信長は情報を駆使して桶狭間合戦を勝利 
鎌倉街道を再探索のため豊明市まで来た。参考にしている「平安鎌倉古道」で緑区八ツ松から大清水にかけての鎌倉街道を桶狭間合戦
に向かう織田信長が、街道の北にあたる道を駆けたと説明しており、その詳細を知りたいと思っていた。 豊明市役所のホームページに
「桶狭間の戦い」のページがあり、そこでは鎌倉街道と織田信長軍及び今川義元軍の経路が表示されており、想像していた内容と異なって
いた。  豊明市教育委員会を訪ね、資料をいただいた。 名古屋市側も戦場を含めて少し異なる見解であることを知った。 
豊明市及び緑区にまたがる二説の古戦場を視察すると共に、夕方であったが中島砦跡を確認することができた。 信長が経由した善照寺
砦跡及び丹下砦跡は、鎌倉街道探索で近くを歩いており、合戦に関する地理的な位置を概略であるが理解することができた。 そして、古戦
場の場所に諸説あるが、小丘陵が連続する場所であり双方を含んだ一帯が古戦場であったとする見解があることを知り、これに賛同したい。
進路は、熱田神宮までの道はよく言われているが、熱田から先は、野並の上の道を利用していると思われる。 合戦のあった永禄3年
(1560)の40年後に熱田と鳴海を繋いだ東海道が整備されており、永禄年次においても、陸地化がかなり進んでいると思われるが、海上
保安庁の潮汐推算で計算すると、信長が熱田神宮から移動した午前8時は満潮時で217センチメートル潮位であることがわかる。 
陸地化が進んでいても海に近い鳴海潟(万葉集当時は年魚地潟)は、満潮の影響を受けるため遠回りする上の道を選択せざるを得ないと
思う。
織田軍の進路を探索する過程で、信長の戦略は従来の高い位置から窪地の今川軍を急襲した説は誤りで、山頂の今川軍を目指して
麓から急襲する戦法であった。 少数で勝利するため、事前に今川軍の情報を入手し、利用したことを知った。
この戦法については、NHKで、その時歴史が動いた「桶狭間の戦い、織田信長逆転への情報戦略」(2000年)<ユーチューブで公開中>
でビジュアルに整理されているが、私は見ていなく知らなかった。 地元の立場で少し異なる見方で説明したいと思う。
 
信長軍の行程 
     
豊明市のパンフレットの地図
緑区の野並まで鎌倉街道上の道を経由し、そこから平針道を丹下
砦、善照寺砦、中島砦を経由した進軍ルートである。
中島砦から現在の国道1号にほぼ平行して流れる「手越川」の堤防
を進んだという。
豊明市の職員の説明では
、地元に残る「桶狭間戦名残(なごり)」
という古記録によるという。
  名古屋市緑区の現地説明用地図
織田軍のルートは、豊明市パンフレットとほぼ同じに見える。 
今川軍のルートに少し違いがあるが、鎌倉街道を外れており、ここ
では検討しない。
 



     
丹下砦跡 <光明寺:名古屋市緑区鳴海町字丹下>
今川方の鳴海城に対して築かれた織田方の三つ(丹下砦、善照寺
砦、中島砦)の砦の一つ。 合戦当日、織田信長が清須から熱田
神宮を経て、最初にこの砦に到着した
という。
鳴海潟(年魚市潟)に面した名古屋東部丘陵(鳴海台地)の西際に
ある。 砦跡に建つ、光明寺の石垣の中に砦の石が残るとされる
が、現地を見た限り素人目にはわからなかった。
  善照寺砦跡 <名古屋市緑区鳴海町字砦>
次に信長軍が東南に移動した善照寺砦。今川方の鳴海城を
見下ろす小高い丘にある。 この場所は、直ぐ北から東を当時の
幹線道路の鎌倉街道が走り、交通の要所でもある。



     
中島砦跡 <名古屋市緑区鳴海町字下中>
次に信長は約600m南にある中島砦に移動したという説がある。
今川方の鳴海城から約500m東になる。 右の地図の右下に中島
砦跡が赤丸である。 相川と手越川に囲まれた場所が分かる。
民家敷地に碑があるが、正面家屋の屋根の左下に碑の頭部が見え
る。信長は、兵500を残し幟を林立させ、鳴海城の今川方を欺いた
という。





  信長軍の進路 <名古屋市緑区鳴海町>
名鉄鳴海駅近くにある「中島砦跡碑」は民家の庭にある。 これは
当地区の案内図であるが、中島砦の地理を理解するに適当である
と思われるので掲載する。 右下の赤い表示の現在地の右下に中島
砦の表示がみえる。 上の川が扇川、右下の川が手越川で信長が
進軍したと推定される堤防
の川である。
表記がないが、今川軍の鳴海城は左上の園龍寺の左上に城址公園
があり約5百メートルの位置となる。 信長は中島砦に兵五百を残
し、旗指物を林立させ、油断させて出発した
という。
  
     
手越川 <名古屋市緑区鳴海町字下中>
中島砦跡の手越川。信長軍は、この堤防を進んだという。




  鳴海城址 <名古屋市緑区鳴海町字城>
江戸時代鳴海宿の高札場近くにある城跡。市道に分断され、西に
鳴海城址公園、東の天神社境内地がある。 公園内には何もない
が、天神社境内地に史跡碑、説明版がある。 市設置の説明版に
よると、今川方の猛将・岡部元信が配置され、義元討死後も死守し
たが、義元の首と引き換えに開城したという。
     
鷲津砦址 <名古屋市緑区鳴海町大高町字丸根>
今川方の大高城に対抗するため北東約700mの丘陵上に築か
れた砦。 南の丸根砦と共に大高城に対し二等辺三角形の底辺
の両端に位置する。 桶狭間の戦いの前哨戦で今川方の重臣・
朝比奈朝能の攻撃に全滅している。
  丸根砦址 <名古屋市緑区大高町字丸根>
鷲津砦と同じく大高城に対抗して約800mの小山に築かれた砦。
前哨戦で松平元康の攻撃により陥落する。


     
大高城址 <名古屋市緑区大高町字城山>
鳴海城と約2キロ強の場所にある。桶狭間の戦いの前段階で孤立
し、鷲津砦、丸根砦の織田軍の厳しい監視をかいくぐり、松平元康が
「兵糧」を運び込んだ話は有名である。
  大高城本丸跡
城跡は小公園に整備され、眼下に鷲津砦や丸根砦が容易に見え
る。


 桶狭間古戦場跡
     
史跡指定標柱・桶狭間古戦場構<豊明市>
名鉄名古屋本線中京競馬場駅から国道1号を越えると5分程の
位置にある。
  桶狭間古戦場公園<名古屋市緑区桶狭間>
公園としてコンパクトに整備されており、見学しやすい。  
     
今川治部大輔義元の墓 <豊明市>
敷地内の奥に今川義元の墓と説明される墓碑がある。
明治9年に建立されたものという。
  公園のモニュメント「近世の曙」 <名古屋市緑区>
左の立ち姿が織田信長、右が今川義元とある。 
     
国史跡・戦人塚 <豊明市前後町仙人塚>
豊明市の古戦場跡から国道1号を約1キロ東進した丘陵地帯
にある。 合戦後、曹源寺の快翁龍喜(かいおうりゅうき)和尚
が明窓(めいそう)に命じ、約2500余人の戦死者を集めて葬
った塚で昭和12年国史跡指定となる。
 
  駿公(すんこう)墓碑 <名古屋市緑区>
公園内の説明板によると昭和28年、近くの田楽坪の「ねず塚」
から発見されたという。 作成年次は不明とあり、当時の村人が
敗軍の将を弔うことをはばかり、墓石を埋め供養したものと思わ
れるという。
   
     
鷺之森碑 <豊明市栄町>
豊明市の古戦場跡から東南約5百メートルにある「はざま公
園」南敷地に信長が熱田神宮で戦勝祈願したところ、白鷺二
羽が社殿より飛び立ち、進路を導き石塚の大木で羽を休めた
伝承を記している。 明治9年に建立された。
 
  沓掛城址 <南豊明市沓掛町>
桶狭間合戦の前日、今川義元が泊まったとされる沓掛城の跡。
公園整備されているが、西側に空堀と諏訪曲輪が当時に近い形
で残されている。
  



 槍の小平太=服部小平太について
桶狭間合戦の華は、最初に今川義元を槍で刺した服部小平太と思う。(信長公紀では、今川義元の休憩地を報告した梁田正綱が
勲功第一とある。) 豊明市の古戦場パンフレットに一番槍の小平太が描かれた絵が表紙にあり、関連情報を調べてみた。
諸説あるが、なんと一宮ゆかりの人物という説を知り、概要をまとめてみた。
    尾張名所図会
左の写真(画像)は江戸時代末から明治時代初期に
書かれた尾張国の地誌である。
この中に「
大赤見城址」の項目があり
 織田弾正左衛門尉勝久・その子平七郎久長居住せり。
  平七郎後に弾正左衛門尉と改め、楽田村(犬山市)へ移り、
  弟敏任居住す。其孫信久赤見左衛門佐と云ひ、弟豊久平
  七郎と云ふ。豊久弟豊興、母家の姓を冒して服部道珍と云ふ。
  永禄三年(1560)桶狭間の合戦に、今川義元を留めし
  服部小平太忠次(すなわち)豊興の孫なり。其後裔今猶
  当所にありて代々村長にして服部氏と称す。

参考
○新編一宮市史・本文編・上(昭和52年9月発行)では、系図の
  前半、服部改姓以前の部分は江戸時代に編まれた信憑性の
  低い「織田系図」とほとんど一致する。「服部系図」は同氏
  自身の古い系図をもたず、系図作成にあたって流布して
  いる「織田系図」を利用し、これに服部の家系を結びつけたと
  解される。従って「服部系図」をもとに大赤見城主を織田久長と
  することは誤りである としている。


   
桶狭間今川義元血戦(楊斎延一画)
誰でも知っている織田軍の槍の小平太一番槍の場面
(豊明市桶狭間古戦場パンフレットの表紙より引用)









  大赤見城址
尾張名所図会にある「大赤見城址碑」は、一宮市赤見2丁目の個人
宅敷地に建っている。 石碑は、江戸時代末、犬山藩に育った林
錠太郎氏の探索により、その筋を経て織田弾正左衛門尉勝久が築
いた「大赤見城址」と確定したこと及び林氏を称えることが刻まれて
いる。
    昭和六年4月二十日 大赤見城址會

服部小平太(槍の小平太)については、碑文に記述がないが、地元
一宮に住んでいたという「尾張名所図会」説を信じ、引き続き調査して
いきたい。
 


桶狭間・奇跡の大勝利は誤解 
 勲功第一の梁田正綱について

<今川軍の情報を集め、手薄となった今川義元を狙う奇襲戦法を注進し、実行した合理的な織田信長
平成15年11月10日、桶狭間合戦の現地調査のため豊明市立図書館で関心を持った服部小平太等関係資料を探した。 沢山の
合戦資料の中、「今川義元の休憩地を報告し、勲功第一とされた梁田正綱」が当時の九之坪城主で、旧西春町(現・北名古屋市)、
稲沢市東部、一宮市の南部(私の居住地)を所領していたことを知った。
更に本を探すと、「その時歴史が動いた6」(NHK取材班、2001,5発行)、「桶狭間合戦 奇跡の事実」(太田輝夫著2012・11発行)
の内容に引かれた。ここでは、
〇織田信長は(情報・工作部隊の)簗田正綱に命じ、
 今川義元軍本体の行動情報を集めた。
〇織田軍の鷲津砦、丸根砦攻防に今川軍の注意を引き軍勢を集め、今川義元本軍の兵力を減らした。更に、善照寺砦から300人
 規模の突撃隊を出し、主力部隊の兵力を分散させた。
〇簗田正綱は、間道の手越堤道の先にある桶狭間山山頂で昼食を摂っている今川義元の所在地情報及び攻め時と注進し、従来の
 説と異なる正面奇襲攻撃を実行したことが勝利の第一要因であるとしている。この功績を、勲功第一として沓掛城(3千貫=6〜
 12千石 相当)が与えられた。

***簗田正綱の役割は、情報・工作活動であることから記録が少なく、また後世江戸時代の講談等の演劇では華々しさを期待したこと
   から、服部小平太の一番槍や首を取った毛利新介が主役となり現在までに伝わる桶狭間合戦のイメージである。私もそう思っていた。
    簗田正綱を使い、自分のイメージ通りの戦法で勝ち抜いた織田信長は、やはり天才・奇才であった。
     
沓掛城址の説明版 <沓掛城址>
本文六行目に織田信長は恩賞として簗田出羽守に沓掛城を与えたと
書かれている。



  九之坪城址 <北名古屋市九之坪>
北名古屋市健康ドーム の西隣にある「ふれあいの家」の南面に
城跡の石碑が建立されている。
城址や簗田正綱(出羽守)については、主に小学生向けの本として
「九之坪城物語」(2003、11にしはる郷土研究と民話の会編集、
西春町役場出版)がある。 概要を知るには最適な資料である。
この冊子によると、城跡は、東西60m、南北70mの規模と推定され
ている。
     
九之坪城由来<北名古屋市九之坪>
右上の城址石碑の傍にある解説版。


  十所社 <北名古屋市九之坪>
境内の案内板に
創建等詳細は不明であるが棟札に九之坪領主の簗田正綱が永禄
二年(1559)造営とある。 写真の今の正面は南であるが、昔は城の
あった東向きであったという。 場所は城址の西方、名鉄犬山線の
東にある。