最初に
 この「尾州繊維産業のあらまし」をまとめる動機は、平成17年9月27日に「光明寺にある<おりひめ>について調べて
いる。 明治33年1月23日のことです。」 という内容のメールをいただいたことです。
聞いたことがなく、現地調査や図書館で調べているうちに、繊維産業の成り立ち、織子と呼ばれた女性労働者の労働環境、一宮
市としての発展史、更に衣服は何時から使われどのように発展してきたのか、と考えてみると知らないことばかりでした。

 今回のメールを契機に、自分自身の勉強のため調べてみました。 取り掛かると、あまりに間口が広く、専門用語が多い等
素人が報告するには、かなり荷が重いという気持ちです。 しかし、普通の市民に知っていただくには、わかり易い情報になる
のではと、努力して整理してみました。
 正直に言いますと、各種参考資料やホームページからの引用の整理程度と思います。
 なお専門家から見て、間違いがあることにお気づきの場合は、メールにてご指摘又はアドバイスをいただきますようにお願い
します。

一宮市尾西歴史民俗資料館
「織姫像」
(一宮市役所立体駐車場の南側にて)

1・概要
 一宮の「まちの歴史」をたどると、その起源は江戸時代にあるといえる。 18世紀末、明和時代に、一宮村周辺で、従来の養蚕に
加え、新たに綿作が行われるようになり、桟留縞が織られ、真清田神社一の鳥居(お旅所西)付近で繰綿や日用品を商う三八市が開か
れるようになった。 三八市と綿作は、相互に関連して発展し、
桟留縞(さんどめしま)として商品化されてきたが、19世紀、文化・文政時
代には、下総結城地方で織られていた「
結城
(ゆうきしま)」と生産性の高い織機である高機(たかばた)が移入され、高級品である綿
交織
(けんめんこうしょく
)
の結城縞が織られ、関西方面に販売された。 また、この時期に織元が数人の奉公人を雇い入れ、分業と協業に
よる新しい経営形態(マニュファクチュア)が見られ始めたが、ここでは、若い女性織子の過酷な年季奉公の労働形態が見られたという。

 明治10年代になると、インドからの安い綿花の輸入と織布工場の出現により桟留縞が不調となり、外部への賃機(ちんばた)出機:でば
た、とも称された
)が増えると共に、他産地にない手工業技術と生産種類の多様性を強みとした絹綿交織の結城縞の生産が増加した。
 高機による絹綿交織物の生産は、明治24年(1891)の濃尾大地震の復旧を契機に、他産地より遅れて海外から導入された2倍の高能率
のフライシャトル機構(バッタン装置)の普及を促し、木曽川の水運を利用した関係で沿岸の、尾西市起、一宮市奥町、木曽川町に機屋
が集中し、京都(全国生産量の20%)、群馬(同10%)に次いで第三位(同7%)の綿織物産地となった。 しかし、織元の資本の蓄積
は小さく、働く織子の労働条件は、早朝5時から1
3時間以上の労働時間、粗末な食事、出来高払い等過酷なものであり、明治33年の
光明寺村女工
31名焼死事件は、時代を反映した悲惨なできごとであった。 ノンフィクション小説「ああ野麦峠」は、同時代の信州諏訪
地方の生糸工場に働いた飛騨出身の工女の話であるが、当時の全国の繊維工場の労働条件の劣悪さを物語るものである。

 大正時代に入ると、バッタン機に代わり動力織機の導入と毛織物への転換が進行し、大正3年(1914)、第一次世界大戦及び日中戦争が
始まると、毛織物の生産量は、これまでの最高を記録した。 しかし太平洋戦争が始まると中小企業は整理・統合され、多くは転廃業し、
更に敗戦後も戦災により復旧は困難を極めたが、他産地よりは、早く立ち直ることができた。 また1951年の朝鮮戦争による特需景気は
「ガチャ万」景気として、業界を復興させた。 以後、数度の好不況を繰り返し、昭和
62には過去最高の生産額になり一宮は全国的な
毛織物産地としての地位を確立した。 この間、昭和
30年代中頃から40年代は、繊維産業に働くため集団就職で全国から若い女性が集ま
り、町は力強く、華やいだ時であった。 この時期は、戦後の労働関係法が整備され、更に労働力不足状態であり、金の卵と大事にされ、
労働環境が整備され働きながら学ぶ県立全日制定時制高校や企業内高校が設置された。

 しかし1969年のアメリカへの輸出規制、東南アジア諸国との競合、そして海外への生産機能移転により毎年ごとに繊維産業の割合は
小さくなり、かつての繁栄を偲ぶ工場も大規模店舗、マンションなどに姿を変えており、繊維産業の割合が日々小さくなっているのが
現状である。

2.一宮の成り立ち
 一宮は、戦国時代以前には真清田神社の門前でありながら平凡な農村であった。 江戸時代初期に整備された岐阜街道が村の中央を
通り、一の鳥居付近に宿駅ができたことにより、天保
3(1683)には、青物、農具、綿業道具などを主な取引商品として交換し合う地方
の中心地として発展してきた。
18世紀には、一宮周辺は綿作、一宮東部の江南市以東では養蚕、南部の西春日井郡周辺は青物生産地帯と、土壌に合わせた地域的分業が
進み、各地域で商品作物の生産が盛んに行われるようになった。
     
真清田神社一の鳥居跡
(場所:お旅所西、裁判所西)
  18世紀の一宮周辺の農作物
一宮は、綿、江南市は養蚕、南部の西春日井郡は
名古屋向け青物が農産物であった。
(一宮市博物館で撮影)

一宮の農民は、綿作の利益が大きいことを知り、綿作に力を注ぎ、生産した綿が順調に販売される公認の市の開設を願うようになった。
尾張藩に市
(いち)の設置を幾度も願い出て、ようやく享保12(1727)認可された。 当初は五・十の日の開設であったが、不便なため
日並変更を願い、許可のうえ、真清田神社の御籤により三八市の日並を経て、同年12月から初市を開いた。 当初は勢いが弱かったが、農
民や付近の市の商人に呼びかける努力により活気を呈するようになり、商品となりつつあった綿作の生産を発展させる原動力になった
 

   

<一宮月並み市の図:三八市の様子>

江戸時代末期に尾張藩士の小田切春江が
描いた「尾張名所図会」
天保]15年:1844)

出展:「現代語訳尾張名所図会」 舟橋武志訳
 ブックショップ「マイタウン」 1982

天保13(1842)の資料(一宮六斎市商人書上下帳)によると、三八市の出店数511の内、綿関係73、衣料品94、食品159、日用品101など、
盛況の様子がわかる。 近在の農家が生産した
綿(くりわた)綛(かせいと*注)や農民のあらゆる日用品が販売されている。 綿商人は、
常設の店をかまえ、繰綿の集荷を行う小買商人を配下におき、尾張一帯から仕入れた繰綿を北陸から近江、美濃、三河方面に送り、
農家の副業により糸に加工され、一宮地方の織物の原料として逆移入され、尾西や美濃の機業家に使用され、綿織物として、再び綿
商人により三八市で販売され、主に関西方面に「尾州の桟留縞」として販売された。

 明治4(1871)、新政府は社寺領地を廃止したことにより、真清田神社は無禄になり、氏子制度を発展させるとともに、門前の森を
切り払い、積極的に市を誘致した。 このため、三八市の中心が一の鳥居付近から門前に移、門前町の形態になり栄え、更に明治
19
6月、東海道の尾張一宮駅が開業し、原材料及び製品の発着が集中し、濃尾地震時(明治24年:1891)の商店数は約300軒と発展した。
 明治30年代、一宮の尾州縞は、生産額は全国でも飛びぬけていたという。 多く使用されたガス糸は、全て三八市で取引され、明治
30
9月頃の一日の取引高は綿糸が2万円、紡績糸が1万円に対し、ガス糸は3万円と大きく、全国のガス糸相場は、三八市で立ったと
いわれるほど繁栄し、三八市が今の一宮及び尾州繊維産業の発展に寄与した役割は大きかった。
 
 注1
 
繰 綿:綿から摘み取った綿花をろくろにかけ、綿毛と綿実に分け、次に綿打ちを行い、それを適当な長さに巻いて篠巻きに
     したもの
 
綛 糸:上の繰綿を糸車で紡いだもの。
注2
 
ガス糸:細口の綿糸をガス焔中を適当な速度で通過させ、糸の表面を焼き払うことにより、表面が滑らかで光沢に富む糸になる。
3.衣服の誕生
 
書籍等で中世の絵図には貴族の十二単が描かれているが、衣服が人類の誕生からどのように関わって発展してきた調べてみました
 
縄文時代(1万2千年〜2千3百年前)の日本人は、森では木の実や山菜を採取するとともに獣を捕獲し、川では魚や貝を採って生活していました。 最初の衣服は、食べる
  ために採られた鹿などの獣の毛皮を利用した簡単な被りものでした
     
 縄文時代の衣装の例
(出典:風俗博物館ホームページ05.12.4承認)
 
  狩の風景(一宮市博物館 
 その後、イラクサ、こうぞ、ミツマタなど植物の皮を撚って、ムシロ織り、こも編みしたものと同様に作られた簡単な編布が
使われたと推定されています。 この編布の作り方は、東北の「あんぎん編み」や今の織物を作る仕組みと同じとされています。
参考:北の縄文クラブ(あんぎん編み等縄文人の文化や生活に関心を寄せる人々のグループ)           
     
ムシロ織りの風景(一宮市博物館)    あんぎん編み製品(一宮市博物館)
弥生時代(2千3百年前〜1千7百年前)に大陸との交流が始まり、稲作や金属の加工技術が伝わった同じ時期に、原始機又は
弥生機と呼ばれる織物を作る機械(織機)も伝わった。
 
     
 左右:原始機(弥生機)のイメージ
  (一宮市博物館)