最初に |
一宮市尾西歴史民俗資料館 |
「織姫像」 (一宮市役所立体駐車場の南側にて) |
1・概要 |
2.一宮の成り立ち 一宮は、戦国時代以前には真清田神社の門前でありながら平凡な農村であった。 江戸時代初期に整備された岐阜街道が村の中央を 通り、一の鳥居付近に宿駅ができたことにより、天保3年(1683)には、青物、農具、綿業道具などを主な取引商品として交換し合う地方 の中心地として発展してきた。 18世紀には、一宮周辺は綿作、一宮東部の江南市以東では養蚕、南部の西春日井郡周辺は青物生産地帯と、土壌に合わせた地域的分業が 進み、各地域で商品作物の生産が盛んに行われるようになった。 |
真清田神社一の鳥居跡 (場所:お旅所西、裁判所西) |
18世紀の一宮周辺の農作物 一宮は、綿、江南市は養蚕、南部の西春日井郡は 名古屋向け青物が農産物であった。 (一宮市博物館で撮影) |
一宮の農民は、綿作の利益が大きいことを知り、綿作に力を注ぎ、生産した綿が順調に販売される公認の市の開設を願うようになった。 |
<一宮月並み市の図:三八市の様子> |
天保13年(1842)の資料(一宮六斎市商人書上下帳)によると、三八市の出店数511の内、綿関係73、衣料品94、食品159、日用品101など、 盛況の様子がわかる。 近在の農家が生産した繰綿(くりわた)綛糸(かせいと*注)や農民のあらゆる日用品が販売されている。 綿商人は、 常設の店をかまえ、繰綿の集荷を行う小買商人を配下におき、尾張一帯から仕入れた繰綿を北陸から近江、美濃、三河方面に送り、 農家の副業により綛糸に加工され、一宮地方の織物の原料として逆移入され、尾西や美濃の機業家に使用され、綿織物として、再び綿 商人により三八市で販売され、主に関西方面に「尾州の桟留縞」として販売された。 明治4年(1871)、新政府は社寺領地を廃止したことにより、真清田神社は無禄になり、氏子制度を発展させるとともに、門前の森を 切り払い、積極的に市を誘致した。 このため、三八市の中心が一の鳥居付近から門前に移り、門前町の形態になり栄え、更に明治19年 6月、東海道の尾張一宮駅が開業し、原材料及び製品の発着が集中し、濃尾地震時(明治24年:1891)の商店数は約300軒と発展した。 明治30年代、一宮の尾州縞は、生産額は全国でも飛びぬけていたという。 多く使用されたガス糸は、全て三八市で取引され、明治 30年9月頃の一日の取引高は綿糸が2万円、紡績糸が1万円に対し、ガス糸は3万円と大きく、全国のガス糸相場は、三八市で立ったと いわれるほど繁栄し、三八市が今の一宮及び尾州繊維産業の発展に寄与した役割は大きかった。 |
注1 繰 綿:綿から摘み取った綿花をろくろにかけ、綿毛と綿実に分け、次に綿打ちを行い、それを適当な長さに巻いて篠巻きに したもの。 綛 糸:上の繰綿を糸車で紡いだもの。 注2 ガス糸:細口の綿糸をガス焔中を適当な速度で通過させ、糸の表面を焼き払うことにより、表面が滑らかで光沢に富む糸になる。 |
3.衣服の誕生 書籍等で中世の絵図には貴族の十二単が描かれているが、衣服が人類の誕生からどのように関わって発展してきた調べてみました。 縄文時代(1万2千年〜2千3百年前)の日本人は、森では木の実や山菜を採取するとともに獣を捕獲し、川では魚や貝を採って生活していました。 最初の衣服は、食べる ために採られた鹿などの獣の毛皮を利用した簡単な被りものでした。 |
縄文時代の衣装の例 (出典:風俗博物館ホームページ05.12.4承認) |
狩の風景(一宮市博物館) |
その後、イラクサ、こうぞ、ミツマタなど植物の皮を撚って、ムシロ織り、こも編みしたものと同様に作られた簡単な編布が 使われたと推定されています。 この編布の作り方は、東北の「あんぎん編み」や今の織物を作る仕組みと同じとされています。 |
参考:北の縄文クラブ(あんぎん編み等縄文人の文化や生活に関心を寄せる人々のグループ) |
ムシロ織りの風景(一宮市博物館) | あんぎん編み製品(一宮市博物館) |
弥生時代(2千3百年前〜1千7百年前)に大陸との交流が始まり、稲作や金属の加工技術が伝わった同じ時期に、原始機又は 弥生機と呼ばれる織物を作る機械(織機)も伝わった。 |
左右:原始機(弥生機)のイメージ (一宮市博物館) |