西相模の概要  
はじめに
足柄峠を越えた「海道記」は、関本宿を経由し、順当な道筋として逆川(酒匂宿)に泊ったことが記録されている。
東関紀行は、箱根峠を越えた最期の夜を湯本で宿し、急ぐ気持ちから大磯、江ノ島、もろこしが原の有名な所をゆっくり見れなく、不本意であったと
残念がっている。 十六夜日記は、箱根峠(特に湯坂路)を足も留まりがたしと難儀した上で、なおも海人(漁師)の家しか見えない浜を疲れた足で
酒匂宿近くの鞠子川(酒匂川)をひどく暗い中を探りながら渡ったとしている。 <小田原の地名は鎌倉時代末期の14世紀初頭初出・・・小田原
市史p242> 翌日は、浜路をはるばると行くとしており、海辺を歩いた印象を強く感じさせる。
***鎌倉街道の推定遺構について***
三紀行文とも酒匂(逆川)宿を通っているが、海道記は海岸沿いの丘陵地帯、東関紀行は経路の記述が無く不明である。
十六夜日記は上のように「浜路をはるばると行く」としており、海辺を進んだことは間違いないと思われる。
小田原市史、二宮町史及び大磯町史は、中世の古道(鎌倉街道)の経路について、記述がほとんどない。 
鎌倉街道(京鎌倉往還)街道探索の精度を高める目的で、現地に赴いて役場や図書館で情報収集を行って「古老などから聞き取った小冊子」
を入手することができた。
 ここでは、丘陵地を進む道が鎌倉街道としているが、浜辺を進んだ伝承が、例外事項のように書き足されている。
当時の地形を理解するにつれて、浜辺を進むことが、時間節約と疲れが少なく必須と道を思えてきた。 同じことは、名古屋市南部の年魚市潟、
さった峠下の海辺の道「岫が崎」<静岡市清水区興津中町においても海辺道が利用されたことに注目したい。
このことから、十六夜日記に海辺を進む記述があることから詳細は詳らかでないが、浜辺を進む道を採用したい。
主な参考資料
○小田原市史 通史編 原始古代中世 平成10年3月13日発行
○二宮町制施行70周年記念 ふるさと再発見5<道の変遷と町の発展>  2006(平成18年)3月31日発行 二宮町教育委員会
○大磯町文化史  昭和31年6月大磯町教育委員会発行  ○大磯観光ガイドマップ
○中世の東海道をゆく 2008年4月25日発行 榎原雅治著
 
小田原市の鎌倉街道  
     
長興山紹太寺(しょうだいじ)<小田原市入生田>
黄檗宗の名僧・鉄牛和尚の開山。 徳川三代将軍家光の乳母
春日局や小田原藩主、稲葉正則の墓所がある。
  居神(いがみ)神社<小田原市城山>
永正十七年(1520)の創建であるが、境内の一画に鎌倉時代末の
古碑群
があり、五輪塔など5基が市指定重要文化財である。  
     
小田原城<小田原市>
前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が八幡山に
築いた山城であったが、詳細は不明である。 15世紀末、北条早雲
が進出し、北条氏が5代百年にわたって勢力を拡大し、中心拠点と
して
整備拡充された。 しかし、天正18年、秀吉の小田原攻めに
より北条氏は滅亡した。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保
氏が城主となり、近代城郭の姿に改修された。 その後、大久保
氏の改易により城は破却されたが、稲葉氏(春日局の息子)の
入城の際に再整備された。・・・小田原城HPから引用
  新田義貞の首塚<小田原市東町>
建武の中興
の柱石であった新田義貞は北陸を転戦中、延元
3年(1338)、越前国勝島で討死し、足利尊氏によって首級を
晒されていた。 家臣の宇部宮泰藤が首を奪い返し、主君の
本国・上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下ったが
酒匂川のほとりに達した時に病に罹り再起できなくなり、この地
に埋葬して、自身もこの地で没したと伝えられる。
 <現地の説明版より引用>

    <十六夜日記>相模路 ー 酒匂より鎌倉へ(1)
 鞠子川(まりこかは)といふ川を、いと暗くてたどり渡る。
 今夜は
(こよひ)は酒匂(さかは)といふ所にとどまる。
 「明日は鎌倉へ入るべし」と言ふなり。
酒匂(さかわ)神社・酒匂宿・浜御所跡<小田原市酒匂2>
大和朝末期、大和朝から派遣された統治者が守護神として「八幡
社」を
祀ったのが最初である。 平安末期、後鳥羽上皇が箱根権現
に酒匂郷48町を寄進した。 安久五年(1149)、箱根権現を勧請し、
「駒形社」を祀った。 出典:「酒匂神社の由来」から引用
足柄道と箱根道の合流点に位置し、古代末期以来宿駅として栄
えた。 また、鎌倉時代の将軍の宿泊・休憩施設であった「浜辺
御所」跡が西隣接地と推定されている。
(小田原市史p235)
  <解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  鞠子川(まりこがわ)という川を、ひどく暗い中をさぐりながら渡る。 
 今夜は酒匂という所に泊る。 「明日は鎌倉に着くはずだ」という
 話である。
     
鞠子川(まりこがわ)という川を、ひどく暗い中をさぐりながら渡る。 
 今夜は酒匂という所に泊る。 「明日は鎌倉に着くはずだ」という
 話である。

   <十六夜日記>相模路 ー 酒匂より鎌倉へ(2)
 廿九日、酒匂を出でて、浜路をはるばると行く。 
 明けはなるる海の上を、いと細き月出でたる。
  <浦路行(うらぢゆく心細さを
   波間
(なみま)より出でて知らする有明(ありあけ)の月>

 (なぎさ)に寄せ返る波の上に、霧立ちて、あまた見えつる
 釣舟も見えずなりぬ。

  
<あま小舟(こぶね)漕ぎ行く方(かた)を見せじとや
               波に立ちそふ浦に朝霧>
 都の遠く隔たり果てぬるも、なほ夢の心地して、
   <立ち別れよも憂
(う)き波はかけもせじ
               昔の人の同じ世ならば>
     <十六夜日記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
  29日、酒匂を出て、海岸の道を遙かに行く。 明けようとする
  海の上に、大変細い月が出ている。
  <海岸を行く心細さを、これぐらいですよと、波間から出て
      知らせてくれる、細い細い有明月よ。>
  渚(なぎさ)に寄せては返る波の上に霧が立って、たくさん見えて
  いた釣舟も見えなくなった。
  <海人(あま)の小舟が漕いで行く方角を見せまいとしてか、
       波に加えて立つ、浦の朝霧よ>
  都がすっかり遠く隔たってしまったのも、いまだに夢を見ている
  ような感じがして、
   <愛する人々と別れて、まさかこんな辛い涙に濡れる旅は
    しないものを。 夫が生きているままの世であったならば> 
                                        
 大磯漁港から小田原方面を望む 
     <海道記>四月十六日、足柄山・関下・逆川(3)
 道は順道(じゅんだう)なれども、宿(しゅく)を逆川(さかは)という
 云ふ所に泊る。潮のさす時は上
(かみ)ざまに水の流るれば、
 さか川と云ふ。 
 潮のさす時は上
(かみ)ざまに水の流るれば、さか川と云ふ。
    (一部略)

 棹歌数声(たうかすうせい)、舟船(しゅせん)を明口峡(めいぐわつかふ)
 の口によせ、松琴万曲
(しょうきんばんきょく)、琵琶を尋陽江
 (じむやうかう)の汀(みぎは)にきく。 一生の思出は今夜(こよひ)
 泊
(とまり)にあり。
    <行きとまる磯辺の波の夜の月
       旅寝の袖にまたやどせとや>

 
 
六本松跡<小田原市曽我別所>
曽我山(当時山彦山といった)の峠道で、六本の古松があったこと
からこう呼ばれていた。 この峠は鎌倉時代、曽我氏・中村氏・松
田氏・河村氏の各豪族の居館と鎌倉を結んでおり、曽我別所から
足柄峠へと通ずる「鎌倉道」、大山からこの峠を越えて高田・千代・
飯泉へ通ずる「大山道(中村通)」、そして押切方面より小田原に至る
「箱根道」が交わる重要な峠であったといわれている。
  出典:小田原市HP(観光のページ)から引用
 
六本松跡近くに仇討ち前日、虎御前と一時を過ごした十郎が、
ここで虎御前と別れを惜しんだという「忍石」がある。 傍に設置
された説明版によると「曽我物語」によれば。 虎御前は大磯に
戻ったとあるが、足柄峠には、仇討ち成功を祈った虎御前が一晩
を過ごしたとされる「虎御前石」がある。 各地に曽我物語に関連
したとされる伝承が残されている。
 
   <解説>・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 順当な道筋なのだが、逆川(さかわ)とよんでいる宿場に泊った。
潮が満ちる時、上流に水が流れるので、逆川という。
(一部略)
舟歌が何曲か聞えて舟を明月峡の辺に寄せているように
思われ、松風の音がいろいろな曲を奏でて琵琶の音を潯陽江
(じんようこう)の水際で聞いているような感じがする。 
一生の思い出となるのは今夜の泊まりなのだ。
<泊るこの海辺の波に映る夜の月は、再び訪れて、旅寝の
涙の袖に宿すようすと照っているのだろうか>
 注明月峡・・・中国四川省の三峡の一つ。
   *潯陽江・・・江西省九江市の付近を流れる揚子江の別称。
           この地に左遷された白楽天が、琵琶を聞いた
           故事にも通う。「琵琶行」によっていう。



二宮町・大磯町の鎌倉街道 
 
二宮町 
     
川匂(かわわ)神社<中郡二宮町山西>
「相模国二之宮
」として先年以上の歴史をもつ神社で、「延喜式
神名帳」(927年)にも記録が残る。(17年5月23日撮影)
駅から遠く、バス等公共機関もないため、ひたすら歩いた記憶
がある。 街道上、重要な位置を占めており、ここに掲載でき
苦労が報われた。
  吾妻(あいづま)神社<中郡二宮町山西>
創建は第十二代景行天皇に始まるという。 祭神は弟橘媛命
(おとたちばなひめのみこと)と日本武尊である。 弟橘媛命は日本
武尊の東国征伐の際、走水
(うらがすいどう)での嵐を鎮めるため
に身を投げたと伝えられ、その際に身に着けていた櫛が社前
の海岸に流れ着き、それを埋めたことから社前の地名が埋沢
(現在は梅沢)になった。 出典:二宮町ガイドマップ(令和2年3月)
 
     
知足寺(ちそくじ)<中郡二宮町二宮>
浄土宗総本山知恩院の末寺で、境内(墓園)に「曽我物語」の曾我
兄弟の供養塔がある。
この門前の東西の道が、地元では鎌倉街道とされている。
 
  曾我兄弟の供養塔<知足寺墓園>
兄弟と二宮弥太郎朝定夫妻の4基の塔がある。 二宮朝定に嫁
いだ姉が出家し弔った。 
 
出典:にのみや散策マップ 二宮町観光協会2011.3改訂版 



大磯町 
     
真言宗・蓮花院(れんげいん)<中郡大磯町国府新宿>
ご本尊三体の一つに、平安後期の木造聖観世音菩薩
(しょうかんぜおん
ぼさつ)
を有する。 ふるさと再発見5のP104に「蓮花院寺伝」によれば、
平安時代末期山王台に創建、日吉山王大権現の別当として祭祀を
司る。 1495年、北条早雲が相模国に進出した際の戦争で火災に
遭遇。 1590(天正18)年、山麓(現在地)に再興。 山麓に移った
理由は、山の上の道に人通りが少なくなったためという。
(蓮花院住職談・・・二宮町ふるさと再発見5p104)
  六所(ろくしょ)神社<中郡大磯町国府新宿>
崇神天皇の時代の創建とされ、当初は石神台に祀られていたが、
奈良時代・養老2年(718)、現在地に遷ったと伝える。 柳田大明神
ともいわれている。
相模の国の一の宮から四の宮、平塚八幡宮の五社の創建分霊

柳田大明神を祀ることから六所神社と呼ばれる。
     
東海大学病院前の街道<中郡大磯町月京(がっきょう)
石神台(六所神社旧蹟)から山を下りた街道は、東海大学病院
と薬局の間を通り、国府小学校前、月京交差点、馬場公園と進む。 
馬場公園から運動公園横の小山(現在は、城山トンネル)を
過ぎると金龍寺北に至る。
  神揃山(かみそろえやま)<中郡大磯町国府本郷>
座問答会場の神揃山に六社の神体石が鎮座する。 場所は、分か
り難いが、馬場公園の北部に位置する。
     
相模国府祭(こうのまち)<中郡大磯町国府本郷>
約1350年前頃、「大化の改新」が行われ、相武(さがむ)の国と磯長
(しなが)の国が統合され、相模の国が生まれた。 両国の一之宮で
ある寒川(さむかわ)と川匂(かわわ)とが国司巡拝の順位を巡って
一之宮の座を争い、互いに相譲らず、見かねた比々多(ひひた)
前鳥(さきとり)・平塚八幡宮が「いずれ明年まで」と言って仲裁し、
円満解決した故事に基づき儀式化され、神事となって伝わったの
が座問答。 座問答では虎の皮を使い神事が進められる。
毎年5月5日に開催される。 *大磯町役場HPから引用
  金龍寺<中郡大磯町西小磯>
創建は詳ではないが、建久6年(1195年)5月教忍和尚が中興すと
伝えられている。
大磯文化史(昭和31年6月発行・大磯教育委員会発行)は、金龍寺
から大磯城山公園に南下する道を採用している。 そして、西に向け
ての遺構が示されていないが、江戸時代東海道と重なると理解されて
いる。
     
白岩(しろいわ)神社<中郡大磯町西小磯>
西小磯の氏神様で3月上旬に豊作や豊漁を祈願して「歩射」が
行われる。 背後の山の上にある白い火山礫凝灰岩が御神体。 
  御嶽(みたけ)<中郡大磯町東小磯>
当地東小磯の鎮守の神様である。 日本武尊等を祀る。 鳥居前に、
由緒及び周辺地図が描かれた説明がある。 地図に神社前の道が
旧鎌倉道が表記されている。 
出典:壽町内会有志一同作成の説明版から引用
     
日蓮宗・妙大寺<中郡大磯町東小磯>
大磯海水浴場を開設した松本順の墓がある。
 

  延台寺・虎御石(とらごいし)<中郡大磯町大磯>
日本三大仇討ち物語の一つ『曽我物語』のヒーロー、曽我兄弟の
兄・十郎祐成と結ばれた、一代の舞の名手、虎女(虎御前)が開いた
お寺という。 曽我十郎の仇討ちの相手、工藤祐経は仇討ちの気配
に気付き、刺客を差し向けた。 十郎めがけて矢を射かけたが、矢は
見事にはね返され、続いて太刀で切りつけたが歯がたちませんでした。 よくみればそれは大きな石であり、刺客は驚いて逃げ帰った。 その
大きな石こそ「虎御石」であり、矢の当たったあたりに矢傷のくぼみ、
長い刀傷もついていた。 それ以降、この石を「十郎の身代わり石」とも
呼ぶようになった。
    <海道記>大磯・小磯から江の嶋を経て鎌倉へ(1)
 大磯の浦、小磯の浦を、遙々(はるばる)と過ぐれば、雲の橋、
 浪の上に浮びて、鵲
(かささぎ)の渡守(わたしもり)、天津(あまつ)
 
空に遊ぶ。 あはれ、さびしき空かな。 眺め馴(な)れてや
 人は行くらんな。
 
 <大磯や小磯の浦の浦風(うらかぜ)
         行くともしらずかへる袖
(そで)かな> 
鴫立庵(しぎたつあん)<中郡大磯町大磯>
西行法師の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の
夕暮」で名高い鴫立澤に、寛文8年(1664)、小田原の俳人・崇雪
(そうせつ)が草庵を結んだのが始まり。 滋賀県の無名庵、京都府
落柿舎と並び、日本三大俳諧道場のひとつとされる。
  <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 大磯の浦、小磯の浦を遠く通れば、橋のような雲が波の上に浮かん
 でいて、鵲(かささぎ)が舟のように空を飛んでいる。 ああ、寂しい空で
 あることよ。 眺めることに馴れているのだろうか、ほかの旅人は
 平気でここを通っていくことであるよ。
  <大磯と小磯の海辺に吹かれて、東に行く身とも知らずに
   私の袖は西に翻(ひるがえ)って、後に返そうとするのだよ。>
     
化粧井戸<中郡大磯町大磯>
伝説によると、鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近であった。
曽我物語の「虎御前」はこの近くに住み、朝な夕なこの井戸水を
汲んで化粧をしたので、この名がついたといわれている。
<説明版の要旨>
  高来(たかく)神社<中郡大磯町国府新宿>
江戸時代までは高麗寺に属し、明治元年の神仏分離によって高麗
神社となり、高麗寺は廃寺となった。 明治30年、高来神社改称。 
高句麗が滅亡した際、王族であった高麗若光らがこの地に渡来したと
言われる。 神社の旧名および地名はそれにちなむ。 なお、前面
(東)に高麗寺の仏像を受け継ぐ慶覚院(けいかくいん)をみることができる。