中世紀行文(十六夜日記・東関紀行・海道記)の舞台を楽しむ 
 鎌 倉 街 道 <京鎌倉往還>



 序 章
  1. 私と鎌倉街道
 鎌倉街道は、日本各地から鎌倉へ向かう中世古道の総称である。 京と鎌倉を連絡した「京鎌倉往還」、鎌倉市と関東主要地区を連絡し「いざ
鎌倉」の有事に軍勢を参集させる「上の道」・「中の道」・「下の道」が代表的なものである。 愛知県でも枝道(小街道)を含めて複数の道があると言わ
れるが、ここでは我が家の近くを通った「京鎌倉往還」を「鎌倉街道」の名称で探索していきたい。
 さて、鎌倉街道は幻の街道といわれるように、現在ではほとんどその姿が失われてしまい、追求が困難となっている。 自然堤防など微高地を通る、
低湿地など通行に不便な地形を避ける知恵が活用されている。 また鎌倉街道周辺には、古い神社や寺院などが残っている所が多く、杜が目印に
なっていた。 (人々に利用された道であった。) この自然の地形を利用した路ゆえ、洪水などの災害で容易に変化し、継続性がないことから残された
資料が少なく探索調査に苦労した。
鎌倉街道は、都と政治都市・鎌倉を連絡する主要道路であり、沿線市町村には、鎌倉街道の遺構やエピソードが市町村史等に多少記録されている。、
広域に広げて調べると貴重な記録が入手できた。 調べて知る喜びが、街道探索を続けるエネルギーとなり、昨日、今日、明日と探索を持続する気持と
なり、点と点が続き、線となった。 800年の時空を経て、多くはなくなった鎌倉街道の全体像がわかってくることを実感した。 その成果として、調べれば
知ることができる、知的好奇心を満足させてくれる喜びが魅力となっていた。 さらに、鎌倉時代には、海道記、東関紀行及び十六夜日記の三大紀行文が
残されており、その記録は少し難解であるが、解説書もあり素人が読んでも当時の風景、道程等を想像することができ、楽しむことができた。 
 このような自然の地形を利用した鎌倉街道の遺構を正確に探索することは、年次を経た現在、不可能である。 このため、若干の地域では、中世の
街道遺構については不明とされている公的団体があり、個人で推定線を提示したり議論しにくい情況になっている。 街道の探索が話題にならない故、
関心も盛り上がらない。 
ここでは、鎌倉街道ファンとして、市史等資料及び紀行文を参考に推定線を示し、街道ファンの関心を集め、及び高めて更なる研究・探索を促したい。 
この探索は、資料を読む、現地を歩く等様々な楽しみ方がある。  今は当時の街道の姿を見ることができないが、知的好奇心を満足させてくれる
魅力を鎌倉街道は持っていると信じている。 この本が、多くの方に鎌倉街道を知っていただく機会になれば幸いです。
 2 .鎌倉街道のあらまし
  ここでいう鎌倉街道は、都と鎌倉を結ぶ東海道の一経路である。  都と東国を結ぶ路は、古代、中世、近世の「東海道」であるが、7世紀の延喜式
東海道の経路を基本として若干の変更を加えながら利用されてきた。 
 この長い時代の中で、鎌倉時代が一番輝いたのは、政権が初めて畿内から離れて東国の鎌倉に成立した時である。 距離は、約480キロ、63宿が
登場し、日程は14日程度とされている。 
鎌倉時代初期は、都及び草津(滋賀県)から(静岡県)三島までは同じ行程であるが、海道記は鈴鹿越えと足柄峠越えを経路としている。 これは、
古代の道の経路を踏襲した終期で、東関紀行から東海道(近江路)を進み、草津から東山道(中山道)の杭瀬宿(大垣市)と来て、ここで東山道から
分かれ、墨俣、足近、玉野井、黒田、下津、萱津と美濃路を進み、萱津から宮、鳴海潟、二村山(豊明市)と近世東海道の山側を進んでいる。 
京から鎌倉までの探索を成し遂げると、各地では主要な路を鎌倉街道又は鎌倉道と呼称している事例が多くあった。 京から鎌倉までの全体を説明する
には、かなり困難な問題である。 ここでは読者に、鎌倉街道を知っていただくことを優先事項とすると取捨選択する必要がある。 このため、鎌倉幕府等が
公認・利用した街道、または紀行文で書き残された街道に限定し説明しているのでご了承ください。
  3.中世三大紀行文との関わり
 政治権力が鎌倉に成立したことにより、京鎌倉間は政治、経済、軍事の用務以外に僧侶、文化人の往来も盛んになった。 鎌倉時代は、次に紹介
する三大紀行文が成立し、この記録から当時の行程、景色、庶民の生活の様子等が読み取ることができ、街道探索を楽しむことができる。 8百年の
時空を越えて、鎌倉街道の醍醐味を経験できるので、読者の方には身近な鎌倉街道遺構地を探索されることを提案します。
「海道記」
貞応二年(1223)成立と考えられる紀行文。 作者は不詳。 貞応二年4月4日、白河の侘士なる者が京から鈴鹿越えの東海道で鎌倉に下り、
17日に鎌倉に着き、さらに帰京するまでを描いている。 
「東関紀行」
仁冶三年(1242)成立と考えられる紀行文。 作者は不詳。 京都東山から鎌倉までの道中の体験や感想で構成されている。 和漢混淆文
(わかんこうこうぶん)で、風景描写等が優れた紀行文といわれる。 特に萱津の東宿の賑わいをリアルに書きとめている。
「十六夜日記」
藤原為家の側室・阿仏尼が相続(後継者)問題を鎌倉幕府に訴えるため、弘安二年(1279)都から鎌倉までの旅で見聞した事柄を簡潔な
文書で書き残した紀行文日記で、当時の状況を思い浮かべることができる貴重な文学作品である。 成立当初、阿仏尼はこの日記に名前を
つけておらず、単に「阿仏日記」などど呼ばれていたが、日記が10月16日に始まっていることを由来として、後世に「十六夜日記」と称された。
 


 第1章 平安の都・京から近江の鎌倉街道 
1.始まりは都から  
 
     
羅城門(らじょうもん)遺跡<京都市南区唐橋高田町>
平安初期、京の正門として外国使節は全て、この門から出入り
したという。 しかし中世以降は七口と称される各方面に直通する
門を使用したという。
 
  三条大橋<京都市中京区・東山区>
江戸時代の東海道の終点であるが、古代・中世時代の古代東海
道(兼東山道)の出発点でもある。 街道経路は、ほぼ三条通で
ある。 橋の歴史は不明であるが、高欄につけられた擬宝珠に
豊臣秀吉の命で天正18年(1590)正月に日本で初めて石柱製と
して架けられてとある。
     
蹴上(けあげ)から粟田口方面の風景<京都市東山区>
三条通が旧市街を抜ける地下鉄東西線蹴上駅の風景。 三条通
は左にカーブしているが、この付近までが粟田口という古くからの
都の出入り口である
。 京都市街地の一部が下に見える。
(平成27年1月3日撮影)
  日向(ひむかい)大神宮<京都市山科区>
蹴上の東に写真の一の鳥居がある。ここから社殿まで約5百
メートルあるがほとんどが石段である。 内宮・外宮があり「京の
伊勢」と親しまれる古社。 厄をくぐり抜ける「ぬけ詣り」が有名で、
旅人も旅立ちの安全を祈願したという
     
旧東海道の西入口<京都市山科区>
三条通の「九条山」バス停から少し進んだ位置にある。 目印は、
左の「京都東山老年サナトリウム」前で大きくカーブした右側である。
 江戸時代東海道の遺構が残されている。 中央黄色の案内がある。
  旧東海道の道標<京都市山科区>
左の進入口からほど近い場所となる。下の道が三条大橋から続く
三条通である
 



2.京都市内の阿仏尼ゆかりの地 
     
阿仏尼肖像画 <冊子冷泉家P21ページ>から引用  
藤原為家は歌人藤原定家の子で、為家も宮廷歌壇随一の歌人で、
廷臣としては大納言にいたった人物である。 為家の晩年の妻・
安嘉門院四条(阿仏尼)は為相
(ためすけ)、為守らをなしたが、為家
亡き後、先妻の子・為氏との間に細川荘(や歌道の宗家)相続争いと
なり、地頭職を獲得するために幕府に訴訟するため鎌倉に下向した。
弘安二年(1279)10月16日都を立ち、慣れぬ旅路に苦労しなが
らも珍しい風景に目を凝らし、道々に歌を詠み、諸社に勝訴を祈願
して旅を続け、29日に鎌倉に着き、
14日間の旅を終えた。 
 出典:十六夜日記(田淵句美子著)巻頭文要約
  冷泉(れいぜい)<京都市上京区>
藤原俊成、定家以来の貴重な典籍は、阿仏尼の子・為相に伝えられ、
冷泉家は7世紀以上の長きにわたり、守り保存してきた。
江戸時代初期に建設された屋敷は天明8年の大火で焼失したが、貴
重な典籍、古文書類を収めた土蔵は災害を免れた。 寛政2年(1790)
再建され、現在に至っている。 重要文化財指定建築物である。 

敷地・建物や膨大な典籍を有し、維持管理問題のため財団法人にて
運営されている。 通常は非公開であるが、秋に一般公開されることも
ある。
 財団の概要は、「公益財団法人 冷泉家時雨亭」名のホーム
ページで公開されている。 (14.10.31公開時撮影)
     
落柿舎付近から見た嵯峨の風景<京都市右京区>
嵯峨小倉山の遠景。 右前方に清涼寺、正面左奥に二尊院があり、
連絡している愛宕道に藤原定家の小倉山荘があったと推定される。

正面の落柿舎は、元禄の俳人向井去来の遺跡で師匠の松尾芭蕉も
三回来庵したという。
  
  清凉寺(嵯峨釈迦堂)<京都市右京区>
五台山と称する浄土宗の古刹で「嵯峨釈迦堂」の名で知られる。
この地には、一説では「源氏物語」の主人公の光源氏のモデルで
あったといわれる源融
(とおる)の山荘「棲霞観(せいかかん)」があり、
融の死後、棲霞寺としたのが始まりという。<市案内板より引用>
 
     
二尊院(小倉山二尊教院華台寺)<京都市右京区>
「百人一首」で名高い小倉山の東麓にあって、本尊に釈迦如来と阿弥
陀仏の二尊を祀るため二尊院と呼ばれる天台宗寺院。 応仁の乱に
より諸堂が焼失したが、本堂、写真の唐門(勅使門)は、約30年後
に再建された。 唐門「小倉山」は、は後柏原天皇の勅額である。
 ・・・二尊院チラシ抜粋 
  常寂光寺<京都市右京区>
文禄4年(1595)、究意(くきょう)院日槙(にっしん)上人開山の
日蓮宗寺院。 歌人としても著名なりし上人に歌枕の名勝小倉山を
隠居処として提供せし人は角倉栄可(了以の従兄にして舅)と了以
なり。
・・・常寂光寺チラシ抜粋 
 
時雨亭跡<京都市右京区>
二尊院境内の奥に、藤原定家が百人一首を選定した「時雨亭」遺跡が
ある。 庵の礎石らしき石組のみがあるが、左の説明板が手がかりで
ある
 
  時雨亭跡<京都市右京区>
常寂光寺境内の時雨亭跡碑。 嵯峨に時雨亭跡が三ケ所あり、常寂
光寺堂、二尊院、厭離庵の説がある。 昭和10年代に国文学者の
考証が出そろい常寂光寺と二尊院に挟まれた場所で厭離庵は定家
の子為家の住んだ中院山荘跡とする意見が大勢を占めるという

 
・・・常寂光寺チラシ抜粋 
     
厭離庵(えんりあん)<京都市右京区>
藤原定家が住んだ山荘の旧跡で小倉百人一首を編纂した処である。
その後、久しく荒廃せしを冷泉家が修復し、霊元法皇より「厭離庵」
の寺号を賜り、安永(1772)より臨済宗天竜寺派となる。
開山は白隠禅師の高弟霊源禅師なり。
明治維新後、再び荒廃したが、山岡鉄心の娘素心尼が住職に就き、
尼寺となるが、平成18年9月から男僧が就任

  ・・・厭離庵チラシ抜粋

  阿仏尼の墓がある大通寺(編照(へんじょう)心院)
<京都市南区>

清和天皇の孫満仲が父の墓所に一字を建立したのが始まりとされる。
貞応元年(1222)、源実朝の妻・本覚尼が菩提を弔っていたが、
真空回心上人を請じて梵刹を興し、萬祥山偏照院大通寺と名付け
「尼寺」と称して親しまれてきた。 後に阿仏尼も入寺し、亡夫藤原
為家を供養したと伝わる。 阿仏尼真蹟、阿仏尼塚がある

場所は京都駅南の東寺近くにある
・・・門前の市案内板より引用
なお、訴訟のため東下りした鎌倉市内・英勝寺近くにも阿仏尼の墓と
される墓石がある
     
阿仏尼の墓<鎌倉市・英勝寺際の石窟>
阿仏尼の墓といわれる一つ。 石塔の左に「阿仏尼を偲ぶ会」と
書いた札があるが案内板もなく、埃を被っている。
(平成25年11月撮影)
  阿仏尼の墓(大通寺)<京都市南区>
阿仏尼の墓といわれる他の一つ。大通寺の門前に京都市の案内が
あり、阿仏尼の墓があると説明されている。 訪問時、参拝をお願い
したら、この墓を教えていただいた。 左の木札にかすかに阿仏尼墓と
書かれて文字が見える。(平成27年1月3日撮影)



3.大津市内の鎌倉街道(中世東山道)   
    <十六夜日記>  出発・近江路ー粟田口より醒井まで
 さのみ心弱くてもいかがとて、つれなくふり捨てつ。 粟田口
 といふ所よりぞ車は返しつる。 程なく逢坂の関越ゆる程も、
 <定めなき命は知らぬ旅なれど又逢(あふ)坂と頼みてぞ行く>

<十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 こんなに気弱くてはしょうがないと、心を鬼にして出発した。 粟田口と
いう所で、乗ってきた牛車も返してしまった。 やがて逢坂の関を越える
時に思ったこと、
 <定めのない人の命だから、生きて帰れるかわからい旅だ
 けれど、逢坂というからには再び故郷の人に会えるに違いないと
 心に誓って出発する。」
・・・十六夜日記(田淵句美子著・山川出版社)の説明
当時の都人にとって、逢坂の関を越えることは、都の外の異国、
異界へ踏み出すことであった。 阿仏尼のような初老(生年月日
不詳。約50歳頃と推定)の女性にとっては、並々ならぬ決心が
いることだったろう。 先の歌を詠んで、都に心を残しつつ旅への
決意を新たにしている。
逢坂山関跡<滋賀県大津市大谷町>
三条通に沿った街道は、山科で国道一号線に合流し滋賀県大津
市となる。 京阪電車大谷駅から徒歩10分で左山麓に関跡の碑
に至る。

<東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 東山の近くにある私の家を出発して、逢坂の関を通り過ぎる頃は、
駒迎え行事の八月十五日も近くになっている空であるから一面に
秋の霧が立ちこめ、まだ明けない夜の月の光がさしていて、風も静
かである。 鶏の声がわずかに聞えてきて、霊の旅人が有明の月
のもとを通ったという函谷間
(かんこくかん)の様子が思い出されてくる。
 その昔、蝉丸といった隠遁者
(いんとんしゃ)がこの逢坂の関の近くに
草庵を作っていつも琵琶を弾いて心を清らかにし、和歌によって
感ずることを述べていた。 世に吹く嵐の激しさを、そのように耐え
て過ごしていた。 ある人が言うところでは、「蝉丸は醍醐天皇の
皇子でいらっしゃるので、この関の辺りを四
(し)の宮と名づけたので
ある」という。
 <人をとめるのが関所だけれども、昔蝉丸が草庵を結んでいた
   ところあたりまでが心を引き止めて、このまま通り過ぎることが
  できない感じの逢坂の関だよ>
  <東関紀行>逢坂越ー逢坂の関にて蝉丸、東三条院を偲ぶ
 
東山のほとりなる住家(すみか)を出でて、逢坂の関うち過
ほどに、駒引きわたる望月
(もちづき)のころもやうやう近き空
なれば、秋霧
(あきぎり)立ち渡りて、深き夜の月影(つきかげ)、風
しづかなり。 木綿付鳥
(ゆふつけどり)かすかにおとづれて、遊子
(いうし)なほ残月(ざんげつ)に行きけん函谷(かんこく)の有様、思ひ
合せらる。 
 むかし蝉丸
(せみまる)といひける世捨人(よすてびと)、この関の
ほとりに藁屋
(わらや)の床(とこ)を結びて、常は琵琶を弾きて
心をすまし、やまと歌を詠じて思ひをのべけり。 嵐の風はげ
しきを、しひつゝぞ過ぐしける。 ある人のいはく、「蝉丸は延喜
(えんぎ)第四(だいし)の宮(みや)にてまします故(ゆえ)に、この関の
あたりを、四
(し)の宮(みや)と名づけたり」といへり。
   <いにしへの藁屋の床のあたりまで
              心をとむる逢坂の関>

<解説>は左欄参照


 
     
蝉丸神社上社<滋賀県大津市上片原町>
逢坂の関跡から約1キロ進むと、一号線の上を立体横断して
いる名神高速道路の高架橋があり、その直前の西側山麓に蝉丸
神社上社がある。 写真のとおり勾配のきつい石段の先に社殿が
ある。 境内の由緒略記によると弘仁13年(822)の鎮座とされ、
祭神は猿田彦命、相殿は蝉丸霊である。 天禄2年(971)9月、
綸旨を賜り音曲芸道祖神とされ、明治維新まで芸道専心の希望
者に免状を下付した
  蝉丸神社下社<滋賀県大津市清水町>
逢坂山を越えた街道は、やがて大津市街地に入り、1号線が
大きく右折する時点で直進する道に進む
。 東海道線近くに左
(西側)に蝉丸神社下社の鳥居が京阪電気鉄道京津線の奥に
みえる

境内に謡曲「蝉丸」が当蝉丸神社を舞台にした今昔物語を出典と
した名曲と解説した「謡曲史跡保存会」の説明版がある
 

     
義仲寺(ぎちゅうじ)<滋賀県大津市馬場>国指定史跡
京阪電気鉄道石山坂本線京阪膳所
(ぜせ)駅から東海道を西
500メートル戻る位置にある。 寺名は木曽義仲の墓がある
ことに因む。 俳聖松尾芭蕉は大阪で逝去したが遺言により
当寺に墓を建てている
。 今は市街地の中にあるが江戸時
代は琵琶湖が望めた名勝地であった。
・・・義仲寺チラシ抜粋
  木曽義仲の墓<義仲寺境内>
芭蕉翁は、木曽塚ととなえた。



 
     
巴塚<義仲寺境内>
木曽義仲の側室巴御前の塚。
右側の説明版には、当地粟津野での最後の戦いに敵将
恩田八郎を打ち取り、義仲の願いにより落ち延びたが鎌倉
幕府に捕まり、和田義盛の妻となる。 義盛戦死の後は、尼僧と
なり各地を廻り、当地にしばらく留まって義仲の菩提を弔ったと
いう。 それより後は信州木曽で90歳の生涯を閉じたという。


  芭蕉の墓<義仲寺境内>
元禄七年(1694)10月12日、大阪で逝去。遺言に従って
義仲寺に葬るため川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り十三日午後
寺に入る。 十四日、葬儀後、深夜ここに埋葬される

   燧(ひうち) 山 (元禄二年)
   義仲の寝覚の山か月悲し   芭蕉


 
   無名庵にての作(元禄四年)
   木曽の情雪や生
(はえ)ぬく春の草  芭蕉
                 
・・・以上、義仲寺チラシ抜粋
     
瀬田の唐橋<滋賀県大津市瀬田・鳥居川町>
琵琶湖から流れ出る唯一の河川の瀬田川に架かる瀬田の唐橋。
江戸時代に上流(琵琶湖側)に80m移動している。
中世以前の街道は下流となり、古代橋の橋脚が発掘されている。
地理的条件から都の重要な防衛拠点であり、壬申の乱古戦場の
一つとされる。


<東関紀行>近江路ー大津京を偲び瀬田の唐橋を渡る
 あけぼのの空になりて、瀬田(せた)の長橋(ながはし)うち渡る
ほどに、湖
(みづうみ)はるかにあらはれて、かの満誓沙弥
(まんせいしゃみ)が比叡山(ひえいざん)にてこの海を望みつゝ
詠めりけん歌、思ひ出でられて、「漕
(こぎ)ゆく舟の跡の白波」、
まことにはかなくて心細し。
  <世の中を漕行舟によそへつゝ
      ながめしあとを又ぞながむる>

  建部(たてべ)大社<滋賀県大津市神領>
社伝によると景行天皇46年(316)に御妃布多遅比売命
(ふたじひめの
みこと)
が神崎郡建部の郷に日本武尊の心霊を祀られたのが始まりと
される。 その後、近江の中心・瀬田の地に遷し祀られた。 
古来、唐橋(日本三大古橋の一つ)を制する者は天下を制するといわ
れてきたように瀬田川を挟んでの戦も数多く、当社も幾度の戦火に
見舞われているが、その度に再建され現在に至っている。
・・境内の案内板より引用
<東関紀行><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
だんだんと明け方の空になってきて、瀬田の長橋を渡っていくと、湖が
遠くに見えてきて、あの満誓沙弥(まんせいしゃみ)が比叡山からこの湖を
眺めながら詠んだという歌が重い出されて、「漕ぎゆく舟の跡の白波」と
同じさまで、本当にはかないことで、心細いことだ。
<あの満誓沙弥が世の中の無常を漕ぎゆく舟にたとえながら
 歌に詠んだ景色を、私も今、眺めているよ>
     
堂の上遺跡<滋賀県大津市神領>
建部神社正面で県立瀬田工業高校テニスコートの横に昭和40
年代に発掘調査が行われ、奈良時代から平安時代中頃までの
建物遺構等が発見された。 近江国府跡が近くにあることから
東山道の瀬田駅家(せたたのうまや)ではないかと推定されて
いる。 ・・滋賀県教育委員会設置案内板より引用
<平成27年4月21日撮影>

  近江国庁(府)跡<滋賀県大津市神領>
律令制に基づき全国68国に設置された国府のうち発掘調査により
概要が確認できた数少ない一つの近江国府跡。 東西二町
(約216m)、南北三町(約324m)の国庁に外側に九町(約972m)
四方の規格化された市街地(国府)が広がっているという。 奈良時代
前半(1300年前)から平安時代後半(約800年前)まで存続したと
推定されている。  ・・滋賀県教育委員会設置案内板より引用
古代街道は、国府を連絡していたとされ、瀬田駅は南東唐橋近くに
ある「堂の上遺跡」の位置とする意見が強い。
・・・「古代の道」より引用

     
伝西行屋敷跡<滋賀県大津市大江・瀬田小敷地内>
平安時代末期の歌人・西行法師が鎌倉時代に自徳庵を造り
悠遊自適の生活を営んだとされる。

  野神社旧跡(ちりんさん)<滋賀県大津市大江>
大江の開発者・大江千里は平安前期の歌人で三十六歌仙の一人で
ある。 千里は「ちりんさん」と呼ばれ村人から敬われた。  没後、
村人が住居跡に野神社を建てて、遺徳をしのんだといわれる。 
瀬田小学校から北進する市道から少し東に入った公園内にある。