岡崎市の鎌倉街道 
岡崎市内は、市街地化の進展に加え、15世紀の乙川河道変更と竜美ヶ丘団地建設により地形が激変し、中世時代の街道を辿るにはかなり困難である。 岡崎市史(中世)は、中世時代の街道<鎌倉街道>を名鉄名古屋本線とほぼ並行している新桜街道を推定している。 しかし「三河古道と鎌倉街道」(昭和51年6月武田勇著)、「愛知の歴史街道」(平成9年2月中根洋治著)、「平安鎌倉古道」(平成9年10月尾藤卓男著)及び安城市史等では、渡町六名町経由を採用している。 これらを検討した結果、長い間には双方が利用されたと思われるが、ここでは親鸞上人逗留伝説がある渡町六名町経由を、鎌倉街道と推定した。 更に、明大寺町から東進する街道遺構について、諸説あるが、「竜美ヶ丘土地区画整理事業・完成記念誌」*に書かれている「名鉄名古屋本線を縫うように山裾に沿って西から東に続いていた」との見解は、地元の方の認識を代表していると判断し名古屋本線沿い説を採用した。*<岡崎市役所(市街地整備課)協力> 坂道と見通しがきかない狭い道は、市外の方には分かりにくいと思う。苦労して下の略地図を作成した。 不満足な気持ちのまま、以前の岡崎市内勤務時代に撮影した駅構内の案内地図を発見し、補完資料として活用することとした。 読んでいただく方には地理情報が分かり易くなったと思う。今回提示の推定線が街道愛好家の「検証案」の一つにしていただき、関心が高まることを期待したい。
 岡崎市内の鎌倉街道想定図 
 
     
今見堂<岡崎市六名町今見堂>
矢作川を渡った左岸(東側)の船着場と伝わる。



  現在の今見堂<岡崎市六名町今見堂>
南流していた乙川(おとがわ)が応永4年(1397)頃、西流に
変えられ、今見堂付近で矢作川と合流している。 工作物は
乙川架設の取水水門で塀のように見えるのが水路である。
乙川と水路の間が字今見堂である。 地形が変わり、船着場の
情景はまったくない。
  
     
筒井山正福(しょうふく)<岡崎市六名本町>
浄土真宗本願寺派の寺院。 今見堂付近から六名小学校の
西南をかすめ、正福寺の東、重幸寺前が街道推定線である。
  仏名山重幸寺<岡崎市上六名2>
真宗大谷派寺院。文政(1818〜30)年中創建。もと上六名に在り。
 <新編岡崎市史総集編(平成5年)> 
     
史跡真宮遺跡<岡崎市真宮町>
矢作川を臨む段丘上にあり、縄文時代から鎌倉時代の複合
遺跡で住居跡や石鏃
(せきぞく)、石斧等が発見されている。
・・・遺跡内説明版引用  
 注:中世時代に乙川河道が変わり、現在は乙川と矢作川が
   並行している。
 
熊野神社<岡崎市久後ア町字郷西
祭神は伊邪那美尊、天正7年(1579)の創立。 宝永4年(1707)
田中吉政岡崎城主が現在地に移す。<境内の由来碑引用>
     
久後山無量寺(三河善光寺)<岡崎市久後ア町字郷西>
元和(1615〜24)年中、岡崎城主本多康紀創建。 
<新編岡崎市史総集編(平成5年)>
  騎乗馬頭観世音菩薩像<無量寺>
12年に一度のご開帳でしか直接、拝むことができない無量寺の
秘仏とされる観世音菩薩。 最近では、昨年(2015)春にご開帳さ
れた。 ご住職のお話では、馬にまたがる姿は、従前の境内地が
洪水で水に浸かった際、馬に乗って避難された故事が伝わる
という。
     
権現坂<岡崎市久後ア町
熊野神社・無量寺前の道が、久後ア交差点に向かって下っている。 
街道が微高地を進んできたことがわかる。
  神明宮<岡崎市明大寺町諸神>
日本武尊が東征の途中、当地で野営した時、神が星になって
「御身を護るので社を祀り給え」と宣う伝説が伝わり、星降神社と
称えた。 天正7年、下の宮、上の宮を合併し、両神、双神と言わ
れた。 その後、諸神と称される。 <拝殿掲示の由緒より引用>
     
円通山金剛寺<岡崎市明大寺町字西郷中>
曹洞宗の寺院。天保年間(1830〜44)創建。
県道483号、名鉄名古屋本線際の電気店の西(裏)にある。
入口が狭く分かりにくいのでご注意を。  
  満珠山龍海院<岡崎市明大寺町字西郷中
曹洞宗の寺院。享禄(1530)松平清康の創建。
     
別名「是之字寺」
龍海院は別名「是之字寺」といわれている。 松平清康が20歳の
とき、「是の字」を左手に握る夢を見て、これを模外和尚に占わせて
みると、「是の字を握るは天下を取ることなり」(是の字を分解すると
日・下・人)と答えたので、喜んだ清康が和尚のために建てたのが
龍海院と伝えらる。
   亀井山萬徳寺<岡崎市明大寺本町>
真宗大谷派の寺院。乙川堤に面し、鎌倉中期に三河等の守護で
あった足利義氏(よしうじ)亭(邸)と比定する説がある。
新編岡崎市史は、矢作東宿を八帖町周辺とし、足利義氏亭も
矢作東宿と推定している。
(矢作川の洪水等で現時点では、確たる資料の発見はないと
されている。) 
<新編岡崎市史総集編(平成5年)>
     
西郷頼嗣(よりつぐ)城跡<岡崎市>
六所神社一の鳥居前と乙川の間にある一画。
氷享年間(1429〜41)、三河守護代西郷弾正左衛門は明大寺に
屋敷城を築造した。 享徳元年(14521)〜康生元年(1455)の間に
大寺に屋敷を持つ三河守護代大草城主、西郷稠頼が砦程度の簡
単な城を築いた。 岩津城を本拠として勢力を拡大しつつあった
松平信光に対抗するためと思われる。 
岡崎の地名もこのころに
使用されたと思われる。 明大寺の城は岡の先、即ち、三島山の北
端の川に臨んだ小平地に位置していたからである。 
  乙川(菅生川)<岡崎市明大寺町>
応永6年(1399)室町幕府官領畠山某国は三河守護一色左京太夫
詮範に乙川の西流化のための六名堤築堤により下流の和田郷が
水不足で困窮しているので伏樋(ふせとい)を入れる通知文が残さ
れている。 南流せき止め、西流化工事の詳細及び目的を記録した
ものはない。 わずかに17世紀末頃に成立したと推定される
「百姓伝記」に工事の事実がみられるのみである。
この工事が行われた結果
〇矢作川から船が菅生や明大寺に入れるようになり、水陸の交通
 拠点となった。
〇岡崎城の台地南部を流れることになり、乙川に面した同台地は
 要害として役割が高まった。
    <海道記>四月八日、鳴海・二村山・八橋・矢矧(3)
 
今日の泊(とまり)を聞けば、前程(ぜんてい)猶遠しといへども、
 暮れの空を望めば、斜脚
(しゃきょう)(すで)に酉金(いうきん)
 近づく。 日の入る程
(ほど)に、矢矧の宿(しゅく)におちつきぬ。

<海道記>
<解説>中世日記紀行集(新日本古典文学大系51)
 今日の泊を聞くと、前途はまだ遠いのだが、夕暮れの空を眺め
ると、斜めの日差しはすでに西に近づいている。 日没頃に
矢矧の
宿に落ち着いた。
 
岡崎城<岡崎市康生町>
文明(1469〜86)年間のはじめ頼嗣は松平信光の攻撃をうけて敗北、
信光の子光重を婿(養子)に迎えて所領の額田郡大草へ隠棲したと
される。
享禄4年(1531)、家康の祖父・松平清康が本拠を明大寺から乙川北
岸の現在地に移した。
家康の父・広忠が殺された後は、今川氏の勢力下におかれたが、
桶狭間の合戦後、家康が再び入城した。

 


     
六所神社<岡崎市明大寺町>
徳川家康公誕生の際には、松平氏の産土神としての拝礼があっ
たと言われている。 5万石以上の大名だけが許されたという。
石段を上ると、極彩色の楼門、その奥に家光造営の社殿が現れ
る。 社殿、楼門、神供所が国重要文化財である。
  金宝山安心院<岡崎市明大寺町字馬場東
曹洞宗の寺院。文明(1469〜86)年間、成瀬国平再興。
源義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うため建立した妙大寺の旧蹟と
される。 <岡崎いいじゃんガイドブックから引用>
  
     
萬燈山吉祥院岡崎市明大寺町 
お寺でいただいたチラシによると真言宗醍醐派の寺院で明治38
年開山とされる。 また三河新四国霊場第31番札所護摩堂とも
紹介されている
 
  萬燈山の絵女房桜
鎌倉街道は、萬燈山を迂回し、南進している。この桜の下の道が
想定線に近いと思われる。 この枝垂れ桜は、樹齢約100年、
高さ25Mとされる。(平成20年3月20日撮影)
 
区画整理施行前の竜美ヶ丘<岡崎市竜美ヶ丘・大西>
区画整理事業完成記念誌の中のページ。副理事長の山田正さんが、山が多かった昔の景観がなくなり、風景、伝説、民話の類も連想することも
困難となったことを憂い、施工前の風景写真が見つからないため、子供の時の思い出を写生画にし、自作の詩を作られた作品です。
 
(写生は大西町広表:大西3の名鉄線踏切から高根山を望見した景色という)
上段は「おもいで余談」の文で中頃に<鎌倉街道は、名鉄線を縫うように山裾に沿って 西から東へ続いていました>とある。
中段は詩で5番目に
<鎌倉街道 西東 山手に沿ってえんえんと 往来しげき その あかし 千人塚や 馬捨場> 
矢作川を渡り、上和田町経由小豆坂・生田に向かう別経路もあったようであるが、山中を通り坂道の道であり明大寺経由の主要道路の補完路で
あったと推察される
 
     
白鳥神社<岡崎市大西2> 
境内設置の由緒記に「日本武尊東征時の滞在地」と伝える。 
南を名鉄名古屋本線男川駅、西を大西陸橋に面している。
鳥居がある参道は北であるが、鎌倉街道は男川駅側の南と
される。
  生田(しようだ)城跡 <岡崎市美合町生田屋敷>
名鉄本線男川駅と美合駅の中間北にある。 名鉄名古屋本線を
縫うように南進してきた街道は、旧大西町字向山周辺で生田を目
指して東に向きを変えた。 説明の石碑によると「明和年間、生田
四郎重勝、家康の娘御前が豊前国中津藩に御興し入れのみぎり、
介添え武士として栄任されたので、廃城となった」とある。




浄瑠璃姫伝説 
 日本の伝統芸能のルーツは「浄瑠璃」である。 世界無形文化遺産の文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の源流となったのが、岡崎を舞台とした源義経と
浄瑠璃姫の悲恋がテーマの「源氏十二段・浄瑠璃姫物語」である。
・・・きらり岡崎「岡崎いいじゃんガイドブック」(平成18年3月発行 岡崎市、岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)P18より引用
伝説の概要
承安4年(1174)春のこと、矢作東宿(明大寺町)の兼高長者の屋敷に、京を逃れ奥州平泉に向かう源義経が、源氏の侍と落ち合うため長い逗留を
した。 そんなある夜、義経派浄瑠璃姫の奏でる美しい琴の音を耳にし、名笛「薄墨」で合奏した。 相思相愛となった二人であるが、悲しい別れの
日がきた。 義経は姫に「薄墨」を残し、奥州に旅立った。 月日は流れ、寿永2年(1183)春、風の便りに義経の死が伝わった、ひたすら待ち続けて
10年、世をはかなんだ浄瑠璃姫は乙川の深みに身を投げた。
その年の冬、京に上る義経が姫との再会に胸ふくらませ、矢作宿に立ち寄った。 しかし、そこに待っていたのは、あまりにも悲しい現実であった。
平氏追討を終え矢作宿に戻った義経は、姫の菩提を弔うため、七堂伽藍の妙大寺を建立し、姫への愛の証とした。

・・きらり岡崎「江戸の故郷おかざき観光ガイドブック」(平成19年11月発行 岡崎市、岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)P18より引用
史実に基づかない伝説であるが、初出として「実隆公記」(三条西実隆の日記)文明七年(1477)7月28日〜30日に浄瑠璃御前物語が口誦芸能で
ある語り物の一つとして京で演ぜられていたことが知られる。 この時点で矢作宿とのかかわりは不明であるが、10年後の詩では間違いなく矢作の
地と結びついている。 この成立事情については多数の研究があるものの、資料の不足のため判然としない。・・・岡崎市史・中世第2章3節より引用
     
 「源氏十二段」の復刻
三味線伴奏による語り物の浄瑠璃は、江戸時代に発展した歌舞
伎や人形劇の劇場音楽として発展し、義経と浄瑠璃姫とのロマン
スを題材にした物語が人気を集め、浄瑠璃姫の名前にちなんで、
その後にできた物語を浄瑠璃と呼ばれるようになった
・・・参考:日本文化いろは事典






  しかし「浄瑠璃姫物語」は、いつか忘れられた存在となっていた。
これを知った岡崎呉服協同組合は、奈良薬師寺副住職・山田法胤
師の協力を得て、人間国宝・竹本住大夫師匠を中心に「浄瑠璃姫
物語」の復刻に取り組んでいる
平成14年の人形衣装づくり、17年に人形の頭、18年10月には、
第28回岡崎市民音楽祭として(素浄瑠璃)復刻講演が行われた。
・・・きらり岡崎「岡崎いいじゃんガイドブック」(平成18年3月発行
  岡崎市、岡崎市観光協会、岡崎商工会議所)P18より引用
上の写真は、平成14年に「三河武士のやかた家康館特別展」として
開催された「岡崎の説話・・・浄瑠璃姫」の図録です。 左の写真は、
第28回市民音楽祭で入場者に配布されたプログラムの表紙です。
岡崎市民の方のご好意でお借りすることができました
ありがとうございました。
 
     
浄瑠璃寺(光明院)<岡崎市康生通西3>
元創建は不詳。 浄瑠璃姫の父兼高長者が瑠璃光山安西寺を
開いたのが始まり。 当初は岡崎城内にあり、後に現在の場所
に移された。 義経と浄瑠璃姫の画像と姫守本尊の薬師如来が
安置されている。
 
  浄瑠璃姫供養塔<岡崎城内>
乙川で浄瑠璃姫の遺体があがったことから、その場所に供養され
たが、後に国道1号沿いの岡崎公園大手門近くへと移された。
供養塔は義経のいる奥州に向けて建てられている。
  
     
慶念山誓願寺<岡崎市矢作町>
時宗寺院で、長徳(997)の開基。
義経が浄瑠璃姫に贈ったとされる笛「薄墨」が安置されている寺。
父兼高長者が義経と浄瑠璃姫の木像、姫の鏡等遺品と共にここ
に葬り、十王堂を建てたといわれている。


  誓願寺十王堂<岡崎市矢作町>
十王とは十王経に説く、冥府(あの世、冥途の役所)で死者を裁くと
いう王である。 閻魔王等である。 初七日に秦広(しんこう)王の
庁に以下順に二十七日から三周忌に各王の庁を過ぎて娑婆(しゃば
:この世)で犯した罪の裁きを受け、来世の生所が定まるという。
この堂内は写真のように十王の極彩色の像が安置してあり、壁に
は地獄・極楽の有様が描かれている。<堂前の説明版より引用>
 
     
瑠璃山成就院<岡崎市吹矢町>
曹洞宗の寺院。文明9年(1477)西郷信貞創建。
<新編岡崎市史総集編(平成5年)>
伝説として、浄瑠璃姫の菩提を弔うために、侍女の十五夜が冷泉
という名の尼となり冷泉寺としたのが始まり。 文明9年、その場所
に滝沢永源が浄瑠璃姫と十五夜の供養のため成就院を建立した。
 



  浄瑠璃ヶ淵<岡崎市吹矢町>
浄瑠璃姫が平泉に向けて旅立つ源義経との別れを儚み、乙川に
身を投げたと伝わる場所。 乙川を臨む成就院の墓地横に
「散る花に 流れもよどむ 姫ヶ淵」
                 
笈斗山人(おいどさんじん)
と記された石碑が平泉に向けて立てられている。
この句碑は昭和39年12月に当時の愛知教育大学教授酒井栄喜
先生により建立された。 句は、同大学学長内藤卯三郎先生の詠ま
れたものという。<岡崎市開発部公園緑地課設置の案内板より引用>