第九章 神奈川県の鎌倉街道<京鎌倉往還>
足柄路と箱根路 
京鎌倉を連絡する鎌倉街道は、最期になって足柄峠や箱根峠を通行する最大の難所が待ち受けている。 
下の地形図は静岡県と神奈川県にまたがる、古代から中世の街道の足柄路と鎌倉時代中頃から活発に利用された箱根路(西坂、湯坂路)
経路を落とし込んだ地形図である。・・・(山梨県山中湖村作成観光資料の立体地形図を応用)
最短で連絡している箱根路は、標高が高く、かつ勾配がきついため、最初は遠回りであったが、足柄路が幹線道路であった。 箱根路の
難点は、現代になっても解決できない課題であり、東海道、東海道新幹線、東名高速道路が箱根を迂回していることを確認されれば理解できると
思う。 (先日、足柄路(9/30)と湯坂路(10/1)を二日かけて歩きましたが、雨上がり直後でもあり湯坂路の険しさに悩まされました。
 参考:5キロで7百メートル下がっています。 十六夜日記のとおり足留まりがたしでした。 ストックが大活躍でした。)
平安時代初期の延暦二十一年(802)5月、富士山の噴火により足柄峠越の足柄路が通行不能となったため「箱根路」が開かれた。 翌年5月には
「足柄旧路」に復しており、やはり当面は足柄路が主道であった。
12世紀末、鎌倉に幕府が開かれると、従来の都から地方への物や人の流れが、二元化し活発となった。 このため、時間の短縮化が求められ、
嶮しい箱根路の利用が大幅に増加した。 また源頼朝は、箱根神社、三島大社などの参拝に熱心であったので街道整備が進んだとされる。
この街道の利用の変化は、紀行文にも記録されており、味わい深い記録となっている。
 
箱根山の誕生物語<概要>
箱根山は約40万年前に始まり、大規模な噴火によって20~30万年かけて富士山形の火山体が作られた。 その高さは、2700㍍と推定されて
いる。 第一期活動が終わると、火山内部の圧力が下がって、山頂部が大規模な陥没を起こし、カルデラができた。 このとき周りに取り残され
たのが、明神ヶ岳、三国山など海抜千㍍前後の「古期外輪山」である。
カルデラ誕生後、穏やかな火山活動が続いたが、約5万2千年前頃、カルデラ内の盾状火山が噴火を起こし、再び陥没して取り残されたのが
浅間山、鷹巣山等の「新期外輪山」である。
箱根火山の最期の爆発は、約3千年前の大涌谷の水蒸気爆発で、土砂流が早川上流をせきどめ、現在の「芦ノ湖」ができた。
出典:静岡県自然観察ガイドブック31<箱根外輪山西麓> 静岡県環境森林部地球環境室企画編集
***上の立体地形図は、少し正面を外して見ると、立体模型らしく見えると作者は申しています。
 

 足柄路(静岡県小山町)
 
     
駒門風穴(こまかどかざあな)<静岡県御殿場市駒門> 
足約一万年前の新富士火山の噴火によりできた溶岩隧道で、
国内で最も古く、また大きなものの一つとされる。 学術資料
としても貴重で大正11年3月、天然記念物に指定されている。
<見学者用チラシ引用>
***更科日記***
・・・ここから先は駿河だ。「よこはしり*関」の傍らに「いわ
つぼ」というところがあった。 大きな岩が四方を囲んで、その
中に穴があって水が湧き出ている。 冷たくてきよらかこと
限りなし。
*横走・・・古代、横走に駅(うまや)<伝馬乗り継ぎ>が
    あったと推定されている。 
<海道記><解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
十五日、黄瀬川を出発。逢沢という野原を通る。 
この野原は
何里ほどかわからないほど広い。 遙々と行くと、供の侍が「ここで
もはや最期です」と申し上げると、「心中、考えることがある。 もう
少し」と頼んで許され、さらに遠くに過ぎていったというが、その
様子は本当にひかれゆく羊の歩みと変わらない。
(以下、略)
 <あの高貴な人がなぜ都を離れ、栄華を失って、この東国で
  秋の木の葉として散ってしまったのか>
  藍沢五卿神社 <静岡県御殿場市新橋>
承久三年(1221)、後鳥羽上皇による鎌倉幕府への倒幕作戦
「承久の乱」が失敗した結果、倒幕首謀者側の藤原宗行等の
うち、上皇の信頼が厚かった藤原宗行が鎌倉へ送られる途中
の御殿場市鮎沢付近で最期を遂げたため、昭和初期になって、
神社として建立された。
<海道記>
十五日、黄瀬川を立つ。 藍沢と云ふ野原を過ぐ。 この
野、何里とも知らず、遙々と行けば、納言は、「ここにて、
はや暇
(いとま)うべし」ときこえけるに、「心中に所作(しょさ)
あり、今しばし」と乞
(こ)ひ請けられければ、猶、遙かに過ぎ
行きけん。 実
(まこと)に、羊の歩(あゆみ)に異ならず。
(以下、略)
 <都をばいかに花人(はなびと)春たえて東(あずま)の
  秋の木の葉とはちる。


*所作:念仏読経をすること。

<解説は左欄です>
     
和泉山円通寺<静岡県小山町新柴> 
足柄駅から南約1キロ強にある円通寺。 ここは、小栗判官
の愛馬「鬼鹿毛(おにかげ)」が祀られている。 説話物語の
世界であるが、主要街道近くにあることに物語の伝播を感じ
る。  街道遺構ではないが、関連深い事項として紹介したい
「鬼鹿毛」伝説の関係で、競馬関係者のお参りが絶えないと
いう。 小栗判官物語(安井理夫著)によると「小栗実記」の
原本があるという。 
  大雄山宝鏡寺<静岡県駿東郡小山町竹之下> 
新羅の僧・審祥(しんしょう)の開基と伝えられる古刹。 古くは
地蔵院といわれていたが、後に宝鏡寺と改められた。
通称、竹之下の地蔵さんとして多くの信仰を集めている。
本尊の木造地蔵菩薩像(秘仏)は、南北朝時代の作とされる。
 
 
竹之下古戦場碑<静岡県小山町竹之下>
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まった
が武士の支持が広がらない中、1335年7月、執権北条氏の残党
が大規模な反乱を起こした。 <中先代の乱> このとき、鎌倉
を預かった執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向けたが敗れ、
北条勢に鎌倉を占拠される情勢となった。 足利尊氏は、後醍醐
天皇の許可を得ないまま、進撃し、たちどころに鎌倉を取り戻した。
この後、足利尊氏は帰京せず、鎌倉に腰を落ち着けてしまった
ので、後醍醐天皇は新田義貞に足利討伐を命じた。 尊氏は
弟直義に統帥権を譲り、寺に蟄居した。 尊氏抜きで、新田軍
に対抗した足利勢は、連戦で負け、箱根山中を最期の場とする
べく陣地の構築を進めた。 足利一門の命運をかけた戦に参加
するため、出兵した尊氏は迂回して足柄峠を越え、竹之下に布陣
する新田陣営の搦めての軍勢に夜明けの奇襲攻撃をかけた。
新田軍は奇襲攻撃に狼狽し、崩れさって敗走した。 戦闘三日目
には、新田勢は箱根を引き払い三島(伊豆国府)で戦ったが、敗
れ富士川を渡って敗走した。 竹之下合戦とは、この三日間の合戦
全般を指すとされる。
千束(ちづか)<静岡県小山町竹之下> 
小山町・JR御殿場線足柄駅近くを南北に流れる鮎沢川に架かる
千束(ちづか)橋。 新田軍が竹之下を引き払う際、橋を落とした
ので、足利軍が千束投げ入れて橋の代わりにして渡ったという。
橋の後方が令和2年7月新築なった足柄駅舎、一帯が竹之下宿。
<海道記>
 十六日、竹の下を立ち、林の中を過ぎて、遙かに行けば
 千束
(ちづか)の橋を独梁(ひとつはし)にさしこえて、足柄山
 に手をたててのぼれば、君子の松、厳
(いつく)しくして、
 賢人の風、過ぐる笠を留め、客雲
(かくうん)、梢に重なりて、
 故山の頃、あらたに高し。

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
十六日、竹の下を出発、林の中を通って遙々と過ぎると、長い
一本の丸太橋を渡り、足柄山を這うように昇ると、君子のような
松が厳然と立ち、貴人のような風は通り過ぎる者の笠を
吹きとり、
雲は梢に重なり合って、山頂が一段と高く見えた。
     
足柄峠越えの足柄古道
JR御殿場線足柄駅横の踏切を渡ると、正面に道案内が
ある。 この奥に足柄小学校がある。
当初(16.04)は右の県道78号を歩いたが、間違いである
ことに気づき、今回、左の全面通行止めの林道・足柄古道
を歩いた。 昨年の豪雨災害の影響を心配し、観光協会に
問い合わせし、資料をいただいて、何とか歩いて足柄峠越え
ができた。
また、余り情報がない中、新しい駅舎に役場支所を発見し、
相談し力になっていただきました。 商高観光課にも大変
お世話になりました。 感謝申し上げます。
***
足柄路及び箱根路(湯坂路)を令和2年9月29日~10月1日
の間、歩いたが、昨年の豪雨被害の傷跡が生々しかった。
それぞれ復旧工事がなされているが、この区間を歩かれる
場合は、観光協会などで事前確認することをお勧めしたい。
  唯念大名号塔<静岡県小山町竹之下> 
天保元年(1830)、小山町上野、奥の沢の唯念寺を開いた
唯念上人の筆による日本一の大きな石仏である。 当時、
富士山麓一帯は飢饉と大疫病の流行で農民の苦しみは
はかり知れないものがあり、村の人たちは大変困っていた。
丁度その頃、足柄山中で修行中の唯念上人は、村の人
たちの困難を見て救おうと心を込めて念仏を唱え災難厄除け
の祈願を続けていた。 地物人たちも、これを聞いて力を合わ
せて大きな石に波阿弥陀仏の名号を彫り、この地に建てて、
上人とともに「悪疫退散、極楽往生」のお祈りをした。
そのかいがあったのか、流行病(はやりやまい)も収まり、平
穏な暮らしに戻ったので上人を慕って信者になる人が多かった。
念仏講を作り報恩感謝の供養を続けている。・・説明版から引用
***
県道78号沿いにある。 江戸時代の建立であることから当時の
街道があったと思われる。(ほぼ中間の林道交差箇所付近にある)
      
頼光対面の滝<静岡県小山町竹之下>
頼光は、平安中期の武将である源頼光である。 足柄山の金太郎
(坂田金時)が初めて頼光と出会った地という伝承を記す。 頼光の
有力な武将・四天王の一人として活躍が伝わる。
  銚子ヶ淵<静岡県小山町竹之下>
若い娘が祝言の場での失態を恥じて銚子を抱いたまま、この淵に
身を投じた。 草履が浮くなど花嫁のたたりを恐れ、地蔵尊を安置
して懇ろに供養したら、再び草履は浮いてこなかったという。
     
虎御前(とらごぜん)<静岡県小山町竹之下>
建久4年5月28日、源頼朝が行った富士の巻き狩りの齋に、
蘇我十郎祐成と曽我五郎時致兄弟が親の仇の工藤祐経を
討ち取ることができた。 この石は富士の裾野が見渡せる高台
にあり、十郎の恋人の虎御前が石の上で終夜富士の裾野の
方を眺め明かしたと伝わる。
<小山町役場からいただいた「ふるさとあしがら」(足柄史跡を
守る会・足柄小学校編>から引用。 ありがとうございます。
なお、小田原市下曽我近傍の六本松跡に仇討ち前日の一夜
を過ごした伝承の「忍石」がある。 虎御前居住の大磯、曽我
兄弟の下曽我、ここ足柄峠と一本の線で繋がっている。
  六地蔵<静岡県小山町竹之下> 
足柄峠
の少し西にある六地蔵。 標高750m前後の場所に
よる降雪などを防ぐため屋根のある地蔵小屋である。  傍に、もう
一カ所、六地蔵が安置されている。
     
足柄城趾<静岡県小山町竹之下> 
創築者及び年次は不詳とされる。 平安末期頃から戦略上の
拠点として何度か軍事的な施設が設けられた形跡がある。
(説明版から引用) 石垣は、道路整備に伴い設置された
ようである 
  足柄城趾から見る富士山(20.9.30 午前11時頃撮影) 
<標高759㍍からの眺望です。 全体が見える機会は、本当に
少ない。 この眺望を撮影することも今回の目的の一つです>
    <海道記>
 時に、万仞(ばんじん)峰高し、樹の根にかかりて腰をかがめ、
千里巌嶮
(いわおけわ)し、苔の鬢(びん)をかなぐりて脛(はぎ)
ののく。 山中を馬返
(むまがへし)と云ふ。 馬、もし、ここに留まり
たらましかば、馬鞍とぞ云はまし。 此より相模国にうつりぬ。
<秋ならばいかに木
(こ)の葉(は)のみだれまし嵐ぞおつる
 足柄の山>
 
新羅三郎義光吹笙之石<静岡県小山町竹之下> 
新羅三郎義光は、奥州の乱に出兵した兄八幡太郎義家の応援
のため足柄峠にさしかかったが、自分が戦死するかもしれないと、
義光が笛の極意を授かった豊原時元の息子、時秋にこの塚に
腰をかけて笙の笛の秘曲を伝授し、時秋を京に帰したと伝えられて
いる。 ・・・南足柄市HPから引用 
   <解説>
世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
この時、非常に峰は高く、樹の根にすがって腰を曲げて進み、
長く続く岩は嶮しく、鬢のような苔をかきむしるように行くと、足が
震える。 この山中を馬返(うまがえし)と言う。 もし馬がここで
引き返さずに留まったら馬鞍(まくら)と言っただろうか。 ここから
相模国に移った。
<秋ならばどのように木の葉が乱れ散ることだろう。 強い風が
 麓に吹き下ろしている足柄山では>
   
聖天堂(しょうでんどう)<静岡県小山町竹之下> 
弘法大師の建立といわれ、ご本尊は等身大の石仏で秘仏で
あり公開されていない。 福運厄除け等にご利益(りやく)がある
とされる。 4月20日が大祭日である。 先回、初めての探索日が
16年4月20日で大祭の準備中であった。 (20.9.30撮影)
  足柄峠<静岡県小山町・神奈川県南足柄市> 
古くから官道として防人や旅人の往来が盛んであった。
律令国家の時代、九州の防備のために駆り出された東国
出身の防人(さきもり)たちはこの峠を越えて遥か西へと旅
立っていった。 万葉集に見られる幾多の「防人の歌」は防
人やその家族が別れを惜しんで詠んだ歌。


 
 足柄路(神奈川県南足柄市)
     
足柄の関<神奈川県南足柄市> 
昌泰(しょうたい)二年(899)、盗賊(シュウ馬(※「シュウ」は、イ+就)
の党
)を防ぐ目的で設置された。
地蔵堂<神奈川県南足柄市矢倉沢> 
神奈川県指定文化財の「足柄地蔵尊」が 祀られている。この
地蔵尊には伝承であるが、聖徳太子作とか御殿場の仁杉に
あった杉の霊木で作られた三体の一つとされる。
     
足柄神社<神奈川県南足柄市苅野> 
県道78号、苅野駐在所前に古道に入る案内がある。
境内の説明には、かっては山の神として足柄峠にあった。
その後、矢倉岳、現在の苅野に遷座し、矢倉明神社と称され
たが、昭和14年、足柄神社に改称され、南足柄の総鎮守と
して崇敬を集めている。
  白地蔵尊<神奈川県南足柄市苅野> 
石仏本体の座高は、約80㎝。 安産と授乳に霊験があると伝え
られる。 布で作った乳房や赤旗をあげて願をかけ、お礼参り
には、本体にうどん粉を塗りつける風習が続いている。 万治
二年(1659)の検地帳に、この辺りを「化粧坂」と記されている
ことから「室町時代」以前から祀られていたと思われる。
<横にある説明版から引用>
     
足柄の関<南足柄市> 
県道78号西にある総合グランド。 左に説明版があり、古代律
令制の東海道・坂本駅(うまや)があったとしている。 足柄峠
越えを控え周辺では最多の駅馬が22匹配置された。
***更科日記***
・・・足柄山へは(唐土ヶ原:平塚市撫子原から)4,5日もかかったが、
暗くて恐ろしそうな山だった。 麓(関本)で宿をとった。 月もなく
道に迷いそうな闇夜だったが、その闇の中から遊女が三人ばかり
どこからともなくやってきた。
空に響き渡るような素晴らしい聲でめでたい歌をうたう。
みな別れを惜しんで涙をながしたりする。 子供心にも
その場を去りがたい気持ちがした。
次の日はまだ暗いうちに足柄の山越えをした。 山の恐ろしそうな
様子は言葉にならない。 雲を足の下に踏む。
***
 更級(さらしな)日記は、寛仁四年(1020)父・藤原孝標が上総の
任を終えて帰郷する際、同行した娘が晩年書き残した旅の回想
録である。 旅の記録は、時間が経過しており、地名などに間違い
が見受けられる。
  高札場跡<関本宿跡><南足柄市関本> 
江戸時代、矢倉沢往還高札場の案内施設。 中央の新しい御触書
タイプの解説板に、古代から鎌倉前期の足柄街道の坂本駅として
更級日記や海道記に様子が詳しく書かれていると説明されている。
 <海道記>
 関下の宿を過ぐれば、宅(いえ)を双(なら)ぶる住民は
人をやどして主とし、窓にうたふ君女
(くんじょ)は、客(かく)
留めて夫とす。 (一部略)
 <桜とて花めく山の谷ほこりおのが匂(にほひ)も
  春は一時(ひととき)>
 路は順道
(じゅんどう)なれども、宿を逆川と云ふ所に泊る。

 <解説>
世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
関下の宿場を通ると、家を並べる住民は旅人を泊めて、一夜の
夫と主人とし、窓際で歌う遊女は旅人を引き留めて一夜の夫と
する。 (一部略)
<これこそ桜だと美しく咲いて時めいても、それは谷の自慢に
 すぎず、その盛りも春の一時の色にすぎないにだよ>
順当な道筋なのだが、逆川とよんでいる宿場に泊った。
   
大雄山最乗寺<神奈川県南足柄市> 
大雄山最乗寺(道了尊)の草創応永元年(1394年)。 福井県の
永平寺、鶴見の総持寺に次ぐ格式のある曹洞宗のお寺である。
創建に貢献した道了という僧が、寺の完成と同時に天狗になり
身を山中に隠したと伝えられることから、道了尊とも呼ばれている。
この道了にちなんで、境内には多くの下駄が奉納されている。 
  奉納下駄<最乗路境内> 
天狗になった道了にちなんで、境内には下駄が奉納されている。 



箱根路<西坂>及び<湯坂路>
箱根路西坂(三島市) 
 
平安・鎌倉古道について 
 
 扇平分岐に設置されている説明版(平成4年11月設置)及び三島市教育委員会が作成・配布されている「平安・鎌倉古道マップ」に
街道の歴史概要等が記載されているので、下記にご紹介したい。 また、街道遺構を歩いたのは、平成29年7月27日に東部の芦ノ湖
カントリークラブから下る行程の一日である。  ここでは紀行文の行程に合わせ、西の都から鎌倉に向かう行程で進んでいる。 箱根
西坂を下から進む形で説明を試みたが撮影方向等無理があるので、東(上)からの行程になっていることをご理解いただきますように
お願いします。
復元された平安・鎌倉古道
平安時代、箱根越えの道は。現在の長泉町・裾野市・御殿場市をとおり足柄峠を越える足柄道でした。
 延暦二十一年(802年)正月、富士山の大噴火で足柄道がふさがり、そのため三島大社から元山中をとおり芦ノ湖の南岸に出て箱根町
へと抜けるこの「平安・鎌倉古道」が開かれた。 翌年、足柄道は復旧され再び官道として通行できたが、「平安・鎌倉古道」は険しいが距離
が短いなど便利なため多く利用されたようだ。
 鎌倉時代『十六夜日記』の作者(阿仏尼)は「二十八日に三島の国府を出発。 足柄越えは、遠道になるので箱根路をとおることにして、
山道にかかった」とこの道をとおったことが書いてある。 江戸時代に箱根旧道(近世東海道)がつくられると、この道を利用する人はほとんど
いなくなり、地元の人々が通るだけになった。
 (箱根関所以 外の通行は関所破りの重罪)このため忘れ去られた街道となっていた。
平成二年七月、ゴルフ場建設にあたり元山中の山ノ神神社南側を発掘したところ、中世の古銭や銅製品、陶器などが出土し、平安鎌倉
古道が確認された。 これを契機に三島市による古道の復旧及び道しるべ等の整備が行われている。
<三島市役所の資料によれば、入口から三嶋大社まで11.2㎞ 所要時間(下り)約4時間とある>
 
この古道を歩きながら平安・鎌倉時代の旅を偲んでください。
                                    平成四年十一月 三島市教育委員会   *注 緑色の普通文字は作者の加筆 
     
平安鎌倉古道マップ <三島市教育委員会作成>
中にA3サイズの地図と見所が数か所紹介されている。 
平成30年12月、改訂版が発行された。 平安鎌倉古道は情報が
少なく貴重な資料である。 三島駅前にある観光案内所で入手する
ことができる。
  ***三島市総合観光案内所 電話055-971-5000 
  願成寺(がんじょうじ) <三島市川原ケ谷>
宗派は浄土宗で、源頼朝が三嶋大社に百日祈願(ひゃくにちきがん)
をしたときの宿舎となり、祈願成就(じょうじゅ)によって天主君山
(てんしゅくんざん)願成就寺(がんじょうじゅじ)の寺号を賜ったと
伝えられている。 開山は、口伝(くでん)に清安(せいあん)上人と
言われている。
出典:駿豆線沿線地域活性化協議会HP<いずっぱこでGO>
一番高い石柱に「古今伝授の寺」の銘がある。 意味が分からなか
った。 この上に本堂があり、お参り後、堂前に関係資料があり、
撮影し持ち帰り勉強した中で、願成寺メルマガが比較的簡潔にまと
められており、右に紹介したい。
  
     
 古今(こきん)伝授のまち・三島 <願成寺>
戦国時代、三島に陣を構えた武将に東常縁(とうのつねより)がいる。 
武将であるとともに、歌人であり国文学者でもあった。 『古今和歌
集』を研究した奥義を「古今伝授」と称し秘伝として確立した人物で
ある。 文明3年(1471)正月、この常縁のもとに連歌師飯尾宗祇
(いいおそうぎ)が訪れ、初めてその「古今伝授」を授かったのである。
元日本大学教授藤岡武雄先生は、願成寺は三嶋大社歴代宮司
矢田部家の菩提寺であり墓所があること、また鎌倉古道に面して
いることなどを総合して、願成寺が最初の「古今伝授」がおこなわれ
た場所として認定された。<願成寺メルマガから引用>
(画像は、平成29年7月28日願成寺本堂前の展示物を撮影し、
見やすくするため一部トリミングしてある)
   JR東海道本線を越える <三島市川原ケ谷・加茂川町>
箱根に向かう平安鎌倉古道は一段と小高い願成寺の下を
道なりに半周進むと、JR東海道を跨ぐ橋を進む。 
橋を渡ると加茂川町バス停がある。
右折し道なりに進むと、今度は東海道新幹
線を跨ぐ跨線橋と信号機がある交差点があり、そのまま直進
すると旭ヶ丘団地の中となる。  
     
小沢分岐点 <三島市川原ケ谷>
旭ヶ丘団地の中の道は、中学の正面に進み、やや左に道なりに
進むが基本的には直進に進む。 直ぐに掘割の伊豆縦貫道を
跨ぐ橋を越える。 やがて道の右手(東)にゴリラの像があるゴルフ
練習場がある。 三島市内からは写真の樹木の先・前方から、
こちらに進んで来ることになり、ゴリラは木に隠れて見えないので
ご注意を。 練習場の道路側に古道入口の<小沢分岐点>がある。 
  茶臼山展望台 <三島市川原ケ谷>
街道探索を進むと農地が点在する場所に茶臼山展望台がある。
冬場で晴天であれば、冠雪の富士山が見えることもある。
(平成30年3月11日撮影)
     
山中関所跡 <三島市川原ケ谷>
茶臼山展望台を過ぎると、竹と雑木が混在する田舎風の道と
なる。 蛇行し、少し不安になるが、道なりに進むと見晴らしの
よい農地の中となる。 幹線に並行する農道の先に小さな林が
あり、根元に石碑があるのみである。 中世時代、大動脈の箱
根路の関所があったという。  
   山神社(やまじんじゃ)<三島市上元山中>
案内図の先(上)にある山神社。 道沿いにあり、歩いていると
社前に着く。 中央の由緒によると山をつかさどる大山祇命
(おおやまずみのみこと)を祭神とし、山林農耕殖産に神徳があると
いう。 平成二年、ゴルフ場開発に際し、この神社南面を発掘
調査し、中世時代の古銭、銅製品、漆器等が出土したことから
忘れられていた「平安・鎌倉古道」が復元された。 
   
諏訪神社 <三島市上元山中>
山神社から数分先にある諏訪社。 境内設置の由緒によると
大国主命の子である建御名方命(たけみなかたみこと)を祀り、
「日本第一武神」の額を掲げ、崇敬されたという。
 諏訪社を過ぎると左に林間に入るコンクリートの階段と坂路の
道がある。 
  街道遺構 <三島市川原ケ谷>
笹竹が作るトンネルの中の街道。 短い区間であるが、笹が茂り
見通しが悪いので注意が必要である。 
     
扇平分岐点 <三島市川原ケ谷>
復元された推定平安・鎌倉古道の説明版と扇平入口。 簡易
トイレが設置されている。
  林道に並行し、街道遺構があり大きく切り開かれた街道遺構
入口があった。 また、林道交差点の看板の後ろに「Zコース」と
書かれた看板があった。  
     
街道遺構 <三島市佐野>
掘割状の遺構。少し崩れています。  尾根を選択しており、
比較的安定した街道遺構の場所も多い 
  二回目の林道交差箇所 <三島市佐野>
中央草の部分に黒い階段の手すりがみえる。 街道を掲載して
いるHPは十年以上前の内容であり、草がなく階段が見える等
現況と変化していた。  現地で少し迷い、三島市教育委員会に
電話で教えてもらい、探索を続けることができた。 
     
案内版(指導標) <三島市佐野>
多くの案内版が設置されており、安心できる。 数が多いので、
通し番号や距離を足していただけると利便性が増すと思う。 
  鎌倉古道入口 <高原別荘地内>
小さい案内版が道の左に設置されている。 見過ごしやすい
のでご注意を。 この下に鉄塔があり、その横を通ることになる。 
<十六夜日記>
廿八日
伊豆の国府を出でて箱根路にかかる。 いまだ夜深かり
ければ、
 <玉くしげ箱根の山を急げどもなほ明けがたき
  横雲
(よこぐも)の空>
足柄の山は道遠しとて、箱根路にかかるなりけり。
 
<ゆかしさよそなたの雲をそばだててよそになしつる
  足柄の山>
 いと険しき山を下る。

*解説は右欄に掲載
 
  <解説>
中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  28日、伊豆の国府を出て箱根路にさしかかる。まだ夜の暗い
頃なので 
 <箱根の山を急いで越えて行くが、箱の蓋が開かない
  ようにいつまでも明けない、横雲のたなびく空よ>
 足柄路は遠いからというので、箱根路を通るのであった。
  <見たいものだよ。そちらの方角の雲のそびえ立つに
   まかせて、疎遠に過ぎてしまった足柄の山を>
 非常に険しい山を下る。 
     
芦ノ湖カントリークラブハウス前の案内板
<芦ノ湖カントリークラブ内>
進入道路の正面にある案内版。 古道入口からは、左から建物
の下に来て、一号線に向かうことになるが、中間の位置である。
中央の指導標の最下段に鎌倉古道の案内である。 
  芦ノ湖カントリークラブ&別荘地入口
<三島市字南原菅>

国道一号線箱根峠西にある箱根エコーパーキング横の進入道路。
鎌倉古道入口から30分ほど歩くことになる。 この間に江戸時代
東海道遺構の入口がある。 左に箱根峠バス停がある。 



 箱根路<湯坂路>(神奈川県箱根町)
 
     
箱根の関所<神奈川県箱根町> 
中世の遺物ではないが、箱根のシンボルとしてお示ししたい。
  箱根神社<神奈川県箱根町> 
全国屈指の山岳信仰の霊場である箱根山に、入峰修行中の
万巻[まんがん]上人が、箱根大神の霊夢による御神託をうけて、
奈良時代初めの天平宝字元年(757)芦ノ湖畔の現在地に鎮斎さ
れたのが始まり。
  鎌倉期、源頼朝は深く当社を信仰し、二所詣
の風儀を生み、以来執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、武家
による崇敬の篤いお社として栄えた。 ・・・箱根町観光協会HP引用
    <東関紀行>
 かぎりある道なれば、この砌(みぎり:三嶋大社)
をも立ちい出て
なほ行き過ぐるほどに、箱根の山にも着きにけり。 岩が
根高く重なりて、駒もなづむばかりなり。 筥(はこ)ばかりなる
山の中に至りて水海(みずうみ)広くたたへり。 箱根の湖水
と名づく。また芦の海といふもあり。 権現垂迹
(ごんげんすいじゃく)
のもとゐ気高
(けだか)く尊し。 (一部略)
 <今よりは思ひ乱れじ芦の海のふかき恵みを神にまかせて>

 
芦ノ湖と冠雪の富士山<神奈川県箱根町> 
元箱根にある成川美術館から撮影した富士山
(令和2年10月28日撮影)
標高800㍍越えの箱根は平地に比べ約5度低い気温となる。
 冬の古道を行く旅人は、嶮しい坂道に加え、冬の寒さにも苦しんだ
に違いない。 中世の旅人の気持ちを現わす風景として、撮った
画像をお見せできればと思っている。
  <解説>
中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  日程のある旅なので、名残惜しいのだが、この(三嶋大社)を
 出発して、さらに進んでいくうちに、箱根の山に到着した。
 岩が高く重なっていて、馬も行き悩むばかりである。 箱のように
 なっている山の中に行き着くと、湖水が広く満ちている。 箱根の
 湖とよばれる。  また、芦の海ともいう。 箱根権現の鎮座まし
 ます所は、気高い様子で尊く感じる。  (以下、略)
 <今からは、旅の憂さに心を痛めることはすまい。 この芦の海
  のように深い神の恵みを信じることにしたのだから>
     
身替わり地蔵<箱根町元箱根> 
成川美術館入口の右横にある「身替わり地蔵」。 鎌倉殿の13人
の一人である梶原景季(かげすえ)が箱根を通りかかった時、何者
かに襲われたが、傍らの地蔵が身替わりになって、ようやく命が
助かった。 それ以来、「景季の身替わり地蔵」とよんだという。
・・・説明版から引用   
 *注1:源太景季は景時の嫡男
 *注2:
富士市国久保で佐々木四郎高綱と馬比べのトラブルが
     あり、富士市のページで概要を紹介している。
  賽の河原(さいのかわら)<箱根町元箱根> 
箱根神社一の鳥居傍らにある「賽の河原」
地蔵信仰の霊地として江戸時代東海道を旅する人々の信仰を
集めた所。 その規模は大きく多数の石仏、石塔が湖畔に並んで
いた。 明治時代に入ると廃仏毀釈運動の関係で多くの石仏が
失われ、また観光開発の中で段々と規模が小さくなった。
現存する石仏、石塔の中に鎌倉後期と推定される貴重な物も
ある。・・・町教育委員会設置説明版から引用  
     
精進池(しょうじんがいけ)<箱根町元箱根> 
元箱根と湯坂路のほぼ中間になる。 池周辺には、中世の箱根越
として利用された湯坂路(みち)が通っているが、各所に噴煙が立ち
上がる荒涼たる風景であることから人々に地獄として恐れられた。
それゆえ、今から約七百年前、鎌倉時代から室町時代前期にかけて
、旅行く人々を救う仏として信仰された地蔵菩薩を祀る石仏や石塔が
作られた。<国重要文化財>・・・箱根町観光協会HP引用
   元箱根磨崖仏(俗称二十五菩薩)<神奈川県箱根町> 
地蔵信仰に基づく石仏や石塔が数多く建てられ、祀られた。
 <国指定重要文化財>
     
五輪の塔(俗称曾我兄弟、虎御前の墓)<箱根町元箱根> 
地蔵菩薩を信仰する集団が平等利益を願い、永仁三年
(1295)に建てたことが銘文から分かる。 
傍の説明版には、タイトルの(俗称蘇我兄弟・・・)についての
説明が一切ない。 伝承の範囲と思われる。
  湯坂路(ゆさかみち)入口<神奈川県箱根町> 
国道一号線「湯坂路入口」バス停近くに西入口がある。
行程約6.5キロの始まりである。 
     
鷹巣(たかのす)<神奈川県箱根町> 
山頂は標高834㍍。 ここは少し下がり標高804㍍の休憩場。
   湯坂路の難路<神奈川県箱根町> 
歩いた令和2年10月1日は、午前9時過ぎまで雨であった。
山の中の道であるのでアップダウンは、幾多あるが、湯坂を
下りる直前は約1キロほど、石畳であるが、その前1キロ強は
要所で階段の補修はされているが、木の根が露出し、嶮しい
山道を進むことになる。 神奈川県のハイキング資料では浅間山
(標高801㍍)から湯坂バス停まで4キロ強を7百m下りることに
なる。 事前の調査、ストックなどを用意すると助かるので参考に。
    <東関紀行>
 この山をも越え下りて、湯本といふ所に泊りたれば、太山
 
(みやま)おろし烈(はげ)しく打ちしぐれて、谷川みなぎりまさり、
 岩瀬(いはせ)の波高くむせぶ、*暢臥房
(ちゃうぐわばう)
 夜の聞
(きき)にも過ぎたり。 かの源氏の物語の歌に「涙もよ
 ほす 滝の音かな」といへる、思ひよせられて哀れなり。
 <それならぬ頼みはなきを故郷
(ふるさと)の夢路(ゆめぢ)ゆる
  さぬ滝の音かな>
   *暢臥房:暢師房の誤り。 河南省香山にあった禅師
          文暢の僧坊 
 
湯坂路東入口<神奈川県箱根町> 
元箱根から箱根湯本まで約10キロ鎌倉古道の東入口。
箱根登山鉄道「箱根湯本駅」から徒歩10分程度の近さである。
左の国道一号線の先に 土木遺産指定の旭橋が見える。
  <解説>
中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  この箱根を越えて山を下って、湯本という所に泊ったのだが、
 山から吹き下ろす風が時雨をともなって激しく吹き荒れて、谷川
 の水があふれ増していて、岩の多い波音が高く響き、あの暢臥房
 の深夜の水音を聞いたということよりもまさっている。
 あの「源氏物語」の歌に、「涙が出てきてしまう滝の音だなあ」と
 ある。 それが重い出されて心も動かされる。
 <旅寝ではせめて故郷の夢をみたいという願いの他はないのに
  激しい滝の音が夢を見ることを許してくれないよ>
 <十六夜日記> 
いと険しき山を下る。 人の足もとどまりがたし。
湯坂とぞいふなる。 辛うじて越え果てたれば、麓に
早川といふ川あり。 まことにいと早し。 木の多く
流るるを「いかに」と問へば、「海人
(あま)の藻塩木(もしほぎ)
を浦へ出ださむとて流すなり」と言ふ。
 <東路
(あづまじ)の湯坂を越えて見渡せば塩木(しほき)
  流るる早川の水>
湯坂より浦に出でて、日暮れかかるに、なほ泊るべき所
遠し。 伊豆の大島まで見渡さるる海面(うみずら)を
「いづことか云ふ」と問えば、知りたる人もなし。
 海人の家のみぞある。
 
<解説>
中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  非常に嶮しい山をくだる。 人の足も止められない急坂で
ある。 湯坂というのだそうだ。 やっとの思いで越えてしまうと
、麓に早川という川がある。 本当に流れが大変はやい。 木が
たくさん流れているのを「あれは何」と聞くと、「海人(あま)の藻塩
を焼く木を海岸に出そうとして流すのです」と言う。
 <東国への道の湯坂を越えて見渡すと、藻塩木が流れて
  ゆく早川の水よ>
湯坂から浜に出て、もう日が暮れかかるのに、まだ泊る予定の
所は遠い。 伊豆の大島まで見渡される海面を「何という名の
所」と聞いても、知っている人もない。 ただ海人の家だけがある。
  早川<神奈川県箱根町> 
箱根登山鉄道湯本駅近くの早川。 川の流れが急であることが
分かる。 鎌倉時代は、源氏と箱根神社が強く結ばれた関係で
神社領地が広く、製塩に必要な木材を海に流すことは、神社の
了解事項であると理解されている。