岡崎市東部T(美合町・岡町・藤川町・市場町)の鎌倉街道  
岡崎市街地の鎌倉街道は、 明大寺丘陵の山裾を辿ってきたが、東部の街道遺構も山綱川を挟んだ丘陵地帯の山裾を進んできたといえる。 特に、
岡町の山綱川の周囲は農地整備と工業団地建設で山裾が寸断されているが、宝塔寺以東にわずかに街道遺構が残されており、雰囲気を楽しむ
ことができる。 江戸時代東海道が山綱川南に建設され、高札場跡で交差しており中世鎌倉街道と近世東海道の双方を楽しめれる場所でもある。
また名鉄電車名古屋本線藤川駅に隣接して道の駅「藤川宿」が5年前に開業し、連日、大勢の客で盛況である。 当地の名物や観光パンフレットが
常備されているので寄られることをお勧めしたい。
 
     
土呂殿本宗寺(とろでんほんしゅうじ)<岡崎市美合町平地>
寺伝によると、本願寺第八代蓮如上人が西三河地方教化のため、
本願寺の分身として応仁二年(1468)に土呂(現在の福岡町)に創
建された。 蓮如の布教により、「三河三ヶ寺」の上宮寺<じょうぐうじ>
(上佐々木町)、勝鬘寺<しょうまんじ>(針崎町)、本證寺<ほんしょうじ>
(安城市)を核に末寺、門徒で強力な三河本願寺教団が組織された。
本宗寺は、この教団を統括・支配する三河で最上位の寺院であった。
永禄6年(1568)秋、三河で一向一揆がおき、家臣が分断した家康が
危機に陥った時もあるが、翌年春、和議に持ち込み、平定された。
家康は寺院に改宗を迫り、拒んだものには破却を命じた。 本宗寺
は破壊され、住職は他国へ退去した。 天正11年(1583)、家康の重
臣・石川数正の母、妙西尼(みょうさいに)の懇願により、最初に復興が
許され、数度の移転後、慶長6年(1611)、現在地に再建された。
  生田(しょうだ)<岡崎市美合町・岡町
街道遺構は生田城址から美合小学校に向かっている。 国道一号
線美合町西交差点近くの山綱川の小橋を渡り、川沿いの道を右に
進み最初の道で左折すると学校の前にでる。
橋の際に「生田蛍」の看板を見かけ、気になり撮影した。 事情が
分からなくインターネットで検索したら、美合小学校で30年以上に
亘って「生田蛍の保護観察活動」が行われていることを知った。
詳細は、美合小学校ホームページで掲載されており参照されたい。 




     
船山<岡崎市岡町>
美合小学校北面を離れ、市道を横断し直進すると平野の中に
独立した船山が正面に見える。 右手に参考にしている「平安・
鎌倉古道」掲載の墓地が見える。 この先は、民家前後の小道を
左折し、左にある市道を船山北に進む。
 
  船山と街道遺構<岡崎市岡町>
小高い農地の中い見える船山。街道は、正面右の建物の宝塔寺
の右から山裾を辿り、船山の北(右)にある岡保育園の北を通って
いたが、農地整備により遺構は残存していない。
     
七面山宝塔寺<岡崎市岡
本堂の右手に街道遺構が残っている。周囲は土地改良事業対象
地になっているが、この周囲のみ残っている。
平成28年6月11日に現地調査した時、信徒の方が見えて、戦後
に移転してきたとの説明であった。
  鎌倉街道遺構<岡崎市岡町>
宝塔寺と「駒の爪」の間にある街道遺構。前方の竹藪を抜けると
葵工業団地に向かう市道に出る。 そこから宝塔寺が目前に見
える。
     
山綱川の小橋<岡崎市岡町>
山綱川に架かるポイントとなる橋。前方の民家前から斜め西方が
右上の写真の場所となる。 橋の右に見える車がいる川岸を右に
進むと駒の爪石が川岸にある。
東に進むには、川を渡り川岸の道を東に約5百mで国道一号線
「三河高校入口」交差点に出る。 一号線を約280m東に移動すると
喫茶「いこい」前に出る。 街道遺構はお店の裏(北)で、そこから
約200m東に進むと関山神社前となる。
  奇岩・駒の爪<岡崎市岡町>
川岸沿いにある駒の石。夏場は草が茂り、入って歩く難儀、草の
中を探す困難は相当な覚悟が必要と思う。 
 写真の石に大きさが
分かるようにペットボトルと椿の花が置いてある。 3月に出直して
ようやく、たどり着いた。 この先は歩行困難であるので、左の小
橋まで戻ることになる。
***
この写真が<藤川地区景観まちづくりガイドブック> 編集・発行
:岡崎市都市整備部都市計画課・平成23年4月発行 P64に
「駒の爪」の写真が一枚使用されています
     
地名は「平八」<岡崎市藤川町>
関山神社鳥居前を西進する道の一画に「藤川宿まちづくり研究
会」が設置した案内版が右に見える。 
内容の要旨は、
〇平八は藤川町字王子ケ入、東・西川向一帯をいう。
〇江戸時代以前、山綱川北部を平八と呼称されていた。
〇江戸時代以前の一時期、鎌倉街道が通っていて、藤川の古い
 集落がここにあった。
〇天正18年(1590)、時の藩主田中吉政は、山綱川の南に新しい
 街道を整備し、平八の住民を移転させた。
平成20年3月撮影
***地域の歴史が分かる良い案内版でした。感謝
  関山神社<岡崎市藤川町>
往古、藤川の里を見おろす明神山山頂に村中安全、五穀豊穣、
疫病退散を願って赤山大明神を勧請し、藤川の鎮守として崇敬
されてきた。 戦国時代、藤川城主内藤弥次谷衛門家長が本殿を
建立、江戸時代後期、現在地に副殿を建立、里宮とした。
<境内の奥宮案内から引用>
 




     
関山神社参道<岡崎市藤川町>
旧東海道の藤川宿本陣跡の西に参道入り口を示す灯篭がある。
この先の右側に本陣跡の石垣を見る絶好のポイントとなる。
しかし、鎌倉街道は、東方の高札場付近を通っていたと推定され
街道遺構ではないが、この道は名鉄本線踏切、山綱川を渡る橋が
あり神社近くに行くには便利と思う。
ただし国道一号線は中央分離帯があるので、喫茶「いこい」前の
地下通路を通ることになる。

  柳田院称名寺(りゅうでんいんしょうみょうじ)<岡崎市藤川町>
浄土宗西山深草派(本山ー京都・誓願寺)の寺院である。 寺伝に
よると永禄11年(1568)の創建とし開山は法藏寺第七世の貫主
であった教翁洞恵上人とし、当初は王子ケ入に創立されたという。
天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に従って第3世上人が
江戸に移ったため、寺は衰退した。 
 正保3年(1646)に再興さ
れたが、寛文2年(1662)、現在地に移転、再建し今日に至る。
ご本尊は阿弥陀如来坐像であるが、創建当時のご本尊と思われる
(室町時代の作と思われる)十一面観世音菩薩立像が安置されて
いる。・・・境内設置案内板引用
     
人形所<岡崎市藤川町>
東海道の高札場前にある人形店。左の小道が鎌倉街道遺構である。
この先は、称名寺の東横に出、その先に明星院の入り口がある。
撮影位置に江戸時代の高札場跡の説明版が設置されている。








  法弘山明星院(みょうじょういん)<岡崎市市場町>
密教的な祈祷や占いを中心とした修験道の寺院である。 開運、
厄難消除の霊験あらたかな願かけ寺という。 ご本尊は「不動明王
立像」俗に「片目の不動」
(秘仏)と呼ばれ、真言宗醍醐派の寺院で
ある。
寺伝によると、山中郷の舞木に建てられた堂が始まりで熊野那智
山の末寺であった。 慶安元年の藤川宿の加宿として移住した市場
村の移転に伴い、延宝3年(1675)に役行者秀悦が現在地に移転
し、山伏修験道の道場とし、三河一円の帳元であったという。
その後、天和年間(1681〜83)京都醍醐三宝院末に改宗し、真言
宗醍醐派の三河の中心的な修験道修験道場として修験者を迎え、
苦行、祈祷を中心とした「行」に励む場所となっていた。
・・・境内設置案内板引用
     
鎌倉街道遺構推定線<岡崎市市場町>
藤川町、市場町から山中八幡宮(前面左の鉄等下)への道筋は
「平安鎌倉古道」では、明星院からほぼ直線で前面工場(ジェイ
テクト)を横断する説明であったが、数回の現地調査でも農地の中
に遺構を発見することができなかった。 平成28年9月10日、藤
川駅から本宿駅まで徒歩調査を行った際、念入りに現地を見渡した
が手がかりがなく、諦めて藤川郵便局横の小道を東に歩いていた
時に、水路(消火用水溜穴)掃除をしている地元の鈴木さん(80数才)
に何げなく尋ねると、工場の南(右)付近から明星院に斜め方向に
昔の道があったと教えられた。 畑の中のあぜ道を近づこうと試み
たが、夏草が多く歩行困難であった。 帰宅後、グーグルアースで
確認すると一部であるが古道とも思える道があり、更に国土地理院
地図に連続する小道の表示がある。 確たる証拠はないが、地元の
古老の知見を信じたい。
 
  山中八幡宮南の西入口<岡崎市舞木町>
西のジェイテクト岡崎工場側から行けなかったので、東の
山中八幡社側から入って撮影した写真である。
正面と左に道があるが、右の木の下に右の写真の手作りの案内
がある。







     
旧鎌倉街道の案内<岡崎市舞木町>
この写真は07年(平成19年)3月撮影したものである。 手作りの
素朴な案内板であるが、発見した時はめちゃくちゃに嬉しかった。
作った人の思いを十二分に受け止めることができ、多くの方に知って
いただきたい思いである。
平成28年9月現地調査の時には、かなり文字が薄くなっていた。
今では貴重な写真である。
 


  山中八幡宮南の道<岡崎市舞木町>
上の写真の右正面の道を進んでくると東出口付近に馬頭観音等
二体が安置されている。 奥の像に大正七年と刻まれている。 中
世の鎌倉街道と時代が違うが、最近まで道としての歴史があった
ことが証明されている。
 (撮影日時が9月10日であったため、像につる草が絡まり七年が
九年に見えた。 この後、地元池金町在住の小林さんにお会いでき、
七年であることが判明した。 また後日、自家出板されている「鎌倉
街道はどこに」の冊子をいただきました。 山中学区を中心とした
範囲ですが、内容が濃いので参考にさせていただいています)


 東海道(藤川宿)の風景
藤川町は、中世と近世の二つの街道が通過していた。 近世の東海道53次の藤川の宿場でもあり、街道遺構が残されていたり復元されている。
代表的なものを数点説明したい。 
     
東海道松並木<岡崎市藤川町>
国道一号線から別れた東海道は、藤川宿までの約1qの間、
岡崎市の天然記念物指定を受けている約90本の松並木を
楽しむことができる。
  吉良道道標(きらみち・みちしるべ)<岡崎市藤川町>
土呂町(岡崎市福岡町)、西尾(西尾市)、吉良町(西尾市吉良町)
に出る吉良道と東海道との分岐点に文化11年(1828)甲戌5月
建立の道標がある。
     
十王堂<岡崎市藤川町>
冥途にいて死者を裁く十人の判官を祀る祠。創建年次は不明で
あるが、十王が座る台座の裏に、「宝永七庚寅年」(1710)の記
年があるので、堂も同年と推定されている。
・・・藤川宿まちづくり研究会設置の案内板(お堂右の高札)より引用
  芭蕉句碑<岡崎市藤川町>
十王堂の西に、風景を詠んだ芭蕉の句碑がある。
 <ここも三河 むらさき麦のかきつばた>」

     
藤川宿西棒鼻跡<岡崎市藤川町>
市立藤川小学校の南に隣接する西棒鼻跡。棒鼻とは宿場の出
はずれ、出入り口を意味するという。ここは藤川宿の西入口となる。






  紫麦<岡崎市藤川町>
むらさき麦とは高野麦(紺屋麦)で、麦穂や茎の部分が紫色に変
色するので、こう呼ばれていたらしい。 戦後まで細々と作られて
いましたが、いつのまにか作らなくなり、幻の麦となっていた。
松尾芭蕉句碑にちなんで藤川宿に再現したいと願い、平成8年
訪れた時には、藤川郵便局が作成した「むらさき麦栽培地」の案内
板が右の畑に設置されていた。  藤川まちづくり協議会のホーム
ページによると、国道一号線の北側、「駒の爪」石近くの農地でも
栽培されており、オーナー制度も採用されている。
 
     
道の駅「藤川」<岡崎市藤川町>
2012年12月オープン。平成28年6月11日(土)のお昼時に撮
影した写真であるが、人が多く、顔を写さないように苦心した一枚
です。 地元野菜等の産直コーナーが人気であるが、むらさき麦
入りうどん、むらさき麦入り甘酒もあります。
  藤川宿本陣跡<岡崎市藤川町>
本陣の建物は残されていないが、周囲の観光ポイントを解説した
パネル等が整備されている。

 
     
藤川宿「米屋」(小箱ショップ)<岡崎市藤川町>
米屋として建てられた約150年前の建物を活用して土日曜日の
午前十時から午後三時の間、開館。 手作りの作品が販売され
ている。 市景観重要建造物指定の建物内部の見学も可能。
  藤川宿・高札場跡<岡崎市藤川町>
法度、掟書を記した板札を交通量の多い市場、辻などに掲げられ
た高札場跡。手前の道が鎌倉街道遺構であり、今は先に道がない
が前方の山裾の関山神社前に進んでいたとされ、辻に設置された
高札場であった。 
また、鎌倉街道は近世になっても地域の道とし
て使われ、人が多く集まる(通る)場所であった。
     
藤川宿・東棒鼻<岡崎市市場町>
藤川宿から東進し、国道一号線に合流直前にある東棒鼻跡。 
左の小高い緑地帯は、ジェイテクト岡崎工場の北外周である。
鎌倉街道遺構は、工場敷地南外周の約5百m先になると地元で
お聞きしている。
  浮世絵「棒の鼻図」<岡崎市市場町>
安藤広重作浮世絵「東海道53次・藤川宿」<棒鼻ノ図>は、東の
入り口となる東棒鼻
 



岡崎市東部U(舞木町・山綱町・本宿町・鉢地町)の鎌倉街道 
東部Uは、
〇街道遺構が残されている舞木町及び山綱町
〇宅地開発が行われ街道遺構がほとんど残されていない本宿町
〇鉢地町から豊川市長沢町は、地元の人々が近道として利用していたが、大正時代頃から利用されなくなり街道遺構が残されていない。 「三河
の古道と鎌倉街道」(武田勇著:昭和50年)及び「平安鎌倉古道」でも、出入り口情報が記述されてなく、現地で里山を前にして、なすすべもなく、
お手上げ状態であった。
このように東部U地区の鎌倉街道遺構の現状は探索を進めるうえで大きな壁があり、途方に暮れていた。 方策を考えた末に参考としている
「平安鎌倉古道」の中で、地元の郷土史家として登場している小野田昇次さんを平成28年9月10日に訪ねた。 やはり、ご本人は逝去されており、
80歳代のご子息の譲さんが外出前の忙しい時にも関わらず会っていただき、後日の訪問をお願いすることができた。 9月25日、再訪問し、古い
資料を見せていただいたり、郷土史を研究されている香村迪郎さんを紹介され、その足で数軒お隣の香村さんを訪ねた。
〇香村さんの話によると、推定街道遺構は諸説あり、過去から地図に印されなかった理由の一つという。 諸説の概要と共に、住宅化が始まる
前の様子を話していただいた。 後日、香村さんと連絡した時に、平成26年10月、<本宿・山中社会教育委員会等主催>「鎌倉街道を歩いて
歴史を訪ねるウォーキング」が行われているが、自分は参加していなく資料を持っていないが、マップが配布されていると思うので、入手・提供し
たいと申し出をいただいた。 数日後、作成した関連資料や航空写真も郵送していただいた。 更に、ウォーキング・マップ作成者で郷土史を研
究・調査し鎌倉街道に関心を寄せる小早川さんをご紹介いただいた。 11月4日、香村さん、小早川さんにお会いし、航空写真等で確認しながら
本宿周辺の鎌倉街道遺構の検証・話題に話が弾んだ。その後、現場をご案内していただき、地元の人ならではの話を教えていただきました。
三人の出会いが、私に理解できなかった山綱駅家周辺の街道遺構を私なりに推測できた力を与えていただいたと感謝したいです。
〇9月25日、香村さんにお会いした後で、鉢地町から豊川市長沢町の里山の中にある街道遺構への出入り口を探しに現地に出向いた。 鉢地
側では、まったく手がかりがなく、豊川市側の<大鰻伝説の池跡>を調べるため豊興工業の東に移動している途中に外出先から帰宅された落合
工業の社長さんを見かけ、街道遺構をお聞きすると武田勇さんが設置された石碑のある場所の入り口及び「音羽町史」や「平安鎌倉古道」でキー
ポイントとなっているが今は廃業され場所が特定できなかった<満腹食堂跡地>が飛鳥運送であると教えていただいた。 直ぐに入り口に向かう
と、教えていただいた通りに石碑及び街道遺構の雰囲気のある道を楽しんだ。 旧満腹食堂の位置も分かり、三回の探索で鉢地側の出口も推定
できるまでになった。
〇なお、岡崎市立図書館で<鎌倉街道はどこに>という図書を見つけた。 タイトルに引き寄せられ平成28年9月10日に藤川町〜本宿町を
徒歩調査した途中、いきなりの電話であったが池金町在住の著者・小林清司(きよし)さんにお会いすることができ、説明していただき、後日、お
手製の冊子を郵送いただいた。 舞木町及び山綱町<山中学区>の街道遺構及び周辺情報は十分調べたつもりであったが、伝道寺近くの鎌
倉街道石碑の建立者等詳細に書かれており、活用させていただくことができた。
〇また、長沢町内の遺構のポイントである赤石(あかいわ)神社の奥宮(おくみや:元宮)の場所が音羽町史等に記述がなく、これも課題であっ
 た。詳細は次の<豊川市の鎌倉街道>で説明予定であるが、年中行事の大祭(9月の第一土日曜日実行)にお参りし、地元の方から教えて
いただき、里山の中を右往左往しながらも無事発見することができた。
〇遠く離れた場所で街道遺構を探索するに際しては事前に準備を行うが、小字等や隠れた歴史は知ることができず、かなりの難儀となる。今回
が、探索の難所で本当に苦労した。路上でお聞きしたことも数多くあり、親切にご案内いただきました。多くの方のご協力で、最大の難関を突破
できたと思う。証拠等なく完璧な内容ではないかもしれないが、自分に合格点をあげたい心境である。
 
     
山中八幡宮<岡崎市舞木町字宮下>
文武天皇三年(699)この地の長(おさ)山中光重が、九州宇佐
八幡宮のお告げを受け、山の嶺にかかった祥雲から舞い下が
った榊にこもった神霊を祀ったのが始まりと伝わる。
 

  鳩ケ窟(はとがくつ)<山中八幡宮>
桶狭間の合戦で今川が負けたことにより家康が独立した初期
の段階は、「一向一揆」に苦労した。 ある時、戦いに負けた
家康が鎌倉街道を逃げ、山中八幡宮の傍にある、この洞窟に
身を隠した。 一向衆が洞穴に槍を刺した際、鳩が二羽飛び
立ったことから人がいないとなり、立ち去ったという
  
     
山中八幡宮「デンデンガッサリ」<岡崎市舞木町>
室町時代から続く古式ゆかしい五穀豊穣を祈念するお祭りである。
御田植ノ歌、牛(役)が餅を背負わされ、重すぎて牛ですら倒れる
ほどの豊作を祈願する所作が主な内容である。 最後に細かく
切った餅投げがある。毎年、1月3日午後2時から開始される。
*写真は、御田植ノ歌の場面です・・平成21年1月3日撮影
  山中八幡宮「デンデンガッサリ」続き
*写真は、牛が餅を背負い、歩きまわる一場面。重いので奉
賛会の人が支えている。このあと、倒れる場面がある



     
順念寺<岡崎市舞木町字阿形>
真宗大谷派の寺院。山中八幡宮の東にある田から小高い位置
にある。 
山門にベンチが置いてあり、「どうぞ一休みください」
と書かれていた。 9月10日の暑い中を歩いた身に涼しい風が
吹いてくれました。 嬉しい心遣いに感謝。
  阿形(あかた)地蔵<岡崎市舞木町字阿形>
子守地蔵とされ、エプロン(よだれかけ)に「Baby」の文字が入って
いる。 花が供えられ綺麗なお堂でした。 
順念寺の一本東の道
少し入った場所に安置されてる。 
     
山中城址<岡崎市葉栗町>
鎌倉街道を見おろす(監視)位置にある。明大寺に館を有し
乙川の北に岡崎城を築いた西郷信貞は、 ここに山中城を築き、
東三河に対する守りを固め、西三河を制覇しようとしていた。
しかし、大永4年(1524)安祥城の松平清康(徳川家康の祖父)
の奇襲を受け、一夜にして落城した。 その後、駿河今川義元
の西三河進出の拠点となった。
  市場地蔵<岡崎市舞木町字天神越
山中八幡宮の真東約900mに位置する山中小学校のプール際
の消防施設(立入禁止と赤書きされた扉の小屋)の右の小道を
少し進んだ右手の岡に安置されている。
 小道の正面は学校のフェンスとなり行き止まりとなる。
地蔵の南を 通り過ぎ、右手に山中保育園を見て直ぐの右折する
小道が街道遺構である。
     
代表的な街道遺構<岡崎市山綱町>
伝道寺西の竹藪(下の写真)の北の街道遺構。若草色の建物は
山中学区子供の家である。 この先は市道に出て、直ぐに左斜め
の小道が遺構である。 その先に山中保育園の横を通り小学校、
市場地蔵への小道入口となる。
  
  傳道寺<岡崎市山綱町>
山中の町中にある浄土真宗(西本願寺)のお寺さんである。
正面本堂の裏が右の写真の街道遺構である

     
傳道寺西の街道
街道は山中小学校から南に向きを天神越の山すそを進んでいる。
ここは傳道寺西の写真です
 





  鎌倉街道碑<岡崎市山綱町>
山中小学校と青木社の中間に位置する<鎌倉街道と郷倉之
跡碑>。 「鎌倉街道はどこに」の作者である小林さんは、昭和
50年に建てた人のことが新聞記事に掲載されていた。 「言葉
だけでの記録では歴史的遺産は忘れられてしまう。 これを契
機に街道の研究が進めばとの願いをこめていた」と関係者の
気持ちが書かれていたという。
なお、郷倉は江戸時代に農村に設置された公共の貯穀倉庫、
年貢米の一時的保管倉庫と解説されている。
     
青木社<岡崎市山綱町>
境内の社記によると
〇天水分命 ○国水分命 ○天照大御神
   を祀る。
口伝によると、旱害(日照りによる害)の時、南の扇守山の「牛の
滝」に降雨を祈り、お礼に滝の上の磐上に小祠を建てた。 その
後、村里離れた不便を解消するため現在地に社を建設し移転した
という。
<文字が薄いため概要をまとめた。間違いがあればご容赦ください>
天神越えの入口は青木社本殿の横にあります
  天神越えの鎌倉街道(山中方面)
<岡崎市山綱町>
山中と本宿を結ぶが、現在はほとんど使われていなく、倒木も
多くあった。 しかし、人が通らないと思われるのに、蚊が多く落ち
着いて撮影できなかった。


     
同左の画像(平成29年6月19日午後2時頃撮影)
東京在住のモノクロ撮影を趣味としているNさんを案内し、この
機会にモノクロで撮影した画像です。
見慣れた画像と異なり、先ず、印象が新鮮で、次いで光が明確に
見え、全体がしっかり見える印象であった。
  市立東海中学校<岡崎市山綱町>
天神社越えした街道は、左の中段にある墓地の横を通り平地に
出る。 この後、直進しグランドを横断し、山綱町と進む。

     
市立東海中学校<岡崎市山綱町字下中野>
グランドを横断し、南進する市道で向きを変え推定山綱駅家を
目指す。
<赤い線の上にある四角の箇所が推定値>
緑色丸印の昔あったといわれる草競馬場の位置が確定できなく、
地区全体の地形把握に苦労した。
    ******
昭和23年の航空写真(国土地理院)で検証<同左>
写真下の左の四角の部分は、左の地図の元小学校運動場である。
最近では、平成23年まで竹千代温泉であった。 右の丸い輪は戦後、
草競馬が開催された場所である。
問題は、左の地図では、草競馬場の場所に平吾川があり確認できない。
推定山綱駅家跡周辺の街道遺構の検証
<岡崎市山綱町字上・下平田、字中野>
「三河古道と鎌倉街道」P71で著者の武田さんが駅家と鎌倉街道
と図示された地図。 住宅化が進み、解説の文のみがヒントである
が、確認困難であった。
***
〇「鎌倉街道はどこに」<小林清司著>で、当地区の戦後史が書か
  れている。 地図にない項目で草競馬が開催されていたキーワー
  ドが、今回、場所を推定できた要因の一つである。
〇本宿町の香村さん、小早川さんとの交流のなかで右の航空写真
 をいただいた。 競馬場の痕跡が明確に残る。 三人で検証した
 結果、競馬場の位置が確認できた。
〇この二点と11月4日午前、現地調査を行った結果を突き合わせ、
 検討し次右の結論を出した。

  〇左の地図は、平吾川の流路を駅家跡南面に接しているが、
間違いで、水色の直線で結ぶのが正しい。

その膨らんだ場所が草競馬場の跡で、現在は住宅地になっている。
その東を平吾川が流れている。
〇街道遺構であるが、左の地図では竹千代温泉跡付近で離れており、
<三河古道と鎌倉街道P73>では山津波等で下流(南)に押し流され
 たようにも思われると解説されている。 山津波等の具体的な内容が
 不明であるが、平吾川は北流しており道が南(上流)に押し流される
 ことは考え難い。
(緩やかな南斜面で崩落の可能性が皆無とは断定できないが、崩落
 したと仮定すると街道の痕跡は皆無で探索は不可能となる。 ただし
 図のように街道が分離・連絡しないまま放置されたとは思えない)
〇推測であるが、地図で道が離れている部分は、本来は直線的な
 形の道が、下流(北)に押し流され、ややV字形になっていることを
 意味すると理解したい。
〇したがって左の地図に赤く示したように竹千代温泉跡前から今の
 下平田公園付近に至り、平吾川を渡り
本宿神明社及び鉢地町に
 向かったと思う。
     
推定駅家跡周辺の街道遺構<岡崎市山綱町字上中野>
元竹千代温泉前を左折すると、左に小高い丘(推定駅家跡)があり、
道は坂道を下る。

  下平田公園と平吾川<岡崎市山綱町字上中野>
右なりに来た道は、平吾川と下平田公園に至る。 遠方に坂道の
擁壁際の高木が見える。 右手に本宿神明社が近い。
 
 
     
本宿神明社<岡崎市本宿町>
境内の由緒記によると、天照皇大神を祀る。第十二代景行天皇
のとき(西暦111年)、蝦夷征伐の日本武尊が立ち寄られた際、山
の上に紅白の雲棚引き、しかも錦の御旗のようであるので感激され
山に登り戦勝を祈る。
法蔵寺との関係が深く、僧行基や
弘法大師が訪れたと伝わる。
南北朝時代、法蔵寺龍芸上人が堂中に祭祀する皇大宮を現在
地に遷し産土神として社殿を建立する。

  欣浄(ごんじょう)<岡崎市本宿町東木竹>
壇林二村山法蔵寺の本寺にて、浄土宗西山深草派に属し、山号を
「林光山」、院号を「厭離院」、寺号を「欣浄寺」と称する。
法蔵時第8代融翁洞文上人は、齢53歳をもって、天正7年(1579年)、
洞元山の麓に庵を結んで隠栖した。 ここは、鉢地川を隔てて法蔵
寺本堂が正面に展望できる閑静な地で、念仏三昧の隠居生活には
絶好であった。 これが欣浄寺の始まりである。 東海道が開かれた
のちは、庶民が参拝するのに不便な地であるので、享保7年(1722年)、
第7代啓空序麒西堂は街道沿いの十王堂近隣の現在地に移転し、
堂宇を再建した。・・・
欣浄寺HPより引用
     
本宿神明社からの道<岡崎市本宿町>
〇本宿神明社から住宅団地「グリーンランド」及び県営住宅を縦貫
する国道473号線の東(南進の場合は左手)にあった峠道を鉢地
町に直進するルート。(団地建設で地形が変わり道は無くなった。
元の位置に新しい道が建設されたが、区画分断されており移動に
は不適当)住宅団地建設時、峠付近に宝篋印塔数基があり行き
倒れ者を弔ったものかもしれないと推測されている。
〇本宿神明社を東に進み、今の欣浄寺付近から法蔵寺裏山
(写真は大池から欣浄寺を望む)を回りグリーンランドの一画の
円如ケ入経由鉢地町に至るカーブ形のルート

「平安鎌倉古道」に図示されているルートであるが説明がなく根拠
が不明である。 山裾を辿ったように思われる。
  二村山法蔵寺<岡崎市本宿町寺山>
浄土宗西山深草派の寺院。山号は二村山(にそんざん)。 本尊
は阿弥陀如来。 寺伝によれば大宝元年(701年)行基によって
法相宗の二村山出生寺として創建されたとされる。 至徳2年
(1385年) 教空龍芸により浄土宗の法蔵寺に改められた。 その
後、松平初代親氏が帰依してお堂を建立し、「法蔵寺」へ改めた
と伝わる。
鎌倉街道は、現在の法蔵寺の裏山を通り、寺も街道のほとりに
あったといわれている。
(三河の古道と鎌倉街道P159)
     
近藤勇首塚<法蔵寺内>
境内の東の墓地に、幕末、時代の流れに翻弄され、京で処刑さ
れた近藤勇の首塚があります。 三条川原のさらし首を同士が盗み
出しし、家康ゆかりの当寺に埋葬したことが、当寺の本山にあたる
誓願寺(京都)の旧記により判明したとされる<諸説あります>
 

  法蔵寺だんご<法蔵寺関連>
東海道に面した法蔵寺の入口のモニュメントと「法蔵寺だんごの由
来」を書いた高札。 江戸時代中期頃から本宿の名物として<法蔵
寺だんご>が知られ、寺周辺の茶店
で売られていたと解説。 昭和
初期まで売られていたが、なくなった。 しかし、最近は<道の駅・
藤川>の屋台で販売されて、モニュメントのように上下を平たくした
醤油味のだんごが賞味できる。 午後4時までの営業ですのでご注意。
     
円如ケ入(えんにょうがいり)<岡崎市本宿緑町>
法蔵寺裏山の西にある大池(江戸時代に溜池として建設)の上
(南)にある緑町バス停。 この先は、直ぐに左折し山裾を鉢地町
になだらかに下っている。 小野田昇次さんの資料にヒントを得て
当地を探すことができた。

  鉢地(はっち)町への道<岡崎市本宿町>
住宅団地グリーンランド、県営住宅を縦貫する国道473号線を進み
最後は鉢地町牛田交差点で左右に分かれ、直進できない。 地図
では分かりにくいが、高低差があることが要因である。 
右の建物は
県営住宅である。 また遠方左にキーポイントの豊興工業の工場棟
が見える。 工場敷地の裏側に街道遺構らしき道がある。
     
鉢地町から法蔵寺裏山の街道遺構の出口
<岡崎市鉢地町>

左の写真の反対側の鉢地川付近からの写真。 左が県営住宅
で正面が法蔵寺裏山である。 昔の鉢地川は高台寄りにあった
という。 そうすると急斜面と下にある川
が迂回遠回りする理由と
なる。 街道は川上の神明社や菩提院付近で鉢地川を渡ったと
いう。 しかし、地元の方の記憶では、宝蔵寺寄りに人間が通れる
小橋が架かっていたという。 また鉢地町の集落に続く小道があり、
人の往来を感じることができた。 最短の経路を採用したい。
  鉢地町から豊川市(旧・音羽町)長沢町へ入口
<岡崎市鉢地町・豊川市長沢町>

神明社や菩提院付近から鉢地川を渡り豊興工業の東南角(正門
から約50m南の敷地境界フェンスの先)にある赤石(あかいわ)神社
へ通じる近道(古道)の入口。
小野田昇次さんの資料にヒントを得て当地を探すことができた。 
近くの方(女性)にお聞きしたら、入ったことがないが、近道と聞い
ていると教えられた。
   
菩提院<岡崎市鉢地町寺前>
応永15年(1408)法蔵寺住職の滝芸師の開基(隠居寺)になる
浄土宗西山深草派で阿弥陀如来がご本尊である。
  
参考資料は、鉢地川の渡河地点とする説が多いが、法蔵寺から
約5百メートル離れている。 通常は最短距離を目指すと思う。
  鉢地神明社<岡崎市鉢地町>
菩提院の隣接地にあるが概要は不明である。