岡崎市中心部の鎌倉街道 

岡崎市街地の鎌倉街道は、市街地化の進展に加え、15世紀の乙川河道変更と竜美ヶ丘団地建設により地形が激変し、
中世時代の街道を辿るにはかなり困難である。

岡崎市史(中世)は、中世時代の街道<鎌倉街道>を名鉄名古屋本線とほぼ並行している新桜街道を推定している。し
かし「三河古道と鎌倉街道」(昭和51年6月武田勇著)、「愛知の歴史街道」(平成9年2月中根洋治著)、「平安鎌倉古道
」(平成9年10月尾藤卓男著)及び安城市史等では、渡町→六名町経由を採用している。これらを検討した結果、双方が
利用されたと思われるが、親鸞上人逗留伝説がある 渡町→六名町経由を、ここでは鎌倉街道と推定した。
更に、明大寺町から東進する街道遺構について、参考にしている「平安鎌倉古道」が竜美ヶ丘経由を採用しているのに対
し、他の資料は安心院北経由名鉄名古屋本線沿線説と思われ、どちらの説を採用すべきか悩んだ。
約30年前に完工した「竜美ヶ丘土地区画整理事業」工事着手前の情報を求めて岡崎市役所(市街地整備課)を訪問した
。突然の訪問であったが「完成記念誌」を探し見せていただき、当時の副理事長が「おもいで余談」の紙面で一部であるが
鎌倉街道について書かれているページを発見した。(コンビニ並の価格で写しを入手) 記念誌に書かれている「名鉄名古
屋本線を縫うように山裾に沿って西から東に続いていた」見解は、地元の方の認識を代表してると判断し名古屋本線沿い
説を採用した。
また、街道遺構が明確でないため、上記街道研究家の資料に詳細な地図が無く探索に苦しむ要因となった。9年前に1年
間であるが岡崎市内に勤務し、何回も街道探索し地理に明るくなっていたはずが、今年の4回の現地でも現在地が分から
なくなり、コンビニで地図を購入し目的地にたどり着くこともあった。坂道と見通しがきかない狭い道を進むため、市外の方
には分かりにくい場所であると思う。苦労して下の略地図を作成した。不満足な気持ちのまま、このページ作成の最終段
階で、9年前の岡崎市内勤務時代に撮影した駅構内の案内地図を発見し、補完資料として活用することとした。読んでい
ただく方には地理情報が分かり易くなったと思う。今回提示の街道推定線が今後の街道愛好家の「検証案」の一つにして
いただき、関心が高まることを期待したい。
追記1
このページの地図及び内容を作り終えて、平成28年8月19日に最終の現地確認を行った。帰途、岡崎市立中央図書館
で資料を探したところ、「岡崎の歴史」(昭和51年3月31日発行、編集・発行:岡崎の歴史編集委員会)を見つけた。その
なかに、「5、鎌倉街道と矢作の宿」の1章があり、最初に紹介した「三河古道と鎌倉街道」の著者の武田勇氏がアドバイ
スされた「鎌倉街道の道筋」のタイトルの略地図が作成・掲示されている。苦労した明大寺〜大西〜(生田)〜岡(美合町
)の経路が明確に書かれている。下記案内図と同じ道筋であり、安堵している。
 
追記2
岡崎市内の街道探索では、常に観光協会の貸自転車をお借りし、大変お世話になりました。初回(6月26日)では東岡崎駅から藤川駅まで往復
し詳細に現地確認することができました。8月19日の最終日は35度位の猛暑にも関わらず東岡崎駅構内の案内所にある5台全てが利用され
ました。広範囲の街道探索や観光地巡りには最適と思います。無料で午前9時30分から午後4時まで誰でも借りれます。
 
 六名町内の詳細図(六名駅設置案地図)
 
     
今見堂<岡崎市六名町今見堂>
矢作川を渡った左岸(東側)の船着場と伝わる。
  現在の今見堂<岡崎市六名町今見堂>
南流していた乙川(おとがわ)が応永4年(1397)頃、
西流に変えられ、今見堂付近で矢作川と合流している。
工作物は乙川架設の取水水門で塀のように見えるのが
水路である。乙川と水路の間が字今見堂である。
地形が変わり、船着場の情景はまったくない。
  
     
筒井山正福(しょうふく)寺
<岡崎市六名本町>

浄土真宗本願寺派の寺院。<新編岡崎市史総集編
(平成5年)>
  仏名山重幸寺<岡崎市上六名2>
真宗大谷派寺院。文政(1818〜30)年中創建。もと上六
名に在り。
 <新編岡崎市史総集編(平成5年)> 
     
史跡真宮遺跡<岡崎市真宮町>
矢作川を臨む段丘上にあり、縄文時代から鎌倉時代
の複合遺跡で住居跡や石鏃(せきぞく)、石斧等が発
見されている。
・・・遺跡内説明版引用  
 
注:中世時代に乙川河道が変わり、現在は乙川と矢作川が並行
している。
鎌倉時代の住居跡があることから鎌倉街道と矢作東
宿が存在したのではないかと推定されている。
  真宮遺跡内の住居跡
縄文時代、古墳時代、平安時代の住居跡が再現・展示
されている。
  
 明大寺町、久後ア町内の詳細図(東岡崎駅設置案地図)
 
     
熊野神社<岡崎市久後ア町字郷西
祭神は伊邪那美尊、天正7年(1579)の創立。宝永
4年(1707)田中吉政岡崎城主が現在地に移す。
<境内の由来碑引用>
  久後山無量寺(三河善光寺)
<岡崎市久後ア町字郷西>

元和(1615〜24)年中、岡崎城主本多康紀創建。 
<新編岡崎市史総集編(平成5年)>
     
騎乗馬頭観世音菩薩像<無量寺>
12年に一度のご開帳でしか直接、拝むことができない
無量寺の秘仏とされる観世音菩薩。最近では、昨年春
にご開帳された。
ご住職のお話では、馬にまたがる姿は、従前の境内地
が洪水で水に浸かった際、馬に乗って避難された故事が
伝わるという。
  権現坂<岡崎市久後ア町
熊野神社・無量寺前の道が、久後ア交差点に向かって
下っている。
 
     
 神明宮<岡崎市明大寺町諸神>
日本武尊が東征の途中、当地で野営した時、神が星に
なって「御身を護るので社を祀り給え」と宣う伝説が伝わり
、星降神社と称えた。天正7年、下の宮、上の宮を合併し
、両神、双神と言われた。その後、諸神と称される。
<拝殿掲示の由緒より引用>
  円通山金剛寺<岡崎市明大寺町字西郷中>
曹洞宗の寺院。天保年間(1830〜44)創建。  
     
満珠山龍海院<岡崎市明大寺町字西郷中
曹洞宗の寺院。享禄(1530)松平清康の創建。
  別名「是之字寺」
龍海院は別名「是之字寺」といわれている。松平清康が
20歳のとき、「是の字」を左手に握る夢を見て、これを
模外和尚に占わせてみると、「是の字を握るは天下を
取ることなり」(是の字を分解すると日・下・人)と答えた
ので、喜んだ清康が和尚のために建てたのが龍海院と
伝えらる。
 
     
亀井山萬徳寺<岡崎市明大寺本町>
真宗大谷派の寺院。乙川堤に面し、鎌倉中期に三河等
の守護であった足利義氏(よしうじ)亭(邸)と比定する説
がある。新編岡崎市史は、矢作東宿を八帖町周辺とし、
足利義氏亭も矢作東宿と推定している。
(矢作川の洪水等で現時点では、確たる資料の発見は
ないとされている。)

<新編岡崎市史総集編(平成5年)>


  西郷頼嗣(よりつぐ)城跡<岡崎市>
六所神社一の鳥居前と乙川の間にある一画。
氷享年間(1429〜41)、三河守護代西郷弾正左衛門は
明大寺に屋敷城を築造した。享徳元年(14521)〜康生
元年(1455)の間に明大寺に屋敷を持つ三河守護代大
草城主、西郷稠頼が砦程度の簡単な城を築いた。岩津
城を本拠として勢力を拡大しつつあった松平信光に対
抗するためと思われる。
岡崎の地名もこのころに使用されたと思われる。
明大寺の城は岡の先、すなわち三島山の北端の川に
臨んだ小平地に位置していたからである。 
     
乙川(菅生川)<岡崎市明大寺町>
応永6年(1399)室町幕府官領畠山某国は三河守護一色
左京太夫詮範に乙川の西流化のための六名堤築堤によ
り下流の和田郷が水不足で困窮しているので伏樋(ふせ
とい)を入れる通知文が残されている。
南流せき止め、西流化工事の詳細及び目的を記録したも
のはない。わずかに17世紀末頃に成立したと推定される
「百姓伝記」に工事の事実がみられるのみである。
この工事が行われた結果
〇矢作川から船が菅生や明大寺に入れるようになり、水
 陸の 交通拠点となった。った。
〇岡崎城の台地南部を流れることになり、乙川に面した
 同  台地は要害として役割が高まった。
  岡崎城<岡崎市康生町>
文明(1469〜86)年間のはじめ頼嗣は松平信光の攻撃
をうけて敗北、信光の子光重を婿(養子)に迎えて所領
の額田郡大草へ隠棲したとされる。
享禄4年(1531)、家康の祖父・松平清康が本拠を明大
寺から乙川北岸の現在地に移した。
家康の父・広忠が殺された後は、今川氏の勢力下にお
かれたが、桶狭間の合戦後、家康が再び入城した。





 <海道記>
 
今日の泊を聞けば、前程猶遠しといへども、暮れの
空を望めば、斜脚巳に酉金に近づく。日の入る程に、
矢矧の宿におちつきぬ。

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 今日の泊を聞くと、前途はまだ遠いのだが、夕暮れの
空を眺めると、斜めの日差しはすでに西に近づいている。
日没頃に
矢矧の宿に落ち着いた。
  <東関紀行>
 
矢矧という所を立ちて、宮路山越え過ぐるほどに
、 赤坂という宿あり。

<解説>
・・・中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 矢矧という所を出立して宮路山を越えていくと、赤坂と
いう宿がある。
 
     
六所神社<岡崎市明大寺町>
徳川家康公誕生の際には、松平氏の産土神としての拝
礼があったと言われている。5万石以上の大名だけが許
されたという。石段を上ると、極彩色の楼門、その奥に家
光造営の社殿が現れる。社殿、楼門、神供所が国重要
文化財である。
  金宝山安心院<岡崎市明大寺町字馬場東
曹洞宗の寺院。文明(1469〜86)年間、成瀬国平再興。
源義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うため建立した妙大寺
の旧蹟とされる。
<岡崎いいじゃんガイドブックから引用>
  
     
萬燈山吉祥院岡崎市明大寺町 
お寺でいただいたチラシによると真言宗醍醐派の
寺院で明治38年開山とされる。また三河新四国霊
場第31番札所 護摩堂とも紹介されている
 
  萬燈山の絵女房桜
鎌倉街道は、萬燈山を迂回し、南進している。この
桜の下の道が想定線に近いと思われる。
この枝垂れ桜は、樹齢役100年、高さ25Mとされる。
(平成20年3月20日撮影)
 
     
明大寺(東岡崎駅)から美合に向かう
萬燈山 吉祥院でお聞きした話では、駅付近から東
進の道は長野整形・形成外科医院で行き止まりで
、道は南進していたという
  街道の痕跡<岡崎市明大寺出口> 
「三河古道と鎌倉街道」で、字出口は鎌倉街道の遺構と
されている。交差点の一筋南(中央白い建物)に左(東)
への道があり吉祥院下に続いている。先に続く道は、
右なりに曲がりながら名鉄本線の踏切を渡り安心院に
続いている。
 区画整理施行前の竜美ヶ丘<岡崎市竜美ヶ丘・大西>
区画整理事業完成記念誌の中のページ。副理事長の山田正さんが、山が多かった昔の景観がなくなり、風景、伝説、民話の類も
連想することも困難となったことを憂い、施工前の風景写真が見つからないため、子供の時の思い出を写生画にし、自作の詩を作
られた作品です。
 (写生は大西町広表:大西3の名鉄線踏切から高根山を望見した景色という)
上段は「おもいで余談」の文で中頃に<鎌倉街道は、名鉄線を縫うように山裾に沿って 西から東へ続いていました>とある。
中段は詩で5番目に
<鎌倉街道 西東 山手に沿ってえんえんと 往来しげき その あかし 千人塚や 馬捨場> 
矢作川を渡り、上和田町経由小豆坂・生田に向かう別経路もあったようであるが、山中を通り坂道の道であり明大寺経由の主要道
路の補完路であったと推察される
 
     
 白鳥神社<岡崎市大西2> 
境内設置の由緒記に「日本武尊東征時の滞在地」と伝
える。南を名鉄名古屋本線男川駅、西を大西陸橋に
面している。
鳥居がある参道は北であるが、鎌倉街道は男川駅側
の南とされる。
   明大寺に向かう東の登り口
<岡崎市大西町字仁田>
 
名古屋本線を縫うよう(現在は並行する市道)に進ん
できた街道は、男川駅西の大西陸橋を潜り、下りつ
つ進むとここにたどり着く。駅周辺は曲がりくねった
道で方角を見失わないよう注意が必要である。
 
     
生田(しようだ)城跡
<岡崎市美合町生田屋敷>

名鉄本線男川駅と美合駅の中間北にある。名鉄名古
屋本線を縫うように南進してきた街道は、旧大西町字
向山周辺で生田を目指して東に向きを変えた。
説明の石碑によると
「明和年間、生田四郎重勝、家康の娘御前が豊前国
中津藩に御興し入れのみぎり、介添え武士として栄任
されたので、廃城となった」とある。
  生田城址絵図面
新編岡崎市・中世第5章「中世の城と館」に掲載され
ている生田城址絵図。右下の方形が「四方30間」の
城で右に上下(東西)の鎌倉街道と思われる道があ
る。
 




 別経路の鎌倉街道
矢作川を渡って六名から明大寺に向かう本道に対し、六名の南にある上和田町に渡り、東進して
馬頭(美合町)に向かう別経路があったと伝わるが、詳細は不明である。かろうじて小豆坂合戦で
織田信秀が拠点としていた安城城から上和田経由で小豆坂に向かったことが分かっているだけで
ある。
 
     
占部川<岡崎市羽根町、上和田町>
JR岡崎駅の北約500mにある占部川。乙川が南流し
ていた時代は
、ここまで本流があったという。西の上
和田町は、矢作川を渡った東側渡船場となるが、都
市化が進み当時の様子の面影もない。 
  史跡小豆坂(あづきざか)古戦場
<岡崎市戸崎町>

三河を統一した松平清康(家康の祖父)が天文4年
(1535)尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平
氏に対して、織田信秀(信長の父)は安城城を拠点に
矢作川東岸部への進出を図った。これを望まない今川
義元は、
天正11年(1542)4万の軍勢を生田原に進め
た。一方、織田信秀は、4千の兵を率いて矢作川を渡
って上和田に陣をしき、この小豆坂で戦った。
(天文11年の戦いはなかつた説もあり)
これ以降、今川市との関係を深めた松平広忠(家康の
父)に対し、天文17年(1548)3月、織田信秀は岡崎攻
撃の準備を整え出撃し、今川義元は救援の軍勢を送
ったため、両軍は小豆坂で出会い合戦におよび、松平
家臣の活躍により今川・松平連合軍が勝利した。
<市教育委員会設置の説明版を引用>
 



浄瑠璃姫伝説 
 日本の伝統芸能のルーツは「浄瑠璃」である。世界無形文化遺産の文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の源流となったのが、
岡崎を舞台とした源義経と浄瑠璃姫の悲恋がテーマの「源氏十二段・浄瑠璃姫物語」である。
・・・きらり岡崎「岡崎いいじゃんガイドブック」(平成18年3月発行 岡崎市、岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)P18より引用
説の概要
承安4年(1174)春のこと、矢作東宿(明大寺町)の兼高長者の屋敷に、京を逃れ奥州平泉に向かう源義経が、源氏の侍と
落ち合うため長い逗留をした。そんなある夜、義経派浄瑠璃姫の奏でる美しい琴の音を耳にし、名笛「薄墨」で合奏した。
相思相愛となった二人であるが、悲しい別れの日がきた。義経は姫に「薄墨」を残し、奥州に旅立った。
月日は流れ、寿永2年(1183)春、風の便りに義経の死が伝わった、ひたすら待ち続けて10年、世をはかなんだ浄瑠璃姫
は乙川の深みに身を投げた。
その年の冬、京に上る義経が姫との再会に胸ふくらませ、矢作宿に立ち寄った、しかし、そこに待っていたのは、あまりに
も悲しい現実であった。平氏追討を終え矢作宿に戻った義経は、姫の菩提を弔うため、七堂伽藍の妙大寺を建立し、姫へ
の愛の証とした。

・・きらり岡崎「江戸の故郷おかざき観光ガイドブック」(平成19年11月発行 岡崎市、岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)
P18より引用

史実に基づかない伝説であるが、初出として
「実隆公記」(三条西実隆の日記)文明七年(1477)7月28日〜30日に浄瑠
璃御前物語が口誦芸能である語り物の一つとして京で演ぜられていたことが知られる。この時点で矢作宿とのかかわりは
不明であるが、10年後の詩では間違いなく矢作の地と結びついている。この成立事情については多数の研究があるもの
の、資料の不足のため判然としない。 ・・・岡崎市史・中世第2章3節より引用
     
 「源氏十二段」の復刻
三味線伴奏による語り物の浄瑠璃は、江戸時代に発
展した歌舞伎や人形劇の劇場音楽として発展し、義
経と浄瑠璃姫とのロマンスを題材にした物語が人気
を集め、浄瑠璃姫の名前にちなんで、その後にでき
た物語を浄瑠璃と呼ばれるようになった
・・・参考:日本文化いろは事典









  しかし「浄瑠璃姫物語」は、いつか忘れられた存在と
なっていた。これを知った岡崎呉服協同組合は、奈
良薬師寺副住職・山田法胤師の協力を得て、人間
国宝・竹本住大夫師匠を中心に「浄瑠璃姫物語」の
復刻に取り組んでいる
平成14年の人形衣装づくり、17年に人形の頭、18
年10月には、第28回岡崎市民音楽祭として(素浄
瑠璃)復刻講演が行われた。・・・きらり岡崎「岡崎い
いじゃんガイドブック」(平成18年3月発行 岡崎市、
岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)P18より引用
上の写真は、平成14年に「三河武士のやかた家康
館特別展」として開催された「岡崎の説話・・・浄瑠璃
姫」の図録です。左の写真は、第28回市民音楽祭
で入場者に配布されたプログラムの表紙です。岡崎
市民の方のご好意でお借りすることができました
ありがとうございました。
 
     
浄瑠璃寺(光明院)<岡崎市康生通西3>
元創建は不詳。浄瑠璃姫の父兼高長者が瑠璃光山
安西寺を開いたのが始まり。当所は岡崎城内にあり
、後に現在の場所に移された。義経と浄瑠璃姫の画
像と姫守本尊の薬師如来が安置されている。
 
  浄瑠璃姫供養塔<岡崎城内>
乙川で浄瑠璃姫の遺体があがったことから、その場
所に供養されたが、後に国道1号沿いの岡崎公園大
手門近くへと移された。供養塔は義経のいる奥州に
向けて建てられている。
  
     
慶念山誓願寺<岡崎市矢作町>
時宗寺院で、長徳(997)の開基。
義経が浄瑠璃姫に贈ったとされる笛「薄墨」が安置さ
れている寺。父兼高長者が義経と浄瑠璃姫の木像、
姫の鏡等遺品と共にここに葬り、十王堂を建てたとい
われている。


  誓願寺十王堂<岡崎市矢作町>
十王とは十王経に説く、冥府(あの世、冥途の役所)
で死者を裁くという王である。閻魔王等である。初七
日に秦広(しんこう)王の庁に以下順に二十七日から
三周忌に各王の庁を過ぎて娑婆(しゃば:この世)で
犯した罪の裁きを受け、来世の生所が定まるという。
この堂内は写真のように十王の極彩色の像が安置
してあり、壁には地獄・極楽の有様が描かれている。
<堂前の説明版より引用>
 
     
瑠璃山成就院<岡崎市吹矢町>
曹洞宗の寺院。文明9年(1477)西郷信貞創建。
<新編岡崎市史総集編(平成5年)>
伝説として、浄瑠璃姫の菩提を弔うために、侍女の
十五夜が冷泉という名の尼となり冷泉寺としたのが
始まり。文明9年、その場所に滝沢永源が浄瑠璃姫
と十五夜の供養のため成就院を建立した。
 




  浄瑠璃ヶ淵<岡崎市吹矢町>
浄瑠璃姫が平泉に向けて旅立つ源義経との別れを儚
み、乙川に身を投げたと伝わる場所。乙川を臨む成就
院の墓地横に
「散る花に 流れもよどむ 姫ヶ淵」
                 
笈斗山人(おいどさんじん)
と記された石碑が平泉に向けて立てられている。
この句碑は昭和39年12月に当時の愛知教育大学教
授酒井栄喜先生により建立された。句は、同大学学長
内藤卯三郎先生の詠まれたものという。
<岡崎市開発部公園緑地課設置の案内板より引用>