眞天は、現在、
当山の清水稲荷殿に祀られている。 その後、寺は一山十二坊を
有する大寺になったが、1470年頃(文明の頃)に衰微してしまう。 
それを当山2世の義山禅師が再興、宗派も曹洞宗に改宗し、
第1世の明谷禅師を中興の開祖として、寺名を現在の長楽寺
(ちょうらくじ)と改めた。 ・・・長楽寺ホームページより引用
  長楽寺前の街道遺構<南区>
白毫寺東を南下した鎌倉街道下の道は、現在は遺構がないが、
薬師通の呼続小学校と新郊中学校の間の道から長楽寺前、富部
神社の横までに遺構を見ることができる。






     
富部神社<南区呼続4>
慶長11年(1606)、徳川家康の四男・松平忠吉<清須藩主>
の病気平癒を祈願して津島神社の牛頭天王を勧請したのが
始まりである。
祭神は須佐之男命(牛頭天王)で明治に、田心(たごり)姫命、
端津(たぎつ)姫命、市杵(いちき)姫命、菊理姫命を合祀した。
本殿は慶長当時の形態を今に伝え、特に正面の蟇股(かえる
また)、屋根の懸魚(けぎょう)、桁隠(けたかくし)等によく桃山
時代の特徴を備えており、国の重要文化財に指定されている。
祭文殿と回廊は市の指定文化財となっている。

  天林山笠履寺(りゅうふくじ)<南区笠寺町>
通称、笠寺観音とよばれている真言宗のお寺。尾張4観音の一つ。
天平年間(729年頃)禅光上人の開基で十一面観音を安置する。
初め小松寺と称していたが、延長8年頃(930)藤原兼平(ふじわらの
かねひら)が堂宇を再興し、今の寺号に改めた。
寺伝に、
「雨ざらしでびしょぬれだった観音さまを見て、自分がかぶっていた
笠をかぶせた彼女は、京からやってきた青年貴族・藤原兼平公にみそめ
られ、長者の家で仕えていたところから、京に召され、兼平公と結ばれ、
玉照姫(たまてるひめ)と呼ばれる事となった。」話が伝わり、山号にな
っている。
     
狐坂の西入口<南区粕畠町1>
前浜通が名古屋鉄道名古屋本線高架下を約50m過ぎた
東に入口の坂がある。
  狐坂<南区笠寺町>
笠寺一里塚傍の狐坂。東側に地蔵堂があり、左に弘法井戸が有るが、
詳細は不明である。 
先の「中切公民館」でT字路となり左(南)に曲がり、
次の四つ角を右に折れると西入口まで道なりで行ける。
     
桜田八幡社<南区呼続町>
見晴台近くの春日野小学校の東にある。 また境内に「神影流 
桜棒の手発祥の地」碑が建っている。
<昭和31年6月 愛知県無形民俗文化財指定>
  万葉歌碑<八幡社境内>
「桜田へ鶴(たず)鳴きわたる 年魚市潟 潮干(しおひ)にけらし
 鶴鳴きわたる」      万葉集(高市連黒人)
・・・村上社の歌碑と同じ内容です・・・
     
千句塚公園と猪畑稲荷大神社<南区緑区片平>
三王山に右の千鳥塚と猪畑稲荷社境内、小公園として整備
されている。

 
  千鳥塚<千句塚公園>
貞享四年(1687)11月、寺島安信宅での歌仙
「星崎の闇を見よやと鳴く千鳥」の巻が満尾した記念に建立した
もので、文字は芭蕉の筆である。 芭蕉存命中に建てられた唯一の
翁塚であり俳文学上、稀有の遺跡といってよい。
・・・市設置解説版より引用
 



主な参考資料
   ・松巨島
(まつこじま)<平成14年8月発行 著者 片山鐘一>
   ・旧街道のなぞに迫る<平成17年10月8日発行 著者 加納 誠>
   ・新修 名古屋市史<平成10年3月31日発行 名古屋市>
   ・名古屋の古道とその開拓<昭和46年3月5日発行 名古屋市教育委員会>
   ・南区史<昭和54年3月31日発行 名古屋市南区役所>
   ・南区の歴史<昭和61年4月10日発行 著者 三浦俊一郎>
   ・緑区の歴史<昭和59年11月30日発行 著者 榊原邦彦>
   ・天白区の歴史<昭和58年12月10日発行 著者 浅井金松>
   ・南区史跡散策路<平成20年1月 三刷 名古屋市南区役所>
   ・瑞穂区史跡散策路<名古屋市教育委員会 名古屋瑞穂区役所>
  
  ・熱田風土記(中巻)