稲沢市内の鎌倉街道 
 
紀行文の折戸宿
  稲沢市内の鎌倉古道(街道)は一宮との境界となる青木川に沿って南北に往来し、ほぼ中間に折戸(下津)の宿があった。 濃尾平野の
中心となることから名古屋織田家が最初に城を築いた折戸であり、西部にあったとされる国府が一時、設置されたとの見方をする考えもある。
現在も街道の遺構沿いに、足利義満が宿泊した頓乗寺始め多くの寺院が残るが、青木川の対岸・一宮市丹陽町伝法寺に尾張地方で最初と
なる曹洞宗の補陀山正眼寺(しょうげんじ)が後小松天皇の勅命により応永元年(1394)創建され、雲水座禅する者が三千人にもなったという。
  後小松天皇、足利義満、義政の帰依厚く、斯波、織田、豊臣、徳川等の武将も信仰し、初代尾張藩主義直は時々訪れ、参禅したという。
この正眼寺は、青木川と五条川を東西に挟まれた地形から洪水に悩まされ、ついに元禄二年(1689)小牧市三ッ淵に移転している
十六夜日記
 
阿仏尼は、「廿日、尾張下戸(おりと)といふ駅(うまや)を行く」と簡潔に記録している。 この前後に宿泊地の記載がなく、中世紀行文の参考
資料等では一宮と解したり、触れない資料が多いが、廿日の日付記載から下戸宿泊としたい。
東関紀行には、特段の記述なし。
     
子生和橋<稲沢市子生和町>
三十八所社を南下し、墓地の中を進み、名神高速道路の土盛り
高架を東に移動し、最初の信号を右折、南下すると子生和橋は
直ぐである。 稲沢市と一宮市の間を流れる宮田用水に架かる。
稲沢市側の地名は子生和(こうわ)町である。 碑文は、「源平盛
衰記に源行家が下津宿に陣を敷き、この場所で決戦したと伝え」、
また「張州府誌に尾張藩主徳川義直がここの橋を架けたという」
内容である。
そして地名の由来は、照手姫がこの地で安産したという伝承に因む
とのことである




  三本池跡=赤池古墳石碑 <稲沢市赤池町>
街道は子生和橋が架かる宮田用水沿いに東に進み油田遺跡
経由、三本池(三本木池ともいう)となるが東海道線線路敷きの
ため、そのまま南に移動し、コンビニのある三差路を左折、地下
道を潜ると、県道名古屋一宮線の交差点となる。
三本池は県道沿い東側にある。 赤池という地名は、古来から泥
田で蓮が自生していた土地に多い名で、咲いた時の印象からと
いう説もある。 上流にあたる一宮市の真清公園の東に幾枝にも
分かれ流れた場所を表す「柳戸」があったように、赤池も木曽川の
支流が乱流していたり、湿地帯が多く歩行も容易でなかったと思わ
れる。 中央の碑文には、池の脇を昔の鎌倉街道が通っており、三
本の大複があったが大風に倒れ無くなったと説明している。 そして、
この付近は鎌倉街道時代の休憩所的な場所ともある
     
八剣神社 <稲沢市上赤池町>
三本池からの先になる東側は田の中の農道しかない。名神高速
道路に平行移動し、上赤池の集落を回り込む曲線の場所に神社
がある。 古道は神社の東であるが、土地改良事業が行われて
おり、面影はない。 ただし西側は昔のままの景色で古道の雰囲
気を味わうことができる。  詳細は不明である。
  元西岸寺跡 <稲沢市上赤池町>
現地で探したが分からなく、見かけた地元の方に尋ねたら、西岸
寺関係者の方で、上記写真の石碑を教えていただいた。 八剣
神社と上赤池公会堂に挟まれた場所であった。 檀家が少ないため
寺を廃止し、本堂を撤去し土地は児童公園として活用してもらうため
市に寄付し、整備中であった
     
金龍寺(曹洞宗 <稲沢市赤池北町>
八剣神社すぐ南の交差点にある日軽物流の倉庫の南東に位置す
るため、倉庫を回る込と金龍寺の裏手に出ることになる
稲沢市史によると、草創年歴不伝。昔、金久寺と称せしが、享保
十八年金龍寺と改号



  等樹寺及び白山神社 <稲沢市赤池町>
古道は金龍寺前を赤池北町の郷中を南進するが、狭くて曲がり
くねっており、初めての方には困難である。 直ぐ東に出ると新し
い県道ができており、等樹寺まで直線で約5百mで行ける。 県
道井ノ口江南線下津小学校北側交差点にある。
交差点から見えるのは白山社の社標が目印となる。 日蓮宗等
樹寺は左の道から奥に進んだ裏手にある。 稲沢市史によると、
以前は光明寺と号し臨済宗、天明二年改宗今の寺号に改める
     
推定鎌倉街道経路 <稲沢市下津町周辺>
この地図は、「稲沢の街道T」<鎌倉街道と岐阜街道>(平成11年
3月稲沢市教育委員会発行)のP14掲載の古地図である。
一番上に下津城趾があるが、その右側に県道が
建設され、その右
に「下津小学校」も建設されている。
県道は、下津地区の外線をほぼ直線で南下している。
鎌倉街道は、旧五条川とある青木川に沿って曲線で南下している。
下津の集落の中央を岐阜街道が通っていた。


  下津(おりづ)城址 <稲沢市下津蛇池町>
等樹寺のある交差点から南に約2百m先の下津小学校横の歩行
者用信号近くの西側沿いにある。
碑文は、
尾張守護代織田敏廣の居城であって永亨四(1432)足利義教も
宿泊したという。 文明八年(1476)、敏廣は弟敏定に敗れ、城が
焼かれて滅んだ。 と書かれている。
前野家文書によると、織田信長の一族は、応永五年(1398)尾張
守護職斯波義郷の時代に越前国織田の庄より織田常松が守護
代として弟常竹とともに入国したのが始まりであり、応永七年(1400)
には下津城の記述があるという。 時が代わり、宝徳三年(1451)
織田敏広は父常松に代わって下津城主となっていた。 守護の斯波
家で義敏、義廉の相続争いが起き、織田家でも敏広、敏定に分かれ
て相続争いが続いたが、文明十一年(1477)敏広は尾張の上を領
して岩倉に、敏定は下を領して清須に居住した。 織田信長の統一
された家系図はないが、清州の分家・勝幡城の城主・信秀の子で
あり、清州及び岩倉を滅ぼして、尾張を統一し、全国制覇した。
     
鎌倉街道跡石碑 <稲沢市下津町(おりづちょう)
古道は、先の城址付近から下津小学校グランドを横切り、東南に
進み、住吉神社西に到っていた。 この付近は古くは平安時代から
宿駅として利用されてきたが、特に鎌倉街道の折戸
(おりど)宿として
繁栄した。
東下りの阿仏尼が十六夜日記の中で「廿(20)日、下戸宿を出て
行く」と宿泊した当日のことが書かれている。

<十六夜日記>尾張路 ー 一の宮より鳴海潟まで(2)
 廿日、尾張国下戸
(おりと)の駅(うまや)を出て行く。 
 避(よ)きぬ道なれば、熱田の宮へ参りて、硯取り出でて
 書きつけ奉る歌、五つ。
<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 二十日、尾張国
(おわりのくに)下戸(おりと)の駅(うまや)を出発して行く。
 ちょうど道筋に当たるので、熱田の宮に参拝して、硯を取り出して
 書きつけ、奉納した歌、五首。 
  鎌倉街道跡付近の景色<稲沢市下津町・一宮市丹陽町>
青木川の正面に下津小学校の白い屋内運動場が見える。 学校
西に織田氏の最初の拠点となった下津城跡がある。 鎌倉街道は
青木川の西岸、小学校の中央を縦貫していたと伝わる。 青木川は
改修されたが、まだ曲がっている印象が強い。(平成31年4月撮影)

十六夜日記関連<私見>

「稲沢の街道T」<鎌倉街道と岐阜街道>P25に阿仏尼の行程
及び宿泊地が掲載されている。
ここでは、19日一宮泊とされ、「おりと」は通行地扱いである。
十六夜日記で日付がある当日は阿仏尼が宿泊した日であり、「宿
した」文言は無いが下戸に宿泊したと思える。 また、十六夜日記
の中で二十日前後の行程は下記のとおりであるが、下津宿以外に
宿した記述がないことも下津に泊したと信じる根拠である。
参考
 
十九日 笠縫(岐阜県大垣市笠縫町)
 二十一日 八橋(愛知県知立市)
 
     
住吉神社(下津保育園西)<稲沢市下津町>
鎌倉街道石碑はこの神社の西に立っている。


  住吉神社「湯の花神事」<稲沢市下津町>
住吉神社例祭として、 毎年10月26日、神主が笹葉を湯に浸して
から釜の周りを振り清める。(平成19年10月撮影)
     
曹洞宗頓乗寺(とんじょうじ) <稲沢市下津片町>
寺伝によれば、貞和(じょうわ)3年(1347)僧明貞が自ら浄財を喜捨
して開基となり、現在の住吉神社の東、鎌倉街道に沿って創建した
という。 旧字名で「旧跡」と呼ばれていた。 当時は時宗の寺で
あったが、後に荒廃して寛永七年(1630)正眼寺十六世天山和尚に
よって再興され、禅宗(曹洞宗)となった。 その後、享保元年(1716)
火災にあって焼失、これを機に翌年、現在地に移転したものである。
元中五年(1383)足利義満が関東館管領の状況を探るため富士遊
覧に行ったが、その往路で当寺に宿泊している。
  曹洞宗廣幢寺(こうどうじ) <稲沢市下津二本杉町>
住吉神社の東南、旧頓乗寺跡地を挟んだ場所に位置する。亨禄
二年(1529)天山和尚の草創。街道は寺の東を流れる青木川沿い
に南下する。




     
天台宗円光寺<稲沢市下津土山町>
寺伝に養老7年(723年)伊勢国安濃津城主志摩刑部益信が聖徳
太子自作の聖観音像を奉じて七堂伽藍を創建したと伝わる。 鎌倉
時代建久年間(1190年代)には山田郡23村を寺領とするほど栄え
たが、戦国時代文明三年(1471)の尾張守護斯波義廉と織田敏定
の争いにより堂宇を焼かれ、同年5年に再建されたが、その後も焼
失と再建を繰り返す。 弘長二年(1262)創建と伝えられる仁王門
(上記写真)は罹災を免れ今日に至っている。
  真宗大谷派円通寺<稲沢市下津町>
丹羽郡川井村(岩倉市川井町)出身で比叡山僧院の住職定宗
法印が開基で、延元二年(1337)、故郷に天台宗の霊照院を創建
したが、天文九年(1540)第九代の唯念の時、真宗に改め、円通
寺と称し、翌十年川井村から下津に移ったといわれる。



     
真宗大谷派阿弥陀寺<稲沢市下津町>
延応元年(1239)伊勢国安濃津の僧祐範が霊夢により国府の阿弥
陀をこの地に安置したのが始まりと伝えられる。 はじめは、曩謨
(のうまくじ)と称し、真言宗に属していたが、文明年間(1469〜87)
住職良増が蓮如上人の教化により真宗に改めた。
永禄五年(1562)織田信長から裁訴状を受けた頃は七堂伽藍の整
った大寺院であったが、元亀元年(1570)長島の一向一揆の際、焼
き打ちに遭い衰微し、その後、復興された
  日蓮宗妙長寺<稲沢市下津下町>
詳細は不詳。
古道は円光寺、円通寺の東の狭い市道を南下し、県道を渡り、
妙長寺の東あたりで西に向きを変え、稲垣医院の北側から県道
名古屋一宮線を横断し、旧稲沢操車場近くに進むことになるが、
稲垣医院から県道まで道が無い。
先にある井ノ口交差点を斜めに進む道(岐阜街道)約5百m先に
日吉神社がある
     
東海道本線と旧稲沢操車場 <稲沢市井之口町>
鎌倉街道は稲沢市と一宮市内でも交差している。 八百年前と現代
でも交通経路選定に相通ずるものがあるようだ。 旧操車場用地は
かなり縮小され、働く人も激減し、当時の面影は、ほとんどない。
参考
稲沢操車場は、国鉄時代の吹田、新鶴見の三箇所で日本三大操車
場と称された。 ここで全国に向けて貨車が編成され、出発した
  日吉神社<稲沢市井之口町>
由緒等不明であるが、境内に大明神社、御嵩神社、井ノ口稲荷
社が祀られている。
大明神社は、数百年前に大洪水で貴船神社(水の神)のご神体が
流れついたので、日吉神社の北側に祀ったと伝えられているが、
<祈雨、止雨の神>として合祀されている
     
四ツ家追分の鎌倉街道 <稲沢市六角堂東町>
日吉神社西の古道は直ぐに東海道本線を潜る地下道入り口の坂
道となる。 その道を左折し、直ぐに出口となる三差路を右折し、約
八百mで追分交差点に出る
写真の左から来て、正面に古道の入口が建物の間に見える。 右
から左の道は、美濃路である

追分を出た鎌倉街道は、真っ直ぐ民家の間の古道を進むが平成
31年4月下旬、建物が撤去され、様子が大きく変わっているのに
遭遇した。 古道の雰囲気は今はなく画像掲載は止めにした。
  「稲沢の街道T」<鎌倉街道と岐阜街道>(平成11年3月稲沢市
教育委員会発行)のP17掲載の古地図である。

美濃路と分かれている四ツ家追分の位置関係が分かる。 六角堂
の左(西)を鎌倉街道、右(東)を美濃路、岐阜街道が見える。
追分から上(北)に進む点線は、江戸時代、名古屋と岐阜を連絡して
いた岐阜街道である。 将軍献上の鮎鮨が運ばれ「鮎鮨街道」、
「御鮨街道」とも呼ばれていた。
     
興化山(こうげさん)長光寺稲沢市六角堂東町>
臨済宗妙心寺派寺院である。 応保元年(1161)平頼盛の寄進で
建立され、延元三年(1338)足利尊氏が復興し、法相宗
(ほっそうしゅう)
真言宗と変遷したが、明応八年(1499)に再興された時に臨済宗に
転じたという。
 鎌倉古道の反対側、東の美濃路に面した長光寺の
山門。山門の両脇に仁王が安置されている
  六角堂稲沢市六角堂東町>
山門と本堂の間にある六角堂。中には、鎌倉時代の鉄造地蔵
菩薩(汗かき地蔵)が安置されている。  国家に一大異変あれば、
全身に汗をかかれ、汗かき地蔵さまと言われた。
六角堂及び地蔵菩薩とも国指定重要文化財の指定を受けている。


     
臥松水 <稲沢市六角堂東町>
本堂南奥にある「臥松水」(がしょうすい)は織田信長公お気に入りの
井戸であったと言われている



  浅野長勝宅跡 稲沢市六角堂東町>
長光寺南にある豊臣秀吉正室ねねの義父である浅野長勝屋敷
跡である。 長光寺西の墓地脇を通過した古道は寺の南に進み、
浅野長勝屋敷跡を通り過ぎ、南に向きを変え清州駅方面に進む。 
清州駅手前から東海道線を横断し西側のアラクス工場を斜めに横断し
旧清州町廻間に到る



清須市及びあま市(旧甚目寺町)の鎌倉街道
紀行文の萱津宿
長光寺前を南下した古道は、JR清州駅付近からアラクス工場を斜めに縦断し西南し進み、東海道新幹線高架敷地を越え東西名阪高速道路下、
廻間交差点の地下道を登りと廻間八幡社の西に出る。 その北隣が正願寺となる。街道は正願寺の東を南進したらしいが、都市計画により旧
道の遺構はまったくない。 南進先の東勝寺、岩清水八幡宮までは、旧市街地で狭い路地を探しながら進むことになる。 大吉寺から旧甚目寺町
の上・中・下萱津の古道はほぼ一本道で、探索は容易といえる。 概ね、五条川の右岸(西)を辿る経路となる。 平安時代は海岸が中萱津で
あったので、萱津神社の漬物神事に因む塩とか伊勢の漁師・甚目龍麻呂が海中より網でかけた甚目寺観音の聖観音菩薩像等現在は内陸部で
ありながら海に関する事柄が残されている。 この海岸線は、鎌倉・室町時代では下萱津付近であったとされる
そして、萱津は鈴鹿峠越の東海道と美濃経由の東海道(鎌倉古道)が合流する宿として発展してきたので、紀行文での記載も多くある。 鈴鹿
越の東海道を来た「海道記」も萱津から鎌倉古道(街道)を利用しているが、これ以降は美濃経由の古道が中心となった
海道記は、「4月7日に萱津の宿に泊まり、8日萱津を出発、鳴海浦に来た」と簡潔に記録してある。
東関紀行は、庄内川の対岸の「萱津東宿」の賑わいをリアルに記録しているが、詳細は次ページでご紹介します。
十六夜日記は特段の記録なし
     
八幡社 清須市廻間(はざま)1>
社歴などは不明であるが、稲沢方面から行く場合、西市場四交差
点を直進し、地下道を上がった左手に位置する。 鳥居の左に東
名阪の高架が見える
  正願寺(真宗大谷派) <清須市廻間1>
八幡社の北に位置する。街道はこの正面を南北に通過していた
ようだ。 現在は都市計画により古道の姿はまったく見られない
     
東勝寺 清須市廻間1>
創建は久寿二年(1155)と伝えられる。永享四年(1432)八月将軍
足利義教
(よしのり)富士遊覧(独立的な動きをみせる鎌倉公方足利
氏への牽制)の途次、この寺に詣るとの記録がある。





  岩清水八幡宮 <清須市土田>
東勝寺を出てから、県営清州住宅を抜け名鉄名古屋本線に突きあたり、
歩行者用の小さな踏切を渡り、土田
(どた)地区となる。 少し進むと目前に
鎮守の杜が見え、西側から神社正面に向かう

土田八幡宮由緒記によると、建久元年(1190)、源頼朝は土田あたりで
眼病に罹り、眼医の治療を受け完治した。 このとき竹藪の中に白鷹が
いるのを見て、霊感を受け、山城国(京都府八幡市)の石清水八幡社を
勧請して造られた。 一時、荒廃したが、松平忠吉が清洲城主のとき社
領を与え再興した。
     
富士見山大吉寺(曹洞宗) <清須市土田>
石清水八幡宮の東南に位置し、北側に進む場合、探し難いが交差
点の一角に右の写真の地蔵堂が目印となり、この位置から西北に
大吉寺がある。 創建は久寿二年(1155)とされ、永亨11年(1439)
八代将軍足利義教富士山への途次、この寺に詣でるとの記録がある
  地蔵堂 <清須市土田>
街道の中心に位置する地蔵堂。中には6面に仏様が彫られている
が、詳細は不明である。 (大吉寺の南東にあたる)正面先が、清須
市廻間、後(南)があま市甚目寺と連絡する

     
善通山宝満寺 <あま市甚目寺西今宿>
詳細は不明

  金山神社 <あま市甚目寺西今宿>
約600年前、斯波氏が清須に築城のころ、武器を作る鍛冶師らを
住まわせ、神社を勧請した。 以前のご神体は金属製の神像であ
ったが、紛失したので更に南宮大社から勧請したという
     
説教源氏節碑 <あま市甚目寺西今宿>
人形浄瑠璃の一種で、現代の人形劇とほぼ同じである。大阪で始
まった源氏節を幕末のころ、岡本美里太夫が名古屋に、そして当地
へ伝承し、大正時代にかけて、西今宿を中心に盛んに行われ、各地
へ招かれる時代もあった。 しかし6代目服部松治氏で絶えてしまい、
現在は有志により復活されている。
この碑は、大正3年11月に四代目の岡本美寿清太夫が発起人と
して建てたものです。 場所は、金山神社前を西進する道に面した
民家の庭にあり、探すのに苦労しました。
(最近、場所を移動したという情報を入手したが詳細は不明です)
  竹生島神社 <あま市甚目寺西今宿>
その昔、江州(滋賀県)に住む長者の娘「小夜姫」が世をはかなんで、
出家し当地に安住し、その没後、彼女の信心していた守り本尊を奉斉
した伝説がある。
・・・「みてあるき」(甚目寺町教育員会作成)のガイドマップより引用





     
法界門橋北の鎌倉街道 <あま市甚目寺西今宿>
西今宿を直進してきた古道は、甚目寺幼稚園付近から左に曲がり
堤防道路に出る。道は直ぐに名鉄津島線の踏切となる
 


  萱津神社 <あま市甚目寺上萱津>
法界橋を過ぎた古道は、直ぐに萱津神社の前に到る。神社は堤防
道路の下にある。 古道は、ここから堤防下の道となる。
御祭神は、鹿屋野比売
(かやぬひめ)で、漬物発祥の地、漬物祖神、良
縁の神として崇敬を集めている。 神社付近の森は「阿波手の杜」と
呼ばれ、大和武尊と宮簀媛命
(みやずひめのみこと)がここで再会できなかった
ことから、この森を「不遇の杜(阿波手杜)と呼ばれるようになったという
     
萱津神社「香の物殿」・・・H21.8.21撮影
萱津社は全国唯一の漬物の神様として知られ、毎年8月21日に
「香の物祭(漬物祭)」が行われ、全国から大勢の漬物業者が参
拝し、賑わっている

境内石像碑文
萱津社は、野の神カヤヌヒメを祭神とし、人々は野菜と塩をお供
えしていたところ、ほどよい塩漬物が誕生したという。 その後、
当地を訪れたヤマトタケルが「藪に神物(こうもの)」と称え、それ
が漬物をあらわす「香の物」となったという。
・・・「平成4年4月 彫刻家長房一洋
 

  漬物の野菜など
「香の物祭(漬物祭)」は、瓜、ナスビ、白菜などが4地区から奉
納され、「香の物殿」の前で神事の後、漬物甕(かめ)に納めら
れ、出来た漬物は熱田神宮に奉納される。 写真のナスの上の
野菜は、柳蓼(たで)あり、どこにでもある一年生の草であるが、
辛み、苦味があり、薬味、腐敗防止の効果があると言われている。
当日、お許しを得て味見を行うことができ、独特の風味を体験し、
「蓼食う虫も好き好き」という例え話が実感できた。
*「辛いを食べる虫も居るように、人の好みは様々で、 他人
  には理解しがたい場合もある」ということ・・・H21.8.21撮影
 
   
正法寺と鎌倉街道案内板 <あま市甚目寺上萱津>
寺伝では正法寺は、天平勝宝年中(7491〜756)萱津神社の社
僧といわれている。 その後、元和元年(1615)峰慶呑和尚が中
興となり、曹洞宗に改めたとされる。
萱津の宿を北進した鎌倉街道は、萱津神社南にある正法寺を
東に折れ、堤防に進むとされる 

  反魂香(はんごんこう)塚の石碑<あま市甚目寺上萱津>
奥州の信夫の里(福島県)から都の父(京の貴族・橋本中将)を訪
ねて若い夫婦、恩雄(やすたか)と藤姫が萱津の宿にたどり着いた
が、藤姫は長旅の疲れもあって病にかかり、十六歳の若さでこの
世を去ってしまった。 21歳の恩雄は薬師如来をもっていた藤姫を
ここに葬り、小庵を建てて回向することにした。 我が子藤姫の顔も
見たことがない父は、ここ萱津に来て恩雄が薬師如来を祀って藤姫
の冥福を祈っていることを知りました。 この仏は母が京から持って
いった守り本尊であることが分かり、死んだ藤姫が我が子であった
ことを知りました。
かって藤姫を弔った藤塚は、前方の新川沿いにある名古屋市清掃
工場付近にあったが、正法寺内墓地に移設された
   
正法寺の東厳和尚はこのことを知り、「反魂香」焚いて藤姫の美
しい姿を父に見せたと伝わります。
・・・尾張名所図会「反魂香」
<甚目寺町誌より>
  日蓮宗妙教寺<あま市甚目寺上萱津>
開基瑞応日静法尼は、俗姓佐久間氏で、夫君某氏事に座して切
腹して果てた。 法尼は夫君に殉ぜんとして自ら喉を刺したが果た
さず、雉髪染衣(会得の儀式)して各所を修業し、かつ托鉢して零
細な浄財を集め、今の名古屋市中村区米野町の観音堂を引き移
して、当庵を創立した
   
日蓮宗長正山妙勝寺 <あま市甚目寺上萱津>
弘法二年(1262)、日蓮の弟子、日妙の創建。尾張国日蓮宗濫?
の名刹で、かって末寺30余坊を有していた
 
  時宗横密山光明寺 <あま市甚目寺中萱津>
寺伝創建は弘安五年(1282)に一遍上人の直弟子遊行二世他阿
真教を開基とする。 その後、72僧寮が立ち並び萱津道場として
栄えた。 鐘楼門は寺記によれば、享保八年(1723)萱津屋武兵
衛の寄付で建立された。 豊臣秀吉が8歳から10歳まで預けられ
たという
     
富田荘絵図<萱津宿付近>
新修名古屋市史(平成10年3月発行)P318掲載の
中世萱津宿の絵図面。 中央右に分かれる道が
庄内川渡場に向かう道と推定されている。 分岐点の
左に光明寺が見える。
  萱津の渡し跡
承和二年(835)の太政官布告に「萱津の渡船を三艘に増やす」
記録があり、左の絵図面の対岸にある庄内川河川敷にある
テニス場の一画にある名古屋市の説明版。
当該場所の内側に新幹線の車両基地があり、地図上では探し易い
が、狭い堤防道路を利用するため危険であり、要注意である。
     
三島神社 <あま市甚目寺中萱津>
その昔、里人が、村の光明寺の本山である東海道藤沢の浄光寺
に参拝の折、伊豆の三島明神の分霊を勧請したものと伝えられて
おり、慶長13年検地の時は、すでに相当な社地を有しており、光
明寺の鎮守として鎌倉時代の鎮座と思われる
  日蓮宗長久山実成寺 <あま市甚目寺中萱津>
元応元年(1319)創建とされるが、弘安六年(1283)9月26日付
け寺領寄進の古地図(富田庄古地図)に明記されており、元応元
年より古くなるともいわれる。 本堂は織田敏秀(織田信長曾祖父)
が改修したと伝わる。 また山門(四脚門本瓦葺)は福島正則寄進
と伝わる 

本堂西に平安・鎌倉時代の宿でもあった
真奈長者屋敷跡があったと推定される。 甚目寺町誌は、この実
成寺又は北にある光明寺付近に初期の渡し場があったと推定して
いる
     
むしば地蔵 <あま市甚目寺下萱津>
弘宝永元年(1704)に造立、別名「虫歯地蔵」といわれ、煎り豆を
供えて「この豆の芽が出るまで虫歯が痛まぬように」と頼むと、一
生、虫歯が痛まない、といわれている。
 (平成20年12月撮影)


  月之宮神社 <あま市甚目寺下萱津>
今は、江戸時代に建設された新川堤防萱津橋際にある。それ以
前は、庄内川西岸の船着場とされている。 町史には、古老の口
碑によると大水の出た時に漂着した神様であるので、「着きの宮」と
いっていたのが月の宮となったという。 しかし本当は、「堤
(つつみ)
の宮」の訛ったものであるという説もあり、理にかなっているとして
いる。 そして、「築きの神」つまり堤防を守る神との解釈もある。
     
萱津の藤 <あま市甚目寺下萱津>
月の宮社直ぐ南にあるが、堤防工事により敷地が減少し見物人の
安全な受け入れ余地がないため、平成15年から非公開となって
いる



  宝泉寺 <あま市甚目寺下萱津>
弘仁年間(810〜823)創建とされる。その後、永和年中(1375〜
1378)兵火のため焼失、その後の仮堂も水害にあい、元文四年
(1739)現在地に移転したと伝わる。
宝泉寺は別名を「獏(ばく)の寺」といわれ、正月に寺から出される
宝船を正月二日に枕の下に敷いて寝るとよい夢を見ることができ、
悪夢は獏が食べてくれると信じられている。
     
三社宮神社<あま市甚目寺下萱津>
熱田社、津島社、真清田社を合祀したもので、昔の草津川(かやづ
がわ・庄内川)の堤防上に貞享三年(1686)創立とされている。
創立について甚目寺町誌は江戸時代に書かれた「張州府志」や
「尾張志」に記載されており、戦国時代以前の鎮座であることは間
違いないとしている
  三社宮神社「御杖銀杏<あま市甚目寺下萱津>
本殿横に、一遍上人が回国のみぎり、ここで杖を挿しておかれた
のが、根づいて大木になったといわれ、「御杖銀杏」と呼ばれている。
現在は枯れた旧古木内から生えた二世が巨木となっている