岡崎市の鎌倉街道 |
岡崎市内は、市街地化の進展に加え、15世紀の乙川河道変更と竜美ヶ丘団地建設により地形が激変し、中世時代の街道を辿るにはかなり困難である。 |
岡崎市内の鎌倉街道想定図 |
今見堂<岡崎市六名町今見堂> 矢作川を渡った左岸(東側)の船着場と伝わる。 |
現在の今見堂<岡崎市六名町今見堂> 南流していた乙川(おとがわ)が応永4年(1397)頃、西流に 変えられ、今見堂付近で矢作川と合流している。 工作物は 乙川架設の取水水門で塀のように見えるのが水路である。 乙川と水路の間が字今見堂である。 地形が変わり、船着場の 情景はまったくない。 |
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筒井山正福(しょうふく)寺<岡崎市六名本町> 浄土真宗本願寺派の寺院。 今見堂付近から六名小学校の 西南をかすめ、正福寺の東、重幸寺前が街道推定線である。 |
仏名山重幸寺<岡崎市上六名2> 真宗大谷派寺院。文政(1818〜30)年中創建。もと上六名に在り。 <新編岡崎市史総集編(平成5年)> |
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史跡真宮遺跡<岡崎市真宮町> 矢作川を臨む段丘上にあり、縄文時代から鎌倉時代の複合 遺跡で住居跡や石鏃(せきぞく)、石斧等が発見されている。 ・・・遺跡内説明版引用 注:中世時代に乙川河道が変わり、現在は乙川と矢作川が 並行している。 |
熊野神社<岡崎市久後ア町字郷西> 祭神は伊邪那美尊、天正7年(1579)の創立。 宝永4年(1707) 田中吉政岡崎城主が現在地に移す。<境内の由来碑引用> |
久後山無量寺(三河善光寺)<岡崎市久後ア町字郷西> 元和(1615〜24)年中、岡崎城主本多康紀創建。 <新編岡崎市史総集編(平成5年)> |
騎乗馬頭観世音菩薩像<無量寺> 12年に一度のご開帳でしか直接、拝むことができない無量寺の 秘仏とされる観世音菩薩。 最近では、昨年(2015)春にご開帳さ れた。 ご住職のお話では、馬にまたがる姿は、従前の境内地が 洪水で水に浸かった際、馬に乗って避難された故事が伝わる という。 |
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権現坂<岡崎市久後ア町> 熊野神社・無量寺前の道が、久後ア交差点に向かって下っている。 街道が微高地を進んできたことがわかる。 |
神明宮<岡崎市明大寺町諸神> 日本武尊が東征の途中、当地で野営した時、神が星になって 「御身を護るので社を祀り給え」と宣う伝説が伝わり、星降神社と 称えた。 天正7年、下の宮、上の宮を合併し、両神、双神と言わ れた。 その後、諸神と称される。 <拝殿掲示の由緒より引用> |
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円通山金剛寺<岡崎市明大寺町字西郷中> 曹洞宗の寺院。天保年間(1830〜44)創建。 県道483号、名鉄名古屋本線際の電気店の西(裏)にある。 入口が狭く分かりにくいのでご注意を。 |
満珠山龍海院<岡崎市明大寺町字西郷中> 曹洞宗の寺院。享禄(1530)松平清康の創建。 |
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別名「是之字寺」 龍海院は別名「是之字寺」といわれている。 松平清康が20歳の とき、「是の字」を左手に握る夢を見て、これを模外和尚に占わせて みると、「是の字を握るは天下を取ることなり」(是の字を分解すると 日・下・人)と答えたので、喜んだ清康が和尚のために建てたのが 龍海院と伝えらる。 |
亀井山萬徳寺<岡崎市明大寺本町> 真宗大谷派の寺院。乙川堤に面し、鎌倉中期に三河等の守護で あった足利義氏(よしうじ)亭(邸)と比定する説がある。 新編岡崎市史は、矢作東宿を八帖町周辺とし、足利義氏亭も 矢作東宿と推定している。 (矢作川の洪水等で現時点では、確たる資料の発見はないと されている。) <新編岡崎市史総集編(平成5年)> |
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西郷頼嗣(よりつぐ)城跡<岡崎市> 六所神社一の鳥居前と乙川の間にある一画。 氷享年間(1429〜41)、三河守護代西郷弾正左衛門は明大寺に 屋敷城を築造した。 享徳元年(14521)〜康生元年(1455)の間に明 大寺に屋敷を持つ三河守護代大草城主、西郷稠頼が砦程度の簡 単な城を築いた。 岩津城を本拠として勢力を拡大しつつあった 松平信光に対抗するためと思われる。 岡崎の地名もこのころに 使用されたと思われる。 明大寺の城は岡の先、即ち、三島山の北 端の川に臨んだ小平地に位置していたからである。 |
乙川(菅生川)<岡崎市明大寺町> 応永6年(1399)室町幕府官領畠山某国は三河守護一色左京太夫 詮範に乙川の西流化のための六名堤築堤により下流の和田郷が 水不足で困窮しているので伏樋(ふせとい)を入れる通知文が残さ れている。 南流せき止め、西流化工事の詳細及び目的を記録した ものはない。 わずかに17世紀末頃に成立したと推定される 「百姓伝記」に工事の事実がみられるのみである。 この工事が行われた結果 〇矢作川から船が菅生や明大寺に入れるようになり、水陸の交通 拠点となった。 〇岡崎城の台地南部を流れることになり、乙川に面した同台地は 要害として役割が高まった。 |
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<海道記>四月八日、鳴海・二村山・八橋・矢矧(3) 今日の泊(とまり)を聞けば、前程(ぜんてい)猶遠しといへども、 暮れの空を望めば、斜脚(しゃきょう)巳(すで)に酉金(いうきん)に 近づく。 日の入る程(ほど)に、矢矧の宿(しゅく)におちつきぬ。 <海道記><解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51) 今日の泊を聞くと、前途はまだ遠いのだが、夕暮れの空を眺め ると、斜めの日差しはすでに西に近づいている。 日没頃に矢矧の 宿に落ち着いた。 |
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岡崎城<岡崎市康生町> 文明(1469〜86)年間のはじめ頼嗣は松平信光の攻撃をうけて敗北、 信光の子光重を婿(養子)に迎えて所領の額田郡大草へ隠棲したと される。 享禄4年(1531)、家康の祖父・松平清康が本拠を明大寺から乙川北 岸の現在地に移した。 家康の父・広忠が殺された後は、今川氏の勢力下におかれたが、 桶狭間の合戦後、家康が再び入城した。 |
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六所神社<岡崎市明大寺町> 徳川家康公誕生の際には、松平氏の産土神としての拝礼があっ たと言われている。 5万石以上の大名だけが許されたという。 石段を上ると、極彩色の楼門、その奥に家光造営の社殿が現れ る。 社殿、楼門、神供所が国重要文化財である。 |
金宝山安心院<岡崎市明大寺町字馬場東> 曹洞宗の寺院。文明(1469〜86)年間、成瀬国平再興。 源義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うため建立した妙大寺の旧蹟と される。 <岡崎いいじゃんガイドブックから引用> |
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萬燈山吉祥院<岡崎市明大寺町> お寺でいただいたチラシによると真言宗醍醐派の寺院で明治38 年開山とされる。 また三河新四国霊場第31番札所護摩堂とも 紹介されている。 |
萬燈山の絵女房桜 鎌倉街道は、萬燈山を迂回し、南進している。この桜の下の道が 想定線に近いと思われる。 この枝垂れ桜は、樹齢約100年、 高さ25Mとされる。(平成20年3月20日撮影) |
区画整理施行前の竜美ヶ丘<岡崎市竜美ヶ丘・大西> 区画整理事業完成記念誌の中のページ。副理事長の山田正さんが、山が多かった昔の景観がなくなり、風景、伝説、民話の類も連想することも 困難となったことを憂い、施工前の風景写真が見つからないため、子供の時の思い出を写生画にし、自作の詩を作られた作品です。 (写生は大西町広表:大西3の名鉄線踏切から高根山を望見した景色という) 上段は「おもいで余談」の文で中頃に<鎌倉街道は、名鉄線を縫うように山裾に沿って 西から東へ続いていました>とある。 中段は詩で5番目に <鎌倉街道 西東 山手に沿ってえんえんと 往来しげき その あかし 千人塚や 馬捨場> 矢作川を渡り、上和田町経由小豆坂・生田に向かう別経路もあったようであるが、山中を通り坂道の道であり明大寺経由の主要道路の補完路で あったと推察される。 |
白鳥神社<岡崎市大西2> 境内設置の由緒記に「日本武尊東征時の滞在地」と伝える。 南を名鉄名古屋本線男川駅、西を大西陸橋に面している。 鳥居がある参道は北であるが、鎌倉街道は男川駅側の南と される。 |
生田(しようだ)城跡 <岡崎市美合町生田屋敷> 名鉄本線男川駅と美合駅の中間北にある。 名鉄名古屋本線を 縫うように南進してきた街道は、旧大西町字向山周辺で生田を目 指して東に向きを変えた。 説明の石碑によると「明和年間、生田 四郎重勝、家康の娘御前が豊前国中津藩に御興し入れのみぎり、 介添え武士として栄任されたので、廃城となった」とある。 |
浄瑠璃姫伝説 |
日本の伝統芸能のルーツは「浄瑠璃」である。 世界無形文化遺産の文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の源流となったのが、岡崎を舞台とした源義経と 浄瑠璃姫の悲恋がテーマの「源氏十二段・浄瑠璃姫物語」である。 ・・・きらり岡崎「岡崎いいじゃんガイドブック」(平成18年3月発行 岡崎市、岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)P18より引用 伝説の概要 承安4年(1174)春のこと、矢作東宿(明大寺町)の兼高長者の屋敷に、京を逃れ奥州平泉に向かう源義経が、源氏の侍と落ち合うため長い逗留を した。 そんなある夜、義経派浄瑠璃姫の奏でる美しい琴の音を耳にし、名笛「薄墨」で合奏した。 相思相愛となった二人であるが、悲しい別れの 日がきた。 義経は姫に「薄墨」を残し、奥州に旅立った。 月日は流れ、寿永2年(1183)春、風の便りに義経の死が伝わった、ひたすら待ち続けて 10年、世をはかなんだ浄瑠璃姫は乙川の深みに身を投げた。 その年の冬、京に上る義経が姫との再会に胸ふくらませ、矢作宿に立ち寄った。 しかし、そこに待っていたのは、あまりにも悲しい現実であった。 平氏追討を終え矢作宿に戻った義経は、姫の菩提を弔うため、七堂伽藍の妙大寺を建立し、姫への愛の証とした。 ・・きらり岡崎「江戸の故郷おかざき観光ガイドブック」(平成19年11月発行 岡崎市、岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)P18より引用 史実に基づかない伝説であるが、初出として「実隆公記」(三条西実隆の日記)文明七年(1477)7月28日〜30日に浄瑠璃御前物語が口誦芸能で ある語り物の一つとして京で演ぜられていたことが知られる。 この時点で矢作宿とのかかわりは不明であるが、10年後の詩では間違いなく矢作の 地と結びついている。 この成立事情については多数の研究があるものの、資料の不足のため判然としない。・・・岡崎市史・中世第2章3節より引用 |
「源氏十二段」の復刻 三味線伴奏による語り物の浄瑠璃は、江戸時代に発展した歌舞 伎や人形劇の劇場音楽として発展し、義経と浄瑠璃姫とのロマン スを題材にした物語が人気を集め、浄瑠璃姫の名前にちなんで、 その後にできた物語を浄瑠璃と呼ばれるようになった。 ・・・参考:日本文化いろは事典 |
しかし「浄瑠璃姫物語」は、いつか忘れられた存在となっていた。 これを知った岡崎呉服協同組合は、奈良薬師寺副住職・山田法胤 師の協力を得て、人間国宝・竹本住大夫師匠を中心に「浄瑠璃姫 物語」の復刻に取り組んでいる。 平成14年の人形衣装づくり、17年に人形の頭、18年10月には、 第28回岡崎市民音楽祭として(素浄瑠璃)復刻講演が行われた。 ・・・きらり岡崎「岡崎いいじゃんガイドブック」(平成18年3月発行 岡崎市、岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)P18より引用 上の写真は、平成14年に「三河武士のやかた家康館特別展」として 開催された「岡崎の説話・・・浄瑠璃姫」の図録です。 左の写真は、 第28回市民音楽祭で入場者に配布されたプログラムの表紙です。 岡崎市民の方のご好意でお借りすることができました。 ありがとうございました。 |
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浄瑠璃寺(光明院)<岡崎市康生通西3> 元創建は不詳。 浄瑠璃姫の父兼高長者が瑠璃光山安西寺を 開いたのが始まり。 当初は岡崎城内にあり、後に現在の場所 に移された。 義経と浄瑠璃姫の画像と姫守本尊の薬師如来が 安置されている。 |
浄瑠璃姫供養塔<岡崎城内> 乙川で浄瑠璃姫の遺体があがったことから、その場所に供養され たが、後に国道1号沿いの岡崎公園大手門近くへと移された。 供養塔は義経のいる奥州に向けて建てられている。 |
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慶念山誓願寺<岡崎市矢作町> 時宗寺院で、長徳(997)の開基。 義経が浄瑠璃姫に贈ったとされる笛「薄墨」が安置されている寺。 父兼高長者が義経と浄瑠璃姫の木像、姫の鏡等遺品と共にここ に葬り、十王堂を建てたといわれている。 |
誓願寺十王堂<岡崎市矢作町> 十王とは十王経に説く、冥府(あの世、冥途の役所)で死者を裁くと いう王である。 閻魔王等である。 初七日に秦広(しんこう)王の 庁に以下順に二十七日から三周忌に各王の庁を過ぎて娑婆(しゃば :この世)で犯した罪の裁きを受け、来世の生所が定まるという。 この堂内は写真のように十王の極彩色の像が安置してあり、壁に は地獄・極楽の有様が描かれている。<堂前の説明版より引用> |
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瑠璃山成就院<岡崎市吹矢町> 曹洞宗の寺院。文明9年(1477)西郷信貞創建。 <新編岡崎市史総集編(平成5年)> 伝説として、浄瑠璃姫の菩提を弔うために、侍女の十五夜が冷泉 という名の尼となり冷泉寺としたのが始まり。 文明9年、その場所 に滝沢永源が浄瑠璃姫と十五夜の供養のため成就院を建立した。 |
浄瑠璃ヶ淵<岡崎市吹矢町> 浄瑠璃姫が平泉に向けて旅立つ源義経との別れを儚み、乙川に 身を投げたと伝わる場所。 乙川を臨む成就院の墓地横に 「散る花に 流れもよどむ 姫ヶ淵」 笈斗山人(おいどさんじん) と記された石碑が平泉に向けて立てられている。 この句碑は昭和39年12月に当時の愛知教育大学教授酒井栄喜 先生により建立された。 句は、同大学学長内藤卯三郎先生の詠ま れたものという。<岡崎市開発部公園緑地課設置の案内板より引用> |