第五章 三河の鎌倉街道 |
尾張の国から境川を越えると三河の国となる。驚いたことに三河では,江戸時代末頃から鎌倉街道に関心を抱き、 現地(尾崎村から古鳴海)に赴き聞き取りを行い下の絵図面(原本は彩色)と記録を書いた刈谷藩士<浜田与四郎> を知った。 刈谷市史によると「容儀方正端厳藩主も亦是を畏憚せり」(碧海郡誌)といわれ、文人としてもその才を 発揮していた人物である。 資料は現在、東境町児山の泉正寺に伝えられる。 その後、「碧海郡誌」(大正5年碧海郡教育委員会)、「三河国における鎌倉街道」(昭和11年加藤巌)と鎌倉街道 への関心が続いている。<下記絵図は、新編安城市史からの転載> |
刈谷市の鎌倉街道 |
西境町及び東境町の詳細図<刈谷市設置案内版> |
鎌倉街道西境跡碑
<刈谷市西境町> 永福寺の北約3百メートルの境川堤防中腹にある碑。 市外の人間 では、発見することが不可能であるが、永福寺のご住職から「地元の 鎌倉街道ファン」が建設した碑があると教えていただいて、確認でき した。 |
酒井神社<刈谷市西境町> 祭神は豊宇賀能売神(とようがのみのかみ)、誉田別命(ほむだのわけみこと) である。 神社の北側を通鎌倉街道は境川を渡って尾張の国の大久 手(現豊明市)に通じていた。 徳川家重臣の「酒井氏」発祥の地とも 言い伝えがあるが定かではない。・・・市設置の説明版から引用 |
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大宝山永福寺<刈谷市西境町> 文亀二年(1502)創建とされる曹洞宗の寺院。初めは長福寺と 呼ばれていたが、江戸時代中頃、現在の名称に変更された。 鎌倉街道遺構沿いにある。・・・市設置の説明版から引用 |
万蔵坊の碑<永福寺境内> 元禄時代、、西境町交差点付近の堂守の万蔵坊(山伏)の加持 祈祷はすこぶり霊験あり、村人の病や悩みごと万般を退散せじめ、 村人から万蔵様と親しまれたそうである。 ある時、死期を悟った 万蔵坊は棺の中に座し、地中に埋めさせ竹の筒で呼吸しながら 臨終を待った。 村人は塚を作り街道筋に一株の松を植え、樹齢 2百年余、鎌倉街道の一点景として後の世まで語り継がれた。 その碑は、今は永福寺境内に移されている。 |
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カフェ・喫茶「ラ・ヴィッジ」<刈谷市西境町> 県道岡崎豊明線西境交差点近くの喫茶・レストランのお店。 約8年 前に当地区を初めて探索に訪れた時、祖母神社の場所が分からな くご主人に近くまでご案内していただきました。 平成27年11月3日、久しぶりにお店に行きましたら、沢山のお客 さんでお忙しい中、改めてお礼を述べ小誌「鎌倉街道」をお渡しする ことができました。 電話 0566-36-8887 |
祖母神社<刈谷市西境町> 神社由緒によると、久安三年(1147)伊邪那美命を鎮祭し、氏神 として祖母大明神として崇敬される。 鎌倉時代には集落の中に あったが、大池(鴨の池)の治水工事不完全にて多発する水害の ため村人は南部の高台に移転し、地名の町屋のみ歴史を残している。 |
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鎌倉街道伝承地碑
<祖母神社境内> 本殿の左手に写真の伝承地碑と左に少し見えている「鎌倉街道の 由来」記が設置されている。 古くて文字が読めなかったが、豊田市 在住の渡邉健二さんの著作「名残の道」によると昭和36年(1961)、 有志「鎌倉街道保存会」が右写真の古道跡に木製の案内板、道標 を設置しており、これを契機に昭和46年に石碑が建立されたという。 |
鎌倉街道遺構<刈谷市西境町> 祖母神社境内の西側にわずかに残る街道遺構。 北から南を 望んだ写真。右(西)の道路に比べ微高となっている。 |
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児(ちご)塚<刈谷市東境町> 児塚は竜ヶ根池北西の変則交差点の近傍森永乳業と書かれた白い 建物の道側に小さな植え込みがあり、その中に塚がある。 刈谷市史に、徳川氏の始祖親氏(ちかうじ)に因む伝承を紹介して いる。 室町時代末、東国から逃れてきた時宗の遊行僧長阿弥 (有親)・徳阿弥(親氏)父子は、地元の豪族酒井氏のもとに身を 寄せた。 有親の死後、酒井氏の娘婿に迎えられて親氏は、家督 を譲られた上に一子をもうけた。 しかし、その後親氏はわけあって 松平氏の養子となり、松平村へ移ったため、親氏とその子の永別の 形見として「児塚」を築いたという。 |
鎌倉街道伝承地碑
<刈谷市一里山町> 兜x士塗料工業所敷地を分断している街道遺構。 会社の方針で、 使い勝手が悪いことを承知で付け替えしないで残された歴史資産で ある。 鎌倉街道を探索する人必見の場所である。 西から東を臨ん でおり、右(南)が刈谷市、左(北)が豊田市中田町である。 *2018.6.15 工場火災により建物などが撤去され、更地と なっていた。シンボルのような存在であった ので、本当に残念です。 |
豊田市の鎌倉街道 |
豊田市の西入り口<豊田市中田町西山> 元は富士塗料工業所の敷地の間を通り抜けた場所である。 鎌倉街道は右の正面の道である。 中央に平成24年設置の 「街道と地域の成り立ちの概要」が書かれた案内板が見える。 |
鎌倉街道と中田の碑<豊田市中田町西山> 高岡町史に土御門天皇の時代(鎌倉時代)、鎌倉街道に御天下 (オテレン)茶屋があったが、その分家が西の池の水で農業を始め たのが中田の始まりで、次いで中田七軒百姓が起こった。 これが 中田の創業にあたった人々である。 出典:「千年の道・尾参国境はいま」(豊田市在住・渡邉健二氏著) 御天下(オテレン)茶屋は、富士塗料工業所西側の塩付街道付近、 又は中田集落の中(中田八幡社付近)にあったとされる。 |
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中田八幡社<豊田市中田町神池> 鳥居の横に設置されている社伝では 正治元年(1199)、京の武士・清原某が鎌倉幕府に仕えんと鎌倉街道 沿いの当地に来たる時、頼朝の急死を聞いた。 痛歎(つうたん= 嘆き・悲しむ)し、弓矢を捨て、当地に留まる。 崇敬する八幡宮を 勧請し、農業を営むと人が集まり、中田村の始まりとなる。以下、略。 |
逢妻川女川<豊田市中田町> 駒場小学校の西にあり、知立市境の逢妻川男川と下流約800mで 合流している。 両川は鎌倉時代は衣浦湾の入り江であり、駒場の 集落は岬のような微高地であり、そこを鎌倉街道が通っていたことに なる。 |
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市立駒場小学校と鎌倉街道遺構<豊田市駒新町> 学校の北面を鎌倉街道が東西に走る。 幟旗は、地元区会が展開 している「駒場の史跡伝統芸能を守る会」の印であるがファンには 「鎌倉街道」の文字が嬉しい限りである。 11月3日、再調査のため 歩行中に発見し、ウォーキングを知る契機となった。 |
鎌倉街道伝承地の案内<豊田市駒新町> 上の写真の幟の後にあるのが、豊田市教育委員会設置の説明版。 鎌倉街道の文字が溢れており楽しく元気よく歩けました。 |
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神明社<豊田市駒場町> 祭神は天照大神で、延喜式外の旧社であって大宝二年十月持統 天皇三河巡幸のみぎり勅許を得て、氏神として鎮祭されたと伝わる。 往古、海浜に臨み小浜の里と称し、当社を小浜の明神と称していた。 現在の地名である「駒場」の起源は、鎌倉街道沿線にあって人馬の 往来繁く、かつ隣接の知立の馬市に集まる人馬の宿泊地となった からであろう。 ・・・境内設置の由緒から引用 |
<旧鎌倉街道を歩こう>開式 「駒場の史跡伝統芸能を守る会」(事務局:駒場自治区)は、地域を 知り、歴史を掘り起こし次世代に伝えたい趣旨で、平成27年12月 13日に初めてのイベントとして、表題のウォーキングが実施された。 住民以外に市外からの参加もあり、区長さんも確かな手ごたえを 感じてみえた。 この歩こう会に参加し、皆さまからいただいたご厚意に感謝申し上げます。 |
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徳念寺<豊田市駒場町> 浄土真宗 本願寺派の寺院。第二次世界大戦中、名古屋市北区 杉村小学校の児童が集団疎開した際の分宿の1つでしたが、昭和 20年(1945)三河地震で二人の子供が亡くなっています。 境内に一切経(仏教の典籍を集成したもの)を納め、回転する転輪 蔵があるが、詳細は不明である。 |
御乗替之所碑<豊田市駒場町> 昭和2年11月、陸軍特別演習が愛知県内で実施された。 14日、 昭和天皇の碧海(旧高岡地区)視察があり、旧鎌倉街道で御料車 から馬に乗替された。 この先が高台で西方への展望が良いため、 昼食も摂られたことが碑文に刻まれている。 <当日配布された説明資料から引用> |
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下馬観音菩薩<豊田市駒場町向鐘> 1300年ほど前、鎌倉街道沿いの下馬山(知立市境の八橋町 大流交差点南西)に慶雲寺という寺があったと伝わる。 その前を 行き交う人々は馬に乗った人も下馬し観音様をお参りしたといい、 下馬観音と親しまれてきた。 室町時代に戦火で焼失したが、天文 年間に南溟和尚が八橋に移して、今の無量寿寺にしたといわれて いる。 また約160年前に観音堂が下馬山に再建された。 その 後、道路拡張工事等により二度移され、今は国道155号駒場町 向金交差点近くに安置されている。 ・・・前面に設置の石製説明版から引用 |
中世の海岸への道<豊田市駒場町> 下馬山(下馬観音堂跡)を南に進むと、直ぐに下りとなる。 この先は 逢妻男川で、中世時代は海の入り江であったという。 鎌倉街道は、 台地の背骨のような微高地を進んでいたことが実感できる。 「旧鎌倉街道を歩こう」イベント当日、区長さんから豊田市在住で鎌倉 街道を研究され、関連書籍二冊を発刊されている渡邉健二さんを紹介 いただき、ご厚意で現地案内していただき、撮影できました。 ありがとうございました。 渡邉さんの書籍 ○千年の道 尾参国境はいま <2010年10月25日発行> ○名残の道 鎌倉街道濱田ルート <2011年12月10日発行> |