柳生会主催:流祖上泉伊勢守信綱公追善供養・奉納演武 |
平成23年6月12日、妙興寺(妙興報恩禅寺)において、柳生会(柳生宗家)主催の流祖上泉伊勢守信綱公追善供養・奉納演武が挙行された。 例年の柳生会全体合宿を前日11日、日本ガイシホール(名古屋市南区)において行なわれており、東京や外国からも会員が参加していた。 柳生新陰流の流祖・上泉伊勢守信綱公は、群馬県前橋市上泉町出身の剣聖と尊称される兵法家であり、柳生但馬守宗厳(むねとし、後の 石舟斎)に新陰流を印可相伝した人物である。 上泉伊勢守は、上杉謙信・北条氏康・武田信玄の覇権争いの間で、地元の盟主であった長野氏のもとで武田信玄と闘い敗れ、武田信玄に 仕えた。 その後、信玄に全国への新陰流普及を理由に仕官辞退を申し出、影響下にあることを表す、信玄の一字を与えられ(秀綱から信綱に 改名。)、惜しまれながら許され、自分が創始した新陰流を天下に示すために京都へ向かった。 その途中、伊勢の剣豪大名・北畠具教や奈良 の宝蔵院胤栄(いんえい、宝蔵院流槍術開祖)、柳生宗巌(柳生新陰流開祖)に出会った。 妙興報恩禅寺は、貞和4年(1348)開山の臨済宗妙心寺派の禅寺であり、江戸時代までの東西幹線道路であった鎌倉街道(中世の東海道) の遺構を東側にみることができ、上泉伊勢守の往来があっても不思議ではない。 上泉伊勢守追善供養・奉納演武が挙行された妙興寺には、「負けない奥儀」 柳生耕一氏(柳生新陰流22世宗家)著で紹介されている黒沢明 監督「七人の侍」の名シーン<妙興寺の納屋に子供を人質に閉じこもった賊を、侍が僧形となり握り飯二つを絶妙のタイミングで投げ与え、二つ 目の時に、つい刀を放した隙に素手で取り押さえた場面> = 無刀取り発祥の逸話があり、これに因んで追善供養・奉納演武が行われた。 この逸話は、「正伝・新陰流」(昭和32年柳生厳長氏著)の中でも、「流祖・上泉伊勢守信綱」の章をおこし、柳生宗家に伝わる「明話之目録」の 巻頭第一に記されている史実として、記述されている。 私が、今回の流祖追善供養・奉納演武に陪席できたのは、一宮のまちづくり活動のなかで、妙興報恩禅寺における上泉伊勢守のエピソードを 知り、強い関心を持ち、県立図書館等での調査を行ってきた。 このことから、孤雲室老大師のお口添えで柳生新陰流兵法第22世宗家柳生 耕一氏に参加を認めていただきました。 感謝 |
演武会場の石庭「尼連禅河」(にれんぜんが) | 演武者の始めの挨拶 | |
三学円之太刀 第一、一刀両段 | 同 第四、右旋左転 | |
九箇之太刀 第一、必勝 | 同 第四、和ト | |
相雷刀八勢法 第一、相雷刀合撃 | 同 第八、水車勢先撃 | |
燕飛之太刀 第一、燕飛 | 同 第三、山陰 (右側が柳生耕一氏です) |
|
追善供養 | 柳生耕一氏(左)と上泉伊勢守の子孫の上泉氏(山形県米沢市)の 焼香 |
|
孤雲室老大師の法話 「禅と剣道の修養について」 | 参加者全員の記念写真 | |
境内見学「上泉伊勢守修道跡石碑」前 | 当日、記念にいただいた柳生さんの著書、平易な文に工夫されて おり読みやすいです。 |