第3章 草津市・栗東市・守山市・野洲市・竜王町内の街道
 
 
 草津市内の街道   
    <十六夜日記>
 野路といふ所は、来(き)し方行先(ゆくさき)人も
見えず。日は暮れかゝりて、いと物悲しと思ふに、時雨
さへうちそゝく。
 打ちしぐれ故里(ふるさと)思ふ袖濡れて行先遠き
野路の篠原
                        阿仏尼
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51

 さっと時雨が降ってきて、故郷(都)を思って涙する私の
袖は一層濡れ、行先はいよいよ遠く思われる野路の篠原

 
(注)
 「うちちしぐれ」は動詞「・・・しぐる」の連用形。「篠原」は
旅程で少し先の野洲市篠原にその地名があり、併せて
「野路の篠原」と称されることも多かった。 
 
野路の玉川跡<滋賀県草津市野路>
玉のような清水が湧き出たという故事来歴を有する名所。
東海道(中山道)沿いにあるが、古代東山道の結節点と
推察されている。

  <東関紀行>
 このほどをも行すぎて、野路といふ所にいたりぬ。
の原露しげくて、旅衣いつしか袖のしづくと心ぼそし。
 東路
(あずまじ)の野路の朝露けふやさはもとにかゝる
はじめ成らむ。
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51
 東海道の野路の朝露が袂にかかったが、では今日が
旅愁の涙に袂を濡らす最初なのだろうか。
 
     
立木神社<滋賀県草津市草津4>
東海道に面して鎮座し、古くから厄除けの神社として
崇敬を集めている。 
 
  草津宿本陣跡<滋賀県草津市草津1>国指定史跡
東海道と中山道の合流点である草津宿の中核であった
本陣跡。当時の姿が見学可能。(有料)
 
     
追分道標<滋賀県草津市草津1>
「右東海道いせみち、左中仙道美の道」と刻まれた道標。
右(街道の正面)は天井川の古草津川
 
追分の先(右)は、中山道となるが直ぐにトンネルとなる
川底が民家の屋根より高い天井川の旧草津川の下部
である
右上の本陣跡写真の右上の緑の部分旧草津川は西
付け替えされ、ここは公園として利用されている
 
  堯孝法師歌碑<滋賀県草津市草津1>
道標の反対側に室町時代に活躍した尭孝法師の歌碑が
ある。
  
近江路や秋の草つはなのみして
   花咲くのべぞ 何處
(いずこ)
ともなき  覧冨士記
 
将軍のお供をして富士を見に行く途上、秋の近江路を草
津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた
美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするも
のだよ。・・・左の案内板から引用
 



 栗東市内の街道
     
大宝(だいほう)神社<栗東市綣7>
社伝によれば大宝元年(701)以前より地主の神として鎮
座。伊吹山に座す多々美彦命が祭神。古来は、意布伎
(伊不伎)神社と記され、風の神、雨乞いにより雨を降らせ
た水の神でもある。
大宝元年、疫病流行のおり、小平井村信濃堂に降臨の素
戔嗚尊(スサノヲノミコト)と稲田姫(イナダヒメ)命が当社に
ご遷座、疫病が鎮まったとう。室町幕府第6代将軍足利義
教、9代足利義尚から厚い帰依を受けた。
大宝神社HPhttp://www.daihoujinja.jp/syoukai/daihou_s.htm
 
  大宝神社四脚門
享保元年(1716)宝鏡寺宮の親王の病気平癒祈願の依
頼され、ご祈祷により全快したことにより寄進された四脚
である。
本殿内にある狛犬と境内社追来神社本殿は、いづれも重
要文化財である。宮司さんのお話では、重要文化財の木
製狛犬は、平成28年3月末まで京都国立博物館で展示
中とのこと。(HPで東大寺と大宝神社の狛犬が紹介中)
 
     
神社例大祭・・・神社HPより引用
大宝元年(701年) 綣を中心とした広い地域に疫病が流
行した。人々はなんとか神様に疫病を鎮めていただける
ように願ったところ、この願いが通じて人々は健康を取り
戻した。
 
大宝2年から毎年疫病が流行する初夏までに祭礼日を設
定し、この日は神様に社より外に出てもらい疫病が広がっ
ていかないように、みんなが健康で夏を乗り切れるように力
を授けていただこうとした。そのことが当神社の祭礼の由
来です。
  5月3日の夜、神様の分御霊をひもろぎに遷します。
 
翌、どのように遷っていただくか、当神社はひもろぎを振り
かざすことにより御霊に活気づいていただき、願い事を聞
いてもらい乗り遷っていただくものです。
  5月4日は、ひもろぎを取り付けた神輿の差し上げの儀
(威勢良く宙に放り上げる)をしますが、神様の力を強める
という意味と神様に対する最高のおもてなしをするという
意味があります。(平成2854日撮影)

  大宝神社例大祭
最後に女性陣が担ぐ「さつきみこし」が三基繰り出します。 
     
句碑<栗東市綣7>
大宝神社鳥居脇に松尾芭蕉が詠んだ
へそむらの 麦まだ青し 春の暮」の句碑がある。
 
中散本舗 (大角家住宅)と「街道をいかしたまちづくりの
会」を掲載予定でしたが、東海道沿線のため割愛しま
  大宝山仏眼寺<栗東市綣7>
時宗、もとは天台宗で神宮寺と称した。大宝神社の神宮
であったが仲運が応永19年(1412)仏眼寺と改め時宗
に転宗した。本尊は阿弥陀如来で、伝承によればこの仏
様の眼光は寺中を照らしたため、村人は恐れをなし、金
勝寺の僧に加持祈祷をしてもらったところ、治まったこと
で仏眼寺の名が付いたという。 
 



 守山市内の街道   
     <十六夜日記>
 今宵は鏡といふ所に着くべしと定めつれど、暮れ果
てて行きつかず。守山といふ所にとどまりぬ。ここにも
時雨猶
(なお)慕ひ来(き)にけり。
   いとヾ猶袖濡らせとや宿りけん間もなく時雨の
   守山にしも            
  今日
(けふ)は十六日の夜なりけり。いと苦しくて
  うち臥しぬ。
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51
いよいよ更に袖を濡らせということで泊まることにしたの
だろうか。絶え間なく時雨が漏るこの守山に.
・・・十六夜日記(田淵句美子著・山川出版社)
阿仏尼一行は、予定していた鏡の宿まで行き着くことが
できずに守山に泊まった。16日の夜であった。ぐったり疲
れて直ぐに横になった。
阿仏尼がここで旅の初日の疲れを率直に述べているのは
この時代の日記文学としては、大変珍しく、旅の実感の
こもった描写である。 
 
十王寺前の中山道<滋賀県守山市閻魔堂町>      
     
十王寺<滋賀県守山市閻魔堂町>
十王とは、人間の死後の世界で生前の行いを裁く王の
ことで閻魔大王等を指す。本堂には閻魔像が祀られて
いる。
・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用
右端の石柱に「閻魔法王小野篁御作」とある。小野篁
(たかむら)(802852)は文武両道に名高く、歌人、漢学
者である。娘の杜若姫が在原業平を追って三河八橋に
来たり、入水した伝説が伝わる。
 
  住連坊母公の墓<滋賀県守山市閻魔堂町>
法然上人の弟子住連は「建永の法難」時、近江の馬淵で
処刑された。住連の母公は、我が子に会おうと守山まで
来た時、処刑されたことを知り、近くの閻魔堂の池に身を
投げた。
・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用 
     
一里塚<滋賀県守山市今宿2>
今宿一里塚は江戸から約128里にあり、滋賀県下に
残る唯一の一里塚である。椱は江戸時代後期のもの
である。
 ・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用
  樹下(じゅげ)神社<滋賀県守山市今宿1>
創建年次は不詳である。祭神は八岐大蛇の神話で有名な
稲田姫命を奉祀する。昔は十禅師宮と称され、疫病消除
、往来安泰等の氏神として里人との縁が絶えることがなか
った。明治初期、法令によって現在の樹下神社と公称され
る。 
・・・境内由緒記引用 
     
安産石<樹下神社境内>
菅原道真公御息女ゆかりの安産石が残されている。延
喜元年(902)秋、中山道守山宿の通称どばし川の草叢
の平石に伏して苦しむ一女あり。里人懇ろに介抱すると
、女は菅原道真の娘で流罪の地に赴く途中であるが、に
わかに産氣を催し歩行自由ならづ、身二つは覚束なしと

尋常ならざる様子。村人の看護に効なく、女苦渋に耐え
つつ、村人の親切に報いるすべがないないのが悲しい。
せめて、この身に換えて当地のお産婆からしめれと祈祷
されつつ入滅する。村人、丁重に葬り、祠を建てて女天
神塚と公称した。平石がご神体となり、産婦の信仰厚く、
平石にふれれば、安産とされる。  
・・・境内由緒記引用
東門院<滋賀県守山市守山2>
正式名称は比叡山東門院守山寺。江戸時代、朝鮮通信
使の宿にも利用された。護摩堂には重要文化財の不動
明王坐像が安置されている

・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用 
   
守山宿本陣跡と中山道<滋賀県守山市守山1>
中山道守山宿本陣跡と「中山道街道文化交流館」。
交流館は情報発信の場、観光客の交流の場として活用
されている。 
・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用 
  勝部(かつべ)神社<滋賀県守山市勝部1>
土御門天皇の病気平癒を祈念して創始されたと伝わる。
祭神は、物部布津神(もののべふつのかみ)、宇麻志摩遅
命(うましまぢのみこと)が祀られている 

・・・守山市中心市街地歴史散策マップから引用 
     
勝部の火祭り<勝部神社1月第二土曜日>
勝部神社例祭の火祭りは土御門天皇の病気の原因と
占われた数千年を経た大蛇を退治し焼きはらったとこ
ろ平癒されたので、これを起源に大蛇に見立てた大松
明を焼いて無病息災、病気平癒、五穀豊穣を祈願する
約800年続く祭りである。この大蛇退治の功績で天皇
から勝部(勝ところ)の名を与えられたとも伝わる。

・・・境内案内板引用(写真は守山散策マップから引用)
平成2819日の火祭りの画像である。本殿に向かっ
12本の大松明が半円に置かれ本殿前で裸男が乱舞し
ているのが煙の中から少し見える。
  浮気(ふけ)の火祭り<住吉神社1月第二土曜日>
守山駅東北の住吉神社(浮気町)においても、土御門天皇
に因む火祭りが行われる。住吉神社では大ムカデの頭部
が飛んできたという。
<住吉神社火祭り保存会設置の説明版:守山駅東口前で
撮影>
当日午後3時頃、住吉神社を参拝し、説明資料をいただき
、火祭りの準備の様子を撮影したが、ピンボケのため残
念ながら掲載できない。代表の方に教えていただいた、
HPを掲載しますのご参照ください。
なお町名の意味は、往古この地は琵琶湖の一部の大淵で
あって、水気が常に上昇し、紫気天に浮かびて動かず、と
いう意味があるそうだ。
http://fuke-himatsuri.com/
 
     
住吉神社<守山市浮気町>
浮気町自治会のHPによれば、住吉神社は祭神「櫛玉鏡
速日命」(くしたまにぎはやひのみこと)であり、物部氏の
遠祖という。物部神社は南方百メートルに通称「サンヤ
レ山」が旧跡であった。(大正十二年耕地整理のため、
その形を失う)
天平十一年(739)栗田県主の物部玉岡宿祢道足(浮気
道足)は住吉三社を勧請し物部神社の祭神と合祀した
のが始まりである。承久二年(1220)、浮気定勝が再建、
また寛永十六年、再度再建されたという。
火祭りの起源となる土御門天皇(在位:11981210)は、
鎌倉時代であり、800年前からの歴史があることになる。
鳥居の奥で大松明造りが行われている。
一説によると、古代街道は東海道本線(湖北線)と東海
道新幹線の中間を通っていたとされる。位置的には、こ
の住吉神社付近となるが、地元の方にお聞きしても、不
明とのことであった。
 
  馬路石邊(うまじいそべ)神社<滋賀県守山市吉見4
式内社・馬路石邊神社に比定されており、馬路郷田中荘
の総鎮守として田中大明神と崇敬された神社。
現在の祭神は、素戔嗚尊と大巳貴命だが、社号「馬路石
邊神社」から古代の氏族・石邊公の祖神を祀ると考えら
れている。また「馬路」は、古代、馬
(うまや)が置かれてい
た土地であり古代東山道に面していたと推定される。
 
    <十六夜日記>
 いまだ月の光かすかに残りたる明(あけ)ぼのに、
守山を出
(い)でて行く。野洲川渡る程、先立ちで行く
旅人の駒の足音ばかりさやかにて 霧いと深し。
   旅人も皆もろととに先立ちて駒うち渡す
  野洲の川霧             阿仏尼
<解説>
・・・十六夜日記(田淵句美子著・山川出版社)
野洲川を渡るとき、先に立っていく旅人の姿は見えず、乗
っている馬の足音だけがはっきりと聞こえて、霧が大変深
い。旅人の道連れになり、先に立って旅人の馬を渡して
くれるような野洲川の霧であることよ
 
 近江富士(三上山)<滋賀県守山市立入町>
野洲市の近江富士を対岸の守山市側から望む。撮影地
は、中山道の野洲川橋と新幹線の中間地で東山道経路
と推定される場所とした
   





   野洲市内の街道 
     
背競(せくらべ)地蔵<滋賀県野洲市行畑1>
この二体のお地蔵さんは、鎌倉時代のもので、中山
道を行き交う旅人道中護ったといわれています。
また、当時は乳児がよく死んだので子を持つ親たちが
、「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく
つ」と背比べさせるようになり、いつしか「背くらべ地
蔵」と言われるようになった。

・・・野洲市HPより引用 
  古代東山道と中山道<滋賀県野洲市大篠原>
守山市街を抜けた中山道は小篠原から向きを変え、北上
して直ぐに西池(写真右側)のある大篠原に至る。ここは
西池で古代の灌漑池であり、古代東山道は堤防を街道と
して利用したとみられている。約500m先の民家がみえる
場所が駅家があった大篠原とされる。なお中山道は、堤
防下の国道8号線とされる

<東関紀行>
 篠原という所を見れば、東(ひんがし)へはるかに長き
堤あり。北には里人栖
(すみか)し、南には池のおもて遠
く見えわたる。・・・都を立旅人、此の宿にこそ泊りける
が、今は打過
(うちすぐ)るたぐひおほくて、家居もまばら
n成行
(なりゆく)など聞くこそ、かはりゆく世の習、飛鳥
の川の淵瀬にはかぎらざりけめとおぼゆ。
  ゆく人のとまらぬ里と成しよりあれのみまさる野路
の篠原
<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51
 東旅行く人が泊まらない里となってしまってから、野路の
篠原はただ荒廃の一途を辿るよ。
 
     
大笹原(おおささはら)神社<滋賀県野洲市大篠原>
・・・国宝
社伝によると寛和2年(986)に社殿が造営されたが、
現在の建物は室町時代の建築物である。昔の街道か
ら数百m離れていることから戦火を免れたようだ。
古来、天王(牛頭天王社)さんと呼ばれ「除疫神」として
祀られていたが、明治の神仏判然令より、境内社に
「篠原社」があるためシノ竹をササ竹にして大笹原神社
と名付けられた。
境内社の笹原神社の祭神は餅の神様である。当地は
良質のモチ米の産地であり、篠原モチは平安時代東山
道・中山道篠原宿の名物として旅人に食された
・・大笹原神社由緒略記より引用 
  平家終焉の地<滋賀県野洲市大篠原>
中山道(東山道)が鏡宿(竜王町)に入る直前の南山麓
に平家の最後の将・平宗盛父子が斬られた場所がある。
父清盛全盛の時代、この地のために掘った祇王井川が
今も広い耕地を潤し続け感謝する人々の中で眠ることは、
父子にとって日本のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。
当時、この塚の前に父子の首を洗った広い池があり、「首
洗い池」又は、あまりにも哀れなことから蛙が泣かなくなっ
たことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。

 
・・・敷地内説明版より引用
 



 竜王町内の街道 
     
 旧東山道(平安、鎌倉)・中山道<滋賀県竜王町鏡>
国道8号線が「道の駅・竜王かがみの里」に近づくと、
街道の遺構が東に残っており、多くの義経古跡も整備
されている。当地は、古代から中世にかけて東山道、
中山道<鏡の宿>として栄え、義経伝説も残されたと
思われる。
なお下記ガイドブックの裏面マップにコラム見出しの表
示を見つけ、嬉しい気持ちが高まった。

・・・鏡の里いにしえガイドマップ(竜王町、竜王町観光協会)より引用
<東関紀行>
 鏡の宿に至りぬれば、昔七の翁の寄合つゝ老をい
とひて読ける歌の中に、「鏡山いざたちよりて見てゆ
かむ年へぬる身は老や死やしぬる」といへるは、此
事にやとおぼえて、宿もからまほしけれども,猶おくざ
まにとふべき所ありて、うちすぎぬ。
  たちよらでけふは過なん鏡山しらぬおきなの
かげは見ずとも

・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51
 
ここは鏡山だが、古人のように立ち寄って見知らぬ翁
のように衰えた自分の姿を鏡の中に写して見ずに、今日
は過ぎよう。
  源義経元服の池<滋賀県竜王町鏡>
義経は、この池の水を元服の時に使用したとか、元服
の姿を映してみたともいわれる

・・鏡の里いにしえガイドマップ(竜王町、竜王町観光協会)より引用
 
     
鏡神社<滋賀県竜王町鏡>
第十一代垂仁天皇の時代に帰化した新羅国の王子
天日槍の従人が当地に住んで陶芸、金工を業として
、祖神として王子を祀ったのが始まり、後に近江源氏
佐々木氏一族鏡氏が崇敬して護持したと伝わる
  
  烏帽子掛松<滋賀県竜王町鏡>
鏡神社参道入口に義経が参拝した時に松の枝に烏帽
子を掛けたとされる「烏帽子掛けの松」があった。
明治6年台風で倒れたため地上部を残し仮屋根をして
保存されている
 
     
義経宿泊の館(白木屋)跡<滋賀県竜王町鏡>
承安四年3月3日に京鞍馬寺より奥州下向の途中、鏡
宿に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長であった澤
弥伝の「白木屋」に泊まった。追手の目を欺くため、急ぎ
髪を切りただ一人で元服することを決意した牛若丸は、
源氏の左折れ烏帽子を烏帽子屋五郎太夫に折ってもら
い、それを冠して元服し源九郎義経となる義経誕生の地
である
 
  中山道(東山道)鏡口<滋賀県竜王町鏡>
鏡宿を過ぎた最初の交差点である。中央の国道8号線
の右に中山道(東山道)の遺構があるが、普通の町並で
生活道路となっている