第三章 愛知県(尾張)の鎌倉街道
紀行文の黒田宿<木曽川町>
愛知県の西部に位置し、西に木曽川があるが中世時代は、木曽川の本流が墨俣に流れ、しかも木曾八流といわれるように中小河川が乱流して
いた地域である。 当地は湿地帯の中に村があり、稲作と自然堤防を利用した桑(絹糸)畑が主な産業であった。 この絹糸作りが、江戸時代の
綿織物、明治から昭和にかけて毛織物の一大生産地となった原点である

この地区の十六夜日記及び東関紀行の記録はないが、「なぐさめ草」(正徹法師)に黒田庄滞在の記録がある
街道の経路
尾張部の鎌倉街道は、ほぼ直線で進んでいるが、愛知県の西端となる木曽川町の経路は曲がっているのが特質である。  何気なく見ていると
気づかないが、平成27年11月に木曽川町成人講座で講演することになり、木曽川町史に下記「自然堤防州の分布」を発見し、堤防州の微高地を
辿ると経路であることが理解できた。 また町史は、一説によると玉ノ井から白山神社前までのバイパス的な道があったと言われていると紹介して
いる。 堤防州がない低湿地であり降水が少ない時期などの例外と思われる。 また、読者から里小牧の渡し場があったと教えていただいた。 
この話はたまに聞くので史料を探したが、現時点では発見できない。 近世から昭和まで渡し場があった場所であり、中世鎌倉街道の枝線があって
も不思議でない。 史料に基づく説明ができないのが残念である。
    木曽川町史<昭和56年11月発行>
  P21「自然堤防州の分布」
         から引用、要所を着色。
一宮市木曽川町内の鎌倉街道
     
木曽川緑地公園<一宮市木曽川町玉ノ井>
愛知県における鎌倉街道の最西端である。先の茂みの先が岐阜
県で左が羽島市、右が笠松町である。  撮影場所は近世に建設
された新堤防の上です。 千年前の旅人が難儀して歩いた中小
河川の川原も今では家族が楽しむ憩いの場に利用されている。
  (07.03撮影)
  御囲提近くの民家<一宮市木曽川町玉ノ井>
新堤防から下の民有地の中の道路を約300m進むと御囲提に出る。
御囲提近くの民家です。 川に近い場所のため水難に対する備えが
石垣に伺われる。 石垣の上部高さが御囲提の高さに近い。
   
賀茂神社<一宮市木曽川町玉ノ井>
社伝によると欽明天皇の時代(540)、玉ノ井霊泉の傍に葉栗
郡穴太部神社を祀るとされる。 堀川天皇寛治四年(1090)京都
賀茂御厨の一つが置かれ、賀茂別雷宮を合祀し、賀茂神社と
改称する。

  「玉ノ井霊泉」<賀茂神社>
「霊泉玉井由緒記」「神社紀要」によると、天平3年(731)聖武天皇は
光明皇后の眼病治療のため、行基に平癒祈願を命じられた。 行基は
17日間の祈願により、尾張の国に名泉ありとのお告げを受けて、この
玉ノ井の清水を汲み都に帰った。 これによって皇后はたちまち平癒
せられたとある。 享保二年(1717)境内を発掘したところ天平三年3月
5日と墨で書かれた古井桁が発見され、霊泉跡を立証し、地名となった。
     
地蔵<一宮市木曽川町玉ノ井>
賀茂神社の境内を通っていた街道は、東に進んでいるが、住宅が
立ち並んでいるため、一旦神社の正面に戻り奥村用水に蓋がして
ある道に進み、数軒北に街道の入口となる地蔵がみえる。 
墓碑もあり宝暦時代の年号記載の古いものであった
  念敬寺(真宗大谷派)<一宮市木曽川町玉ノ井>
お地蔵の前を進むと念敬寺の裏手、そして社宮司前に至る。
念敬寺は、延徳3年(1491)玉井村の郷士玉井右京光倫の建立
に始まるという。 外観は瓦積みの塀で囲まれており、道沿いの
奥に墨宇吉翁の像が見える
 

     
墨宇吉翁像
安政2年(1855)墨金七の三男として木曽川で生まれ、念敬寺の寺
子屋で学ぶ。 家業(艶岸)の艶出しに精励し、長兄善右衛門亡き
後、その子岸太郎を擁立して後見人となり、34歳で分家独立(艶
屋)するまで家業発展のため粉骨砕身の努力をした。
この年、豊田佐吉は、得意先の玉ノ井の有力機屋にきて研究に
取り組んだという。 有力機屋は艶岸の得意先であったので、豊田
佐吉は時々やってきて艶屋の機械を分解したりて研究に没頭したと
いう。 
中島郡起村に開業(艶金)した墨宇吉は幾多の辛酸をなめながら
織物の改良に努力し、大正年代に染色・整理両工程の結合を達成
しつつ、経営的にも近代工業化を達成した。 このことによって
織布業者、整理業者が互いに分業し、補完して尾西地方の毛
織物業が飛躍的な発展を遂げた。・・・木曽川町史P679
  玉ノ井の町並<一宮市木曽川町玉ノ井>
明治時代初期、愛知県尾張部は縞木綿の産地として発展していたが、
木曽川の水運及び笠松・起の木綿商人の関係から工場が木曽川沿岸
に多く集まっていた。 今でも玉ノ井地区では、町が豊かであった雰囲
気を見ることができる。
明治22年7月、東海道本線が全線開通(木曽川鉄橋完成)した頃、
毛織物が中核製品となり、一宮市内に生産拠点が移っていった
     
ノコギリ屋根の工場<一宮市木曽川町玉ノ井>
屋根の北面にガラスを採用し、太陽光線の影響を受けない工夫が
なされている。 繊維工場に多い
  社宮司社(しゃぐうじしゃ)<一宮市木曽川町外割田>
念敬寺北側を東に進むと、直ぐ左手に社宮司社の杜がみえる。
通称「オシャゴジ」と呼ばれ、太閤検地に用いた水縄を埋めた
地に祀られている
     
日本画家川合玉堂生誕地<一宮市木曽川町外割田>
川合玉堂は明治6年(1873)、外割田に生まれ、明治から昭和に
かけて活躍した日本画家。 生家跡に生誕の碑と玉堂記念図書
館が建っている
  八剣神社<一宮市木曽川町外割田>
延暦3年(7848月創建と言い伝えがあるが詳しくは不詳である。 
外割田地区の総氏神様として町民に親しまれ、崇敬を集めてきた。
拝殿の扁額は、当地出身の川合玉堂直筆のものである

   
大徳山剣光寺(臨済宗妙心寺派)<一宮市木曽川町黒田>
寺に伝わる文書や口伝によると建久元年(1190)に源頼朝が京
からの帰途、寺前で乗っていた馬が動かなくなり、この寺の地蔵が、
かって願をかけていた地蔵尊であることを知って、感涙し田畑と
宝剣を奉納した。 この宝剣は、正冶元年(1199)正月、頼朝が
死んだ夜、霊光を放ち天を衝いて輝いた。 村人たちは、これ以来
この寺を剣光寺と呼ぶようになった。
この寺に伝わる地蔵菩薩は、昔、黒田地蔵とよばれ、尾張の六
地蔵の第一番に挙げられ、道中安全を願う旅人の守護地蔵として
あがめられた。
  剣光寺北の推定鎌倉街道跡<一宮市木曽川町黒田>
源頼朝が京鎌倉を往還した古道。 現在の剣光寺は、南に移動して
おり、当時は約百m北にあったという。 野府川に架かる橋は頼朝橋で
ある。 この町名は「黒田字北宿」であり、中世時代の黒田宿(里)が
あった場所と思われる。

    <なぐさめ草の関係部分>
都よりあずまへ行かふ旅人の、過る堤の道もただ此かきほの
外なれば、むらがりとほる駒の足おとも、ものさわがしき所も
有るべし、わき田におりたつたごの、こえごえにうたひ、夜は蛙の
耳かしましきなど、めずらしき心地ぞせし、庭の木下に卯花の
ほのかに咲たるを
  
<夜もすがら光は見せよむば玉の黒田の里に咲ける卯花>
黒田の里(宿)<一宮市木曽川町黒田>
「正徹法師黒田里に託居の図」<尾張名所図会>
歌僧正徹(しょうてつ)は、十六夜日記の作者である阿仏尼の子・
為相
(ためすけ)の孫・冷泉為尹(ためまさ)に和歌を学んだ。 
応永25年(1418)3月、正徹初めての旅で尾張黒田の土豪の
家に身を寄せ、「源氏物語」の講義をし、帰洛するに際して
「なぐさめ草」
一遍を残して去ったという。
 
  <なぐさめ草の関係部分><解説>木曽川町史P298
京から鎌倉へ行き来する旅人の通る堤の道(鎌倉街道)も、
この垣根のすぐ外なので、群がって通る駒の足音で騒がしい時もある。
まわりの早稲田で田植えでもするのであろうか、農民が口々に歌う歌が
あちこちから聞こえ、夜は蛙の声がうるさいほどである。 
庭に卯の花がほのかに咲いている
   

  <暗いという地名の黒田の里に咲いている白い卯の花よ。
   一晩中、明るい光を見せておくれ>
  
       
法蓮寺<一宮市木曽川町黒田>
鎌倉街道は剣光寺の裏あたりからJR木曽川駅構内プラットホーム
南端を経て法蓮寺の裏あたりに出る。
明応元年、身延山第十一世日朝上人の弟子、日妙師が諸国巡礼
のおり、地元信徒の願いを受け、翌二年、本山から山号、寺号を
受け
直末寺として創立。
山門を入ると右側に妙見堂が建っている。 通称「黒田妙見」と
言われ、大阪の能勢(のせ)妙見、愛知の内津(うつつ)妙見と
ともに日本三大妙見に数えられ、毎年正月15日は初妙見、
旧6月14,15日が妙見祭で、ことに14日の宵祭は、初夏の
名物になっている

本堂裏の墓地に山内一豊初代土佐藩主の父・盛豊、兄・十郎
父子の墓がある
  籠守勝手(こもりかって)神社 <一宮市木曽川町黒田>
法蓮寺裏あたりから曲がりくねった道を東に進むと籠守勝手神社
の前にでる。 創建年次は不詳であるが、延喜式内社の黒田神社
と比定され、地元では「おこもりさん」の通称で親しまれており、
神社にまつわる伝説が残されている
  





     
 「お駕籠まつり」<子守勝手神社>
伝説によると約1500年前の頃、17代履中天皇の第一皇子市辺
押盤
(いちべおしば)を殺害された二皇子(億計おけおう王=24代
仁賢天皇)と(弘計
をけおう王=23代顕宗天皇)は難をのがれる
ため、真清田神社に向かう途中、黒田大明神の杜森に駕籠を
留め、籠の中で一夜を過ごした。 その夜はちょうど葉月15日の
望月の夜とあって、村人は里芋の御馳走を添え、親切にもてなした。
二皇子はたいそう喜び、里人の饗宴に対する礼にと、芋の葉に
うるわしい夜露を集め、黒田大明神に奉献した。 しかし、しのび
旅のため夜明けを待たず出発して行ってしまった。 これ以後、
黒田明神を駕籠守勝手神社と尊称するようになったと言い伝え
られている。
毎年、十五夜の夜、二皇子がお宮で一夜を過ごした様子が再現
され、神事が行われる。 お供えの中心は月見団子で、右端に
サトイモが供えれている。 
  薄墨(うすずみ)<根尾谷・薄墨公園(本巣市根尾板所)>
億計王と弘計王は、一宮で別々に暮らしていたが、弘計王に男大
迹王(26代継体天皇)が生まれ、安全な所に隠して養育し
ようと美濃の
山奥にたどり着いた。 その後は、言語に絶する生活を強いられたが、
王は立派に成長された。 やがて、男大迹王は都からの招きで根尾
谷を去ることになった。 そこで王は住民との別れを惜しみ、一本(二本
説もあり)の桜の苗木をお手植えになり、次の詠歌一首を残された。
 <身の代と残す桜は薄墨よ 千代にその名を栄盛へ止むる>

その後、男大迹王は、26代継体天皇として即位された。
この薄墨桜は、樹齢1500年の老木であり、伊勢湾台風などで枯死
寸前の危機もあった。 作家・宇野千代さんは岐阜県知事に要望し、
樹木医の支援などを受け、樹勢を回復させた、桜の恩人である。
     
白山神社<一宮市木曽川町黒田>
社歴は古く、鎌倉時代乾元年
(1302)勧請、勅使によって祭祀が
行われ、崇敬を集めていた。永禄三年
(1560)清州織田信長と
嫡流岩倉織田家が戦った浮野合戦により焼失し、その後、秀吉、
家康に仕えた一柳監物直盛が黒田城主になって再建した。


  馬取り池<一宮市木曽川町玉ノ井>
白山神社西北に碑がある。古来、神社の西北に古墳と大きな池が
あったが、文化末年(1800頃)、古墳を取り崩し池が埋められ水田
にした。 昔、ある人が鎌倉街道を馬を引いて帰る途中、この池の
近くで休み、ふと気がつくと馬がいない。 それは池の主である大蛇が
馬を引きこんでしまったのだという。 それ以後、「馬取り池」と呼ぶ
ようになったという
 
     
伊冨利部(いぶりべ)神社<一宮市木曽川町門間>
白山神社の東裏から東南に進み、東海北陸自動車道一宮木曽川
インターチェンジ外側を回って南下すると伊冨利部神社門前に
でる。 神社の創建は延暦年間(782〜806)と考えられ、現在地
より北西の方向にあったが、康生元年(1455)社殿が焼失し、現在
地より西に移された。 すると鎌倉街道は神社裏を通っていた
ことになる。
上、下門間
(かどまのしょう)の総鎮守の神として崇められた。
鎌倉時代、頼朝は一国に三か所のお札所を定めているが、尾張
国では真清田(一宮)、国分寺(稲沢)、と門間の八幡宮が定められ、
八幡
(やわた)の八幡(はちまん)の名前で知られていた。

徳川義直(尾張藩初代藩祖)寄進の釣灯篭がある。
  八幡稲荷社<一宮市木曽川町門間>
伊冨利部神社境内奥の稲荷社の鳥居群








     
鎌倉街道の遺構<一宮市木曽川町門間>
伊冨利部神社第二鳥居前から南に到る鎌倉街道の遺構


 
  木曽川町から一宮市内への古道
       <一宮市今伊勢町馬寄子守・江川>
古道は伊冨利部神社前から、農地の中をほぼ南進する。 昭和年代
に農地整備を行い、街道の遺構は見られない
。 旅人も利用した野
井戸跡も埋め戻され、鎌倉街道は人々の記憶から忘れされつつある。
しかし、嬉しいことにグーグルマップに、この先の小栗町に小さく
<旧鎌倉街道>の文字が表示されているのを発見した。
鎌倉街道への関心が高まることを期待したい。
 

一宮市内の鎌倉街道 
 
紀行文の一宮
鎌倉古道(街道)は木曽川町の伊冨利部神社前からコナミ(元ソニー一宮工場)西の水田の中を南に進み、日光川にと至る。 小栗橋があったと
思われる橋を渡ると小栗町となり、日光川の河川提に沿う形で宮西通りの東を九品寺公園に突きあたるまで進む。 公園内を東南に斜めに横断し
、真清田神社を迂回する形で浜神明社まで進み、大江川に沿う形で、常念寺、福寿院、即得寺と進み、裁判所東の真清公園、照手姫袖掛松が
ある牛野神明社、そして西に進むと大和町妙興寺の各社と南下し、名神高速道路を潜ると稲沢市の境界となる大江川(宮田用水)に架かる
子生和橋となる。
今回、地図を再作成した結果、大江川、宮田用水沿いに古道が近いことが分かる。 往古の堤防地を利用した結果と思われる。
十六夜日記の阿仏尼は、訴えのための東下りであるので、一之宮(真清田神社)の名にかけ、「法華経に説く、仏となる道はただ一つ一乗で
あり、二乗、三乗にはない」と、訴えが認められる願望を強調している。
 この地区の東関紀行の記録はない
     
日光川を渡る古道<一宮市小栗町>
主要道路を横断すると、前方に日光川を渡る橋がある。 その先は
小栗町であり、次の目標の神明社に続く。 参考資料では、小栗橋と
なっているが権現橋であった。
小栗橋を探したが、周辺では見つけることができなかった

令和2年6月下旬、地図再作成のためグーグルマップを精査して
いたら、<旧鎌倉街道>の表示を発見した。 街道経路で、かなりの
表示があることを発見し、感謝です。
 
神明社<一宮市北神明町>
往昔は坂手皇太神宮と称されていたことから倭姫命を奉じていた
と考えられている。 倭姫は伝説の域であるが、伊勢神宮への
逢拝所であったことから、古道も神社前を通さなかったとも考え
られる。 したがって、古道は日光川を渡ると神社前の河岸段丘
に相当する道を南下することになる。
<参考:倭姫伝説>
大和朝廷は倭姫
(やまとひめ)命(垂仁天皇皇女)に命じて、大和朝廷
の祖神天照大神のご神体を奉じ尾張国中島宮に逗留された伝説
     
九品地(くほんじ)公園<一宮市文京1> 
真清田神社の本地阿弥陀如来を本尊とした真清田神社守護寺
の九品寺と墓地跡であった。 九品寺は室町時代には、廃寺に
なり、元禄時代に再興されたが明和年間に無住になった。
なお私自身が知らなかったが、名称の「九品」の意味は物質や
人の性質を3×3で分類したもの。 三三品(さんさんぼん)。
上品、下品の語源とされる。
九品(くほん)は中国で、人物を鑑定したり、官吏登用の分類に採
用された。 そして仏教で経典を翻訳した時に中国の分類を用いた。
例えば、極楽往生に9パターンがあるとした「九品往生」である。
  無量寿寺<一宮市松降2> 
天保十一年(1840)開山の浄土宗西山光明寺末寺尼寺である
     
無量寺北側の古道遺構<一宮市松降り2> 
参考資料に一宮市史下巻226ページの写真と紹介されている同じ
場所の写真である。
一宮商業高校から九品地公園を南下し、無量寿寺北側の小路に
入り、東に進んでいる。
  浜神明社<一宮市桜3丁目>
由来は古く、垂仁天皇の時代、倭姫命が神鏡を奉じ美濃の国
伊久良川の宮より尾張の国中島宮に遷幸の時、ここに滞在した
ことから神明津の地名をなしたと伝えている

     
浜神明社境内にある腰掛け石
往昔は潮が差し込み、姫の御船を繋いだとする松、腰掛け石の
伝説がある。
  真清田神社<一宮市真清田>
清田神社は平安時代の「延喜式」神名帳に記載されている
歴史の古い神社です。 祭神は、尾張氏の祖神天火明命
(あめほのあかりのみこと)である
     
阿仏尼の歌碑<一宮市真清田>
鳥居の内側、神橋の両側に、神社に因んだ歌碑がある。 西側に
阿仏尼が真清田神社を詠んだ歌碑がある。

<十六夜日記>尾張路 ー 一の宮より鳴海潟まで(1)
 又、一宮といふ社を過ぐとて、
 
<一の宮名さえなつかし二つなく三つなき
                法(のり)を守るべし>

<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  また、一
(いち)の宮(みや)という社を過ぎる時の歌、 
 <一の宮という名さえも慕わしいことだ。 二乗もなく、三乗も
     ないという。 一乗の法を守るというのであろう。>
参考・・・「二つなき・・・」とは、法華経・方便品の「無二亦無三」の訳で、
     「ただ一乗の法のみありて、二もなく三も無し」を想起する。
 
  大江川と寺院の配置
参考にしている「平安鎌倉古道」に掲載されている古地図。
紹介情報がないので説明できないが、現在は都市計画が
施工され、位置が変わっている。
戦災以前の町並みと思われ、太線の街道と寺院の関係が
分かる。 
     
     
西山浄土宗柳星山常念寺(浄土宗)<一宮市大江1>
明徳元年(1390)空?召運上人により小島の地に開山、旧九品寺
(くほんじ)の阿弥陀仏が御本尊である
。 運上人は足利尊氏の
甥とされており、僅か25歳で常念寺を建立している。 天正時代、
兵火に焼失したが、ときの一宮城主関長重が城の鬼門鎮護として
現在地に移し堂宇を建立し、菩提寺とし
た。

本堂前に一宮城主関氏三代の墓がある。
  福寿院と馬頭観音堂<一宮市大江2>
神亀年間(724〜29)行基の草創とされ、弘仁年間(810〜24)弘法
大師が真清田神社に参籠のとき、塔堂を再興したと伝えられて
いる。
かって盛大な本殿も第二次世界大戦の空襲で焼失し、今では
モダンなコンクリート製となっている。

     
真宗大谷派即得寺<一宮市大江2>
寺に伝わる話によると、源義経に従って出羽国羽黒に落ちた鈴木
三郎繁家の妻子は地名を誤り尾張国葉栗郡(丹羽郡)へ来た時、
繁家討死の報を聞き、無常を嘆いて、この地に永住した。 
以後、繁家の菩提を弔いつつあったが、明徳年間(1390〜93)に
いたり、その裔孫、観智の時に、応永年間(1394〜1428)一宮来たり、
九品寺東北に天台宗の一字を建立し阿弥陀如来を本尊として、
宮法山長福寺と称した。 応永十九年(1412)観智は真宗に改めて、
寺号を即得寺と改称した。 慶長年中(1596〜1614)七世願誓の
時代に現在地に移った。
  牛野から下津までの鎌倉街道の経路
稲沢の街道T<鎌倉街道と岐阜街道>(平成11年3月25日
稲沢市教育委員会発行)P14掲載の地図である。
左の子生和に「照手姫安産地」のコメントがある。 地元の方
からも話題になるが、中心にある慈願寺が無住のため調査
不能である。
     
照手姫袖掛松<一宮市牛野通2丁目>
真清公園を南下し、県道名古屋一宮線牛野交差点手前マツダ販売
店東の神明社境内に袖掛け松碑がある。
室町時代中頃、人形浄瑠璃や歌舞伎などで名高い照手姫が常陸
(茨城県)の城主、小栗判官助重と京へ向かう鎌倉街道沿いの当
地で、小袖を掛けて休息したと伝えられている。
また、牛野に宿があったが詳細は不明である
萩の名所 牛野の宿
 巳が毛のくろ田もちかくになりにけり
         わくる牛野につづくあし原  僥考法印
  この物語は、「当流小栗判官」「小栗判官車街道」など異本が数多く
あり江戸時代の浄瑠璃の人気作が歌舞伎に入り、明治時代まで
上演されていたが、その後、途絶えていた。
昭和49年武智鉄二演出で復活した。 さらに昭和58年7月、歌舞
伎座で市川猿之助が「当世流小栗判官」として上演し、猿之助十八
番の一つになっている
 (平成10年6月中日劇場観劇会パンフレット) 




     
妙興報恩禅寺<一宮市大和町妙興寺> 
貞和4年(1348年)創建された、臨済宗妙心寺派の古刹です。 
写真は、国指定重要文化財の勅使門です。 足利家の崇敬を集め、
二代将軍義詮により鎌倉五山制度の諸山と同列に列せられ、幕府
から特別な待遇を受け、当国随一の巨刹となった。 以来、三代将軍
義満から十代将軍義稙
(よしたね)まで、所領安堵の御教書(みぎょうじ)
下し、手厚く保護された。 6代将軍義教が永亨4年(1432)富士遊覧
の途中、妙興寺に立ち寄っている。
  東市場社<一宮市大和町妙興寺 
詳細は不明であるが、妙興報恩禅寺東に位置し、繁栄の頃の
門前市があったと思われる。
牛野神明社から当社まで、ほぼ直線が遺構と推定される

     
日吉社一宮市大和町妙興寺 
東市場社近くに南接するが、詳細は不明である



  三十八所社一宮市大和町妙興寺 
日吉神社のほぼ南に位置するが、詳細は不明である。 古道は、
このまま南進し、共同墓地の中を通り、名神高速道路沿いに東に
方向を変え、子生和橋(稲沢市)を渡り、油田遺跡(一宮市)、三本
池(稲沢市)と市境界を進んでいる。